プロジェクト・エデン特別篇

  われた街  中篇

LARGEFIRE.GIF (47162 バイト)

 

 カッと太陽の照りつける晴れ渡った夏の空

を、白い雲がゆっくりと流れていく。

 「いい天気だなぁ」

 川沿いの道を自転車で走りながら、忠夫は

そうつぶやくのだった。ここまで一生懸命に

こいできたせいか、着ているTシャツはジッ

トリと汗に湿っている。額から流れ出た汗が

ツツッとこめかみを伝って落ちていった。

 キィッと不意に自転車を停め、忠夫は川岸

へと歩いていった。青々と繁った背の高い草

の上をオニヤンマがスイッと飛んでいく。黄

色と黒に彩られた印象的な姿が、夏草の緑に

とても良く映えている。

 「探そうと思ってる時には、中々見つから

ないくせに…」

 忠夫はうらめしそうに、悠々と飛んでいく

オニヤンマを見送るのだった。

 事件が起こる前、夏休みの宿題のために昆

虫採集をしていた頃が懐かしかった。あの時

はまだ、こんな事件が起こるとは思いもよら

なかったのだから…。いや、そもそもアスラ

と出会わなかったら、人類の命運を分けるよ

うな事件にも遭遇しなかっただろう。何も知

らずに学校で勉強し、友達と学び、スポーツ

やテレビの話題に盛り上がる。そんな普通の

小学生としての生活を送っていたはずだ。

   だが、それでいいのか?

 忠夫は自分に問いかけるのだった。

 もしアスラと出会わなかったら、キルケウ

イルスの存在も知らず、来るべき人類の破滅

と未来の運命も知らないでいたに違いない。

 無気力化していく人々を見ても、それを時

代のせいだと思ったかもしれない。あるいは

新手の公害病や伝染病と決めつけてしまうだ

けだったかもしれない。それを解決するのは

自分ではなく、医者や偉そうな政治家たちの

役目なのだと不平を鳴らしたことだろう。

 そして、いつの間にか訪れていた文明の終

焉を運命なのだと、諦めてしまうのだ…。

 だが、アスラとの出会いはそれを変えた。

 少なくとも、自分たちの手で自分たちの運

命を切り開くチャンスを得たのだ。何も知ら

ずにいることに比べれば、それは何と素晴ら

しいことなのかと忠夫は思うのだった。

 何も知らないままに、自分たちの未来は開

けていると根拠もなく信じて、明日への希望

だけで生きているよりはマシだ。今日を精一

杯生きずに、未来などあるものか…!

 「決められた歴史なんか、クソくらえだ」

 忠夫はそう言うと、地面から小石を拾い上

げて川面へと投げる。ポチャンという音と共

に、ゆっくりと波紋が広がっていった。輪は

川のせせらぎに融け、静かに消えていった。

 「しかし…」

 忠夫の首筋を涼しい風が撫でていった。川

を渡ってくる爽やかな風が心地よかった。

 「この街が狙われてるなんて、誰も信じち

ゃくれないだろうなぁ…」

 川面に乱反射する陽のきらめきを透かして

見える虹ヶ崎市を見つめ、忠夫はつぶやく。

 川向こうに広がる街並みは、いつもどおり

の姿だった。通りすぎる車の音も、工場から

出ている煙も、ショッピングセンターから流

れる軽快な音楽も、人々のざわめきも…。

 とても狙われているとは思えない光景だ。

 普段どおりに人々は働き、語らい、日々の

営みを続けていることだろう。永遠に繰り返

されるのではないかとも思う日常が、ある日

突然にして破壊されてしまうなどとは、誰も

想像してさえいないであろう…。

 後3日の内に、ヘイムダルの仕掛けたマイ

ンドデストロイヤー装置「トールハンマー」

を発見しなければ、住人全部の心が破壊され

てしまうなどとは…。

 「そうはさせるかよ!」

 忠夫はもう一度、小石を拾って投げた。小

石は勢いよく水面にはねて、次々と波紋を広

げながら川を渡っていった。

 「さ、もうひと頑張りだ」

 忠夫は身を翻すと、自転車へと駈け戻る。

 キュッと車輪を鳴らして走りだした自転車

は、川沿いの道を勢いよく走っていった。

 

