湖畔亭奇談

 

          第二章

 

 夜の闇が、辺りを覆い尽くしていた。

 夏と違って、虫の声もなく、静けさだけが

湖畔の情景を支配していた。

 その中で一か所だけ、光が闇を凌駕し、笑

い声が静寂を駆逐していた場所があった。

 そこから、明るい笑い声が響いていた。

 

 「アハハハ…。恵理ったら、マジでそんな

事言っちゃったの?」

 「だって、ヒロシったらエッチの事しか考

えてないんだもん」

 「へえ。じゃあ、もうヤッちゃったんだ」

 由紀が身を乗り出して、興味シンシンとい

った感じに聞く。

 「……、もう。聞かないでよ!」

 ガラにもなく、照れたように恵理が顔を赤

らめる。それをみて、加奈子と由紀がハヤし

たてるように笑った。

 リビングルームである。ガラステーブルに

は駅で買ってきた赤ワインが置かれている。

 この土地の特産品との事であった。

 すでに夕食は終え、食後のひと時をみんな

でくつろいでいる所だった。

 由紀の作った夕食はハンバーグとオニオン

スープ、それにグリーンサラダという献立で

あった。さすがに初日なので簡単なものにし

ようと言うことになったのだが、それなりに

用意してしまうのが由紀の立派なところでも

ある。

 そして、駅で土産物として売っていたワイ

ンやチーズを買い込んでおいたので、とりあ

えずの宴会となっていたのである。

 「でも恵理。何で、ヒロシくんと一緒の旅

行にしなかったの?」

 ワイングラスを手に加奈子が恵理に聞く。

 「何で…、って?」

 「だって、せっかくの旅行なら彼氏と二人

きりの方が良かったんじゃない?」

 「それはそれで別に行くわよ。でも、この

三人での旅行の方が気軽で楽しいんだもん」

 「嬉しいこと、言うじゃない。まあ、女同

士の方が、素でいられるからいいかもね」

 「そう、そうなのよ。何だかんだ言っても

可愛い女を演じてなきゃいけないでしょ。も

う、大変なんだから!」

 チーズをほおばりながら、恵理が言った。

 「と言うことは、本当の恵理は可愛くない

女ってことだ」

 横から、由紀がツッコミを入れた。

 「そんな事は、あんたたちの方がよく知っ

てるでしょ」

 アッサリとそう言った恵理に、加奈子と由

紀はプッと吹き出して、大笑いした。

 「…ちょ、ちょっとぉ。こういう時は少し

ぐらいフォローしてくれるのが、友達っても

んでしょ!」

 手に残ったチーズの塊をポイと口の中に放

り込みながら、恵理がムクれたように言う。

 「バカバカとチーズ食って、ソファに胡座

かいてる女の何処が可愛いのよ?」

 由紀がツッコんだように、恵理はソファの

上に堂々と胡座をかいている。片手にワイン

のボトルを抱えた姿は、ただのオヤジだ。

 「だから、女同士でいいのよ。こんな恰好

は彼氏の前じゃ出来ないもん」

 開き直ったように、グラスにワインを注ぎ

込む恵理であった。

 「そう言う由紀はともかく、加奈子だって

普段はワインなんか飲めないでしょ?」

 「そりゃ、そうよ。私のウチは凄く厳しい

もの。こんなのバレたら、大変よ」

 加奈子はワインに口をつけながら答える。

 あまり飲み慣れていないせいか、グラスは

進んでいないようである。

 加奈子の家は、父親も母親も教師という家

庭であった。今時珍しいほどの、おカタい両

親によって育てられたために自由はほとんど

無かったと言ってもよかった。

 「じゃあ、ここで思いっきり羽をのばさな

くちゃね」

 由紀が横から加奈子のグラスにワインをつ

ぎたしながら言った。それに対し、加奈子は

曖昧に微笑んだだけであった。

 ピロロ…♪

 何処からともなく「イッツ・ア・スモール

ワールド」の音楽が、不意に聞こえてきた。

 ディズニーランドのテーマとして有名なあ

のメロディーである。

 「あれぇ、私のピッチだ」

 ソファのクッションの下から、恵理が携帯

電話のPHSを取り出して耳に当てる。

 「あ、ヒロシ。うん、今別荘にいるよ」

 どうやら、恵理の彼氏からのようだ。こん

