悪魔島 横浜

 

       第四章

 

 伊勢佐木町の惨劇が行われた日の夜。

 伊勢佐木町にある人食い通りこと、大通り

公園の鬱蒼とした緑を挟んで反対側。第2級

安全地帯(セカンド・セーフティゾーン)に

指定された住宅街の一角。地図上で言えば、

真金町と白妙町の中間地点に「横浜映画」と

いう映画館がある。かっては横浜市民に通称

「ヨコギン」と呼ばれて、親しまれていた場

所であった。

 映画館と言っても、大震災で破壊された後

は廃墟と化している建物である。このヨコギ

ンは、比較的に震災による被害が少なかった

建造物である。しかし、「人食い通り」の近

くに位置しているだけあって、密閉空間を持

つ映画館のような建物は、様々な妖生物の住

処と化している。その危険度は、指定危険地

域の地下下水道やトンネルに匹敵する。

 地震による亀裂の跡も生々しい劇場内。整

然と並べられたシートは擦り切れて、ボロボ

ロになりながらも異様な静寂感を醸しだして

いる。その隙間に見えるのは白骨であった。

 震災のあった当夜、ここで上映されていた

オールナイトが「パニック・ナイト」と表題

されたもので、チャールトン・ヘストン主演

の「大地震」と、スティーブ・マックイーン

主演の「タワーリング・インフェルノ」とい

う70年代を代表するパニック映画二本立てで

あったのが皮肉だった。映画そのままのパニ

ックが劇場に襲いかかり、悲鳴と絶叫の内に

全ての観客を死に至らしめたのである。

 今でも、夜になると劇場に映写機の明かり

が灯り、人々の叫びや悲鳴が聞こえると言わ

れている。死んでも、彼らはまだ映画を楽し

み続けているのだろうか…。

 裂けたスクリーンの上方に、羽を休めてい

るのは吸血コウモリや死人フクロウ、白骨ム

ササビといった夜行性飛行妖生物である。こ

の映画館は、彼らの恰好の住処なのだ。

 座席の下を這いずり回っているのは、同じ

く夜行性の盲目カマキリや双頭ムカデといっ

た連中であろう。微かに鳴き交わす声は、無

論、肉食ネズミの群れである。様々な妖生物

の巣窟と化した劇場。横浜ガイドブックに記

載される準指定危険建築物「ヨコギン」が此

処であった…。

 