 「ううん、見つからないわ」

 電話口で唯はそう言うと周囲を見回した。

 街の中心部に位置する市民文化センターの

横にある公衆電話であった。かって事件の起

こった展覧会が開かれていた場所である。

 「そうですか。こちらも見つかりません」

 電話の向こうから聞こえるアスラの声も、

心なしか暗い。

 「どうしよう、アスラ…」

 「探すしかありません」

 「本当に見つかると思うの?」

 「見つけるしかないんです。そうしなけれ

ば、あと3日でこの街は…」

 アスラはそれ以上の言葉を続けなかった。

 言われなくても、唯にだって分かる。ヘイ

ムダルとか言う男の仕掛けた機械が見つから

なければ、みんなの心が破壊されるのだ。

 「……」

 「……」

 続ける言葉も見つからず、二人の間に静か

な沈黙の時が流れた。その中でカチャリとテ

レフォンカードの数字が変わる。

 「次はどこを探せばいいの?」

 唯は気を取り直して、アスラへと尋ねた。

 「未来から持ち込まれたマインドデストロ

イヤー装置『トールハンマー』は、その特殊

な性能ゆえに強い磁場を帯びています。正確

に言えば、動力部に使用されているはずのテ

スラドライブという機械が持つ電磁場の影響

によるもので…」

 「ちょ、ちょっと待ってよ。私にも分かる

ように説明してよ!」

 唯があわてて、電話口に叫ぶ。

 「…そうですね、とにかく探している機械

が置かれている場所は、他よりもはるかに強

い磁気を発しているはずなのです」

 「じき?」

 「磁石の力のようなものです。その反応を

私のコンピューターで探っていますので、そ

れと予想される場所を…」

 「とにかく、アスラが言う場所を探せばい

いのね?」

 これ以上、説明を聞いても分からないと判

断した唯は、そう言い切った。唯は小学校5

年生に過ぎない。未来の超科学を説明された

ところで理解できるはずもなかった。

 「……そうです」

 アスラも気づいて、手短に言った。

 「でも、ここにはなかったわよ」

 「大きな機械を使っているような場所だと

同じような反応を示す場合があります。そこ

の市民センターでは大型のクーラーなどを使

用しているためでしょう」

 「ふーん。じゃあ、次はどうするの?」

 「私は街の東側を探っています。唯さんは

そのまま街の中心部を探してください。次に

反応があるのは、駅前のサンライズデパート

の駐車場です」

 「分かったわ。ところでお兄ちゃんは?」

 「忠夫さんは川沿いに、最初にヘイムダル

が現れた街の西側へ向かっています。そっち

でも見つかってないようです」

 「オッケー。もし、お兄ちゃんから連絡が

入ったら、がんばるように言ってね」

 そう言って、唯は受話器を戻した。

 ピーピーという音と共に、テレフォンカー

ドが戻ってくる。可愛いイラストが描かれた

カードは、唯の大好きなマンガ家が描いたも

ので雑誌の懸賞で当たった物だった。これま

で使わずに大切にしていた唯の宝物である。

 唯は名残惜しそうに、開いてしまったテレ

カの穴を指先で撫でた。

 「……もったいないけど、こういう時に使

わないで、いつ使うのよねぇ」

 唯はテレフォンカードをスカートのポケッ

トにしまい、次の場所へと向かうのだった。

 

