『神道集』の神々
第十七 信濃国鎮守諏方大明神秋山祭事
信濃国一宮は諏方の上宮で、本地は普賢菩薩である。二宮は諏方の下宮で、本地は千手観音である。
人皇五十代桓武天皇の御代、奥州に悪事の高丸という朝敵がいて、人々を苦しめていた。
この時、田村丸という兵がいた。 我が国の生まれではなく、震旦国の人である。 漢の高祖に朝広(趙高)という家臣がいて、謀反を起こしたが敗北した。 田村丸は朝広方の兵で、我が朝に落ち延びて勝田宰相の許に来た。 宰相には子が無かったので、養子にして稲瀬五郎田村丸と名乗らせた。
帝は田村丸を将軍として高丸征伐を命じた。 田村丸が清水寺の千手観音に願をかけると、七日目の夜半に「鞍馬の毘沙門は我が眷属であるので、この天王に願え。奥州に向う時は山道寄りに下るようにせよ。そうすれば兵を付き副わせよう」とお告げが有った。 田村丸は鞍馬に参詣して多聞天・吉祥天女・禅尼師童子に祈願し、「堅貪」という三尺五寸の剣を授かった。 田村丸はこれを主君に申し上げ、三月十七日に都を出た。
観音のお告げに従って山道寄りに奥州に向う途中、信濃国伊那郡において、梶葉の水干に萌黄縅の鎧を来た武士と出会った。 田村丸が「私は悪事の高丸を追罰する使者です」と云うと、武士は「高丸は弓勢が優れ、神通力は国内第一で、四天王が戦っても倒すのは難しいでしょう」と云った。 そこに、藍摺の水干に黒糸縅の鎧を来た武士がやって来た。 田村丸が奥州に行く事を知ると、「私もお供をしましょう」と云った。
数日が経って、一行は高丸の住処に到着した。 高丸はかねてからこの事を知っていたので、城郭を構えて用心を怠らなかった。 城郭は堅固で、とても攻め落とせそうになかった。 副将軍の波多丸と憑丸は高丸の兵と戦い、二人で三百騎ばかり討ち取ったが、波多丸は生け捕りにされた。 高丸は波多丸を縛り、前の木に吊るした。 田村丸は二本の矢を放ち、小手を縛った縄と鉤の緒を切って、波多丸を救出した。
信濃で出会った二人の武士が駆け付け、波多丸・憑丸と合わせて五人で戦った。 将軍は海上に船を浮かべ、鞠遊びや流鏑馬をした。 それを見た高丸の娘が「父上、あれをご覧なさい」と云ったので、高丸は石の扉を少し開けた。 その時、梶葉の水干の武士が高丸の左目を射た。 将軍が堅貪の剣を抜くと、剣は高丸に切り掛かり、その首を切り落とした。 将軍たちは城内に乱入し、高丸の八人の子供を討ち取った。
将軍が信濃国伊那郡大宿に着いた時、梶葉の水干の武士は「我はこの国の鎮守の諏方大明神で、千手観音・普賢菩薩の垂迹である。清水観音の計により将軍に随行した。我は狩庭の遊びを好むので、狩の祭を行って欲しい」と云って姿を消した。 将軍が「どうして千手観音・普賢菩薩は殺生を好むのでしょう」と問うと、明神は「我は殺生を職とするものに利益を施し、神前の贄とする事で畜生を救済する志を持っている」と答えた。
将軍は諏方の地を明神に寄進し、深山の狩を始めた。 その縁日は悪事の高丸を亡ぼした七月二十七日である。 此の祭の時は必ず大雨大風となるのは、死狂の日だからである。 十悪の情が滅び、国が騒動するのである。 また、畜類の成仏する日なので、諸天が感動するのだと云う。
その後、藍摺の水干の武士も「我は王城守護の住吉大明神である」と云って姿を消した。
諏方大明神は高丸の十六歳の娘を生け捕りにして御前に置いていたが、その娘の腹に一人の王子が出来た。 明神はその子を上宮の神主に定め、我が体として「神」姓を与え、子孫に伝えさせた。
田村丸は上洛して高丸の首を宇治の宝蔵に納めた。 そして、清水に大きな御堂を造営した。 この御堂は勅願所となり、勝敵寺と呼ばれた。
垂迹 | 本地 | |
---|---|---|
諏方大明神 | 上宮 | 普賢菩薩 |
下宮 | 千手観音 |
秋山祭
