門のところからスカイツリーが見えた。

   


ちょっと愛嬌のある仁王さん                         正面が本堂で右手が不動堂
     



ここの不動明王像は、東大寺初代別当を務めた良弁僧正の作であると伝えられる。
天平年間(729~66) 、良弁僧都が東国を巡錫した折り、隅田川のほとりの一本の大樹の陰に宿り休んでいると、夢に不動明王が現われて、
我が姿を三体刻み、一体をここに安置せよと、奇跡の霊告を感得したため、自らこの御姿を刻んで本尊とし、一宇の堂舎を建立したのにはじまる。
相模国の大山不動はこの内の一体であり、当寺の不動尊像と同木同作である。

徳川氏の入府により、この良弁僧正御作の不動尊は、将軍家の信仰する所となった。殊に三代将軍家光の五色不動(江戸五色不動) の配置により、「目黄不動」と名付けられた。

不動堂に入って、お不動を拝するとその大きさに驚いた。座ったお姿で高さ127cmである。                    ご朱印をいただいた。
    



境内で目に付いたのは「徳三宝」という人の碑である。講道館9段とあり、裏面には大学柔道部などの名前が。
家に帰って調べてみると、「姿三四郎」のモデルになった人だった。
鹿児島県の徳之島出身。1906年に講道館に入門。一日に100本超える程の猛稽古を積み上達すると、当時の講道館でも最強を誇り、稽古中に姿勢が崩れる事のない強さ故に「野中の一本杉」とあだ名された。
1912年、講道館に試合を申し込んできた、当時寄港中のブラジル艦隊の水兵15人を返り討ちにしたが、これが政治的な問題となり講道館を破門される(破門理由については、徳の強さ・昇段の早さを周囲が妬み、
嘉納館長がかばいきれなくなった為だとか、鹿島神流・國井善弥の道場破りに徳が敗北し、逆に徳が国井の強さに惚れ込んで師事してしまった為など、諸説ある)。6年後に破門を許されている。
1945年3月10日、東京大空襲により逝去。
    


沢山の石仏の供養塔
     


お寺を出て、荒川がすぐ近くを流れているので、眺めに行った。
ここの河川敷は、東京マラソンでオリンピック代表が決定的となった「無職のランナー」藤原新選手の練習場だ。

    
荒川の土手からのスカイツリー           荒川と首都高中央環状線                    河川敷からのスカイツリー
この翌日に完成した。               荷物を満載した船が行く                    ここが「無職のランナー」藤原新選手の練習場











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関東36不動霊場めぐり

東京都江戸川区平井1-25-32
2012.2.27 参詣

JR総武線「平井」駅から1300m

第19番・目黄不動尊最勝寺

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