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小沢からもらう祈り

written on: December 5th, 1998

 本当は、ちゃんと順を追って出会いから現在までを書きたかったのだけど、私の場合どこから言葉をつないだらいいかわからなくて、いつ何を書きたくなるか分からないんで、「coming soon」とか書きながら、やっぱり順番ぶっ飛ばして、いきなり思いつきの書き散らしです。しかも更新が9ヶ月ぶり。なんたること・・・。

 いきなり、何を大仰なタイトルを?と思われるかしら。でも、なんとなく、こんなタイトルが先に出てしまった。普段は、内容書いてからタイトルつけるんですが、今回はかきたいテーマが決まってたのでタイトル先出しパターン(どうなることやら)。
 「祈り」です。祈り。
 小沢からもらう祈りって、何だろう?
 タイトル決めてから言うのも変だけれど、書いてからそう思ったりもして。

 タイトルは、ただ単にイメージでつけました。たまたま、小沢の歌のことを考えていたときに、「ああ、この人の歌は祈りなんだ」って思ったからそうつけただけです。思ったというより、「いつも」思ってるというのですか?
 私は小沢の歌を聴いて、よくそこに「祈り」を感じるんです。そういう歌、多いですよね。そればかりじゃないけれど、でもとてもたくさんの祈りの歌があると思うのです。小沢なりの、小沢という人間の視点からの、きれいで強い祈りが、ある。
 そう、思いませんか?小沢の歌は祈りに似ている、と。

 小沢の見る、世界への愛しさは、歌に溢れていて、私にとってそれがいちばん糧になるエネルギーです。
 私の大好きな『ある光』は祈りの集大成みたいで、すごく力をくれる。
 でも、宗教歌みたいな押しつけがましさはない(宗教歌が好きな方、失礼)。「神」というただ一つの正解を与える歌じゃなくて、そこにあるのは小沢の見た世界への愛しさと、世界そのものへの感謝のような祈りなんですよね。見るもの全部への愛しさとか、全てへの感謝とか、畏怖とかが織り込まれてる。
 言ってみれば、万物を神様とみた原始宗教みたいなものかしら?でも、それとも違って、現実を直視した上で全部の現実を肯定してしまう、強い強い愛と祈りがあるのだと、私は思うのです。

 私は、小沢に出会うまで、こんなに「祈り」という言葉を美しく感じることはありませんでした。
 「祈り」という言葉に、どこか現実味のない嘘っぽさに彩られた、ただきれいなだけのもの、というイメージを持っていました。「祈り」という言葉にどことなく、地に足が着かない印象を持っていた。だから祈りと言う言葉や、行為を信用できませんでした。
 でも、小沢の歌を聴いて、『ラブリー』で目を覚まされて、世界がキラキラ光ってるってのを見せられて、それから、小沢の歌の中から聞こえる、誠実で鮮やかに光る祈りの声をきいて、思うようになったんですね。
 祈りというのはこんなにも生々しく、リアルで、現実的に力を持つ美しさを持つものなのだ、と。
 「愛しさ」とか「誓い」とか「生きる」といったところにすごく近いところに「祈り」というものはある、と、そう思うようになったのは小沢の歌を聴いてから。
 現実にないことを望む希薄な美しさではなく、夢物語の美しさではなく、ファンタジックに美しいものではなく、そこにあるのは、現実を受け入れた上で、ちゃんと前に行こうという意志に他ならないな、と。
 神様に祈る力。神様じゃなくてもいい。何かを信じて、「生き抜く力を」と願うことは、自分の中に力の源を見つけるための儀式みたいなもので、それはただ望みの薄い夢のような幸福が与えられるものを待つ行為ではないと、そう思うようになれた。
 それは小沢のおかげ。
 「祈り」というのはね、本当に「強さ」の証だと思うのですよ。絶望するよりも、祈って力を何とかして取り戻して、もう一回立ち上がろうという意志そのものが「祈り」なんですよね。
 『天使たちのシーン』という歌で、耳にいつも触れて私の顔を上げさせるラスト近くのフレーズは、まさに祈りのフレーズ。
 私にとって小沢がくれる力というのは、まさに「祈る」力で、小沢を聴くことで、私はいつもいつももう一度祈り直すのです。
 どうか、もう一度立ち上がれる力をください。
 どうか、もう一度世界の中に戻れるように。
 どうか、この愛しい世界をもう一度、本当に愛せるように。
 どうか、私の大好きな人たちが幸福に優しく生きられますように。
 どうか、どうか、あしたも幸せに生きていられますように。
 どうか、この今の現実の美しさを忘れずに抱きしめていけますように。