八ヶ岳西南麓一帯(長野県諏訪郡原村及び富士見町)の原野は「神野」と呼ばれ、諏訪明神の御狩場と伝えられる。 天正の頃に描かれた上社古図中の御射山の図[参照]によると、この場所には虚空蔵(中十三所の山御庵、現・国常立命社)と三輪社が並んで鎮座していた。 現在は上社本宮の境外摂社である国常立命社と御射山社(祭神は建御名方命・大己貴命・高志沼河姫命)が覆屋内に並んで祀られている。諏訪大社では年四度の御狩神事が行われた。 御射山祭(秋山祭)はその一つで、旧暦七月二十六~三十日(現在は新暦八月二十六~二十八日)に執り行われた。
諏訪円忠『諏方大明神画詞』(諏訪祭巻第五~第六)[LINK]は御射山祭の様子を以下の様に記す。
- 二十六日は
登御 。 大祝は神殿を出て、前宮・溝上社[長野県茅野市宮川]に参詣。その後に進発の儀式が有る。 神官の装束や騎馬の行列は五月会と同様であるが、御旗二流(左梶葉・右白)の外に十三所神名帳の銅札を付けた鉾を神長が捧げる。 途中、酒室神社[茅野市坂室]において神事・饗膳が有る。
その後、長峰に登って山野で狩りをしながら進み、日暮れに物見ヶ岡[長野県諏訪郡原村柏木]に到着。 大鳥居を過ぎる時は一騎づつ声を上げて通る。 - 二十七日は、早朝に一の御手倉(山宮奉幣)。
大祝以下の神官が榊を捧げて山宮(山御庵)に参詣。
下向の後、四御庵の前で大祝が御手払(柏手を打つ祓)を行う。
一同もそれに随い、その音は山谷に響く。
恒例の饗膳の後は揚馬(人馬が盛装して練り行く)を行う。 服飾鞍馬の美麗さは五月会に勝る。
その後、御狩に出発する。 大祝・左頭・右頭は揚装束、その他の者は射装束に改め、射馬に乗り替える。 大祝が到着すると、狩奉行が山口を開き、一同が競い争って狩場に出る。 数百騎が轡を並べて山中で御狩を行うが、矢に当たる鹿は二三頭である。
御庵に帰った後は、小笠懸・千度詣・宮通と各人の勤めを行う。 - 二十八日の神事は昨日と同様。 御狩から帰った後、左頭が饗膳を設ける。 祭場は芝居(芝生の上に設けた席)を列座した広博なものである。 事々敬白の奉幣が有り、御神楽を奉納した後、頭人は退散する。
- 二十九日の神事は昨日と同様。
御狩から帰った後の儀式は右頭が行う。
盃酌の後に矢抜の儀が有り、鹿を射止めた狩人を召して、大祝から尖矢を賜わる。
また、相撲二十番が有る。
最後に人々は着ていた水干を脱ぎ、来集の輩に分かち与える。 その数は五月会に倍増する。 - 三十日は
下御 。 早朝に四御庵で恒例の神事・饗膳。 左頭・右頭の代官に御符(文書)を下し、翌年の頭役を差定する。 その後、一同は山に出て、槙木に上矢を射て手向けとする。 また、草鹿(草で作った鹿形の的)を射て、各自の里に帰る。
扨も此御狩の因縁をたづぬれば、大明神昔天竺波提国の王たりし時、七月廿七日より同卅日に至るまで、鹿野苑に出で狩をせさせ給ひける時、美教と云乱臣忽ちに軍を率して、王を害し奉らんとす。 其の時王金の鈴を振りて、蒼天に泣て八度叫びてのたまはく、「我今逆臣の為に害せられんとす、狩る所の畜類全く自欲の為にあらず、仏道を成ぜしめむが為也、是若天意にかなはば、梵天我をすくひ給へ」と。 其時梵天眼を以て是を見て、四大天王に勅して、金剛杖を執て、郡党を誅せしめ給ひにけり。 今の三斎山(御射山)、其儀をうつさるゝ由申伝たり。
『陬波御記文』[LINK]は三斎山(御射山)について
三業の作罪を断て尽くすが故に、此の蜜会を三斎山と名く。 此の山は霊鷲山の艮より生ぜり。当に慈尊の法華を説きたまへるの地なり。 故に普賢身変山と名く。 此の地を踏むものは、悪趣に堕とさじ。 此地草木樹林に及ぶまで、皆是我が身分の所現なり。 草木を剪り寸地を穿たんものは、我神人に非ず。と説く。
(金井典美『諏訪信仰史』、Ⅱ 史料篇、金沢文庫古書「陬波御記文」と「陬波私注」、名著出版、1982)
『神道集』では秋山祭(御射山祭)と五月会の由来を各別に説くが、『諏訪信重解状』の「当社五月会御射山濫觴事」[LINK]では坂上田村麿が高丸を追討した際の諏方明神の託宣により四度の御狩神事を始めたと伝える。
