「赤目不動」縁起:比叡山の南谷に万行律師という持戒智徳の名僧がいた。常に不動明王を尊信し、昼夜不退に不動真言を唱え、精進を重ねていた。
万行は不動明王の正真の尊体を拝み奉るまでに自ら精進することを誓い、願わくば観念の床に影向し給えと祈願し続けた。
ある晩、一人の聖童が万行の夢枕に現われた。童子は「万行よ、汝は多年明王を尊信すること深切なり。伊賀の国の赤目山に来たれ。不動明王の霊験あらん。」
と告げ終わると金色のまばゆい光を放って飛び去っていった。
夢から覚めるや、不行信心肝に銘じつつ、御告げにまかせて、速やかに比叡山を発った。伊賀国に着くと直に赤目山に登り、絶頂の盤石に端座すること三日三晩。
口に真言を唱え、手に秘印を結び、心寂然として明王の来迎を待ち奉っていた。
突然、虚空に声が響いた。
「汝、謹んで諦聴せよ。我が身は無相空寂、周遍法界にして有時は彿と現じ、降魔忿怒の形は垂迩示現なれども、末世下根のものは、なお感見する事あたわず。
しかしながら、汝、身命を惜しまず信心深きゆえにこの霊像を与うべし。」
我に返り掌を開いて見ると、是即ち黄金の一寸二分の不動明王の尊像にて悪魔降伏忿怒の尊様俄然たる火焔の勢い、良しや聖手の妙作。
有難くも尊く、欽喜の涙にむせび、礼拝恭敬し続けた。
法楽を済ませると、尊像を持して赤目山を下り、比叡山南谷の庵に奉安した。
しばらく後、万行は感得した黄金不動尊の威徳を鑑み、黄土衆生の志願を起こし、感得の尊像を護持して、諸国を巡り歩いた。
ついに足は関東に向かい、元和元年(一六一五)、下駒込なる有縁の地を得、ここに堂を建てて尊像を安置した。

駒込駅から1300m、本郷通り沿いにあります。



不動堂
    


お堂には、信者の立派な扁額がかかっていました。
   


本尊の黄金不動明王は、酉年にのみ開帳となっています。御前立の不動明王は、間近に見ることが出来て嬉しいです。



不動堂の前にある「大日如来」          この辺には寺が多く、七福神めぐりをしているようで、ここには「恵比寿」像があった。
   



墓域の入り口に石仏が集められていたのでお参りした。
とろけ地蔵があった。「とろけ地蔵」は、目黒の大円寺が有名ですが、ここにもあります。
やはり漁師が海から引き揚げたのでしょうか。それとも空襲の業火でこうなったのでしょうか。
災厄を「とろけさせてくれる」そうです。
        
                                      これは、観音様

      



六地蔵



本堂、本尊は釈迦如来。



本堂裏に、巨大な五輪塔墓あり。
津軽信政と読めるが、調べてみると陸奥国弘前藩の第4代藩主であり、「弘前藩中興の英主」とよばれる。
津軽新田の開発、治水工事、山林制度の整備、植林、検地、家臣団の郊外移住による城下町の拡大、養蚕業をはじめとする各種産業の振興などに努めた。
民政においても善政を敷き、弘前藩の藩政確立と発展に尽力し、藩の全盛期を築き上げた。
文化事業にも造詣が深く、山鹿流兵学を導入し、吉川神道を学び、日本の古典・歌道・神道・茶道にも通じ、元禄期の大名七傑に数えられた。
津軽信政の墓所は、青森県弘前に高照神社と津軽信政墓所があるようなので、これは「供養塔」だと思う。
   


境内に、きれいな紅梅と木蓮(つぼみ)が咲いていました。
    


関東36不動巡拝のご朱印をいただきました。




吉祥寺

ついでなので、すぐ近くにある「吉祥寺」にお参りしました。
大田道灌が江戸城築城のときに城内の井戸から「吉祥」の金印が出たため、城内にその寺を設けたそうです。
その後今の場所に移り、栴檀林(学問所)として千人を超す学僧をかかえたそうです。
   


入ると、真っ直ぐな銀杏並木の参道です。             本殿の前も、広々とした空間が広がっています。
   



本堂の前の狛犬がユーモラス。どうも獅子のようです。  もう片方は、子に乳を与えています。
     



関東大震災、大空襲でも焼け残った「経蔵」。東京で最古。



経蔵の前に狛寅発見!    毘沙門天を祭るお寺では、狛犬ではなく狛寅を設置することがあると言います。
毘沙門天と狛寅のつながりは、日本で最初に毘沙門天が現れたとされる信貴山朝護孫子寺や鞍馬寺の縁起に、
「毘沙門天に援(助)けられたのが、寅年、寅日、寅刻だった」とあったことかららしい。
     


二宮尊徳の墓                           懐かしい「二宮金次郎」の像もあります。
   



八百屋お七の比翼塚


江戸も前期、1682(天和 2)年十二月大火のために本郷の八百屋市左衛門の一家は檀那寺である駒込の吉祥寺に避難しました。
そこで市左衛門の娘お七は寺小姓の吉三郎と恋に落ちます。
やがて一家は無事に本郷へ戻ります。しかし、お七は吉三郎に逢いたくてたまりません。
翌1683(天和 3)年一月もう一度火事になったら吉三郎様に逢(あ)えるとばかり、娘十六、お七は新築された我が家に放火してしまいます。
不憫に思った奉行が十五かと訊ねても、お七は正直に十六と答えます。同年三月、伝馬町から江戸引き回しの上、哀れ鈴ヶ森で火炙(ひあぶ)りとなります。

お七の悲恋の物語は井原西鶴の『好色五人女』で取り上げられ江戸のベストセラーとなりました。
『好色五人女』では、駒込の吉祥寺となっていますが、
史実ではお七の一家の避難先は白山の円乗寺で、吉三郎も円乗寺の寺小姓であり、お七の墓も円乗寺にあるそうです。
吉祥寺の比翼塚は文学愛好者により建立されたものである。(比翼塚とは、相愛の男女や心中した男女を葬った墓のこと)


境内に沈丁花がきれいに咲いていました。










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関東36不動霊場めぐり

東京都文京区本駒込1-20-20
2011.3.24 参詣

JR山手線「駒込」駅から本郷通り1.5Km

第13番・目赤不動尊・南谷寺

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