 その劇場内の座席に人影があった。幽霊で

も、怨霊でもない。現実の人影だった。

 座席は10ばかりが埋まっていた。この危険

な建物の中に、それほどの人数がいるとは考

えられない光景であった。

 「チャーリー・ビクスマン。ハーバート・

ウィンスレイ。失態であったな…」

 劇場の中に重々しい声が響き、スクリーン

の所に一人の人物が立った。伯爵だった。

 「申し訳ありませんでした…」

 座席の前列から立ち上がったのは、チャー

リーとハーバートである。二人は素直に頭を

下げ、伯爵に謝した。

 「だが、その女が目的の人間であるのは間

違いないのか?」

 「わかりません。ですが、捕らえて調べて

みる価値は十分にあると思われます」

 ハーバートが答えた。

 「ならば、直ちにその女を儂の前に連れて

くるのだ。よもや、出来ぬとは言わぬな」

 「お任せください。しかし、あの関内駅で

逢った鳴海という男が邪魔に入りました。あ

の男を始末するのが先かもしれません」

 チャーリーが言うと、伯爵を取り巻く雰囲

気に鬼気が溢れた。

 「あの男か…。我等が目的の前に、立ち塞

がるであろうとは予感があったが…。もう現

れてしまいおったか」

 「伯爵さま。このチャーリーにお任せいた

だければ、あのような男の始末などたやすい

事でございます」

 闇の中に、クククという笑いが聞こえた。

 「ジョン。何がおかしい?」

 チャーリーが怒りの目を向けると、座席の

中央から男が立ち上がった。ユニオン教会で

ウイリアム・ハールマンを葬ったジョン・バ

ランタインであった。

 「その男の妨害で、女を取り逃がしたくせ

に、大言壮語を吐くと思ってな…」

 「あれは、偶然だ」

 「偶然ではなく、油断だろう。あるいはお

前の実力だったのかもしれんな…」

 「おのれ、ゆるさねぇ!」

 チャーリーがジョンの方へと飛び出しかか

る。その殺気の放出は、劇場の中にいた吸血

コウモリや死人フクロウを脅えさせ、妖生物

の乱舞を招いた。

 「痴れ者どもが…。やめぬか!」

 伯爵の一喝が、二人の行動を制する。

 「はっ…」

 さすがに伯爵の言葉には逆らえないのか、

二人はおとなしく引き下がった。

 「ケイト・マクギリス。その女のことはお

前に任せよう。必ず、捕らえよ」

 「はい。お任せください」

 ブロンドの髪の妖女、ケイトが一礼する。

 「横浜の霊的均衡を崩すのは、儂とバーラ

ムの二人でやる。ハーバートは収集した物の

分析を急ぐ一方で、ケイトを補佐せよ」

 ハーバートが黙礼で、了承の意を示す。

 「チャーリー。それにジョン。お前たち二

人には、あの鳴海という男の始末を任せる」

 「はっ!」

 「再び、妖戦車ヴァイラスを使用しても構

わぬ。ただし、失敗は許さん…!」

 「わかっております…」

 チャーリーは深々と頭を下げた。だが、そ

の口許には殺意に濡れた微笑があった。

 「お前たちに、私に忠誠を誓ってくれた者

たちをつけよう。この横浜に住む者たちばか

りだ。役に立ってくれるであろう」

 伯爵の声に座席から一斉に人影が立つ。

 「我等、『銀の星・横浜教会』は、伯爵さ

まに忠誠を誓うものであります!」

 陰々とした声が劇場の中に和した。それに

対し、伯爵は無言の挙手をもって返した。

   銀の星  ・・・・それは20世紀最大の魔

術師と呼ばれたアレイスター・クロウリーが

築いた魔術結社である。ありとあらゆる邪悪

な黒ミサや魔術儀式を行ったとされる。

 その一派を受け継ぐ横浜教会は、信者の数

だけでも2百名を越える。年に数千人のオー

ダーで出る行方不明者の何%かは、彼らに誘

拐され、儀式の生贄にされたものと考えられ

ている。

 「さあ、行くのだ。我々の手で新しき世界

を創造するために!」

 「邪魔者には、災いと死を!」

 「我等が進む道に、血の栄光あれ!」

 「邪魔者には、災いと死を!」

 「我等が進む道に、血の栄光あれ!」

 伯爵の言葉に、劇場の中に歓呼がこだまし

た。オオオオオオッッと響く雄叫びは、劇場

を揺るがし、風を渡る怨嗟となって横浜の夜

空に広がっていったのだった…。

 

