1994年当時、最も栄えていた地域は、南京大路。僕は市場調査のため、その中心に位置する「第一商城」と「上海伊勢丹」に向かった。
その路傍で触れる上海の人々の面持ちは一様に固く、幸福とは程遠いように僕には思えてならなかった。不幸というよりはむしろ戸惑いが人々の心を支配しているように思えた。
ケ小平の改革開放路線はこの上海をはじめ、香港からほど近い広州、深セン地域を含め、東シナ海沿海地域に展開している。そしてその地域には地方からの労働力が流れ込み、都市は混沌とした状況になっているのだ。今までのようには行かない、しかし生きていかなければならない。
人々は戸惑いながら、手探りで新しい生活を手に入れようとしていた。
南京路の歩道橋上で、ある母子を見た。上海市民の戸惑いを代表するような母親の顔。彼女は歩道橋の上に座り込んだまま、その視線は街のいずれの場所にも焦点が合っていない。その傍らの少年はおそらく4〜5歳になろうか。手に壊れた風車を持つその少年の姿は、昭和30年代の日本の少年を想起させる。
僕は昭和40年代を朧げにながら記憶している年代である。平成に生きる日本人として、この上海を歩くのは記憶的に倒錯した体験となる。
1960年代の人々が1990年代を生きている、そんな不思議な感覚が僕を襲う。
さらに同じ歩道橋には、煙草を売る男。無造作に広げられたビニール袋の中には煙草が山となっている。これは闇なのか、それともこれが普通の姿なのか、僕には判断する術がない。
カメラを向けると、男の目線が一瞬暗く濁ったような気がした。