 妖しい光が揺らめくミレニアム秘密基地。

 濃厚に立ち込める蒸気に警報ランプの赤い

色が反射し、いつもより物々しい雰囲気が空

間全体を包んでいるように感じられた。

 「隊長。コンピューターによる解析が終了

いたしました」

 そう言いながら、シグルドが入ってきた。

 「よくやったわ。それで結果は?」

 フレイヤが待ちかねたように言った。

 「はい。こちらをご覧下さい」

 シグルドの声に合わせて、空間にビュウン

と映像がオープンした。映像の中には、不思

議なパターンの幾何学図象が踊っている。

 「トールハンマーに組み込まれているテス

ラドライブだけが持つ特殊な電磁パターンで

す。この20世紀に存在する機械でこれと同じ

パターンを発する機械はありません」

 「でも、あの動力システムは1990年代

に理論上では確立されていたはずよ。似たよ

うな機械はありそうなものだけど…」

 「それはあくまでも、この時代のアメリカ

などの話です。しかも軍事利用に研究されて

いたものですから、軍隊を持たない日本では

存在は考えられません」

 シグルドは自信を持って、言い切った。

 「なるほどね…。いくら優れた技術を考案

しても、それが軍事的にしか利用されないな

んて情けない話だわ」

 「だからこそ、20世紀にキルケウイルスが

生まれたのではないでしょうか?」

 「そうね、シグルド。あなたの言うとおり

かもしれないわ」

 フレイヤがフッと笑いながら、言った。

 「で、このパターンを読み取れるの?」

 「はい。このパターンを持つ電磁波だけを

感知するセンサーは出来ています」

 「それで、トールハンマーの所在が分かる

という仕掛けね?」

 「はい。急いで作ったものですから、性能

としては70%ほどですが…」

 「それでも無いよりはマシだわ。すぐにそ

のセンサーを搭載した追跡装置を完成させて

ちょうだい」

 「了解しました」

 シグルドがビッと敬礼を返す。

 「それにしても…」

 不意にもらしたフレイヤのつぶやきに、出

ていこうとしたシグルドは足を止めた。

 「どうかしましたか?」

 「いえ…。始祖を救うためとは言え、この

街の人間を私たちが守ろうとするなんてね」

 「皮肉な話ですね…」

 「別に私たちの目的は20世紀の破壊ではな

いのだから、構わないと言えば構わないんだ

けれど…」

 やや哀愁を漂わせたフレイヤの表情に、シ

グルドは不思議そうに首を傾げた。

 「隊長。隊長は、この20世紀の人々をどう

お考えなのですか?」

 「どうって?」

 「隊長は滅びるべきだと思いますか?」

 「何で、そんなことを聞くの?」

 「隊長を見ていると、そうなるのを望んで

いるようにも思えますし、そうでないように

も感じられます」

 シグルドの問いに、フレイヤはしばし黙り

込んだ。そして、微笑を浮かべた。

 「そうね、私は政治家でもないし、宗教家

でもないわ。だから、分からない。ただ…」

 「ただ…、何です?」

 シグルドが聞く。

 「私は科学者だし、あなたも30世紀に名を

知られた優秀な技術者だわ」

 「いえ、隊長に比べれば私なんて…」

 照れくさそうにするシグルドだが、フレイ

ヤは言葉を続けた。

 「私たちは新しい技術を開発するために研

究を続けてきたわ。でも、優れた科学や技術

が間違った使い方しかされないような世界に

未来はないと思うの…」

 フレイヤが言うのは、世界を破滅へと導い

た核兵器のことであろうか…。キルケウイル

スに冒された権力者が原因だったとは言え、

直接には人間の作りだした熱核兵器が世界を

滅ぼしたのは間違いなかった。原子物理学の

開拓者は未来を支える新エネルギーの開発者

ではなく、未来を消し去った悪魔の発明家と

して歴史に名を残すことになったのだ…。

 「新しい科学知識や技術が使われるのは、

いつも武器などの軍事利用ばかり。私の開発

したタイムマシンだって、同じよ」

 「そうでしょうか?」

 「現に30世紀だけではなく、20世紀までも

を争いの舞台にしてしまっているわ」

 フレイヤは哀しそうに言った。

 「トールハンマーも同じ。治療のためとは

言っているけど、実際は人間の心を破壊する

兵器として使われようとしている」

 「それは使う人の問題では…?」

 シグルドが弁解するように言う。

 「使う人の問題ね…」

 フレイヤはとても冷めた声で応える。

 「そうですよ。科学技術とは人を豊かにす

るためのものです。それが人を害する使われ

方をするのは、あくまでも使う人間に問題が

あるのではないでしょうか?」

 シグルドはフレイヤに言い聞かせる。しか

し、フレイヤの表情は変わらなかった。

 「いつの時代も、人はそう言いつづけて来

たわ。あくまでも使う人の問題だとね」

 「……」

 「でも、正しく使うことの出来る人はいつ

になったら出てくるのかしら?」

 「隊長…」

 「いつになれば、人は正しく使うことが出

来るのかしら…?」

 「……」

 「30世紀になっても同じ。もしかしたら、

永遠に無理なのかもしれない。人間がそれを

使う限りはね…。だったら…」

 そこまで言って、フレイヤは言葉を切るの

だった。そして余計な考えを振り払うかのよ

うに、頭を振る。

 「くだらない話をしてしまったようね。こ

んなことをしている時間はないわ。すぐに行

動に移りなさい」

 いつものフレイヤに戻ると、シグルドに命

令を出す。

 「はい、ただちに!」

 そう言うが、シグルドは動かない。

 「どうしたの?」

 「隊長。私はタイムマシンを開発した科学

者のフレイヤ博士を尊敬しています」

 「シグルド…」

 「私が軍の研究所に入ったのも、そんな人

と一緒に仕事をしてみたかったからです」

 「……」

 「タイムマシンを開発したフレイヤ隊長が

いたからこそ、この危険な任務も引き受けた

んです。だから…」

 「だから?」

 「だから…、がんばりましょう!」

 そう言って顔を赤らめると、シグルドは足

早に外へと出ていった。

 「シグルド…。私はあなたが思うほど立派

な人間じゃないわ…」

 遠ざかる足音を耳にしながら、フレイヤは

静かに目を伏せたのだった…。

 

 街は夜の闇に沈もうとしていた。

 陽が地平を赤々と染めながら沈んでいく。

 血の色にも似た夕焼けが消えて、やがて世

界を闇が支配しはじめるのだった…。

 光りなき暗い路地を一匹の野良犬が歩いて

いる。フンフンと鼻を鳴らしながら歩く姿は

今夜の餌と寝ぐらを探しているようだった。

 その耳が不意にピクッと反応する。

 ピッ…ピッ…ピッ…ピッ…。

 暗い闇の奥から、静かに響いてくる音。

  それは規則的なリズムで鳴りつづけている。

 ウウウ…。

 低い唸り声を発しながら、野良犬はゆっく

りと音のする方向へと近づいていった。

 ピッ…ピッ…ピッ…ピッ…。

 闇の奥に点滅する紅い光…。まるで紅い眼

をした悪魔のまばたきのように…。

 グウウウ…。

 本能的に危険を感じ取ったのだろうか。野

良犬は体勢を低くした形で、さらに警戒を強

めた唸りを紅い光へと向ける。

 「それに近寄るな…!」

 闇の中から声が響く。その声に含まれた鬼

気に、野良犬の全身の毛が逆立つ。

 ウォンッ、ウォンッ!

 我慢しきれなくなったのか、野良犬は盛ん

に吠えたてはじめた。

 「うるさい奴だ。そんなに騒いだら、人が

来てしまうだろうが!」

 いくら叱咤しても、相手は犬である。言葉

を理解できるはずもない。声に反応して、吠

えるのを一層盛んにするだけであった。

 「お前が悪いんだぞ…」

 静かだが、それは最後通牒でもあった…。

 バシュウゥゥン!

 エメラルド色の光が炸裂し、その輝きに打

たれた犬の体が宙に跳ねた。そして、ゆっく

りと地面へ落ちていく。

 「恨むなよ。いずれ、この街の人間も同じ

道を辿る。そうすれば寂しくはないはずだ」

 犬に近づいたヘイムダルはそう呟く。

  息はあるのに、犬はピクリとも動かない…。

 「最小レベルだったが、まあ周囲に影響は

出ていないだろう…」

 辺りを用心深く見回しながら立ち去るヘイ

ムダルの後ろ姿を、意思を亡くした犬の虚ろ

な眼差しだけが見送っていた…。

 

