名刀、天下五剣
ちょっと興味を持って調べていたらとんでもなく疲れた。
日記として残すのはあまりに長いのでColumに移動して掲載である。
最初に言っておくが、オレは司馬遼太郎があまり好きではない。
歴史と小説を勘違いして「司馬史観」なんぞを語る奴は論外として、史実と創作をごっちゃにして「エンターテインメントとして」書く手法は確かに素晴らしいと思う。
だが、「大量の資料を読んで書く」と評された司馬遼太郎もなぜか、食い物と武器のリサーチ、描写は素人にも劣るのだ。
例を挙げたらきりが無い。幕末ものでも司馬遼太郎はミニエー銃をよく元込銃と書いている。が、これは誤りでミニエー銃は先込である。
そして時代小説になると名剣名刀を主人公達が振り回す世界となっている。
で、ふと思った。世に言う名剣、名刀とはどんなものだろうか?
え!? なに? 今流行の「新撰組」の刀剣をやれって?
あーんな貧乏人の雇われ者共は1本100文以下の粗悪品しか使ってないはずだ。土方歳三なんか農家の出だぜ(イイ男で好きだけどさ)
15世紀後半に書かれた「朝倉敏景十七箇条」の記述に「名刀1本で100人の兵を完全武装できるんだから、みだりに買うな」とある。その価値や推して知るべしであろう。
彼らが名刀を使ってた、ってのも司馬遼太郎の影響なんだよなぁ……。
あと「妖刀村正」なんて捏造されたオカルティズムはどうでもいいので、足利義満の「輝け、名工ベスト60」、徳川吉宗の「吉宗の天下の名物ピックアップ」にも掲載された「天下五剣」をとりあげてみたい。
・童子切安綱(どうじきりやすつな) [国宝]
源頼光→足利将軍家→織田信長→豊臣秀吉→徳川家康→徳川秀忠→松平光長→東京国立博物館
源頼光が、酒呑童子の首を切り落としたという伝説をもつ。
天下人の手を渡っていった流浪の剣で、初め征夷大将軍、坂上田村麻呂が伊勢神宮に奉納しておいたものを夢のお告げで授かった源頼光が手に入れた、などという件もある。
鬼退治の逸話は現在ではフィクションとされているが、多くの歴史を見てきたロマン溢れる一本である。
・鬼丸國綱(おにまるくにつな) [皇室御物]
北条時頼→北条泰時→新田義貞→足利尊氏→織田信長→豊臣秀吉→本阿弥光徳→明治天皇(宮内庁)
北条家の重代(重宝)。北条高時の自刃後に新田義貞の手に渡る。後に述べる鬼切とともに黄金の拵(こしらえ)、銀象嵌で「鬼切」、金象嵌で「鬼丸」の文字が施された、と「太平記」にはある。
名前の由来は意外と武勇伝とは関係がないようだ。
北条泰時が病に倒れた時、夜な夜な悪夢に悩まされた。夢の中で鬼に襲われた瞬間なぜか鬼が消え目が覚める。すると枕元においてあった「粟田口國綱」の太刀が抜き身になって倒れてた。その側には鬼面をかたどった火鉢の足が切り落とされて転がっていた……それ以来病が見る見るうちに回復したという。
皇室の守り刀として現在も宮内庁の御物保管庫に眠っている。
・三日月宗近(みかづきむねちか) [国宝]
足利将軍家→北の政所→徳川家→東京国立博物館
三日月宗近は平安時代の太刀の特徴の細身で反りが高い美しい容姿を持つ。
伝説の刀鍛冶とされる小鍛冶三条宗近の作で、三日月の名は刃縁に見られる焼刃の模様から付けられた。二重、三重に重なる三日月の美しさは、名物中の名物と言われる。
豊臣秀吉の正室、北の政所が所有していたが後に遺物として徳川家に渡り、廃藩置県の後博物館に寄贈されたという。
・大典太光世(おおてんたみつよ) [国宝]
足利将軍家→豊臣秀吉→前田利家→石川県立美術館
前田利家が、伏見城千畳敷の間での物の怪の肝試しで、秀吉より褒美に贈られたという逸話と、前田利家の息女が浮田(宇喜田)秀家に嫁ぐ前、得体の知れぬ熱病にかかった。その時、秀吉の秘蔵であったこの大典太を借り受け、病床の枕もとに置いたところ、たちまち治癒した。ところが、太刀を返したところ再び発病し、また借り受けたところ快癒した。そして三度目にはついに返さなかった(要はパクったのだ)という逸話の二通りがある。
