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天気読み
日比谷野外音楽堂
written on: January 25th, 1998
初めてそのビデオを見たのは友人の家でだった。
小沢健二が好きな人ばかりが集まって、非常に高い倍率だったチケットが取れた祝いをしたその席で「ビデオを見よう」と言って見たのだった。
その時に私が見たものは、おおよそこんな感じで。
その時には、私はすでに小沢の虜だったから、きっともしかしたら普通の人が見たら違うのかも知れない。
でも、小沢のデビュー当時を知らなかった私が初めて見た小沢のソロデビューライブは、とても痛いものだったのだ。
以下は、私の書いた日記である。(同じ日に見た、ブランキー・ジェット・シティの浅井のことも少しだけ書いてある)
伝説の日比谷野音。
雨の中、観客は立ちつくし、体を動かすよりも、突きつけられる意志に、沈黙で応えていた。
彼は、骨張った身体の回り中に、
細い細い体全体に、緊張を鎧って、
一直線に歌っていた。
ぴんと張りつめて、今にも切れそうな強さ。
頭の芯が痛くなるような張りつめ方。全身に鎧うのは、張りつめた意志であり、揺るがない決意だった。
真っ直ぐに観客だけを見つめ、
けれど一片の迷いもなく、一分の隙もなく、一かけらの救いも求めず、
たった独りで、独りだけで
何千の観客たちに向かって彼自身の意志をぶつけていた。
真っ直ぐに突きつけられる意志を
黙って受け取るしか、観客にはできなかったんだと、私は思った。
ぴりぴりと、限界まで張りつめた空気の中で、
客は緊張し、そこで多分、初めてみる"小沢健二"を「怖い」と思っただろうと思う。一片のビデオの映像を通してさえ、その日比谷の空気の静寂が聴こえるようだと思えた。
独りであること。
たった独りであること。
救いを求めないこと。浅井は、自分の足元だけを見つめ、誰も視ずに叫び続けながら、なお全身で救いを求めていた。
誰も視ずに、なお、誰かに救いを求め続けていた。
まるで対照的に、小沢は、観客だけを真っ直ぐに、一直線に見つめながら、一片の救いも求めていなかった。
目の前にいる人々に真っ直ぐ意志を突きつけながら、ただ独りで行くことを決意し、誰にも触れさせてはくれなかった。
どちらも痛くて痛くて、苦しかった。
涙が出た。全身に切れるような闘気を鎧い、真っ直ぐに一片の嘘も認めずに、一片の救いも求めずに歌う小沢。
その姿を見たとき、私はこの人の歌う中に「嘘」はあり得ないのだと確信した。嘘がない。
その痛み。
その苦しさ。
そして、その光のあり方。
それが、強く強く私を捕らえてしまう。
だから、私は小沢を追い続けるだろう。
きっといつまでも、いつまでも。