 「何故、奴らに追われてたんです?」

 「し、知らないわよ。判るもんですか!」

 鳴海の問いに、香澄はそう答えた。そう答

えるしかなかったのだ。

 「そう…ですか」

 鳴海はため息をついて、窓の外へと目をや

った。外にはN・Yシティバンクの廃墟と、

崩壊した公団山下第2団地の惨状が広がって

いる。山下町にある警友総合病院の隔離病棟

であった。

 「ねえ、あいつらは何者なの?」

 尋ねる声は、いつもの甘えた記者モードで

はない。この勝気な性格が、宮崎香澄の本性

なのであろう。

 「わかりません」

 鳴海の回答は簡潔にして、明瞭だった。

 「何よ、それ。私は殺されかけたのよ」

 「だから、助けました。それ以上に何かを

望むと言うのですか?」

 相変わらず口調は丁寧だ。だが、その言葉

を聞いた時、香澄は部屋の温度が確実に2〜

3度は下がったと感じた。

 「……。じゃあ、何時まで此処にいればい

いのよ。それぐらいは、教えてくれてもいい

でしょ?」

 「別にすぐに出てもらっても、構いません

よ。但し、身の安全は保証しかねます」

 「……」

 香澄は黙った。クールな男だとは思ってい

たが、ここまで冷たくされるとムシャクシャ

するのも通り越した気分だった。

 「まあ。出る気がなければ、おとなしくし

ていてください。この警友病院にいれば、少

しは安全なはずです」

 「鳴海さんが守ってくれるの?」

 香澄の声がパッと輝く。鳴海とずっと一緒

にいられるなら、それはそれでも構わないと

思ったからだ。鳴海に惚れていると言ったの

は、あながち嘘でもなかったのだ。

 「いいえ、私は用がありますので」

 香澄の期待は一瞬で裏切られた。

 「その代わりに特殊捜査部の同僚に来ても

らっています。いずれも奴らに引けはとらな

い実力の持ち主ですよ」

 鳴海が言うと、巨漢とインテリ風の眼鏡男

が入ってきた。巨漢は大石刑事、インテリ風

の男は各務野刑事であった。

 「な、何よ。もう少し、カッコイイ男を寄

越してくれてもいいでしょ!」

 「じゃあ、後は頼みます」

 香澄の抗議は完全に無視して、鳴海は大石

と各務野に警備を頼むと、部屋を出ていって

しまうのだった。

 「薄情者ぉぉぉ!」

 香澄の声が隔離病室から聞こえたが、それ

に振り返るような鳴海ではなかった。

 警友病院を出た鳴海は、駐車場に停めてあ

るレパードの所へ向かって歩いていた。

 あと50Mほどで車という地点で、鳴海は周

囲に沸き起こる殺気に気づいた。殺気と呼ぶ

には生ぬるい鬼気に近いものだった。

 「誰でしょうか?」

 そう言いながら、手はジャケットの内側へ

と入っている。ショルダーホルスターに収納

したSIG・P339自動拳銃を抜く。

 「横浜機動警察の鳴海章一郎だな…」

 何処からか、声がした。

 「だとしたら、どうするんです?」

 「貴様の命を貰いたい!」

 闇の奥の声が宣言すると同時に、低い唸り

声が聞こえ始めた。

 「ホーンヘッド…」

 闇の中から次々に姿を表したものの姿を見

て、鳴海がつぶやく。

  ホーンヘッド。和名では、有角犬。

  その名の通り、頭頂部に鋭い角を持った魔

犬である。

 米軍根岸遺伝子研究所の忌まわしき産物の

一つであった。米軍根岸遺伝子研究所は、横

浜を魔都に変えた最大の原因とされているも

のである。米軍が根岸の施設内に極秘裏に建

設していた遺伝子研究所は、近未来戦に対応

した生物兵器の実験を繰り返していた。それ

が大震災によって壊滅し、実験サンプルの多

くを流出させてしまったのである。その結果

として生まれたのが、有角犬や巨大毒蛾など

の凶悪生物、妖生物群であった。

 特に犬は街中に存在した頭数も多く、突然

変異を引き起こす最大の対象物となった。催

眠波を出すロンリーアイ、単眼犬。神経麻痺

毒を牙から分泌するイーブルファング、毒牙

犬。全身が青銅の皮膚に覆われたブロンズド

ッグ、青銅犬。二つの首を持つツインヘッド

こと双頭犬。三つ首のケルベロス。屍肉を食

らうバリイドドッグ、埋葬犬。挙げればキリ

がない程の魔犬が横浜中に溢れ、その被害を

確実に増やし続けているのである…。

 「ふん。全部で8頭ですか…」