然るの間将軍御託宣の旨に任せ、御狩を始め置かる。 所謂五月会、御作田、御射山、秋庵、是を以て四度の御狩と名づく。 爾より以来遥かに四百余歳の星律を送り、久しく三十余代皇基を経たり。 就中五月会・御射山は国中第一の大営の神事也。 結構唯之に在り。 倩其濫觴を尋ねれば、忝くも桓武天皇の官下を奉じ定め置かるるの神事也。 皇敵追討の賞也。
稲瀬五郎田村丸
史実の坂上田村麻呂に相当する。坂上田村麻呂は天平宝字二年[758]生まれ。 延暦十年[781]七月に征夷大使・大伴弟麻呂の副使(副将軍)に任ぜられて蝦夷征討に従軍。 同十六年[787]十一月には征夷大将軍に任ぜられ、同二十一年[802]四月に大墓公阿弖利為と盤具公母礼が率いる五百余名の蝦夷を降した。
その後は正三位・大納言まで昇進し、弘仁二年[811]五月二十三日に死去。 没後に従二位を追贈された。
『公卿補任』の坂上田村麿の条[LINK]には
毘沙門の化身、来て我国を護ると云ふ。とある。
『田村の草子』[LINK]では藤原俊仁(史実の藤原利仁に相当)と陸奥の国の賤女の間に生まれた息子とされる。 十歳の時に上洛して俊仁と対面し、
俊仁、是を御覧じて、扨は我が子なりと嬉しく思し召し、様々の御もてなしにて、先御名を改めて田村丸とぞ申ける。 器量ことがら人に優れ、御力は如何程有るとも限りなし。 やがて御元服ありて、稲瀬五郎坂上俊宗と申ける。とある(引用文は一部を漢字に改めた)。
勝田宰相
史実の坂上苅田麻呂(坂上田村麻呂の実父)に相当する。『続日本紀』巻三十八の延暦四年[785]六月癸酉[10日]条[LINK]には
右衛士督従三位兼下総守坂上大忌寸苅田麻呂等、表を上て言す。 臣等は本是れ後漢霊帝の曽孫阿智王の後也。 漢の祚、魏に遷り、阿智王神牛の教により、出でゝ帯方に行き忽ち宝帯の瑞を得、其の像宮城に似たり。 爰に国邑を建て其の人庶を育つ。 後父兄を召し告げて曰く、「東国聖主あり、何ぞ帰従せざらん乎。若し久しく此処に居らば、恐らく覆滅を取らむ」。 即ち女第迂興徳、及び七姓の氏を携へて、帰化来朝す。 是れ則ち、誉田天皇(応神天皇)天下治賜ふの御世也。とある。 『神道集』で田村丸を震旦国の人とするのは、この記述を元に創作したものか。
悪事の高丸
虎関師錬・恵空『元亨釈書和解』巻第九の延鎮の条[LINK]には釈延鎮は報恩大師の徒弟なり。 清水寺に住居せらる。 されば坂将軍田村麻呂と遇るより親しき友となりて常に対談に及べり。 然る間将軍には奥州の逆賊高丸を征伐致すべき由の綸言にてありしかば、その時将軍延鎮に語りて曰く、「我皇詔を承り東夷の賊徒を征せんことは、偏に法力の加護を蒙らずんばあるべからず。[中略]偏に貴僧の祈誓を頼み申すなり」と告げられば、延鎮すなはち「心得申したり」と諾はれける。
高丸はすでに駿州まで攻上りて清見関に次 けるところに、将軍その時軍兵を出しぬと聞て立帰り、奥州を堅めたりしが、官軍の輩、夷賊としきりに合戦しけるところに、将軍の身方には矢種もつきはてゝ、今は射当べき鏃に事ぞを欠きける折節、不思議なるかな小さき比丘および小さく男子のちらちらと見へて、軍場に落散たるその矢を拾取り、たゞちに将軍のもとに持来りてわたしけるなり。 其の時、将軍奇怪の思をなして居られたりしが、すでに軍も勝利を得ることありしかは、将軍まのあたり高丸を射て、神楽岡に斃し、其の首をやすやすと取て、帝城にさゝげたり。
将軍は急速に延鎮のもとに詣て曰く、「たのもしきかな、貴僧の護念加祐に依てすでに逆心の寇をこゝろよく誅戮せし事、抑本望を遂げ候ひき。さる程に師の修せられし法要はそれ何たる行力にてありしや、承りたくこそ侍れ」と申されば、延鎮の曰く、「さればにや、我法の中に於て勝軍地蔵・勝敵毘舎門の行のありけるが、我すなはち此の二像を造てうやうやしく供養をまふけ、その法をよく修せる事にてありける」と申されば、将軍はこれをきいて、すなはちかの軍場の二人の矢を拾ひし事を物語せられしゆへ、さあらば其の像を拝すべしとて、やがて殿中に入てかの像を見るに、矢の瘢刀の痕あまた其の体に被りおはします。とある。加之 泥土もなを多く脚に塗て見へたり。