 「ああー、バテた、バテた!」

 忠夫は床に大の字に寝ころがると、大きな

声をあげた。

 「お兄ちゃん。ちゃんと頭を乾かさないと

風邪ひいちゃうわよ」

 唯が冷たい麦茶を運んできながら言った。

 「だって、すげぇ疲れたんだもん」

 忠夫が寝そべったままで返事をする。シャ

ワーを浴びた後というのは、プールで泳いだ

後のように全身に気だるさが残る。それは決

して不快なものではなく、思わず昼寝をした

くなるような心地よい疲れとも言えた。

 「ほら、麦茶よ」

 唯の声に忠夫がノソノソと起き上がる。大

人だったら、冷えたビールの一杯でも引っか

けたくなるところだが、まだ小学6年生であ

る忠夫にそれは早く、唯が運んできた麦茶を

一気に飲み干すにとどまった。

 「フウ…、おかわり!」

 忠夫が差し出したグラスに、唯がタッパー

から麦茶を注ぐ。こういうところだけ見ると

とても仲のよい兄妹に見えるのだが…。

 「そういえば、アスラは?」

 2杯目の麦茶を同じように一気に飲み干し

た忠夫が聞いた。

 「例の機械の場所を見つけるって、まだ隠

れ家のコンピューターで調べてるみたい」

 「結局、アスラが教えてくれた場所には何

もなかったもんなぁ…。振り回されて、こっ

ちはもうクタクタだよ」

 「アスラの使ってる機械は性能が悪くて、

ハッキリとした場所が分からないのよ。それ

はお兄ちゃんだって、説明されたでしょ?」

 「この時代の機械を改造して使ってなんか

いるからさ…」

 そう言って、忠夫はまた床の上にゴロンと

大の字に寝ころんでしまう。

 「まったく貧乏臭い話だよ。未来から最新

型の機械を送ってもらえばいいのにさ」

 「そんなの無理に決まってるじゃない」

 忠夫の言葉にムッとしたのか、やや強い口

調で唯がたしなめた。そんな唯の様子をチラ

リと見ただけで、忠夫は黙ったままだった。

 「お兄ちゃん。アスラはたった一人でこの

時代に来て、たった一人で戦ってるのよ」

 「……」

 「しかも、未来からは誰も助けにこられな

いのよ」

 「…だから?」

 「せめて、この時代の私たちが少しでも力

になってあげなきゃ可哀相じゃない」

 「しかし、敵は来てるじゃないか!」

 忠夫が遮るように叫んだ。

 「いいか、唯。アスラの仲間だというレジ

スタンスの連中は来れないのに、あのヘイム

ダルとか言うヤツは来てる。しかも、あいつ

はミレニアム側の人間じゃないんだろ?」

 「そ、それは…」

 「そんなにホイホイ使えるのなら、アスラ

の仲間だって来れるはずじゃないか?」

 「そんなの、分かんないわよ…」

 「案外、アスラは未来の仲間からも見捨て

られてんじゃないのか?」

 「お兄ちゃん!」

 唯が怒ったように怒鳴る。その目にはうっ

すらと涙が滲んでいた…。それはアスラに対

し、あまりにもヒドい言葉だったからだ。

 「悪かったよ…」

 唯の目に光る輝きを見た忠夫が、小さな声

で謝る。さすがに言いすぎたと思ったのだろ

う。

 「…ちょっと、疲れたんだよ」

 そう付け加えて、忠夫は目を閉じた。

 グスッと鼻をすすりあげる音が聞こえて、

唯が部屋を出ていく気配が感じられた。

 「なあ、唯…」

 出ていきかけた唯を忠夫の声が止めた。

 「なあに…?」

 「あいつが持ってきた機械って、人間の心

を壊してしまうと言ってたよな…」

 「うん」

 「心が壊れてしまうって…、どんな感じな

んだろうな…」

 忠夫は目を閉じたままでつぶやいた。それ

こそが忠夫の本心だったのかもしれない。

 捜索に疲れたことが忠夫をイラつかせてい

たのではなく、自分たちの心が壊されるとい

う行為に対する不安。それが忠夫を恐怖に凍

らせ、怯えさせていたのだろう。

 「……」

 唯は答えない。答えられるはずもない…。

 人は誰も心を持っている。それは目に見え

ないが、確実に存在するものであった。

   あなたには心がない!

 ひどい事をする人にそのように言うことは

あるが、決して心がない訳ではない。人のす

ることには動機があり、理由があるものだ。

 では、心が壊されるとはどういうことか?

 発狂か?

 記憶喪失か?

 それとも、死か?

 キルケウイルスは人から希望を奪い、無気

力にさせる。未来の人々は自分の意思を失っ

て、ロボットのように生きていると言う…。

 しかし、そんな人たちでも少しは心が残っ

ているらしい。アスラの話では、トールハン

マーは帝国側がコントロール出来なくなった

暴走感染者を処理するために作られた心理破

壊装置とのことであった。悩みや苦しみがな

いというレベルの問題ではない。笑うことも

楽しむことも、絶望することすら出来ない。

 ロボット人間よりもさらに先にある「心が

壊された人間」とは一体どんな人間になって

しまうのだろうか…?

 シンとした沈黙が部屋の中に流れる…。

 「……ま、いいさ。どっちにしたって、あ

のヘイムダルの仕掛けた機械を見つけ出さな

ければ、俺たちはお終いなんだからさ…」

 忠夫が自分に言うようにつぶやく。

 「お兄ちゃん…」

 「疲れた。少し、寝るよ」

 短い言葉を発して、ゴロリと忠夫は唯に対

して背を向けるように寝返りを打った。

 唯はそれ以上は何も言わずにパチリと電気

を消すと、静かに部屋を出ていった。

 今度は忠夫も引き止めず、やがて静かな寝

息をたて始めたのだった…。

 