 取り囲むようにして現れた有角犬を数えな

がら、鳴海が言う。

 「フフフ…。どうだ、俺の犬たちは?」

 駐車場の奥から人影が近づいてくる。それ

は黒い僧服をまとった痩せぎすの男だった。

 「あまり、可愛いとは言えませんね」

 「犬たちはナイーブなんだ。そんな事を言

ったら傷つくじゃないか」

 「そうですかね。あまり躾けがよろしくな

いようですが…」

 有角犬は飢えた牙を噛み鳴らし、湯気のあ

がる涎を滴らせていた。その様子を見ただけ

で、気の弱い者なら卒倒してしまうだろう。

 「フフフ…。腹を空かせてるんだ。特に美

味そうな獲物を見つけたからな…」

 「何者です?」

 「銀の星・横浜教会の者と言えば、分かる

だろう」

 「イギリスのクロウリーの流れを組む狂信

者の集まりですか。魔列車で着いた妖人たち

の手助けとは、いきなり愛国心にでも目覚め

ましたか?」

 「大いなる目的のためだよ」

 「世界の破滅が、そんなに崇高なものとは

知りませんでしたよ」

 「ククククククク…」

 犬使いは笑いはじめた。それは出来の悪い

答案を見せられた教師のような笑いだった。

 「何がおかしい?」

 「これ以上の問答は無用だ。死ね!」

 犬使いが指を口に当てて、短く指笛を吹い

た。その高い音色が、犬たちへの攻撃命令で

あったらしい。有角犬が一斉に鳴海に向かっ

て跳躍した!

 グォム!グォム!グォム!

 鈍い音が連発し、飛び掛かった有角犬の頭

部が脳漿をぶちまけながら、四散した。悲鳴

をあげる間もなく、有角犬の巨体が重い音を

たてて路上に転がる。

 チーン、チーン、チーン…。

 犬が路上に転がってから、ようやく薬莢の

落ちる音がした。鳴海の抜き撃ちは、それほ

どの瞬技であったのだ。

 「な…、ただの弾丸じゃないな!」

 無残に砕かれた有角犬の頭を見ながら、犬

使いは声を怒りに震わせた。

 「横浜機動警察特製の炸裂弾です。対戦車

手榴弾の0.25倍程度の破壊力はあるはずです」

 さらに飛び掛かった別の有角犬の頭部を吹

き飛ばしながら、鳴海が答えた。弾丸の有す

る破壊力も驚異だが、迫り来る有角犬の頭部

を正確に射抜く鳴海の射撃技術も驚嘆に値す

るものであった。

 「仮にも特殊捜査部に所属する刑事が、並

の拳銃を持っている訳はないでしょう」

 鳴海はやれやれといった表情で犬使いを見

た。45口径ぐらいの弾丸なら、簡単に弾き返

してしまう有角犬の皮膚を過信した犬使いに

対する教示であった。

 「いい気になるな!」

 残った4頭の有角犬が四方に散った。前後

左右から一気に襲いかかるつもりなのだ。

 「この攻撃をかわした奴はいない。貴様の

命運もこれまでだな!」

 犬使いはニヤリと笑う。次の攻撃に対する

絶対の自信の現れであった。

 「こいつを串刺しにしてしまえっ!」

 犬使いの叫びと共に、残った全ての有角犬

が咆哮した。だが、鳴海は動かない。

 最初の有角犬の角が、右から襲いかかる。

 あろうことか、それを鳴海は素手で弾いた

のだった。バランスを崩した有角犬は後方か

ら飛び掛かったもう一頭の腹部を貫く形にな

る。犬の絶叫を聞く間もなく、振り返りもせ

ずに撃ったSIG・P339の炸裂弾は、左

から迫っていた有角犬の胸部に血の華を咲か

せた。そのまま流れるように前から迫る有角

犬へと銃口がポイントした。銃口を鼻面に突

きつけられた有角犬は静止した。

 例え、飢えた畜生であっても、恐怖が肉体

を支配するものらしい。その時間はコンマ数

秒もなかっただろう。

  だが、それで十分だった。

 「さよなら」

 銃声が轟き、有角犬の顔面は四散した。

  衝撃で吹き飛ぶ巨体が路上に落ちるまでの

間に残りの有角犬の運命は決まっていた。

 胸を撃ち抜かれた有角犬はそのまま絶息し

ており、相討ちとなった有角犬たちには慈悲

の弾丸が撃ち込まれた。四頭全ての有角犬が

地に伏すまでの時間は、最初の攻撃から十秒

っていない。

 「こ、こんな…。こんな、バカな…」

 うろたえる犬使いに、鳴海はスウと銃口を

向けた。

 「さっき、笑った理由を聞かせてもらいま

しょうか?」

 「そ、それを喋ると思うのか…」

 「そうですよね…」

 ズキュウウウウン!

