海運業
北前船前夜
貨幣経済の可能性
「御拝借米」という米を島民が借り受けて銀納で返す制度は元禄期には慣例化していた。逆にいえば、銀納の方が可能性があったという事かも知れない。つまり穀物以外に貨幣化可能な生産物があったという事ではなかろうか。即ち、島前の年貢は銀納の方向にしか可能性は見出せなかったのである。
島後では寛文9年(1669)には江戸に木材を送っており(寛文8年の江戸の大火の為か)「増補隠州記の記載から」
1672(寛文12年)美保関港制札写では隠岐国からの荷物が薪・材木・魚・海藻となっている。
北前船 西廻航路の開発 寛文12年(1672)河村瑞賢が西廻航路の開発。北前船は近江・加賀・越前・能登・大阪等の廻船問屋が大阪に根拠を定め、大阪と松前間の貨物の運搬に使用していた千石船である。旧正月あけに大阪で「囲い」を解いて縄・砂糖・菓子・その他の物資を積んで出発し尾道、馬関海峡を経て旧六月、七月ごろ隠岐に寄港する。これは下りの船であって主に大山に寄港することになっていた。これは二百十日付近の荒日を避け風を待つためであった。そこで一ヵ月ほど停泊してハエの風の吹くのを待って出帆し順風に送られた十日前後にして松前に達し、鰊・昆布などの海産物を積んで今度は八・九月頃には再び隠岐に寄港する。これは上がりの船で、この時は浦郷に寄港した。 これが一般的には隠岐の流通経済の先掛になったと言われているが、西廻航路が開発されてから、すぐに隠岐島が風待港になったわけでもない。北前船の沖乗り(港から港の距離が、沖を通るとこによって長距離になり、短時間になる)が可能になって初めて風待港として繁栄するのである。
北前船の外観 千石船とは千石積みの船で大体二四反くらいの帆を上げたものである。一枚の帆を益すと千百石、二枚帆を益すと千二百石積みという具合いで数えられたという。(後にこれは大和船と呼ばれ、西洋船と区別される事になる)
小渡海船は、千石船には充たないが80石未満の貨物船をいい、幕末からはこれが隠岐島地元の主力運搬船を多く占めることになる。
西洋型船(帆前船)とは、西洋型のマストを立てた船(大和船よりも帆が前にあるのでこう呼ばれたのではなかろうか)。船の大きさもトン数に変わってくる。明治20年代に隠岐島に初めて入港する。
機帆船は、機械動力を伴ったエンジンを備えつけた帆船をいう。 北前船入港推移表
表のサンプルは大山の元問屋の資料であり、これは10年毎をまとめたものであるので年間の入港量は平均10で割らなければならない。例えば、天保10年に大山の元問屋に入った船数は60隻と最高であるが、この時には西郷は630隻と約30倍である。即ち、このデータは西ノ島(旧美田村の大山)の一問屋のみの資料なので、隠岐全体となると年間に4千5百隻くらいは入港していたのではなかろうか。
北前船の船籍 隠岐に入った北前船の船籍は加賀1325・越中917・越後470。この3地区の合計(2712)は全体の6割を占めている。だから全体は4520隻くらいではなかったであろうか。
船数推移表 上記で見られる様に、隠岐の地元ではあまり千石船は多くなく、次第に小型廻船が増えてきている。すなわち隠岐の産物は小型廻船によって主に輸送していたと思われる。
船の運送料金 「船方賃銭之覚」 『近世隠岐島史の研究』245。
天保9(1838)・安政5(1858)。単位は銭が文 +------------+---------+----------+
| 行先 |天保9 |安政5 | +------------+---------+----------+ |能代
|10,500 |? | |秋田 |10,100 |10,100? | |庄内 |8,500 |8,500
| |新潟 |8,000 |8,000 | |三国 |3,000 |4,200 | |敦賀
|2,600 |3,400 | |小浜 |2,500 |3,200 | |丹後 |2,300 |3,000