な山間の湖畔にも電波が届くとは驚きだ。

 「うん…、うん…、あ、ちょっと待って」

 少し話していた恵理がPHSを持ったまま

立ち上げる。

 「由紀、加奈子。ちょっとゴメン」

 彼氏とのラブコールの時間らしく、恵理が

場を外してもいいかと尋ねてくる。二人は、

どうぞどうぞと言う風に、手で合図した。

 恵理はそれを見て、ゴメンという仕種を手

の合掌の形で示すと、部屋を出ていった。

 パタンとリビングのドアが閉まる。

 「いいわねぇ、恵理は…」

 由紀が羨ましそうに言った。

 「あら、由紀だって…。そう言えば、小林

さんとはどうなってるの?」

 加奈子が由紀を見て、尋ねる。

 「え…。ええ、まあまあって感じ?」

 「何よ、それ。あれから、少しも進展して

ないの?」

 「そ、そんな事ないけど…」

 由紀が照れたように頬を赤らめる。

 「ちょっとぉ、しっかりしなさいよ」

 「うん。本当に加奈子にはお世話になっち

ゃったしね。感謝してるわ」

 と言って、由紀はグラスに口をつけた。

 由紀がつきあっている小林は、同じ高校の

先輩である。元々は加奈子がマネージャーを

つとめているテニス部のキャプテンだったの

だが、由紀が好きだという事を知って、その

間を取り持ってあげた過去があった。

 「そうよ。結構努力してあげたんだから、

それなりになってもらわなきゃ!」

 加奈子がウンウンとうなずくような仕種を

しながら、由紀を励ますように言う。

 「そうだね。がんばんなきゃ!」

 由紀がニッコリと微笑みを返す。その顔を

見て、加奈子はグラスに残ったワインをグイ

と飲み干した。

 「小林さんは大学進学だっけ?」

 加奈子がグラスに新たにワインを注ぎなが

ら、聞く。アルコールに慣れてない彼女にし

ては、ちょっと珍しい。

 「うん、4年制のね。だから、私が調理師

の専門学校を卒業するのと、ほぼ同時に社会

人になれるのよ」

 「じゃあ、小林さんが大学を卒業すると同

時に結婚するの?」

 「さあ、そこまでは…」

 由紀はそう言いながら、テーブルの上の皿

に手を伸ばしたが、もうチーズはなかった。

 「あら。もう少し切ってこようか?」

 「そうだね。恵理も戻ってくると思うし」

 由紀がキッチンの方へと向かうのに合わせ

て、加奈子も立ち上がる。トイレに行こうと

思ったのだ。

 リビングを出て、階段を迂回する形でトイ

レの方へと歩いていく。そして、トイレのド

アに手をかけようとした時だった。

 ガタン…!

 二階から物音が聞こえた。

 「…?」

 加奈子が見上げると、二階のドアは閉まっ

たままである。部屋の中からした音のようで

あった。

 「恵理ったら、まだ電話中なのかしら?」

 加奈子はそのままトイレへと入った。

 ミシ、ミシミシ…。

 トイレの静かな空間にいると、また物音が

二階から聞こえた。誰が歩いているような音

であった。

 「電話するのに、何をウロウロと動き回っ

ているのかしら…?」

 そうボヤきながら用を済ませると、加奈子

はトイレを出た。そして、リビングへと戻ろ

うとした時だった。

 「うー、寒い、寒い!」

 玄関のドアが開いて、恵理が入ってきた。

 「え、恵理!」

 思わず加奈子が叫んでしまう!

 「いやぁ、春とは言っても、まだまだこの

辺って冷えるんだねぇ!」

 恵理がPHSのアンテナを収めながら、寒

そうに肩をすくめた。

 バカな…。じゃあ、さっき2階を歩いてい

た人は誰だったというのか?

 「え、恵理。あなた、今まで外に…?」

 「そうよ。だって外の方が電波の入りがい

いような感じがするでしょ」

 「そ…、そんな…」

 加奈子は自分の顔から血の気が引いていく

のを感じた。確かに二階には誰かがいたはず

であった。そして、それは恵理だと信じきっ

ていたのである。

 「ちょ、ちょっと…」

 顔面蒼白の加奈子がうわ言のように言う。

 「どうかしたの?」

 恵理は事情が分からず、キョトンとする。

 「に…、二階にいるのは誰なのよ!」

 たまらず、加奈子は叫んでしまっていた。

 