 犬使いの眉間を貫いた炸裂弾は、一瞬にし

てその頭蓋の全てを吹き飛ばしていた。

 「おおいっ、鳴海。大丈夫か!」

 まるで間合いを見計らったかのように、闘

いが終わった駐車場に大石刑事が現れる。

 「当たり前ですよ」

 遅れた登場を咎めもせずに、鳴海は言う。

 「こりゃあ、派手にやったな」

 駐車場に広がる惨状を見回しながら、大石

刑事が手にしたM880ショットガンの台尻

で有角犬の死骸を小突いた。

 「後で清掃班を頼んでおいて下さい」

 静かに言って、鳴海は活躍したSIG・P

339のセーフティを戻した。まだ弾丸の残

っているマガジンを無造作に捨てると、新し

いマガジンを装填し、ホルスターへと戻す。

 常に全弾装填の状態にしておくのが、横浜

に生きる者の鉄則だった。

 「こいつは…?」

 大石刑事が倒れている犬使いを見下ろしな

がら、鳴海に聞いた。鳴海はチラリと目をや

り、それからしばし考え込んだ。

 「……名前を聞くのを、忘れました」

 確かにそうだった。

 

 警友病院の闘いから、十数分後…。

 大石刑事に警友病院の警備の強化と、香澄

の安全確保を頼んだ鳴海は、横浜警察本部へ

と戻っていた。

 エレベーターに乗って、地下へ。鳴海は伊

勢佐木町の事件で死んだ犠牲者の検屍の結果

を聞くために鑑識へと向かった。鑑識の立花

主任から呼び出しを受けたためである。

 地下に到着したエレベーターのドアが開く

と、薄暗い廊下が目の前に続いていた。白い

壁の廊下には、蛍光灯がボンヤリと光ってい

た。

 「……」

 いつ来ても、薄暗い場所であった。それに

冷えている。蛍光灯の光も、本部内に完備さ

れている空調システムも、この地下施設では

用を成さないようであった。それは、この場

所の持つ特異さを暗示していた。

 横浜警察本部の地下にある鑑識課別室。

 分厚いコンクリートと鋼鉄板に囲まれた隔

離施設であった。通常の鑑識と違って、横浜

という街に対応するためには、このような施

設が警察にも必要なのである。よく見れば、

ただの壁に見えるコンクリートも、その表面

を微細な紋様で飾られていることが分かる。

 それは梵字であり、悪霊封じの経文なので

あった。

 横浜警察・第2鑑識課。日に数十を超える

オーダーで発生する殺人事件の中には、余り

にも異様な状況で発見される犠牲者が多い。

 首から下を失いながら、その失ったことに

も気づかぬままに助けを求めていた主婦。

 魔術によって爬虫類を融合させられたまま

の状態で発見されたホステス。

 吸血鬼に体内の血を全て吸い取られた女子

高生など、これでもまだ普通である。

 もっとも横浜の死者で厄介なのは「生ける

死者(リビングデッド)」である。悪霊、怨

霊に憑依されていたり、ブードゥー魔術によ

ってゾンビ化されていたり、死後すぐに妖生

物に侵入されてしまい宿主と化している者な

ど。これらの死者は、鑑識作業中に蘇り、鑑

識官や調査員に襲いかかる者も少なくない。

 そうした2次被害を減少させるために、隔

離された鑑識室で調査を進めるプロフェッシ

ョナル集団。それが第2鑑識課であった。

 「失礼します」

 廊下の突き当たりにあるチタン合金の重い

扉を開き、鳴海は中へと入った。

 「おお、来たな」

 雑然とした部屋の奥で、男が立ち上がる。

 第2鑑識課主任の立花明茂であった。

 「立花さん。私も忙しいんですが、一体何

の用なんです?」

 「まあ、慌てるな。どうだ?、去年の御歳

暮に貰ったネスカフェがあるぞ」

 そう言ってインスタントコーヒーを勧める

ものの、明らかにそんなにくつろげる場所で

はなかった。

 「遠慮しておきます」

 と答えて、鳴海は目を嫌そうに細めた。