 シュウウウン…。

 司令センターのドアが横にスライドして、

ロキがノソノソと入ってきた。

 「隊長。何事でありますか?」

 「ロキ、遅いわよ。シグルドが作った追跡

装置を持って、すぐにトールハンマーが仕掛

けられた場所を探しに行きなさい」

 そう言って、フレイヤは小さなテレビのよ

うな機械をロキへ差し出した。

 「これが追跡装置?」

 手に取ったロキは、それを引っ繰り返した

りするように眺めた。

 「詳しい使い方はシグルドから聞いてちょ

うだい」

 「いやぁ、機械はどうも苦手で…。操作は

シグルドに任せますよ」

 ロキはフレイヤに追跡装置を返そうとする

が、フレイヤは横に首を振った。

 「ダメよ。今回はシグルドと二手に分かれ

て捜索に当たってもらうわ」

 「べ、別々に行くのでありますか?」

 さすがにロキが慌てる。そして救いを求め

るように、フレイヤの横に立っているシグル

ドを見るのだった。だが、無情にもロキの期

待は応えてもらえなかった。

 「ロキ大尉。隊長の言うように、今回は時

間がありませんので、二手に分かれた方がい

いと思います」

 「し、しかしなぁ、お前…」

 「ロキ。これは命令よ!」

 なおもグズつくロキに、フレイヤが厳しい

声をたたきつける。

 「わ、わかりましたよ…」

 不承不承の感じにロキが答えた。情けなさ

そうに手にした機械に目を落とす。

 「シグルド。説明してあげて」

 「はい」

 フレイヤに言われて、シグルドがロキの側

へ近寄る。そして、ロキの手にしている機械

のスイッチを入れた。

 ビィゥンと音をたてて、ディスプレイがグ

リーンの輝きを放ちはじめる。

 「この画面には、受信する電磁波の波形が

表示されています。受信範囲は半径5百メー

トル程ですが、感度はいいはずです」

 「こ、こんなんで分かるのか?」

 「トールハンマーが発する特殊な電磁波を

受信すると、画面の波形が変化します」

 そう言いながら、シグルドは機械の側面に

ついているダイヤルをひねった。

 「もし受信したら、このダイヤルで受信レ

ベルを調整して下さい。これによって、半径

50メートルの範囲にまで絞り込むことが出来

るようになります」

 「ほお、大したもんだ」

 「感心してないで、しっかり覚えなさい」

 フレイヤが横から、呆れたように言う。

  ロキは「はいはい」と言うような仕種をし

て、機械の画面へと目を戻した。

 「この追跡装置は動力源に20世紀の乾電池

を使用していますが、出力の関係で連続3時

間しか使えません。なるべく頻繁に電池交換

することを忘れないでください」

 「じゃあ、電池をゾロゾロと持ち歩かない

といけないのか?」

 「仕方ありません」

 シグルドの答えに、ロキが露骨にイヤそう

な顔をした。明らかに面倒くさいと言いたげ

な様子であった。シグルドはそれ以上の説明

はしないで、後方へと下がる。

 「使い方が分かったら、すぐに行動に移り

なさい」

 フレイヤが命令するとシグルドは敬礼して

出ていったが、ロキは中々動こうとしない。

 「どうしたの、ロキ?」

 「ところで、隊長はどうするんです?」

 「私は別の方法で探すわ」

 「別の方法?」

 ロキが興味深げな顔をする。そっちの方が

楽そうだったら、そっちにするつもりなのか

もしれない。

 「私はアスラを探してみるわ」

 「はぁ? アスラをですか?」

 「ええ」

 「そりゃまた、どういう理由で?」

 ロキは訳が分からんという顔をする。

 「トールハンマーを盗み出した犯人の目的

はキルケウイルスの撲滅よ。だったら、同じ

目的を持つアスラにコンタクトを取っている

可能性が大きいわ」

 「アスラがそいつと協力しあうと言うんで

すか?」

 「別にそうなるとは思ってないわ」

 「そうでしょうかね?」

 妙に自信ありげなフレイヤの言葉に対し、

ロキは明らかに不審な表情を見せる。

 「目的は同じでも方法が違うわ。トールハ

ンマーによる虹ヶ崎全市民の心理破壊という

方法をアスラは納得しないでしょうね」

 「しかし、もしもという場合も…」

 「キルケウイルスを滅ぼすためとは言え、

そこまでやる勇気はアスラにないわ」

 フレイヤはキッパリと言った。彼女はそれ

こそがアスラの最大の弱点であると見抜いて

いたのだった。そうすることが未来のためだ

と判っていても出来ないという甘さが…。

 「目的のためには手段を選ばない」という

非情さを持たぬ限り、勝利はあり得ない。目

的を達成するためには、多少の犠牲は仕方な

いのだ。それが作戦指揮官としてのフレイヤ

の考え方であった。

 (いつしか、すっかり軍人になってしまっ

たわね…)

 そう感じて、思わず苦笑してしまうフレイ

ヤだった。

 「確かに…。アスラに虹ヶ崎の住民全部を

犠牲にする勇気はないでしょうな」

 ロキがニヤけた笑いを浮かべながら言う。

 ロキもまた、アスラの甘さを見抜いていた

のだった。犠牲なしに物事を達成しようとす

るアスラの考え方は、ロキにしてみれば余り

にも幼いように感じられるのだった。あるい

は、それが大人の考え方なのかもしれない。

 「じゃあ、何のためにアスラに会いに行く

のですか?」

 ロキがもっともな疑問を口にした。

 「アスラが協力するとは思わないけど、犯

人が連絡を取るのは間違いない。ならば、そ

こで何らかの手掛かりが得られるはずよ」

 「なるほど…。そして、今回の事件を通し

てアスラとの間にある種の協調が得られるか

もしれないと言う訳ですな?」

 「……」

 さりげなく誘導尋問をかけてくるのは、さ

すがに狡猾なロキならではである。フレイヤ

もそのタイミングに一瞬言葉をつまらせてし

まうのだった。

 「…くだらないわ。あのアスラが私たちに

協力する訳がないでしょ」

 ようやく言ったものの、フレイヤの声にい

つもの強さは感じられなかった。

 「ま、そうでしょうな」

 ロキはあっさりと言う。さらに、

 「しかし、さすがに隊長はアスラのことを

よく判っていらっしゃる…」

 皮肉っぽい笑いを口許にこびりつかせなが

らの一言であった。フレイヤがピクリとこめ

かみを動かす。

 「何が言いたいの?」

 「いえいえ、単純に感心しているだけのこ

とですよ」

 「言いたいことがあるなら、ハッキリと言

いなさい」

 「別にありませんよ。それとも何か、勘繰

られるとマズいことでも?」

 「あるわけないでしょう!」

 フレイヤの声が自然と大きくなる。

 「じゃあ、いいじゃないですか。私はまた

アスラに『あんたの考えは甘すぎる』と注意

でもしに行くのかと思いましたよ」

 「ロキ!」

 「ヘヘヘ…、冗談ですよ。冗談」

 そう言うと、ロキは形ばかりの敬礼をして

部屋を出ていった。

 「……」

 フレイヤは手にした指揮棒で、思い切りコ

ンピューター卓を叩く。だが、すぐに冷静さ

を取り戻すように一息つくと、部屋を後にし

たのだった…。

 

