第三十四 上野国児持山之事
人皇四十代天武天皇の御代、伊勢国度会郡より荒人神が顕れ、上野国群馬郡白井保に児持山大明神として垂跡した。 其の故を尋ねると、以下の通りである。阿野津(安濃津)の地頭で阿野権守保明という人がいた。 財産には不自由は無かったが、子宝には恵まれなかった。 伊勢太神宮に祈願したところ、児守明神に祈るよう示現があった。 児守明神に参詣したところ、阿野の女房は懐妊し、持統天皇七年三月に美しい姫君が生まれた。 児守明神に授かった子なので、児持御前と名づけた。
姫君が九歳の秋、母は三十七歳で亡くなった。 一周忌の後、阿野保明は伊賀国(伊勢国の誤記か)鈴鹿郡の地頭・加若大夫和利の姫君を後妻に迎えた。 三年後、後妻にも妹姫が生まれた。 姫君が十六歳の時、継母の弟の加若次郎和理という二十一歳の若者と夫婦約束をした。
姫君が二十一歳、加若次郎が二十六歳になった三月、夫婦で伊勢太神宮に参詣した。 その途中、伊勢の国司の在間中将基成が児持御前を見て恋煩いになった。 国司は加若次郎を呼び、「此の国を汝に与えるので、汝の妻を麿に進ぜよ」と云った。 加若次郎は顔色を変えて「所領と妻を替える烏滸の者がいたら、その者に国を与えなさい。この和理はそんな馬鹿者ではございません」と云って御前を立った。 国司は立腹して「阿野権守と加若次郎が謀叛を企んでいる」という讒言を書状にして父関白に送った。 関白は両名を捕縛し、加若次郎は下野国の室の八島に流された。 保明は罪が軽いという事で許された。 和理は二首の歌を北の方に送った。
泣く涙胸の焔にたづさへて 室の八島に藻塩焼くなり和理の北の方は遁世して墨染の衣の尼になろうと思ったが、既にただならぬ身であった。 東国への旅を思い立つと、継母は「下野国の近くの上野国の目代(国司代理)の藤原成次は私と和理の甥です。この人を訪れなさい」と云った。
我ならぬ人も歎きや積りける 室の八島にたへぬ煙ぞ
国司の軍勢が和理の女房を奪おうと押し寄せて来た時、継母は海人に頼んで臭いが強い
和理の女房は阿野津を逃れて東に下った。 お供は乳母子(伝本に依っては乳母)の侍従局だけだった。 数日経って、尾張国の熱田社に着くと、鳥居の外の小さな家を宿に借りた。 夜が明けて立とうとすると、宿の女房が「安心してここでお産をして下さい」と云ったので、五日間ここに逗留した。 加若の女房は熱田大明神を伏し拝み、「当社の明神の御本地は十一面観音でございます。我が朝に現れた時、紀太夫殿に宿を借りた昔の事をお忘れなく、私を哀れんでお助け下さい」と祈念した。 程なくお産となり、侍従局と宿の女房が取り上げ、玉の如き若君が生まれた。
七日間の産立てが済むと、児持御前は若君を侍従局に抱かせて宿を後にした。 東山道の関の太郎(不破の関)を越える時、藍擂の模様の直垂姿の武士に出会った。 事情を聞いた武士は涙を流し、二人を送る事にした。
木曽のかけ路の丸木橋でまた梶葉の模様の直垂姿の武士に出会った。 この武士も同情の涙を流し、お供をする事にした。
上野国の国府に着くと、前の目代の藤原成次は山代庄の石下という山里に移った後だったので、一行は山奥に尋ね入った。 成次は大いに喜び、二人の武士の下人たちまで様々にもてなした。
夜が明けると、藤原成次と二人の武士は出発した。 下野国の室の八島に着くと、二人の武士は神通を使って牢番を眠らせ、牢の戸を破って加若次郎を連れ出した。 宇都宮の河原崎で四十歳ほどの武士が現れ、二人の武士と雑事(旅行の際の食事)をした。 その後、四名は山代庄に入り、加若次郎と児持御前は再会を果たした。
加若次郎は二人の武士に「我らをお助け下さったのは、どのような方でしょう。世の常の凡夫とは思えません。願わくば、我らに神道の法を授けて下さい。悪世の衆生に利益をしたいのです」と云った。
一人の武士は「我は尾張国の守護神の熱田大明神である」と名乗った。
もう一人の武士は「我は信濃国の守護神の諏方大明神である。汝の妻が夫の跡を恋し悲しむ様を哀れんで守護をした。汝ら二人に神道の法を授けよう」と云って「大仲臣経最要」を授けたので、二人は神通の身と成った。
北の方は群馬の白井保の内の武部山に住まわれている。 因位は児持御前なので、武部山の名を児持山と改め、児持山明神と云う。 本地は如意輪観音である。
乳母子の侍従局は大鳥山の北の峠に半手木鎮守として顕れた。 本地は文殊菩薩である。
若君は岩下の鎮守と成り、突東宮と云う。 本地は請観音である。
加若殿は見付山の峠に和理大明神として顕れた。 本地は十一面観音である。 彼の名により、見付山を和理嶽と云う。
その後、二人の神が帰られる時、加若殿が「下野国の河原崎で雑事をされたのはどなたでしょう」と聞くと、「その人は宇都宮大明神です」と答えた。
加若殿夫婦は共に神の身と成って伊勢国に移り、阿野権守夫妻に神道の法を授けた。 津守大明神と云い、伊勢太神宮の荒垣(板垣)の内に在る。
その後、伊賀国に行き、加若殿の父母も神と成った。 伊賀国三宮の鈴鹿大明神である。
尾張国熱田で産所を貸してくれた宿の女房も神道の法を授かり、神と成った。 鳴海の浦に鳥居明神として立たれている。
児持御前の継母は阿野明神として顕れた。
藤原成次も神道の法を授った。 尻高の山代大明神である。
山代庄は吾が妻と逢えた地なので、地名を改めて吾妻と呼ばれる。
阿野津から尾張熱田まで馬に乗せてくれた人も神と成った。 その馬の姿を移したのが岩尾山で駒形と云う。 今至という処に、舎人と馬が一緒に立たれている。 白専馬大明神がこれである。
鮃鮎を我が子の身代りに焼いて助けたので、今は鮃鮎を「