悪魔島 横浜

 

                        第五章

 

 グワッシャアアアン!

 ガラスが砕けると同時に、鋼鉄のドアが吹

っ飛んだ。立花を庇って飛んだ鳴海が床に伏

せる。顔を上げた目線の先には、破壊された

ドアが無残にひしゃげ、粉塵を内在させた煙

の中に男が立っていた。シルエットだが、微

笑していると判った。

 「派手な登場だな…」

 鳴海が男に向かって言う。ジャリッと砕け

た破片を踏みしめながら、男は室内へと侵入

してきた。

 「また会えたな。鳴海章一郎」

 妖人ジョン・バランタインが笑った。

 迫り来る敵を見据えながら、立花と鳴海が

身を起こす。平然と服についた埃を払い落と

す様子だけから見ると、この男たちも横浜の

人間だったということを改めて思い知らされ

る。

 「鑑識室もリフォームしたいとは思ってい

たが、その工費は君に出してもらえるな」

 立花がズレた眼鏡をかけなおしながら、例

の茫洋とした調子で語りかける。

 「その必要はないだろう。この部屋を使う

者など、いなくなるのだから…」

 ジョン・バランタインは笑った。

 普通に交わされる会話の中に込められた意

味が戦慄を表現し、闘いの到来を示す。

 「いいや。是が非にも払ってもらうぞ!」

 立花の眼鏡がまばゆい光を放った。先程、

悪霊を一瞬にして撃滅した古代ペルシャの秘

法、魔術師イシム・ダルマトゥスの照魔術で

あった。

 「無駄だ」

 迸った退魔の光線は、バランタインの腕の

一振りで霧散してしまう。ダルマトゥスの呪

紋を彫り込んだ眼鏡が粉々に砕け、立花は目

を押さえた。倒れてしまう彼の前に鳴海が立

ちはだかり、冷やかな声が響いた。

 「中々の腕前ですね。この間の決着をつけ

ようという訳ですか…」

 「そうだな。俺の名はジョン・バランタイ

ンだ。まだ名乗ってなかったよな」

 「丁寧にありがとうございます。これで墓

碑銘に悩まなくて済みますよ」

 「面白いことを言う…」

 二人は笑いながら喋っているが、その周囲

に立ちのぼる殺気は、鬼気にも似ていた。

 「!」

 鳴海が素早く銃を抜いた。握ったSIG・

P339が吠えた。だが、敵を粉砕する筈の

炸裂弾はバランタインの体を空しく通り抜け

て、後ろのコンクリート壁に30cm大の穴を開

ける結果となった。

 「まだ、判っていないのか?」

 「霧に変化出来るということを確かめただ

けですよ。特に意味はありません」

 ジョン・バランタインの特技であるミスト

マンであった。霧状に変化した肉体は、いか

なる物理攻撃も受け付けることはない。

 「フフフフ…。銃などという無粋な物は使

わないで欲しいものだな」

 「申し訳ない」

 鳴海はそう答えて、拳銃をショルダーホル

スターへと戻した。

 「今度はこっちの番だ!」

 バランタインの身体が不気味な放電に輝き

はじめる。それは、あのウイリアム・ハール

マンを葬った必殺の雷撃の前兆であった。

 「帯電しているようですね。そのパワーは

ざっと数百万ボルトに達すると見ました」

 鳴海は平然と構えている。何が彼にそれほ

どの余裕を与えているのだろうか。

 「黒焦げになるがいい!」

 バランタインの霧が、ライトパープルに灼

熱した。その電気エネルギーは確実に鳴海と

立花を焼き尽くすはずだった。しかし、

 「何だと!」

 バランタインが驚愕したのも無理はない。

 超高電圧の放電は、部屋の隅にあった棒状

の突起へと吸い込まれて消えたのだった。

 「ど、どういうことだ?」

 「横浜をよく知らないようですね」

 鳴海は微笑みながら言った。

 「この横浜には、死体に寄生する電気獣と

いう妖生物がいましてね。その数百万ボルト

の電撃に感電死しないように、鑑識室には特

別製の避雷針が取り付けられてるんです」

 「フフ…。つくづく、怖い街だな」

 霧の形を採っていたバランタインの身体が

集合し、元の人間へと復元していく。

 「ご期待に沿えなくて、残念です」

 人を食ったような鳴海の言葉だった。

 「次の出し物は用意してあるんですか?」

 「なあに、失望はさせんよ」

 必殺の電撃を封じられてなお、バランタイ

ンには次の魔術があると言うのだろうか。

 バランタインの身体が異様な軋み音をたて

ると同時に、微細な振動が部屋の中に響きわ

たり始めた。

 「ヘル・ラプソディーの餌食となれい!」

 バランタインが叫ぶ。

 床に転がったマグカップが震え、その振動

で奇怪なダンスを舞いながら跳ね回る。ねじ

曲がった鉄骨が、気の狂いそうな高音を軋ま

せながら揺れ動いた。そして、一面に散乱し

ていたガラスの破片がさらに細かく砕けた。

 「破壊振動波か…!」

