赤が鎌倉街道。緑のマーキングしてあるところが、訪ねたところ。



雀の宮橋

耕地整理のために消えてしまった街道が、ここで現れます。小さい橋で、名前が付いているのが不思議なくらいです。
     
左側が藤岡方面、右側が児玉町方面                           ここを歩く人はほとんど居ないようです                       欄干に橋名がちゃんと

橋の先はあぜ道になっていました
 


雉岡城址・塙保己一記念館

街道が、八高線「児玉」駅の近くを通る際、右側に雉岡城址があります。
この「雉が岡」と言う地名は、鎌倉時代に出来た「宴曲抄」のなかに鎌倉街道沿いの地名を詠みこんだ「善光寺修行」があります。
別ページに掲載
http://www.lares.dti.ne.jp/~taka-ino/kaidoukeiro.html

ここに、「朝市の里動むまでさはぐ 是やは児玉玉鉾の 道行く人に事とはん、武士の弓影にさはぐ雉が岡」と詠みこまれています。

雉岡城は、中世に上杉顕定の居城であったが、永禄年間に北条が落とし、寄居の鉢形城主・北条氏邦の持ち城になっていました。豊臣秀吉の小田原征伐の際、この城も落とされ、徳川の城となりましたが、慶長6年(1601)に廃城となったそうです。
    

城址の半分は学校になっていました。城址として残っている部分は、綺麗に整備されています。
堀跡のところに「夜鳴き石」がありました。
昔、殿さまの食事に針が入っており、奥方は側女「お小夜」の仕業だと思い、取り調べもしないで井戸にお小夜を沈めてしまう。当時お小夜は妊娠しており、それから飲み水も池の水もお乳がにじんで白く濁った。夜になるとお小夜の鳴き声が聞こえる。
井戸からお小夜を引き上げると大きな石になっており、子供石を抱いていた。
奥方は後悔して、この石をお堀に祀り、髪を切って喪に服したといいます。


城址の、塙保己一記念館の後ろに、芭蕉の句碑がありました。
「むざんやな 甲の下の きりぎりす」



塙保己一記念館

塙保己一は、七歳で失明。13歳のとき江戸に出て勉強。検校になり、幕府に願い出て和学講談所を設けた。宇多天皇以来の史料450巻を編集し、「群書類従」1270種・530巻、「続・群書類従」2103種・1150巻を編集した人物です。
    
  記念館                                      塙保己一の肖像画                             編集した書物


玉蓮寺

文永8年(1271)、日蓮が佐渡に流された時、当所児玉六郎時国邸に一泊したことが記録に残っています。児玉党は武蔵七党と呼ばれる武士団のなかで最有力な存在だったそうです。
時国は、日蓮に帰依し、日蓮が赦免されて帰るときも久米川まで送っていき、そこで別れるとき、日蓮から「久米」の姓をもらい、以後久米と名乗りました。
日蓮入寂後、邸宅を廃して寺院とし、「玉蓮寺」と名付けました。
  
  玉蓮寺                                      境内の日蓮像

玉蓮寺裏手の墓地に、時国供養の板碑があります。釈迦一尊種子板碑で、高さ2.4mもある、鎌倉後期の典型的な武蔵型板碑です。
こんな薄くて高い板碑がちゃんと立っているものだと、感心してしまいます。
  

玉蓮寺門前で、東石清水八幡神社との境の辺に、久米逸淵の句碑があります。久米逸淵は、久米一族出身で江戸時代後半に活躍した俳人。小林一茶と交友があり、句集「おらが春」の序文は逸淵が書いたものです。
「鶯や もってうまれし 春の声」



東石清水八幡神社

平安時代後期、奥州阿部氏の乱・前九年の役を乳源頼義と共に平定した源義家が、鎌倉に帰る途中に石清水八幡宮を勧請したものです。
その時八幡太郎義家が詠んだ和歌。
「陸奥を一目ににらむ武蔵野は 八幡の山に祀る神垣」

まずは随身門。屋根の鬼瓦が文字どおり鬼なのは珍しい思います。
  

県の重文になっている右近の将、左近の将。
  

本殿の前の鳥居は、佐野で鋳造、利根川の水運で運んだもの。社殿の彫刻が見事です。
    
  青銅の鳥居                                     正面の彫刻                                     背面の竹と虎の彫刻


