田園都市線「三軒茶屋」駅を降りて地上に出ますが、そこの交差点(国道246号、世田谷通り、茶沢通り)に
不動明王が上に載った「大山道」の道標があるというので、それを探しました。

立派な道標です。
      


三軒茶屋には昔、その名前どおり三軒の茶屋がありました。丹沢の大山阿夫利神社、大山不動へお参りに行く「大山道」としてにぎわっていた。
やがて近道(今の玉川通り・国道246)がつくられ、分岐点に三軒の茶屋「しがらき(後の石橋屋)」「角屋」「田中屋」ができ、
大山詣や多摩川行楽の人々の休み処として、いつか三軒茶屋と呼ばれるようになったということです。
石橋屋には、幕末の志士・坂本龍馬の写真が残されており、彼や高杉晋作も三軒茶屋で遊んだのではと想像されます。

駅から歩いて5,6分で目青不動に着きます。

新参詣道                            旧参詣道                           境内
    



正面が本堂、右手に不動堂があり、境内は樹に覆われて、暑さを忘れさせてくれます。

教学院は竹園山教学院最勝寺という。慶長9年(1604)玄応大和尚の開基になり江戸城内紅葉山にあったが、後赤坂三分坂に移転した。
更に寛永8年(1631)、第5世法印岸能大和尚のとき青山南町4丁目に移ったが、延享年間と宝暦年問の2度の火災で古記録を失い、その間の詳しいことは明らかではない。
元禄年間までは、麹町山王成琳寺の末寺であったが、貞享4年(1687)旧相州小田原の城主大久保加賀守の菩提寺となって寺運隆盛となり、東叡山輪王寺の直末寺となった。
後に大寺の格式となり、比叡山延暦寺の末寺となった。
明治41年、第17世権僧正寛葆大和尚の代に、太子堂町の現在地に移転した。

別堂には不動明王像を安置してあり、これが目青不動尊である。これは目黒不動、目白不動、目赤不動、目黄不動と共に江戸五色不動の一つとして有名である。
この像はもと麻布の観行寺の本尊であったが、同寺が廃寺となったので、明治15年青山南町4丁目にあった教学院に移され、青山のお閻魔さまといわれていた。
この像の右脇侍は閻魔大王、左脇侍は奪衣婆が安置されているので、この不動堂は一名閻魔堂ともいわれる。
なお、この像の作者は目黒不動尊と同一人といわれている。

不動堂
     

本尊の不動明王は秘仏だが、御前立の不動明王は暗がりの中かろうじて拝見できます。
脇侍の閻魔大王と奪衣婆は、暗くてまったく見えなかった。
閻魔大王像はガイドブックに写真が載っているので、転載しておきます。
奪衣婆は、俗説では閻魔大王の妻であるという説もあるので、脇侍として並んでいるのでしょう。


      
不動明王                    閻魔大王                ご朱印をいただいた。


境内を見て回ると、まず「夜叉塚」がありました。
夜叉塚は、この世で悪鬼、夜叉となって死んだ人々を慰めるために建てられたのでしょうか。
夜叉は、仏教では、天界にいて、仏界の守護を司る八部衆のひとつです。インド神話の悪鬼は大日如来によって、
夜叉、天、龍、阿修羅、乾闥婆、緊那羅、迦楼羅、摩睺羅伽の八部衆に分けられ、仏の道へと導かれたと伝えられます。
どうも夜叉塚がひっかかりますが、これ以上はわかりません。



恵心僧都作の阿弥陀如来と聖徳太子の作といわれる聖観音像を安置している本堂。



世田谷区の「名木百選」に選ばれた樹木「チシャノキ」。
      
                                                           根もとに、「空蝉」が。













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関東36不動霊場めぐり

東京都世田谷区太子堂4-15-1
2011.8.26 参詣

田園都市線「三軒茶屋」駅から500m

第16番・目青不動尊教学院

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