 天には、青白く月が輝いていた。まるで、

死に神の鎌を思わせるような細く鋭い三日月

であった…。後3日もすれば、それは新月に

変わり、暗黒の闇夜に溶け込むであろう。

 ウォーンと何処かで犬の遠吠えがした。

 蒼芒の月に照らされた病院の廃墟は、噂ど

おりの幽霊屋敷のように闇に佇んでいる…。

 その割れた窓ガラスの向こうに、チラチラ

と動く光…。まるで亡霊が従えているような

鬼火のようにも見える。だが、それはディス

プレイから漏れる灯りのようであった。

 そしてカチャカチャという電子機器の操作

音に混じって、深いため息に似た呻きが聞こ

えた。

 「一体、何処に隠したと言うの…?」

 バンとコンピューターのキーボードに手を

叩きつけるアスラだった。この隠れ家にして

いる病院廃墟に戻ってから、ずっとトールハ

ンマーの発する磁気反応を検索してきたのだ

が、これといった確証は得られずにいた。

 職場にも家庭にもコンピューターが溢れ、

似たような磁気反応を示すものはいくらでも

あった。大型のクーラーや冷蔵庫なども類似

反応を示す。何よりも面倒くさいのは、20世

紀末に流行している携帯電話であった。強力

な電磁波を出しているそれは、アスラの探査

装置に重大な障害を引き起こしていたのだ。

 「このままじゃ、間に合わないわ」

 アスラは頭を抱えた。彼女が使っているコ

ンピューターは20世紀の物に、未来のテクノ

ロジーを使って改造を加えたものだ。だが、

本来のスペックに限界があるために十分な性

能を有しているとは言いがたい。

 「もっと、優秀な機械があれば…」

 そう、例えばミレニアムの秘密基地で使用

しているような大型コンピューターがあれば

いいのだ。秘密基地にある機械は、大部分に

20世紀の部品を流用しているとは言え、肝心

の心臓部に関しては30世紀から転送された物

を使用している。解析装置や分析装置など、

重要な役割を果たすものは全て未来のハイテ

ク製品ばかりであった。

 「基地に忍び込むしかないか…」

 危険を承知で、アスラはその考えを口にし

た。少なくとも、アスラの持っている機械で

はヘイムダルの仕掛けたトールハンマーを探

知することは無理であった。かと言って、何

の手掛かりもなく探し出すのは、やはり不可

能と思われた。

 しかし、ミレニアム基地に忍び込むことは

アスラにとっても大きなリスクだった。フレ

イヤたち幹部を始めとし、あそこには屈強な

工作員たちがいる。下手をすれば、捕まりか

ねない。かって捕まった時は、間一髪のとこ

ろで事なきを得たが、次もうまくいくとは限

らない。捕まった場合はヘイムダル探索どこ

ろではなくなってしまう。

 未来への希望すらも消えてしまうことにな

りかねないのだ…。

 そこまで考えて、アスラはフッと笑った。

 「トールハンマーが起動してしまえば、ど

ちらにしても終わりには違いない…か…」

 とりあえず自分に出来る可能性があれば、

それに全力を尽くすしかない。アスラはそう

決意を固めるのだった。

 「あとはどうやってミレニアムの基地に忍

び込むかね…」

 ジッと考え込んだ時だった。

 「あなたがその気なら、招待してあげても

いいのよ」

 突然響いた声に、アスラがビクッと驚いて

振り向く。その眼が大きく見開いた。

 「フレイヤ!」

 暗がりの奥から姿を現したのは、フレイヤ

であった。いつものダークグレーの軍服姿で

はなく、ベージュ色のツービースのスーツを

身に着けている。ヒールの音を響かせ、フレ

イヤはアスラへとゆっくり歩み寄る。

 「元気みたいね、アスラ」

 「ど、どうして此処が…?」

 そう問いかけながら、アスラは身構えた。

 顔の前へと組み合わせた両手は手刀の形を

つくり、右手がビシッと返る。相手の動きに

即応することの出来る迎撃の姿勢だった。

 「フフフ…」

 アスラの動揺を見透かすような笑いを浮か

べるフレイヤであった。

 「答えなさい、フレイヤ!」

 アスラが叫ぶ。自分の居場所を知られてい

たという意外さが、彼女を不安に駆り立てて

いたのである。

 「そんなに驚くことはないわ。あれだけ派

手に電磁波走査をやっていれば、自然と私た

ちの探知網に引っ掛かるもの」

 「そうか…、私が使っていたレーダー電波

を逆探知したんですね」

 「この街のあちこちには情報を集めるため

の探知装置が仕掛けてあるのよ。いつもは慎

重に隠れているのだろうけど、今回は別のこ

とに関心が行き過ぎたようね…」

 フレイヤが言うように、いつものアスラは

自分の行動に細心の注意を払っている。ミレ

ニアムの探知網に引っ掛かるはずがない…。