 鳴海は、即座に現状を把握した。

 バランタインは全身の筋肉と骨を超高速で

運動させることによって、破壊振動波を生み

出しているのだった。よく運動不足の人が動

くときに骨が鳴ったり、軋んだりするアレで

ある。バランタインの場合は、運動不足な訳

ではなく、筋肉と骨の摩擦係数を微妙なバラ

ンスで調整しているのだろう。だからこそ、

微細かつ激しい運動を筋肉に要求しながらも

骨を軋ませ、恐るべき振動波を武器とするこ

とが可能なのであった。そしてその振動波の

前では、あらゆる物体も破砕されてしまうの

である。

 「さあ、鳴海章一郎よ。この地獄の狂詩曲

を聞きながら、その身を砕かれ、永遠の眠り

につくがいい!」

 妖人ジョン・バランタインの哄笑が響く。

 第2鑑識室もろとも、全てを粉砕しようと

する破壊振動波の嵐の中で鳴海は立ち尽くし

ていた。まるで従順に死を迎えるように。

 「ハハハハハ…、ハ……」

 笑うバランタインだが、ふと気づいた。

   (鳴海も笑っている…?)

 よく見れば、鳴海の身体は少しも震えてい

ない。砕かれた物体の破片による粉塵なのだ

ろうか、彼の周囲を靄のようなものが覆って

いるのが見えた。

 「どうしました? 私を心から震えさせて

もらえませんか?」

 ふざけたようなセリフだった。鳴海の顔に

刻まれた微笑は消える様子もない。

 バランタインは鳴海の技量も、能力も未だ

少しとして知るはずもなかった。彼を取り巻

く靄に秘められた意味を…。

 「GYYYY…!」

 表音不可能な唸り声を発し、バランタイン

が全身に力を漲らせた。鳴海の態度が彼の怒

りを誘ったのだ。それは破壊振動波のレベル

を一気に引き上げることであった。より激し

い振動が室内を満たし、床に散らばった破片

が宙に浮かび上がる。強すぎる空気振動は、

物質の固定着面力を著しく弱め、一時的な無

重力状態を生み出すことがある。いままさに

バランタインが見せている能力が、それであ

った。舞い上がる物質の残骸、その渦の中に

鳴海は閉じ込められようとしていた。

 「どうだぁぁ、鳴海ぃぃぃ!」

 自らの妖能力に酔いながら、バランタイン

は勝利を確信した。だが、それは一瞬の内に

疑惑と絶望へと変化した。

 「ま、まさか…? な、何故だ…!」

 苦渋に震えたのは、バランタインだった。

 冷たい汗が、魔術師のこめかみを落ちた。

  そして…。

 バランタインは気づいた。

 鳴海が震えていないことに…。

  いや、彼の立っている地点を境目にして、

それより向こうにある椅子も、机も、犠牲者

の死体も、床にうずくまる立花も少しも震え

てはいないという事実を…。

  それが鳴海の周囲に立ちのぼる靄のような

ものが遮断カーテンとなって、恐るべき振動

波から全てを守っているのだということに…!

 「そ、その靄は…?貴様、何をしたっ!」

 「やっと判ったんですか。意外に鈍いんで

すねぇ…」

 「ロンドンでNATOの重装甲戦車をも粉

に変えた破壊振動波を、何故に遮断すること

が可能なのだ?その靄は一体、何なのだ?」

 「深海2万メートルの海の底では、空母で

すらサイコロ大の塊に潰してしまえるのです

よ。戦車の一台や二台を潰せる程度の振動波

など、問題にもなりません」

 ああ、やはり…。

 交わされる会話の意味を真剣に考えると、

余りにも滑稽で荒唐無稽に感じられてしまう

のだが、二人が冗談を言っているとは思えな

かった。

 そう…。此処は、横浜であった…。

 鳴海を取り巻く靄は、深海2万メートルの

圧力と密度を備えた防壁であった。

 水を自在に操る男…。

  それが横浜機動警察の鳴海章一郎であった。

 「フフフ…、そうか。そういうことか…」

 バランタインが不意に笑った。気が狂った

という訳ではなさそうだ。

 「なめるなぁぁぁ!」

 ジョン・バランタインもロンドンに名を知

られた魔人の一人であった。そうそう降伏す

ることなど有り得ない。彼は自らの身体の限

界を無視するかのように、全身運動をさらに

激化した。破壊振動レベルは極大へと達しつ

つあった。

 「GYYYYYYYY!」

 鳴海を包む靄が歪んだように見え、幾分薄

れるような変化を生じさせた。

 「ハハハハハ、これで貴様の防御フィール

ドは用なしだァァァァァ!」

 勝ち誇ったようなバランタインの叫びがあ

がる。

 「そうかな?」

 鳴海がつぶやく。

  算数の解答を間違った教え子を諭す教師の

ように…。

 「何ィィィィ!?」

 バランタインは不意に苦鳴をあげた。勝ち

誇った余裕は、その声に感じられなかった。

 そんな様子を冷やかな目が見つめていた。

 氷の眼差しが凍てつく視線を放っていた。

 ギシシシシッッッッ!