 ギシ…、ギシ…、ギシ…。

 階段を踏みしめる音が妙に響く。

 「ほ、本当に誰かいたの?」

 先頭を歩く由紀が小声で聞いてきた。その

手には包丁が握られている。

 「音よ…。物音しか聞いてないけど…」

 加奈子は震えた声でそう答えた。手にはテ

ニスラケットがあった。

 「じゃあ、気のせいかもしれないよ?」

 一番後ろにいる恵理が言った。

 「でも、恵理。あなたが外に出ている間は

玄関のカギは開いてたんでしょ?」

 加奈子は侵入者の可能性を指摘した。

 「それは無理よ。だって、私はドアのすぐ

外で電話してたんだもん」

 「じゃあ、ドアからは誰も入ってないとい

うことになるの?」

 加奈子が聞き返すと、恵理はうなずいた。

 「他は全部戸締りしたわよ。さすがに女ば

かりだと物騒だからね」

 由紀が状況を確認しながら、階段を登る。

 やがて、物音がしたという2階の部屋の前

についた。

 「ま、開けてみれば、分かるわ」

 そう言うと、由紀は一気にドアを開けた。

 「…!」

 息詰まる一瞬。

 「…誰もいないじゃない」

 由紀は包丁を下ろして、あっさりと言う。

 「…ウソ?」

 由紀を押し退けるようにして、加奈子は部

屋の中へと飛び込んだ。

 部屋の中には誰もいなかった。並んだベッ

ドにシーツの乱れもなく、窓が開いている様

子もない。無人の部屋であった。

 「やっぱ、気のせいよ」

 由紀はサッサと結論を出して、階下へと戻

っていった。加奈子たちも続いた。

 「ゴメン…。騒がせちゃって…」

 加奈子が申し訳無さそうに謝る。

 「いいのよ。たぶん、風か何かで、建物が

揺れたりしたんでしょ」

 由紀はキッチンに包丁を仕舞いに行き、そ

れと交換するように、ブランデーのミニボト

ルを持ってくる。

 「さ、温かい物でも飲んで、寝ましょ」

 「そうね。ブランデーティーにする?」

 恵理が由紀の手からミニボトルを受け取っ

て、リビングへと入っていく。

 「ほら、加奈子も」

 騒いだことを気にしている加奈子を由紀が

促す。気にするな、とウインクしながら。

 「うん。でも、もう飲みすぎたから…」

 「大丈夫よ。明日もあるんだから、そんな

に酔っぱらわないわよ。ちょっとだけ、紅茶

に落とせば気持ち良く眠れるわよ」

 由紀の優しい心づかいに、加奈子は微笑み

を取り戻してリビングへと戻るのだった。

 そして、不思議な物音の事を頭の片隅へと

追いやってしまったのだった…。

 

 ピピッ…。ピピッ…。

 暗い闇の中で、微かな電子音がした。

 加奈子はその音にフッと目を覚ました。

 「う…、ううん…」

 深いまどろみの奥から、なかなか意識が浮

かび上がってこない。より睡眠を求めるかの

ように、頭がボオッとしたままであった。

 「何時だろ…?」

 消え入るようなつぶやきと一緒に、枕元に

置かれた目覚ましクォーツに目を移す。先程

鳴ったのは、この時計の音であった。

 デジタル表示は午前3時を指していた。み

んなで寝たのが、午前1時半ぐらいだったか

ら、まだ1時間半しか経っていない。

 「まだ3時じゃないの…」

 目覚めてしまったことへの不満を愚痴りな

がら、誰の責任でもないのにと微笑する。

 スーッ、スーッと静かな寝息が聞こえた。

 横のベッドで眠っている由紀のものだ。

 (熟睡中みたいね…)

 ふとそう思った時、耳が別の音を捉えた。

 コトン…。

 それは小さな音であった。気にしなければ

それで済んでしまうような些細な事だった。

 だが、先程の記憶が一気によみがえり、そ

の音を無視することを許さなかった。

 (何の音かしら?)

 目を部屋の中に動かす。まだ真っ暗だった

が、次第に目が闇に慣れてくる。隣に寝てい

る由紀の姿やベッドの輪郭、部屋に備えられ

ているクローゼットなどが見えてくる。

 「……!」

 クローゼットが微かに開いていた。そのわ

ずかな隙間は暗黒であった。しかし、その黒

々とした空間に、言い知れぬ悪寒が走った。

 (誰かが見てる…?)

 急にわきおこった恐怖感であった。

 クローゼットの僅かな隙間の奥にわだかま

る闇に、不気味な視線の存在を感じ取ってし

まったのだ。

 漆黒の闇の底から、誰かが見つめている。

 加奈子を、加奈子の怯えた瞳を…。

 (そんな、バカな…)

 恐怖が一気に背筋を貫く。

 どこの誰がクローゼットに隠れていると言

うのだろうか。そんな事はありえない。

 (気のせいよ…)

 そう思うしかない。そう思いきかせること

で自分を納得させるしかないのだ。だが、今

そこにある闇に対する恐怖だけはぬぐい去る

ことは出来なかった。

 僅かに開いたクローゼットの隙間から、突

き刺すような視線だけが感じられる。

 (しっかりしてよ、加奈子!)

 自分に言い聞かせながら、加奈子はベッド

から身を起こした。そして、ベッドから抜け

出すと、ゆっくりとクローゼットへと近づい

ていく。冷や汗が背中を伝うのが分かった。

 (見てる。誰かが見ている…)

 やはり闇の奥に何かを感じる。それは、不

気味な威圧感となって、加奈子を襲った。

 クローゼットの正面に位置しながら、あと

数歩の位置にいながら、そこから先へと足が

進まない。金縛りにかかったみたいに。

 (だ、誰なの?)

 そう問いかけたのは、心の中だった。それ

に答える者がいるはずもなかった。

 全身の力を奮い起こして、クローゼットの

扉へと手を伸ばす。そして、まさに触れよう

という瞬間、

 「どうしたの、加奈子?」

 突然の声に、手がビクッと止まる。

 そして声と同時にクローゼットの奥にあっ

た闇の気配が消える。

 何もなかったように、一瞬にして…。

 起きてしまったらしい由紀が眠そうに目を

こすりながら、身を起こす。

 「こんな時間にどうしたのぉ?」

 「ううん…。何でもないの」

 そう言いながら、加奈子はクローゼットの

扉をパタンと閉じた。

 やはり、ただのクローゼットであった…。

 

                                つづく

 

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