 だが、今回はヘイムダルの行動に注意が行

き過ぎたために、自分の警戒がおろそかにな

ってしまったようだった。

 自分の迂闊さに唇を噛むアスラだった。

 「それにしても、こんな薄暗くて汚い所を

隠れ家にしているなんてね…。30世紀にいれ

ば、もっと綺麗で裕福な暮らしができていた

ものを…」

 フレイヤが近くの机の上に積もっている埃

を払いながら言った。

 「…大きなお世話です」

 「未来世界へ帰ろうとは思わないの?」

 「キルケウイルスを滅ぼさない限り、未来

に帰る気はありません。綺麗な家も、裕福な

生活も、そこに住む人が幸福でなければ意味

がないからです」

 「あなたは幸福ではなかったと言うの?」

 「真実を知らずに生きている籠の中の鳥が

幸福だとは思えません…」

 キッと自分を見つめてくるアスラの目に、

フレイヤは一瞬寂しげな表情を浮かべた。

  その表情の意味する所までは窺い知れない。

 「…ところで、アスラ。トールハンマーを

盗み出した犯人から連絡はあったの?」

 不意の問い掛けにアスラがハッとする。

 「当然あったんでしょう?」

 「……」

 アスラは答えない。

 「レジスタンスのメンバーなの?」

 「ヘイムダルはレジスタンスのメンバーで

はありません」

 「ヘイムダル? そう…、そういう名前なのね」

 「…知らなかったのですか?」

 「今回は色々と混乱しててね。我々も状況

をよく把握できていないのよ」

 フレイヤはそう言いながら、そばにあった

椅子へと腰かけ、スッと足を組んだ。

 「今日は戦いに来た訳じゃないわ。あなた

もそんな構えは解いたらどう?」

 余裕の表情で語りかける。

 「……わかりました」

 フレイヤの様子から、その言葉が嘘でない

と判断したアスラが構えを解く。それを見て

フレイヤが口を開いた。

 「アスラ。あなたはそのヘイムダルという

人に協力するつもりなの?」

 「……」

 答えない様子にフレイヤが微笑む。

 「ま、そんな訳ないわね。この街に住む人

間全部の心を破壊しようなんて、あなたには

絶対に納得できないでしょうから」

 「な、何故、それを…?」

 「見くびらないで欲しいわね。あのトール

ハンマーを未来から持ち出したんですもの、

何をしようとしてるかぐらいは判るわ」

 「確かに…」

 「で、あなたはどうする気なの?」

 「どうする、とは?」

 「ヘイムダルと戦う気なの?」

 ズバリと核心をついた質問であった。アス

ラがヘイムダルの考えに協調できないのなら

ば、自然と敵対するのは明らかである。

 「我々としても、トールハンマーを使用さ

れる訳にはいかないわ。大切な始祖を失うこ

とになるからね」

 「……」

 「あなたも、この街の人間の心を壊させる

訳にはいかないでしょう?」

 「当たり前です」

 その答えに、フレイヤがニヤリとする。

 「なら、はからずも今回の事件では、お互

いの利害が一致したことになるわね」

 「……」

 「共通の敵と戦う同志という訳よね?」

 アスラは認めざるを得ない。それだけに何

も言えなかった。

 キルケウイルスの感染源を抹消し、未来の

歴史を変えようとするアスラ。彼女にとって

ヘイムダルは同じ目的を持った仲間とも言え

るだろう。だが、その手段に対する意見の相

違から、二人は敵対せざるを得なくなった。

 一方、元よりフレイヤを始めとするミレニ

アム帝国とは、キルケウイルスの感染源を巡

っての敵対関係にある。だが、今回の状況に

おいては、「トールハンマーを破壊する」と

いう共通の目的を目指しているのである…。

 あまりにも皮肉で、あまりにも悲惨なめぐ

り会わせであった。仲間となるべき者が敵と

なり、今までの敵と一緒に斃さねばならない

とは…。

 苦しむアスラに、さらにフレイヤの言葉が

追い打ちをかけた。

 「今までのことはともかく、今回は私と手

を組む気はないかしら?」

 なんとフレイヤは、ロキに対して自分自身

で否定したはずの事をあっさりと口にしたの

であった。やはりフレイヤは最初から、この

事件を機にアスラを懐柔するつもりだったの

だろう。

 「…何を企んでいるの?」

 「敵の敵は、味方よ。それぐらいの理屈は

あなたにも判るわね?」

 疑惑の目を向けるアスラに、余裕の微笑で

フレイヤが応える。

 「私はミレニアム帝国と行動を共にする気

はありません!」

 「すぐにそうやって感情的になるのは悪い

クセだわ。冷静に事態を見つめ、最良の判断

をすることも必要よ」

 「……」

 フレイヤの言葉にアスラが下を向く。

   その時だった!