 四角い銀縁眼鏡に薄汚れた白衣の立花が立

っているデスクの傍らには、伊勢佐木町で殺

された被害者の内、身元不明や切り取られた

本体が判らない死体が無造作に横たえられて

いるのだった。と言うよりは、積まれている

と言った方が正しいかもしれない。

 「このぐらいで気味悪がっていたら、横浜

では生きていけんぞ」

 ニヤリと笑って、立花は自分のカップを持

つと、コーヒーメーカーへと向かう。

 「……」

 鳴海は黙っていた。その目が立花の背後の

死体の山での微かな異変を捉える。

 死体の一つ。女性のものと思われる腕に微

かな震えが見えた。直きに動きだし、慣れる

かのように開閉を繰り返したしなやかな指が

コーヒーを入れている立花の背後から、首筋

を狙うかのように形を作る。

 「立花さん…」

 コーヒーを手にクルリと振り返った立花に

向かって、腕が跳躍した。生き返った女の腕

は、悪霊の成せる技か。新たな犠牲者を生み

出すのであろうか。

 「バカめ…」

 その途端、立花の眼鏡がまばゆい光を放っ

た。その光を浴びた腕は一瞬で灰と化す。

 それを別に驚いた様子もなく見やって、立

花は手にしたコーヒーをすすった。

 「まったく、いつも同じ事を繰り返して、

悪霊も努力や向上心を持たなくてはいかん」

 「イシム・ダルマトゥスの照魔術ですか」

 「ああ…」

 「古代ペルシャの偉大なる魔術師の呪紋を

目に見えぬ微細さで彫り込めた眼鏡を愛用す

る男。さすがは、第2鑑識課主任ですね」

 「お世辞はいらん。コーヒーはどうだ?」

 お世辞はいらないと言いながら、少し立花

は照れているようだ。

 「いえ…」

 鳴海は慌てて、謝絶した。立花はフンと鼻

を鳴らして、もう一度コーヒーをすすった。

 「伊勢佐木の大量殺人のことだが…」

 「中々、手掛かりがなくて困ってます」

 「犠牲者については調べたのか?」

 「いいえ。無差別殺人と思われますので、

被害者を調べても接点はないと思いますが」

 「思い込みは誤認捜査の第一歩だぞ。誰が

無差別殺人だと決めたのだ?」

 「……。何か、判ったのですか?」

 鳴海の目がキラリと光る。立花はクシャク

シャのハイライトを食わえながら言った。

 「別に分かった訳じゃない。ただ、死体が

足りないんだよ。一部分だがな」

 「妖生物などに食われたのでは…?」

 「特定の遺伝子情報を持った細胞だけを好

む生物がいれば、その推理は成り立つな」

 立花も鳴海も、この段階ではハーバートが

放った不気味な蠅の群れの存在は知らない。

 「どういうことなんです?」

 「まあ、一定の規則性があるんだな。犠牲

者の身体から、特定の遺伝子情報を持つ細胞

だけが切り取られているんだ」

 「そんなことが可能なのですか?」

 「不可能と言えば、それまでだ。どんなに

精密なレーザーメスでも無理だな。この大量

殺人犯人は、現代技術でも不可能な所業を瞬

時にしてだけでなく、大量にやってのけたこ

とになる」

 「……」

 鳴海は敵の実力の深さを実感すると同時に

別のことにも感嘆していた。頭部、首、右腕

や左足…。無造作に切り裂かれたとしか思え

ない犠牲者の様子を見て、この怪奇かつ不可

解な共通項を見つけ出した立花の実力に。

 「なるほど。しかし、よくそんな事に気づ

きましたね」

 「ふん。多少、貧血にはなったがな…」

 「また、ヘブンズドアですか。その内、本

当に天国への扉をくぐる羽目になりますよ」

 「地獄の間違いだろう」

 立花はそう言って笑った。

   ヘブンズ・ドア。

   それは立花だけが為しうる超推理能力だ。

  人間の脳の未知なる領域を開くところから、

その名がついた。解明不可能な真実を導き出