| |但馬 |2,200 |2,600 | |因幡・出雲 |2,000 |2,300 | |江崎・須佐
|2,300 |3,000 | |萩 |2,500 |3,200 | |瀬崎 |2,600 |3,300
| |油谷 |2,700 |3,600 | |下関 |3,000 |4,000 | |長崎
|6,000 |8,000 | |讃岐・備中 |6,500 |? | |大坂 |8,000 |10,000
| +------------+---------+----------+
北前船の船員 船頭一人・オモテ一人・ワキオモテ三人・マカナヒ一人・隠居一人・船子二四、五人である。船頭は普通の船頭と異なり金の番をする者であった。オモテが船の指揮にあたり、ワキオモテ三人はそれを補助する。マカナヒは会計をやり、隠居は船所帯の世話をした。船子は帆一枚に一人の割合であったようだ。船子の出身地は各船主の国の者が比較的多かったが、島前でも浦郷だけで一四・五人くらいが船子になっていたそうである。船頭は給料の他に定石以上(千石船なら千石)に荷物を積んだ場合、その余分は自分の収入となった。このことをハセニと言う。そうしたハセニの部分は船子達にも臨時の収入責任となっていた様だ。逆に定額に充たない時は「カンガキタ」といって足りない部分だけ船頭以下の船員の責任となったのである。
北前船寄港中の様子 風待港として繁盛したのは大山と浦郷であり、そこには問屋と附舟屋(つけふねや)があり、惣嫁(「ソウカ」と読む。売春も兼ねた、船員の酒の付き合いをしたり、芸もしたりする酌婦)も沢山いたようだ。問屋は船頭やチクが泊まる処で、浦郷には古くは渡辺という家が一軒しかなかったが、明治二○年頃に寅屋という宿に代わったそうである。附舟屋は小宿ともいい、船子達が船の着いた時か、寄港中とかに来て、そこで休んで問屋に出掛けて風呂に入ったり惣嫁と遊んだりする処で、浦郷には三・四軒あったという。大概の船は附舟屋も定まっているのが常であり、新たに寄港した船は最初港に入って来て、一番先に船綱を受けた船の附舟屋に行く事になっていた。派手な帆船時代の船員であるから一ヵ月くらいにわたる停泊中には相当な金を隠岐に落としていったものらしい。明治二○年から三○年にかけては一隻につき一日十円くらいの金を費やしたという。当時多い時には島前に五○隻から七○隻の千石船が入っていた。
北前船回顧 北前船が入港の際には、各船は相当の間隔をおいて入ってきた。港内にいくら船が多くても、帆を一杯に張ったままでどんどん入港し、錨を下ろすと同時に帆も一度にドッと下ろした。何故こんな危険をおかしたかと言えば、帆を一杯に張っていなければ、かえって舵が利かなかったからである。それ故肝の小さいオモテ師などはウロウロして船を当ててしまうこともあった。また帆を一気に下ろしたので帆の半分くらいを海中にたたき入れることも多かった。帆が下りると同時に赤褌のカシキがハヅナを口にくわえて海中に飛び込む。寒い時雨の時分にはこれが殊に勇ましく見えたものである。船が入ってくると附舟屋達は各自の小船をこぎだしてそれを迎える。そして入港しようとする千石船はその附舟屋の小船を目掛けて綱を投げ、その綱に早くとりついた船に客として行くことになっていた。四時頃夕飯を済ませると、船員一同が揃って伝馬船をおろし、二○人くらいの船方がが乗って裸で上陸する。ヤサホイ・ヤサホイ・エンヤラエーの掛け声で、櫂一六挺くらいをもって漕いだ。大櫂は会計方のチクサンが必ず取ることに定まっていて、大概皆んな居櫂(いがい)で漕いだが、中には伊達な船もあって立櫂(たてがい)で漕ぎ、櫓を押す時には一同立ちあがり、ひく時には一斉に後に倒れる。これは見ていると何とも見事なものであったという。こうして上陸した船員は附舟屋に行って多くの場合は席に並んでいる惣嫁を選んで泊まるのだが、その際宿や惣嫁に支払う金はいづれも金一封であったので、船が出てからでないといくら出したか判らなかったそうである。北前船は縁起をかつぐ。出船しようとしても上げかけた錨を惣嫁が再び海へ下ろすと出帆を延期し、その日は決して出船しなかったそうである。