龍體稲荷神社

このお稲荷さんの名前が気になって、調べたのですが由緒等わかりません。お稲荷さんのお宮に龍の彫刻は珍しいと思います。
  

お稲荷さんの横に、大きな山車の収納庫があり、その横を通っている道が鎌倉街道です。収納庫のところに鎌倉街道の説明版が立っていました。
  


一里塚榎跡

龍體稲荷神社から「陣街道」という街道沿いにふさわしい地名のところを通って国道254号に突き当たります。ここに樹齢300年を超す「一本榎」があったそうですが、枯れてしまった後は名前だけ残っています。
向こうの陣街道から来た街道が254線に突き当たります。右側に「一里塚」の碑、左側に新しく植えられた榎があります。
  

街道は榎を巻くように右折して、254号を行きます。



みか神社

「ミカ」とは、酒造りに使う大型のカメのことだそうです。古代には、このあたりにミカ造りの人たちが住み、氏神としてこの神社を祀ったものだろうと言われています。
本殿の彫刻など、とても立派な神社でした。困ったのは「みか」という漢字がPCで出せないことです。「瓺(み)」はありましたが、「か」がどうしても出せません。
こういう漢字です。


    
   鳥居、手水舎、神楽殿                               左に曲がると本殿があります                            立派な彫刻がたくさん

神社入り口のところに、芭蕉の句碑がありました。



曝井の遺跡・伝大伴部真足女の遺跡

ここで万葉集に載っている二つの歌の遺跡を訪ねます。200mしか離れていない場所に二つの万葉遺跡があるのは、ここだけとの事です。

曝井は奈良時代、絹織布を洗いさらすために使われた湧き水です。
ここでは当時の女性たちの共同作業場であり、また恋歌にもあるように悩みを訴え愛を語る社交の場でもあったのでしょう。
残念ながら、河川改修工事のために岩間を流れていた湧水の水脈を切断してしまい、現在は涸れてしまっています。
  


万葉集第9巻1745  「三栗の那賀にむかえる曝井の 絶えず通はむそこに妻もが」
那賀の向かいに流れる曝井の水が絶えることなく湧いている。私も絶えずそこに通っていきたい。そしてその曝井に妻なる人が居てくれたらよいが。



伝大伴部真足女の遺跡の碑の奥に広がる田畑が、防人檜前舎人石前(さきもりのひのくまのとねりいわさき)の館跡と言われています。
  

真足女は、檜前舎人石前の妻で、防人として九州に赴くことになった夫に、この悲しい別れに臨んで、惜別の情を詠んだのが防人の歌として、万葉集に載せられています。
万葉集第20巻4413   「枕太刀腰にとりはきまかなしき背ろがまき来む月のしらなく」
枕太刀を腰にさして、私のいとしい夫が晴れて帰ってくるのは、いつの月かわからないが、早く無事に帰ってきて欲しい。


美里町遺跡の森館

このあたりは、古墳とか考古遺跡が多いところです。遺跡の森館に、鎌倉の永福寺跡から出土した瓦(鎌倉市教育委員会から借用したもの)が置いてあります。
源頼朝が建立した三大寺院(鶴岡八幡宮、勝長寿寺、永福寺)の一つです。この瓦が、この近くの「国指定史跡・水殿瓦窯跡」で焼かれたことが明らかになっています。
    
  美里町遺跡の森館                                            水殿瓦窯跡                                      永福寺跡から出土した瓦

遺跡の森館には、古墳とか考古遺跡から出土した、勾玉、ガラス製トンボ玉など豊富ですが、埴輪も目を見張るようなとても立派なものが多くて、実に見ごたえのあるものでした。
  


六道能化地蔵尊碑

街道に戻って、さらに南に進んでいくと白石に入り、十字路に「六道能化地蔵尊」の碑が立っています。下部に道標も兼ねていて「南 秩父 東 江戸 北 本庄 西 八幡山」となっています。
    
  右側の道が、歩いてきた街道です。                         六道能化地蔵尊碑                             道標部分















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鎌倉街道(上道)散歩

埼玉県児玉郡児玉町・美里町

2012.5.11&6.19&7.10
散歩


・雀の宮橋         ・雉岡城址
・塙保己一記念館      ・玉蓮寺
・東石清水八幡野神社    ・龍體稲荷神社
・一里塚榎跡        ・みか神社
・曝井遺跡         ・伝大伴部真足女遺跡
・美里町遺跡の森館     ・六道能化地蔵尊碑

児玉町・美里町

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