なお前田家は最後まで国宝指定を渋ったが、現存品で光世の在銘品はほとんど残っていないため、国宝指定は必然であった。
川原正敏の漫画、「修羅の刻 第4部 寛永御前試合編」で柳生十兵衛が引っ掴んでいたが、前田家門外不出の家宝を使うとは十兵衛やるな、おぬし。
・数珠丸恒次(じゅずまるつねつぐ) [重要文化財]
日蓮上人→身延山久遠時→以後200年間行方不明→兵庫県尼崎市本興寺
仏門に帰依した日蓮上人が、破邪顕正の剣として佩用していた。名前は柄に掛けていた封印ともいうべき数珠に由来する。備中青江恒次の作とされ、長大で腰反りの高い優美な形状をしている。
なお、空白の200年を経て再発見されたのは大正9年。
司馬遼太郎の「国盗り物語」の中で、若き日の斉藤道三がこれを使うのだが、貧乏浪人のくせに何を持っているのやら。今の学生が大陸間弾道弾を所有しているようなものなのだ。
ここまでが天下五剣。ついでに五剣の物語に付帯する二本を更に紹介する。
・鬼切安綱(おにきりやすつな) [重要文化財]
源頼光→新田義貞→氏家重国→斯波高経→最上家→京都の質屋→篭手田安定→北野天満宮
後に述べる髭切と混同され、「髭切=鬼切」とされることの多い一本。だが様々な資料から、それぞれは別物とみていいと思う。
源頼光の四天王の一人、渡辺綱が一条戻橋で茨木童子の片腕を切り落としたという伝説がある。
楠桂の漫画「鬼切丸」に出てくるが、絵を見る限りあれは完全に打刀なので、鬼切安綱ではないだろう。現存する本物は木鞘の拵である。
新田義貞は鬼丸、鬼切の二本を所有した稀有な人物である。「太平記」では新田義貞が鬼丸&鬼切の二刀をもって飛来する矢を打ち落とすという見せ場があるが……国宝と重文を振り回すのはやめい。後世の美術家が卒倒しそうなシーンである。
・髭切文寿(ひげきりぶんじゅ) [行方不明]
源満仲→源義家→源頼朝→平清盛?→安達泰盛→北条貞時→頼朝法華堂→焼失?
最も謎の多い、歴史の闇に消えた一本。何せ現物がないので文書から推察するしかないのだ。
まず「平治物語」には「源氏の重代・髭切の太刀は奥州の住人、文寿といふ鍛冶の作なり」という件がある。文寿は恐らく渡来人であったのだろう。
源氏の頭領である八幡太郎義家が安倍貞任を攻めたとき、生け捕りにした千人の首を髭もろともに切り据えたので「髭切」の太刀と名付け源氏の重代(重宝)とされた。
対となる膝丸という太刀がある、との説もあるが膝丸は大鎧という説もある(牛の膝の皮は非常に丈夫でこれで製作されたことによる)
後に源頼朝から平清盛に渡り、平家の都落ちの際に安達泰盛が尋ね出して鎌倉に戻した。
その泰盛が弘安八年(1285年)の霜月騒動で滅亡した際に、偶然に執権貞時の手に入り、(焼け跡から発見したらしい)それを頼朝ゆかリの頼朝法華堂に納めた……ここまでは判明している。北条家執権の手紙の中にその記述があるからだ。
だが、それ以降ぷっつりと所在が分からなくなる。おそらく鎌倉幕府滅亡の動乱で炎の中に消えたものと思われる。
別名がいくつかあって「友切」「獅子の子」と名前を変える都度所有者が変わった。
安達泰盛も、髭切を所有していたがゆえに「将軍の地位を狙っているのでは?」と疑われ滅ぼされた。まさに呪われた幻の宝であった。
以上である。博物館に収蔵されているものは特別展示などで見る機会もあるので、興味のある方は調べてみてはいかがだろうか?
何にせよ日本刀は刀剣美術の粋と呼ばれているくらいなので、関連する書籍も多く存在する。こちらもご一読をお勧めしたい。
ふう……今回はえらく時間がかかった。
特に所有者の追跡調査が大変だった。なにせ資料が少ないので自分なりに年代順に並べ、裏づけを取るのに1日費やしてしまった。
だが変に歪んだ詰め込み方教育、つまり学校の勉強より遥かに面白い。
好奇心から生まれた興味を始点に、資料を調べ、新たな発見をして、更なる知識を得、自分なりの思索を行う……学問とは本来こういうものではなかったのだろうか?