す究極の分析推理術である。無差別かつ無秩

序な情報因子を元に、些細な手掛かりと痕跡

から情報配列を構成し、たった一つの解答を

導出する事を可能とする。

 或る一家惨殺の現場で、真冬に咲いていた

紫陽花の花弁が一枚少なかった事実から、平

安京都で行われた呪殺が間違いで時空を超え

て、振りかかった事を突き止めた例。

 やはり殺人事件で犠牲者の右親指の爪が、

他の爪よりも2ミリ短かった事から、麻薬に

よるショックで幽体離脱した犠牲者本人が自

分の本体を惨殺したのだと解明した例。

 こうした立花の事件における功績を数え挙

げたら、キリがないと言う。但し、推理を行

うにあたって、身体中の毛穴から血が噴き出

すという噴血現象を引き起こすのが常である。

 「とにかく、敵は恐るべき技量と目的をも

った相手であることは間違いないな」

 ハイライトを吸い込み、紫煙を吐き出しな

がら立花は言った。

 「なら、立花さん。特定の遺伝子情報を持

った細胞を集めることによって、奴らは何を

企んでいるのか判りませんか?」

 「集めることが目的じゃないかもしれん」

 「と言いますと?」

 「特定の人物を捜し出す手掛かりという考

え方もある」

 「それは誰ですか?」

 「馬鹿か。そういった事はお前たちの仕事

だろう。俺の仕事は、あくまでも鑑識だ。犯

人の動機を調べだし、斃すのは捜査部の仕事

だろう。全く、最近の若い奴らは楽すること

ばかり考えて、けしからん!」

 立花は憤慨して、コーヒーカップを勢いよ

くデスクに置いた。ダークブラウンの飛沫が

デスクの表面を濡らす。

 「はいはい。わかりましたよ」

 鳴海が肩をすくめて出ていこうとした時、

急に地響きのような振動が伝わってきた。

 「な、何事だ!」

 立花が叫ぶと同時に、けたたましいブザー

の音が部屋の中にこだました。

 「警報、警報。地下施設ニ何者カガ侵入シ

マシタ!何者カガ侵入シマシタ!」

 無機質なコンピュータボイスが、非常事態

の発生を告げた。

 「侵入者だと?」

 立花がデスクの上にゴチャゴチャと積み重

なった物を一気に払うと、その下から小型の

ディスプレイが現れた。埃に汚れているが、

監視モニターのようだった。画面についてい

る染みは、血痕かもしれない。

 「モニターに出せ!」

 「了解シマシタ」

 立花がディスプレイを睨みながら怒鳴るの

に合わせて、部屋の何処からか返事が聞こえ

た。同時にディスプレイが点灯する。

 「音声識別コンピューターですか?」

 「ああ。2010年製の年代物だが、結構

役に立ってる。それよりも、見ろ!」

 鳴海は横からディスプレイを覗き込んだ。

 男が第2鑑識課へと続く狭い廊下を歩いて

くる様子が映し出されている。その後方には

破壊されたエレベーターが見えた。

 「鳴海。お前、どうやら尾けられたな…」

 「ええ。犬使いだけかと思っていたのは、

甘かったですね。恐らく、警友病院から尾行

されていたんでしょう」

 「エレベーターを破壊するとは、我々の退

路を絶つつもりだろうが、自分の退路も失っ

てしまう。余程、自信があるのか…?」

 「あの男なら、そうでしょう」

 鳴海はディスプレイから目を離さずに答え

た。画面には、廊下を歩く男が映る。それは

魔列車で横浜に到着した妖人の一人だった。

 「知り合いか?」

 立花が邪険に聞いた。厄介事を持ち込んだ

ことへの不満が明らかな口調であった。

 「ええ…」

 侵入した妖人は、魔列車から最初に降り立

った男であった。つまりジョン・バランタイ

ンだが、鳴海はまだその名を知らなかった。

 「おとなしく此処へ招き入れるのも、いさ

さか芸がないと言うものだな」

 立花はフンと鼻を鳴らしながら言うと、デ