『諏方大明神画詞』(縁起中)[LINK]には
桓武天皇御宇、東夷安倍高丸暴悪の時、将軍坂上田村丸、延暦廿年〈辛巳〉[801]二月、勅を奉たまはりて、追討の為に山道をへて奧州に下向。 是れ則ち征夷大将軍の始也。 心中に祈願あり、「伝聞く諏訪大明神は東関第一の軍神なり、梟夷追討の為に鳳詔を被りて素境に向ふ。神力にあらずば賊衆を誅しがたし。神鑒をたれて所願を成就し給へ」と祈願誓して、信州に至り給ひし時、伊那郡と諏方郡との堺に、大田切と云所にて、先一騎の兵客参会す。 穀葉の藍摺の水干をきて、鷹羽の箟矢を負、葦毛なる馬にのりたり。 将軍「誰人ぞ」と問給。 「当国の住人なり、誠に官仕の志ありて参向す」と兵客答ふ。 只人にあらずと将軍思給ひて、即ち先陣としてはるばると奥州へ趣給ふ。 其間山川所々にて眷属多く化現す。 官軍みな奇異の思をなしていさみけり。とある。
将軍既に奥州の堺に入て敵陣に向う。 竊に彼の高丸城〈宅谷岩屋〉内を伺見給へば、後は碧巌により、宅谷前は蒼海に向たり。 左右は鉄石きびしく閉て人馬更に通がたし。 高丸彼城に閉籠て軍兵又出門せず。 官軍進退極り秘計術を失ふ。 仍ち信州の兵客に事の由を談給ふ。 兵客此間、聊敵陣密通の子細ありて、陣内を出て城門に向ふ。 官軍一面に是を見れば、馬に鞭打て海上望む時に分身して忽に五騎射手出現す。 其行粧何れも一樣なれば主従更に見えわかず。 又黄衣の輩廿余人化現して、各的を捧げて海上に走せちる。 両方の兵不思議の思をなして騒動立ちて是を見え見れば、流鏑馬の射礼也。 其内のこいたれ手挟三々九八的等、五ヶ所にして是を射る。 今の世まで三つ的も秘事作り物なんどゝいへる事、是を始とす。 人馬波をふみて沈まず、海上平にはしる。 諏方の二字を趨波と書けるは此時よりのことなり。 高丸怖畏の思をなして見るにもいでざりけるを、城中の男女一同にすゝめければ、先鉄城岩の門戸に望て、一二三の的はたはたとなりて、後矢數つきぬと心得て、頭をさし出して見けるを、手挟のかぶらは本より御手に残たりければ、つど射入れ給けるに、あやまたず雁股の手さき、二の眼にたちて脳をとをり(通り)たりければ、さかさまに海へおちぬ。 其時黄衣の化人等集りて、頸をとりて兵客にたてまつる。 鉾のさきにつらぬきてさしあげ給ひたれば、官軍一同に勝時を作る。 其声天にもひゞくらんと覚たり。 高丸が伴類是を見て怖畏のあまり声をあげ、手をつかれて帰降す。 又須臾の間に城廓もくづれうす。 神変不思議なれば、将軍涙をながして神威を仰ぎ給ふ。 士卒掌を合て渇仰す。 分身五騎は十三所の王子、黄衣の雑人等は同眷属なり。 今に至るまで大祝の的立雑人等の所役此例なるとかや。
安倍高丸が賊首を鉾につらぬきて、神兵又田村将軍の先陣をうちて帰落す。 信濃国佐久郡と諏訪郡との堺に至るを、オホトマリと号す。 彼所に於て神兵又神変を施し給ふ。 例の葦毛馬地の上一丈ばかりあがり、裝束冠帯に改りて、「我は是れ諏訪明神なり、王城を守らんが為に将軍に随遂す。今既に賊首を奉る、今更に上洛に及ばず、此砌に留るべし。又遊興の中に畋猟殊に甘心する所なり」と。 将軍申て云、「神兵は是れ得通の人なり。何ぞ殺生の罪障を好み給や」。 明神答へ給はく、「倫蕩邪忌群萌為利殺生之猪鹿於真如之境棲山海之辺也(偸かに邪忌の群萌を蕩い、殺生の猪鹿を真如の境に利せんが為に、山海の辺りに棲むなり)」とて、一巻記文〈今は記文陀羅尼と号く〉出し給てかきけす様にうせ給ふ。
『諏訪信重解状』の「当社五月会御射山濫觴事」[LINK]には