 「祈り」というのは、ちゃんと健康に美しく生きるための儀式みたいなもので、限りなく「愛」に似てる気がするし、何かを大切に思っていなければ出てこない力だと思うのです。
 だから、小沢の歌にこれだけたくさんの「祈り」のイメージが出てくるのは、小沢君がたくさんたくさん、色々なものを大事に、愛しく思っているからだと、私は思っています。
 なんで小沢のことが、こんなに好きなんだろうって自分で思って、歌を聴いていて感じるのは、小沢がこれだけたくさんのものを無条件に愛おしんでいるからかもしれない、と思う訳です。
 たくさんの命やできごとや、今ある色々な瞬間のすべてをとてもとても大切に感じているから、小沢君の歌にはぽろぽろとこぼれるのが見えるくらいに命の力が溢れていて、命そのものみたいに歌が光っているように感じるのです。
 葉の隙間からこぼれる木漏れ日みたいにあちこちで光るような歌になるのは、小沢がそれだけ光り溢れるような愛し方をしてるからだと、そう思うのです。
 小沢は、歌の中でたくさん祈りを捧げている。愛する人や、愛する世界に。
 その気持ちは、すごく大きく広がっていて、私自身もそこにシンクロして、祈れるようになる。
 この世界丸ごと、愛おしんで、大切なものを全部大切に思って、たくさん幸せになれるように、と。

 小沢は、私に祈るだけの力をくれる。
 祈るための強さを思い出させてくれる。
 だから、つまり、小沢がくれる「祈り」があるわけです。
 くれるのは、私に対する祈りじゃなくて、私が祈れる力のこと。くれるというよりも、思い出させてくれるというか、掘り返してくれるというか、そんな感じがするのです。
 不思議なもので、こうやって真面目に小沢の歌を思い返して、色々な祈りの歌を頭に再現していくと、本当に心の底から自分や世界が愛しくなります。それは多分、私が実際に食べるのにも困らなくて、何も苦しさをしらない幸福な環境にあるからこそ感じることのできる、余裕の産物でしょうけれど、愛しさを感じて、そうあれる自分の現状に感謝したくなるのは本当のことです。
 そうやって、精一杯誰かのために祈って、自分のために祈って、眠りにつく夜は、幸福で幸福で、たまらない気持ちになります。生きていて嬉しいと、思えるのです。
 小沢は、私に「祈り」を教えてくれて、私に世界がきれいだということを教えてくれた。絶望するのは勿体ないことで、生きてるときには、もっともっと強くてきれいなことがあると教えてくれた。何よりも強くあるために、いつも持てる力を教えてくれた。
 だから、私は小沢が大好きで、大好きで、大好きで、大好きで、大好きで、大好きで、大好きなのです。
 小沢の歌をそらんじながら、布団の中で、自分を抱きしめて丸まって眠る。幸福な自分。幸せな現在。
 そうして、明日もきっと私は幸せに生きられるんだなぁ、と思う。もったいないくらい幸せ。たくさん苦しい人がいるなかで、私はとっても幸せでいられる。静かに感謝する。
 どんな方法でもいいから、みんな幸せになっておしまいなさい、と、そういうことを、私は祈りながら、『ある光』だとか『すぐに会えるかな』だとか『天使たちのシーン』だとか『美しさ』だとか『強い気持ち強い愛』だとかのイメージを描きながら眠るのです。
 おやすみなさい。
 良い夢を。
 明日も、このきれいな世界の中で幸せに生きていられますように。


All written by Hiroki YONO, 1998, Tokyo JAPAN
<h.yono@iname.com>