スクの表面がスライドして現れたコンソール

のキーボードを操作した。

 一方、横浜警察本部地下施設へ侵入を果た

したバランタインは、鳴海の姿を求めて廊下

を進んでいた。

 「それにしても、陰気臭い所だ…」

 薄暗い廊下を見回しながら、そう漏らす。

 ウィーン…、ウィーン…。

 小さなモーターの駆動音が聞こえ、金属製

のアームがバランタインの前へと降りてくる

のが見えた。

 「フフフ…。対人レーザーか…」

 微笑するバランタインに向けて、アームの

先に取り付けられた対人レーザー砲が光る。

 照射されたアルゴンガスレーザーは、目標

であるバランタインの身体を焼き尽くすはず

であった。だが、その身体に当たると同時に

黒い衣服へと吸収されてしまう。

 「無駄だ。特殊な光学処理を施した服に、

レーザー兵器は一切通用せぬわ」

 そう言うと、バランタインの身体が微かに

ブレたような感じに見えた。次の瞬間、対人

レーザー砲がグシャリと潰れ、爆発した。

 「フハハハハハ…」

 何が起こったのかは判らなかったが、対人

レーザーの警戒網を突破した妖人は先へと進

み始める。嘲笑が廊下に響いた。

 「侵入者ハ第2次防衛線ニ到達。防衛装置

ハ敵ヲ撃退セヨ!」

 感情を持たないコンピューターボイスが響

き、廊下の壁がスライドして開いた。

 「今度は、どんな玩具を出すつもりだ?」

 余裕の言葉を吐いたバランタインに向かっ

て、壁の奥から無数の光が発射された。それ

は微細なグラスファイバーの針であった。

 だが、敵を貫くと同時に粉砕し、肉片も残

さぬはずのグラスファイバー針はバランタイ

ンの身体を虚しく通り抜けてしまう。

 「奴は霧に変化できるのか!」

 その様子をディスプレイで見ていた立花が

感嘆の声をあげた。彼の目には、霧と化した

バランタインの姿が映っていた。

 「対人レーザーを突破したばかりか、必殺

のヘッジホッグシステムまでもクリアされて

しまうとはなぁ…」

 残念そうには言っているが、実際には立花

の顔には微笑が浮かんでいる。仕掛けた悪戯

に引っ掛からなかった教師の姿を見る生徒の

ような表情であった。

 「呑気なことを言っている場合じゃないで

すよ。間もなく、奴は此処へ来ます」

 鳴海が立花の様子に忠告する。

 「そうは言うが、光学兵器は奴の服には通

用しないようだし、霧と化した敵に対する物

理的な攻撃は労力の浪費に過ぎん」

 「それでは…」

 「お前が斃すのが、筋だな。元々、お前が

尾けられたのが悪いんだからな」

 立花はそう言うと、胸のポケットからクシ

ャクシャの煙草を取り出し、火を点けた。

 「面倒なことですね」

 鳴海がうんざりした様子で言う。

 「自分で招いたことだろう。一応、鋼鉄の

シャッターを下ろしておいたけどな」

 「恐らくは無駄だと思われますが…」

 「そうだろうな」

 立花は素っ気なく言うと、フウと紫煙を吐

き出した。その耳には、鈍い音が聞こえてい

た。厚さ30cmの鋼鉄製のシャッターが破られ

ている音だと察しがつく。

 「後は、この部屋の前に下りているシャッ

ターだけか…」

 迫り来る敵が部屋の前まで到達しているの

が判った。そこには最後の、そして最大の厚

さを持った防御壁が存在している筈だった。

 「来るか…」

 立花はデスクの上に乗ったコーヒーカップ

を見つめて言った。波紋が広がっている。

 ビリビリビリ…。

 振動は大きさを増し、周囲のスチール棚の

ガラスやビーカーが震えて、カチャカチャと

音をたてた。

  鳴海は漲る妖気の中で、その凍てつく視線

を鋼鉄の扉へと向けたのだった。

 

              次回、激闘必至 つづく

 

   来生史雄電脳書斎