右桓武天皇治世の昔、東夷高丸反逆の刻、聊か朝儀を行はる。 爰に坂上田村麿に詔して追討の官符を賜る。 将軍忽ち九重の花城を出で、便ち万里の抑塞に赴く。 心中祈念して曰く、「信州諏方明神は日本第一の軍人、辺域無二の霊社なり、願はくは我が祈願を納受し給へ」と。 爰に信州のとある。后 大答切(大田切)〈伊那郡と外諏方郡の堺〉に於て、一騎の武者、穀の葉の藍摺の水干を着し、鷹の羽の胡籙を帯び、将軍に対ひて下馬す。 将軍問うて云く、「汝は何人ぞや」と。 武者へて云く、「殊に官仕の志有り、許容の眸を廻らさるれば是尤も望む所なり」と云々。 将軍即ち随喜せしめて、彼の武者を相具し奥州に下向す。 既に堺に莅み城に向ふの時、高丸石城に籠居るの間、寄り討ち難きに依り、彼の武者秘計を廻らし、海上に出でて、流鏑馬を射、旁方便を以て高丸を誅せしめ畢んぬ。 将軍即ち追討の本意を遂げ、上洛せしむるの処、佐久郡と諏訪郡の境〈将軍泊るにより大泊と号す〉に宿す。 爰に彼の武者曰く、「我は是諏方明神なり。且は帝王の聖運を擁護し、且は将軍の祈念に隨喜せしむるに依り、日来汝に逐せしむる所なり」と。 将軍始めて敬神の誠を抽で、専ら感傷の涙を抑へ難し。 明神詫げて云く、「典遊の中狩猟を以て神事の詮と為さむと欲す」と云々。 将軍曰く、「本地は普賢薩埵也、何ぞ殺生の業を用ふるや」と。 託げて曰く、「我明神は殺生の猪鹿を彼の真鏡となし。即ち此の所に住す、願はくは今生交会の結縁を以て、飜して当来引接の知識と為さむ」と云々。 将軍弥渇仰の誠を致す。
『義経記』巻二の「鬼一法眼の事」[LINK]には
ここに代々の御門の御宝、天下に秘蔵せられたる十六巻の書あり。 異朝にも我が朝にも伝へし人、一人としておろかなる事なし。 異朝には、太公望これを読みて八尺の壁に上り天に上る徳を得たり。 張良は一巻の書と名付けてこれを書みて三尺の竹に上りて虚空をかける。 樊噲はこれを伝へて、甲冑をよろひ弓箭を取つて、敵にむかひ怒れば頭の冑の鉢をとほす。 本朝の武士には、坂上田村麿これを読み伝へて、あくしのたかまろ(悪事の高丸)を取り、藤原の利仁これを読みて、あかがしら(赤頭)の四郎将軍を取り、それより後は絶えて久しかりけるを、下野国の住人相馬の小次郎将門是を読み伝へて、我身のせいたん武者なるに依つて朝敵となる。とある。
『田村の草子』[LINK]によると、鈴鹿御前は田村丸(坂上俊宗)に
「此の暮れには、近江の国に、悪事の高丸出て、世の妨げを為すべし。さあらば田村に、又順えよとの宣旨下るべし。内々御心にかけ、御用意有れ」と告げた(引用文は一部を漢字に改めた、以下同)。
かくて、弥生の末より、神無月の初め頃まで、ご遊覧有りける所に、鈴鹿仰せし如く、近江の国に、高丸といふ鬼出で来て、行き来の者を失ふ事数を知らず、急ぎ討つて下さるべしとて、在々所々より申来る。とある。
此由奏聞申ければ、(帝は)「たまたま将軍の在京なり。此年月の辛苦をも慰めけんと思ひつるに、程も無くて、かゝる事こそ恨めしけれ。さりながら誰に仰付られん者なし」と仰ければ、俊宗は時の面目是に過ぎじと喜び、御請を申、罷り立て、「鈴鹿へ此由申さばや」と思召しけるが、「いやいや通力にて、疾く知り給ふべき物を、時移りては悪しかりなん」と思召し、十六万騎の兵を引具して、高丸が城に押し寄せ、内の有様、見給ふに、石の築地を高く突き回し、黒鉄の門を差し固めて、攻め入べき様も無し。
俊宗、門前に駒駆け据ゑ、「いかに鬼ども確かに聞け。只今汝が討手に向ひたる者を、如何なる者とか思ふらん。異国までも隠れなき、藤原の俊仁の嫡子に、田村将軍藤原の俊宗なり。手並みの程はさだめて聞き及び給ふらんに、何とて罷り出て降参し、命を継ぎ、己が本国へ帰らぬぞ」との給へば、城には鳴りを静めて、音もせず。 俊宗腹を立て、鈴鹿御前の伝へ給ふ火界の印を結びて、城の内へ投げ給へば、火炎と成て焼け上がる。
高丸は雲に乗りて、信濃の国ふせやが岳へ落ち行きける。 田村続ひて攻められけれは、駿河の国富士の岳へ落ち行きける。 是をもやがて攻め落とされ、外の浜に落ち行けるが、是をも攻めつけられて、唐土・日本の境に、岩を刳り貫き、城として、引き籠りけば、陸地に続く程は攻めけるが、海上の事なれば如何せん。 先ひきとり兵舟を調へて寄せんとて、引き給ふが、十六万騎の兵、此処彼処にて討たれ、やうやう二万騎計になり。