 嫌な軋みの音が部屋の中に響いている。

 「グワアァァァ…!」

 バランタインの破壊振動波は全身の骨格や

筋肉の摩擦によって、生み出されるものだ。

 そして、この軋みの音は鳴海を死へと誘う

「地獄の狂詩曲」であるはずだった。だが、

この狂詩曲の中で苦鳴をあげているのは、バ

ランタインの方なのである。

 「き、貴様っ…、何をしたぁぁぁ!」

 バランタインが憎しみと不可解さを混在さ

せた眼差しを鳴海へと向けた。それを受け止

めるのは、憐れみと哀れみを混在させた氷の

眼差しであった。

 「いやに部屋が冷えているなぁ、とは感じ

なかったのかい?」

 鳴海の茫洋とした問いに、バランタインは

部屋を見回した。不思議に視界が白い…。

 部屋に霜が下りていた。砕けたガラスは凍

りつき、曲がったフレームも白く化粧されて

いた。部屋の片隅でこちらの死闘を見守る立

花の息が白く変わっていた。壊れたスチール

棚の側面に掛かっていた温度計は、すでに目

盛りを失っていた。

 「こ…、これは…」

 バランタインは凍りついた世界にいた。

 床を見れば、白く雪の結晶をあしらったか

のように、美しく氷紋が弧を描いていた。

 その氷紋の中心が、この異様な冷凍現象の

発生源であることは疑うべくもなかった。

 「ま、まさか…」

 バランタインの目は氷紋の中心を捉えた。

 それは鳴海の足元であった。

  コンクリートの床を貫く水の剣…。

  その差し込まれた剣先が氷紋の中心であり、

全ての根源だった。

 「すでに部屋の気温はマイナス30度を割っ

ている。北の果てにある誰も近寄る事の出来

ない氷の海の厳しさは、こんなものではない

がね…。私の手の中にある『氷雨』は、そん

な世界の水も呼べるのだ」

 氷点下に下がった鳴海の声が聞こえた。彼

の口からは白い息が出ていない。だからこそ

バランタインも気づかなかったのである。

 極度の低温の世界を少しも感じさせなかっ

た鳴海こそ、魔人と言えよう…!

 バキイッッ!

 枯れ木が折れるような音がして、バランタ

インが同時に悲鳴をあげた。彼の右腕が折れ

た音であった。

 「ヒイイイ…!た、助けてくれぇ!」

 だが、その左腕までもが続けて折れる。

 「どんな物質も極度の低温の世界では脆く

なる。いつでも砕けやすくなっている身体に

無理やりな運動を要求したのだ。振動波を生

み出すために仕方なかったとは言え、自分の

身体の筋肉や骨格の摩擦係数がゼロになって

いることに気づかないとはな…」

 冷たい声はさらに冷え、凍てついていた。

 「ギャアアアッッ!」

 鳴海の見守る前で、バランタインの身体が

霧に変化する事も叶わず、苦悶に捩じれる。

 「そして限りなく感覚もゼロになっている

ので、もはや全身運動は停められない。お前

の運動神経はすでに麻痺しているのだから」

 鳴海が紡ぐ言葉は、まるで死者のカルテを

読み上げているかのようであった。

 「ヒッ、ヒイイッッ。た、頼む、助けてく

れぇぇ!」

 バランタインの顔が恐怖と苦痛に歪み、涙

を流して許しを請うていた。

 「やがて身体の限界点がくる。そして、」 

  鳴海はバランタインの命乞いも介さぬかの

ように、淡々と実況中継をするように語る。

 「全ては終わる」

 バキイッッ!

