柴田 愛子                 

 2、3歳児のお家は、子どもたちが好きにあそんでいます。のりを紙につけてぺたぺたと色紙を重ね無言でつけている子、外を走り回っている子、室内で衣装を身にまとい、ごっこあそびをしている子。
 みんな落ち着いています。保育者の声は響いていません。
 4歳児の部屋の中では、絵の具で絵を描いている子、毛糸で何かつくっている子。外では縄跳びやサッカーをしている子。用のあるときだけ保育者を呼んでいます。
 5歳児は畑という空き地で過ごしていました。
 シャベルで溝を作り水を流して川にしている子、木に登っている子、トンカチやのこぎりで木工に夢中になっている子。
 保育者はたき火をしてスルメをあぶったり、干し芋を焼いています。子どもたちが寄ってきては口に入れていきます。
 もうひとりの保育者は、大根を切っていました。たき火でお昼に味噌汁を作るそうです。子どもも手伝って切っている子もいます。
 どこも、冷たい風が吹いていましたが、子どもたちは穏やかで暖かです。
 保育者の声が聞こえず、子どもたちはそれぞれに自分のやりたいことに励んでいる、こんな今の時期ならではの光景がなんとも心地よいです。
 子どもたちをゆとりをもって眺めながら「いい時期だね」と、保育者同士がつぶやきます。
 安心して、子どもたちのことは子どもたちに任せられるのが年度末のこの時期です。
 あと、一か月もすると状況は全く変わります。
 新しい時期は、子どもは今より幼くなります。特に年長児は園ではおとなのように立派に見えるのですが、小学校に行くといちばん小さな存在になります。
 子ども自身もちょっと情けない、二歩も三歩も後退したような、心細い心情になってしまいます。
 行きつ戻りつ大きくなっていくのですね。

 このところ、私は週末になると地方にお話しにうかがうのが常になってしまいました。
 今年になってからも軽井沢、水戸、静岡、伊那、尾道、そして、昨日は和歌山県田辺市に伺いました。
 地方に行くのは大好きです。若い頃リュックを背負って、日本のあちらこちらを旅したものですから、30年ぶりという懐かしい場所に浦島太郎状態の感慨にふけることもしばしばです。
 初めての所は心が弾みます。なんだか、仕事に行っているとは思えない心持ちです。

 ところで、保育者や学校の先生方とお話しすると、みなさん、この仕事を選んだのですから、子どもが好きだったり、興味を持っている方ばかりです。ですから、子どもの話には共感していただけていると思います。
 でも、子どものこと以上に不自由な現状を抱えておられます。
「上からの指示」「親たち」「システム」「書類」おとなの事情が保育を楽しいものにしていないようなのです。
 大変な思いをしてるのは、地方も都会も関係ないようです。
 例えば、よく耳にする現状。
 園内の柿の木に実がなって柿もぎをしても、柿は「生なので」子どもには食べさせられない。食育でトマトを栽培している。トマトの収穫まではするけど、「生では」食べられないので熱湯をくぐらせてからにする。焼き芋もだめ。
 万が一のことを考えての配慮がきついのです。
 食べ物ばかりではなく、子どもの関係もそうです。
 けんかを止めるのは当たり前。多動な子は他の子とぶつかったりとらぶったりするといけないので、保育者がひとりついて二人で散歩するなんていう話もありました。
 人間関係も、怪我をしてトラブルにならないように、いえ、親からの苦情をもらわないように万全の配慮をしているのです。

 なんだか、身体のことばかり守っているような気がします。
 心の育ち、本来の子どもの育ちをゆがめてさえいる。
 保育者は監視役? 
 かつて、日本のおとなたちが経済成長に夢中になっているころのほうが、子どもがほっておかれて幸せだったような気がします。
 子どもには子ども時代が必要です。それを応援し、見守るという本来の保育者の仕事になったら、先生も子どもももっと輝けるのにと思わざる終えません。
「みんな! もっと、子どもの力を信じましょうよ。子どもに任せましょうよ。」と、叫んでまわりたい気分です。

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