 「俺と手を組まなかった理由はこういうこ

とだったのか…」

 荒れ果てた病院の中に声が響いた。

 「その声は…、ヘイムダル!」

 アスラが叫ぶと同時に、入口のドアの所に

幽鬼のように佇むヘイムダルの姿が現れる。

 「あ、あなたが、何故ここに…?」

 「お前の行動が気になったのでね。悪いと

は思ったが、マイクロ発信器を付けさせても

らったのさ」

 ヘイムダルがアスラのダウンを指さす。慌

てて確かめると、ダウンの裾に全長2ミリ程

度の小さな針が刺さっていた。

 「最初に会った時に…!」

 アスラは急いで針を抜いて捨てると、それ

を足で踏みつぶした。ペキッと音がして、発

信器が破壊される。その様子にヘイムダルが

ククッと低い含み笑いを漏らす。

 「お前がミレニアム帝国と仲間だったとは

な…。さすがに気づかなかったよ」

 「ち、違う! それは誤解です!」

 「ミレニアムの指揮官と密会しているくせ

に、何が誤解だと言うんだ?」

 「私が呼び寄せたのではありません。この

隠れ家の場所を逆探知されて探し当てられて

しまったんです!」

 「言い訳はたくさんだ。これで、俺も心お

きなくトールハンマーのスイッチを押すこと

が出来るよ」

 「待ってください。ちゃんと私の話を聞い

てください!」

 必死にアスラが叫んだ。

 ここでヘイムダルを説得しなければ、この

街は確実に滅ぶ。大切な忠夫や唯、そしてキ

ルケウイルスから必死に救った子供たちやそ

の家族、罪もない人々の心が破壊されてしま

うのである。

 「アスラ。あなたのやり方はまどろっこし

いのよ!」

 事態を見ていたフレイヤが、アスラとヘイ

ムダルの間に割り込むように立った。

 「お前がトールハンマーを盗み出した犯人

なのね!」

 「だったら、どうする?」

 フレイヤの手が腰のベルトから、小型ブラ

スターを抜いた。形状は20世紀のワルサーP

PKに似ているが、焦点温度5千度を超える

熱線を吐き出す強力な武器である。

 「フレイヤ!」

 アスラが止めるのも聞かずに、フレイヤは

銃口をヘイムダルの眉間にポイントする。

 「無駄な抵抗はやめて、トールハンマーを

何処に隠したのか言いなさい!」

 「ククククク…」

 銃口を突きつけられているのに、ヘイムダ

ルは陰にこもった笑いを漏らす。その目は何

も恐れていないかのようだった。

 「何がおかしいの?」

 「現場作戦指揮官のフレイヤ…。噂に聞い

ていたほど、頭は良くないようだな」

 「何ですって…?」

 「撃てるものなら、撃ってみなよ…」

 「撃てば、隠した場所が判らなくなる。と

でも言いたいの? 生憎と、そんな芝居は私

には通用しないわよ」

 「ほお…、どういうことだ?」

 「あなた、自分で言ったじゃない。スイッ

チを押す、とね。つまり、あなたを殺せば誰

もスイッチを押す人間はいなくなるわ」

 「ククク…、なるほどね。そいつはいい考

えなんだけどなぁ…」

 笑いながら、ヘイムダルは悠然とフレイヤ

に背を向けて歩きだす。

 「何処へ行く気?」

 トリガーにかけた指に力がこもる。

  だが、ヘイムダルの歩みは止まらない。

 「止まりなさい!撃つわよっ!」

 「…!」

 ヘイムダルがバッと突然に振り向いた。

 余りにも急激な動きだったために、さすが

のフレイヤもアスラも驚くほどだった。そし

て、その驚きのためにフレイヤの指は思わず

トリガーを引いてしまったのだった。

 ビュウウウゥゥ…ン!

 灼熱の熱線が真紅の輝きとなって、ヘイム

ダルへと照射される。

 「ヘイムダル、逃げなさいっ!」

 そう叫んだ瞬間、アスラはニヤリと笑うヘ

イムダルの姿を見たのだった…。

 ヴゥワァァァンンンン…!

 虹色の光彩が炸裂し、ヘイムダルの全身が

白熱したかに見えた。しかし、それは彼を取

り巻くようにして起きる熱線の乱反射の輝き

であった。跳ね返る高熱波の余波がガラスを

溶かし、アルミカップをたちまちに原型なき

物へと変貌させていく。

 「こ、個人用バリアー…!」

 フレイヤの口から、安堵とも苦々しさとも

取れるつぶやきが漏れる。

 「ククク…。だから言っただろう、そんな

ものは無駄だと…」

 虹色に輝くバリアーに包まれながら、ヘイ

ムダルは笑った。

 「アスラ。君の裏切りがハッキリしたから

には、俺も計画を実行に移させてもらう」

 「待ってください。まだ約束の3日には時

間があるはずです!」

 「君がそのチャンスをつぶしたんだ。俺に

罪がある訳じゃない」

 「だから、それは誤解です!」

 説得するアスラも必死である。

 「もう騙されない。どんなに言葉を飾って

も、人間の心とは醜いものなんだ。それを信

じた者だけが犠牲になっていく。なら、そん

な醜い心の全てを破壊してやるまでだ!」

 ヘイムダルの手には、いつしか銀色の小さ

な円筒のような物が握られていた。

 「残念だが、アスラ。君には裏切りの報い

を受けてもらわなけりゃいけない」

 「私は裏切ってません!」

 「君に希望を託した未来の人たちの無念と

恨みだ。じっくりと味わうがいい!」

 ヘイムダルの手から離れた銀色の円筒がス

ローモーションのように落下し、カチャンと

床に跳ねて甲高い音をたてた。

 「ティルミット爆弾!」

 アスラとフレイヤが同時に叫んだ!

 家屋破壊弾とも呼ばれる未来の究極兵器の

一つだった。非放射能核分裂が生み出す強烈

な破壊力は、20世紀の兵器を遙かに凌ぐ。

 次の瞬間、銀色の筒が閃光に包まれた。

 ドッグワアァァンンンッ!

 轟音が響き、廃病院の白い壁に無数の亀裂

が走った。そしてその亀裂からマグマの噴出

を思わせるかのように光がほとばしった。

 全ての窓ガラスが粉々に吹き飛び、きらめ

くダイヤモンドダストのように破片を空中に

振りまく。同時に、髑髏のごとく開いた窓は

一斉に紅蓮の炎を吐き出した。荒れ狂う灼熱

の息吹が全てを焼き尽くしていく…!

 炎が燃え移った中庭の樹木は松明のように

夜空を焦がし、死を悼む灯明であるかのよう

に崩れ行く病院の姿を飾ったのであった。

 グオオオオォォォ!

 白い巨塔を組み上げていた鉄骨が無残に捩

じれるようにして宙に舞い、凄まじい重量を

持つコンクリートの瓦礫が崩れ落ちていく。

 全ては数秒の出来事だ。しかし、その数秒

の間に病院は跡形もなく消え去っていた…。

 ただの瓦礫の山と化した病院の廃墟を炎が

覆い、濛々たる黒煙を上げている。

   その中に動くものは一つとして見えない…。

 やがて遠くから消防車と救急車のサイレン

が聞こえはじめるのだった…。

 

                              つづく

来生史雄電脳書斎