 一際、大きな音がしてバランタインの身体

は砕け散った。もはや人間とは思えない程に

細かくなった人体の破片が部屋に飛び散る。

 だが、血も内臓も、あらゆる肉片も氷のカ

ケラであり、非常に乾いた最期に見えた。

 だが、恐るべき魔力を秘めた妖人の一人は

確実に滅んだのだ。

  この横浜の地に…。

 

 横浜警察の第2鑑識室を舞台にした死闘は

終わりを告げた。鳴海は斃したバランタイン

の残骸には目もくれず、立花を助け起こす。

 「酷い目にあったものだ。せっかくの部屋

が台無しだよ」

 スペアの眼鏡をかけなおしながら、立花は

ボヤいた。

 「リフォームする手間が省けて良かった、

とおっしゃっていたではありませんか」

 「馬鹿言え。壊すだけ壊しておいて、誰が

直してくれると言うんだ?」

 「そうですね。犯人はご覧のようにゴミと

化してしまいましたから」

 立花は床に散らばる凍りついた肉片に目を

落とすと、チッと舌打ちした。

 「お前の部課に請求書は回しておくから、

部長によく言っておけよ」

 「そりゃないですよ。ウチの部長、胃潰瘍

になってしまいます」

 「スペアの胃なら、此処のロッカーに幾ら

でもあるぞ。俺が換えてやる」

 「…そう言っておきます」

 鳴海は、ホウとため息をついた。

 「それにしても厄介な奴らを敵に回したも

のだな…」

 立花は新しい煙草を口にくわえると、百円

ライターでシュボッと火を点けた。

 「彼らが何者か、そして何が目的なのかが

分からないのが苦しいところです」

 「何か、心当たりはないのか?」

 「彼らがロンドンから来たということ。そ

れから、彼らのリーダーが『伯爵』と呼ばれ

ている人物であること。そして、立花さんの

おっしゃっていた特定遺伝子細胞の消失でし

ょうかね」

 「ふーむ…。またヘブンズドアが使えれば

いいんだがな。悪いが、あれは何度も出来る

もんじゃないんでなぁ…」

 「結構ですよ。立花さんに死なれたら、後

々の寝覚めが悪そうですから…」

 「言ってくれるじゃないか。ま、いずれに

しても、情報を集めることが先決だな」

 立花は紫煙を吐き出しつつ、鳴海を見た。

 「ええ。差し当たって、馬車道にでも行っ

てみようと思います。色々とありがとうござ

いました」

 鳴海はそう言って頭を下げると、部屋を出

ていくのだった。

 「十番館の老婆か…」

 鳴海の後ろ姿を見送った立花は、そう呟く

とタバコを落とし、足でもみ消すのだった。

 

 同時刻。横浜警察本部の庁舎から一羽の鴉

が飛び立っていた。鴉は、そのまま近くに停

まっていた黒塗りのリムジンの窓へと吸い込

まれていった。

 後部座席に座っていた人物の腕に止まった

鴉は、ギャアギャアと鳴き声を放った。

 「そうか…。バランタインの奴は斃されて

しまったのか」

 感情を持たぬ無機質な声が、僚友の死を確

認した。鴉はギャアと一声で応えると、男の

腕の上で羽を休める体勢に入った。

 「東洋の島国と思っていたが、中々に楽し

ませてくれるじゃないか」

 と言いながら、男は鴉の首筋に優しく指を

かけた。鴉は首を傾げる仕種を見せた。

 「さすがは横浜…。死と怨念に満ちた街と

は分かっていても、これほどとは思わなかっ

た。古えの闇に栄えた魔道を伝える僕たちで

さえも、心に戦慄を感じる」

 優しく鴉の首筋を指で撫でながら、男は言

う。それは子供の姿をした妖人、チャーリー

に他ならなかった。

 「しかし、僕たちも魔都ロンドンより来た

者…。横浜とロンドン、どちらが真の魔都に

相応しいか、確かめさせてもらおうじゃない

か」

 ブチィッッと音をたてて、鴉の首がねじ切

られた。真っ赤な血が指を濡らして滴る。

 「横浜警察の鳴海…。今度こそ、奴の首は

この僕が取ってみせる!」

 子供の声だが、憎悪の籠もった声であり、

殺意の塊のような声であった。そのハッキリ

とした抹殺宣言を残し、リムジンはゆっくり

と走りだした。

 横浜警察本部の前を音もなく、静かに離れ

ていく黒塗りのリムジン。その霊柩車にも似

た姿と、一台のタクシーがすれ違う。

 「おいおい…」

 すれ違ったタクシーが急ブレーキを踏む。

 「また、イヤなものを見ちまったなぁ…」

 苦い表情をしながら、バックミラーをのぞ

きこんだ運転手はつぶやいた。バックミラー

の中には、走り去っていく黒塗りのリムジン

が映っている。

 その運転席には、誰も乗っていなかった。

 「今日は帰るか…」

 運転手は験を担ぐタイプだったようで、今

日の営業を中止して帰ることにしたらしい。

 数秒後には、その場を逃げるように走り去

るタクシーの赤いテールランプが横浜の闇に

溶けていったのだった…。

 

                                       つづく

   来生史雄電脳書斎