都へ上り給ふとて、鈴鹿の坂の下、まかりの宿に着き給へば、鈴鹿御前、出向ひ、「何とて只今陣引き給ふぞ」と仰せける。 俊宗聞し召し、「其御事にて候。罷り向ふ時も御暇乞ひに参らばやと存じ候へ共、至極移りなんと思ひ、罷り通り候也。高丸をば随分攻め候へども、今は海中に岩を刳り貫きて、引き籠り候間、舟を調へん為に、先都へ上り候。其上、人数多討たれ候。此由申し上げ、やがて又打ち寄せ候べし」と仰せければ、鈴鹿聞し召し、「舟も兵も如何程集め給ふとも、凡夫の身に叶ふべからず。兵共をば、急ぎ都へ上せ給ふべし。妾参り、謀り出し、易々と討たせ申さん」とて、神通の車に乗り、只二人、刹那が間に外の浜に着き給ふ。
高丸は折節、昼寝して居たりつるが、かつはと起き、「例の田村が又来るぞ。用心せよ」と云うまゝに、岩戸を立てゝ引き籠る。 其時、鈴鹿は左の手を指し上げ、天を招き給へば、十二の星、廿五の菩薩、天下り給ひて、微妙の音楽を揃へ、彼の岩屋の上にて舞遊び給へば、高丸が寵愛の娘是を聞き、「あら面白の音楽や。天竺に在りし時は度々聞きけれ共、か程の楽は未だ聞かず。あはれ見ばや」とこそ甘へけれ。 高丸申し様、「誠の楽と思ふべからず。田村と鈴鹿、我を謀り出ださんとて、する事ぞかし。構へえて見る事、無益なり」と言えば、娘重て申様、「露わにも出て見てはこそ悪しからめ。戸を細目に開けて見候に、何の子細の有べき」と言ひければ、力なく岩屋の戸を三寸計開けて覗きければ、廿五の菩薩・天童子集まりて、殊に妙なる音楽を揃へ舞ひ給へば、あまりの面白さに開くるとは思はね共、広々と開きければ、鈴鹿、田村に「あれ遊ばせ」との給ふ。 俊宗、黒鉄の弓に神通の鏑矢、打ち番ひ、暫し固めて放ち給へば、雷の如くに鳴り渡り、高丸が眉間を射砕き、腰骨欠けて、後ろなる石に貫かれける。 其時、剣を投げ給へば、高丸親子七人が首を打落とし、八人づつの人足に持たせて、都へ上り給ひければ、勲功勧賞思ひのまゝに頂戴して、又鈴鹿へ下り給ふ。
『諏方大明神画詞』(縁起第三)の安藤氏の乱の条[LINK]には
武家其濫吹を鎮護せんために、安藤太と云ふ者を蝦夷管領とす。 此は上古に安倍氏悪事の高丸と云ける勇士の後胤なり。 その子孫に五郎三郎季久、又太郎季長と云は、従父兄弟也。とあり、悪事の高丸は津軽安藤氏の祖とされている。
清水寺
音羽山清水寺[京都府京都市東山区清水]本尊は十一面千手観音(清水観音)。
北法相宗総本山。 西国三十三所観音霊場の第十六番札所。
『都名所図会』巻三(左青龍)の音羽山清水寺の条[LINK]には
音羽山清水寺の本尊十一面千手千眼観世音菩薩、脇士は毘沙門天、地蔵菩薩なり。 抑当寺の来由を尋ぬるに、大和国小島寺の沙門延鎮、宝亀九年[778]の夏、霊夢を感ずる事ありて、木津川の辺に行きて見れば、一つの流れに金色の光あり。 源を尋て直に登るに一流の滝あり。 傍をみれば、茅ふきたる庵に白衣を着せる老翁あり。 延鎮此庵に入りて、「御身はいかなる人ぞ」。 翁の曰く、「我名は行叡、此地に住む事は既に二百歳に及べり。常に千手真言を誦ふ。我貴僧を待つこと久し。東に行かんと思ふ志あれば、御身しばらくこゝに住給へ、我此霊木を以て大悲の像を作り、精舎を建てん願あり、若遅くかへりなば、御身我にかはりて此ねがひを成就し給へ」といへり。 延鎮もとより夢の告あれば、辞する事なく翁の心にまかせける。 大に悦びて、翁は東に向うて庵を出たり。 夫より延鎮此所に住めり
延暦十七年[798]に将軍坂上田村丸、産婦のために鹿を猟して、音羽山にわけ入り、かの草庵に至れり。 延鎮田村丸に逢うて翁のしめせし事を告ぐる。 田村丸渇仰の思をなし、屡延鎮の相好を見るに、神仙の如し。 是即大士の化現ならんと信心いやまし、家に帰りて妻女に語れり。 妻の曰、「わが病を治せんとて多くの殺生をなす、此罪いたつて深かるべし。其教にまかせて、大悲の尊像を安置し奉らば、いかばかりの利益なるべし」と。 夫婦心をあはせて、観音寺を建てゝ延鎮に寄附せん事を約す。 又行叡より授かりし霊木を以て、観音の像を作らん事を願ふ。 延鎮其夜夢中に、十一人の僧来つて大悲の像を作る。 長八尺、十一面四十臂の千手観音なり。 造り終つて十一人の工僧行方を知らず。 夢覚て見るに、赫奕たる尊容現じ給ひて目前にあり。 当寺本尊是なり。