「北前船は、ほとんど隠岐の産物の取引は無かったようである」(今崎半太郎談・昭和11年現在のインタビュー)(今崎氏の北前船とは、隠岐を風待港として利用した他国の千石船の謂いであろう。だから隠岐の船は同等の事業をしていても北前船とはいわない)しかし、航路の開発によって、隠岐島民の中から積極的に北前船に参加する者が増え、これが近世の隠岐の経済活動をになってきた。
情況調査書(明治42年) 黒木村(1909) 「船ノ数。日本型船二二隻(三八二○石)西洋型船五隻(二六九トン)、西洋型船」「船舶の出入り。一ヶ年概数一六○隻(定期船を除く)多くは他国商船にして一時仮泊するものなるが故に貨物の集散等の影響少し只真に本島の交通機関と見るべきものは前項に掲げん船舶と定航海の汽船なり。・・」
浦郷村(1909) 「日本型船一隻(一○四石)」「船舶の出入。一ヶ年概数三○隻(定期船を除く)にしてそれらは主として他国商船の風波を避くる為順次寄港する者なるが故貨物の集散等に何等影響なし・・」
海運と経済 「増補隠州記」から判る事 1688(貞享5年)「増補隠州記」特に島後では「材木・薪伐出シ商売ニ仕ル今ハ尽キタリ」とある所をみると、この時代には既に商品としての材木は尽きるほど移出されていたことになる。
鯖・鯵・烏賊・鯛・鰤・アゴ・シイラなどが採れていた。即ちこれらの流通範囲はすべて異なっていた。それに加えて税も課されていたのである。鯖網も一般的に普及していた。小物成(鰯・アゴ・ワカメ・鯛・スルメ・海苔・串鮑・串海鼠)
1744(延享元年)俵物集荷の実をあげる為、幕府は長崎商人八人と、その下に俵物手請負方を定め、さらにその下に指定問屋を設けてこれにあたった。
1725(享保十年)には鳥取藩は米子に自由市場方式をとったのでますます松江との格差が大きくなり、米子・境港への集荷が多くなって行く。
(天明五年以前1785)町人請負−地元船−民間問屋−隠岐との貿易をする−各地へ輸送−産物価格は自由変動
長崎会所直買制度 天明五年(1785)指定問屋−長崎商人・民間商人−地元船の運搬
(天明五年以後1785)「長崎会所直買制度」役所請負−御用船(地元船雇)−指定問屋−隠岐との貿易はせず−直接に下関へ輸送−長崎俵物価格は低安定
民間問屋と海運 村々にスルメ問屋ができる様になった。元々は御用問屋のみであったが、次第にスルメだけは需要が多かったので、民間でも問屋をして、それを商売スルメという様になり、この商売問屋が独自のネットワークを張り、次第に隆盛していった。(米子・境港方面に)
北前船以後 陸上交通関連事項 鉄道の発達により、船が鉄道よりも大量・安価な運賃を提出できないようになったため、次第に材木・海産物も移出コストが低くなっていったものと考えられる。
(明治18年)隠岐汽船株式会社発足
(明治33年)陰陽連絡鉄道(姫路・鳥取・米子・境間)工事着工
(明治35年)米子・境間鉄道開通
(明治44年)大阪商船の大阪・山陰線、下関・境を連絡地として国有鉄道と旅客、貨物の船車連絡開始
(明治45年) 一畑軽便鉄道株式会社創立
(大正2年)大阪商船、下関・境線を米子・安来・馬潟に延航(11月より隠岐浦郷・菱浦・西郷に変更)
(昭和3年)国鉄伯備線全通
(昭和6年)山陰線京都・下関間全通
(昭和12年)木次線全通し芸備線と接続、陰陽連絡
北前船が明治30年を境に激減したとしても、なお地元の船は産物・貨物の運搬として使用されていた。
隠岐の海運業の衰退は、移出物の激減と漁船の大型化による運搬船の不用によっている。
移入物は隠岐汽船程度で賄えたのである。