田村丸延暦二十年[801]に詔をうけて東夷征伐の時、此本尊に祈りしかば、観世音、地蔵、毘沙門天、彼戦場に現じ給ひて、ことごとく退治し給ふ。 同二十四年[805]に、田村丸太政官符の宣旨を蒙りて堂塔を建立し、勅願所となし、又大同二年[807]紫宸殿を賜ひて伽藍となし、観音寺を改めて清水寺と号せり。とある。
鞍馬
鞍馬寺[京都府京都市左京区鞍馬本町]本尊は尊天(毘沙門天・千手観音・護法魔王尊)。
鞍馬弘教総本山。
『都名所図会』巻六(後玄武)の松尾山鞍馬寺の条[LINK]には
抑此寺は延暦十六年[797]に、大中太夫藤伊勢人の草創なり。 此人仏に帰する事篤く、たゞ勝地を求めて精舎をいとなみ、観世音の像を安置せんと常に願へり。 ある夜の夢に、洛北の山嶺に至る。忽然として白髪の老翁現れ、語つて日く、「此山は天下にすぐれ、形は三鈷に似て、つねに彩雲たなびく。汝此所に精舎を建立せば、利益無量ならん」とぞ。 太夫翁の名を問ひしに、「王城の鎮護貴船神なり」。 夢覚めて何れのところともしらでありければ、久しく飼へる白馬に鞍を粧ひ、「むかし摩騰法蘭は、舎利像経を白馬に乗せ、震旦に来れり。されば白馬は霊畜なり。汝定めて夢の地をしるらん」とて、童子をつけて馬を放ちしに其の馬都の北なる山に駈り、茅の中にぞ止りぬ。 童帰りて此よしを告ぐる。 太夫往きてその山を見るに、夢にたがはず。 しかも叢林に毘沙門天の像を得たり。 則一宇をいとなみて、この像を安置せり。 されども、観音の像を置かずして、願いまだとげざるよしと恩へる。 又其の夜の夢に、天童来りて日く、「汝多門天(多聞天)の像を得て観世音を願ふ。とある。応知 、観音と多門天の名は異なれども同一体なり」。 覚めて後、願今は充てりと歓喜せり。 又一宇をいとなみて、千手観音を安置す。 今の西の観音院これなり。
住吉大明神
住吉大社[大阪府大阪市住吉区住吉2丁目]第一本宮の祭神は底筒男命。
第二本宮の祭神は中筒男命。
第三本宮の祭神は表筒男命。
第四本宮の祭神は息長足姫命(神功皇后)。
式内社(摂津国住吉郡 住吉坐神社四座〈並名神大 月次相嘗新嘗〉)。 摂津国一宮。 二十二社(中七社)。 旧・官幣大社。
『日本書紀』巻第一(神代上)の第五段一書(六)[LINK]によると、伊弉諾尊は黄泉から帰った後、筑紫の日向の小戸の橘の檍原に至って禊除をした。
乃ち興言して曰く、「上瀬は是れ太だ疾し。下瀬は是れ太だ弱し」とのたまひて、便ち中瀬に濯ぎたまふ。 因りて生める神を、号けて八十枉津日神と曰す。 次に其の枉れるを矯さむとして生める神を、号けて神直日神と曰す。 次に大直日神。 又海の底に沈き濯ぐ。 因りて生める神を、号して底津少童命と曰す。 次に底筒男命。 又潮の中に潜き濯ぐ。 因りて生める神を、号して中津少童命と曰す。 次に中筒男命。 又潮の上に浮きぐ。 因りて生める神を号して、表津少童命と曰す。 次に表筒男命。 凡て九神有す。 其の底筒男命・中筒男命・表筒男命は、是れ即ち住吉大神なり。 底津少童命・中津少童命・表津少童命は、是れ阿曇連が所祭る神なり。とある。
第五段一書(十)[LINK]には
橘小門に還向りたまひて、払ひ濯ぎたまふ。 時に、水に入りて、磐土命を吹き生す。 水を出でて、大直日神を吹き生す。 又入りて、底土命を吹き生す。 出でて、大綾津日神を吹き生す。 又入りて、赤土命を吹き生す。 出でて、大地海原の諸の神を吹き生す。と異名を記す。
同書・巻第八の仲哀天皇八年[199]九月条[LINK]には
秋九月の乙亥の朔己卯[5日]に、群臣に詔して、熊襲を討つことを議らしめたまふ。 時に神有して、皇后に託りて誨へまつりて曰く、「天皇、何ぞ熊襲の服はざることを憂へたまふ。是、膂宍の空国ぞ。豈、兵を挙げて伐つに足らむや。玆の国に愈りて宝有る国。譬へば処女の睩の如くにして、津に向へる国あり。眼炎く金・銀・彩色、多に其の国に在り。是を栲衾新羅国と謂ふ。若し能く吾を祭りたまはば、曾て刃に血ぬらずして、其の国必ず自づから服ひなむ。復、熊襲も為服ひなむ。其の祭りたまはむには、天皇の御船、及び穴門直踐立の献れる水田、名けて大田といふ、是等の物を以て幣ひたまへ」とのたまふ。 天皇、神の言を聞しめして、疑の情有します。
時に、神、亦皇后に託りて曰く、「天津水影の如く、押し伏せて我が見る国、何ぞ国無しと謂ひて、我朝廷を誹謗りたまふ。其れ汝王、如此言ひて、遂に信けたまはずば、汝、其の国を得たまはじ。唯し、今、皇后始めて巻第九[LINK]には有胎 ませり。其の子獲たまふこと有らむ」とのたまふ。 然るに、天皇、猶し信けたまはずして、強に熊襲を撃ちたまふ。 得勝ちたまはずして還る。
九年[200]の春二月の癸卯朔の己未[5日]に、天皇、忽ちに痛身 みたまふこと有りて、明日、崩りましぬ。 時に年五十二。 即ち知りぬ、神の言を用ゐたまはずして、早く崩りましぬることを。
一に云はく、足仲彦天皇(仲哀天皇)、筑紫の橿日宮に居します。 是に神有して、沙麼県主の祖内避高国避高松屋種に託りて、以て天皇に誨へて曰く、「御孫尊や、若し宝の国を得まく欲さば、現に授けまつらむ」とのたまふ。 便ち復日はく、「琴将ち来て皇后に進れ」とのたまふ。 則ち神の言に隨ひて、皇后、琴撫きたまふ。 是に、神、皇后に託りて以て誨へて曰く、「其れ今御孫尊の所御へる船、及び穴門直践立が所貢れる水田、名は大田を幣にして、能く我を祭はば、美女の睩の如くて、金・銀の多なる、眼炎く国を以て御孫尊に授けむ」とのたまふ。 時に天皇、神に対へて曰く、「其れ神と雖も何ぞと異伝を記す。謾語 きたまはむ。何処にか将に国有らむ。且朕が乗る船を、既に神に奉りて、朕曷 の船にか乗らむ。然るを未だ誰れの神といふことを知らず。願はくは其の名を知まらむ」とのたまふ。
時に神、其の名を称りて日はく、「表筒雄・中筒雄・底筒雄」と。 如是三の神の名を称りて、且重ねて日はく、「吾が名は、向匱男聞襲大歴五御魂速狭騰尊なり」とのたまふ。 時に天皇、皇后に謂りて曰く、「聞き悪き事言ひ坐す婦人か、何ぞ速狭騰と言ふ」とのたまふ。 是に、神、天皇に謂りて曰く、「汝王、是の如くに信けたまはずば、必ず其の国を得じ。唯し今皇后の懐妊 みませる子、蓋し獲たまふこと有らむ」とのたまふ。 是の夜に、天皇、忽に病発りて崩りしぬ。
巻第九の神功皇后摂政前年[200]三月条[LINK]には
三月の壬申の朔[1日]に、皇后、吉日を選びて、斎宮に入りて、親ら神主と為りたまふ。 則ち武内宿禰に命して琴撫かしむ。 中臣烏賊使主を召して、審神者にす。 因りて千繪高繪を以て、琴頭尾に置きて、請して曰く、「先の日に天皇に教へたまひしは誰れの神ぞ。願はくは其の名をば知らむ」とまうす。 七日七夜に逮りて、乃ち答へて曰く、「神風の伊勢国の百伝ふ度逢県の拆鈴五十鈴宮(皇大神宮)に所居す神、名は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」と。 亦問ひまうさく、「是の神を除きて復神有すや」と。 答へて日はく、「幡荻穂に出し吾や、尾田吾田節の淡郡(伊雑宮[三重県志摩市磯部町上之郷]か)に所居る神有り」と。 問ひまうさく、「亦有すや」と。 答へて日はく、「天事代虚事代玉籖入彦厳之事代神有り」と。 問ひまうさく、「亦有すや」と。 答へて日はく、「有ること無きこと知らず」と。 是に於て審神者曰く、「今答へたまはずして更後に言ふこと有しますや」と。 則ち対へて曰く、「日向国の橘小門の水底に所居て、水葉も稚に出で居る神、名は表筒男・中筒男・底筒男神有り」と。 問ひまうさく、「亦有すや」と。 答へて日はく、「有ることとも無きこととも知らず」と。 遂に且神有すとも言はず。 時に神の語を得て、教の随に祭る。同年十二月条[LINK]には
十二月の己戌の朔辛亥[14日]に、誉田天皇(応神天皇)を筑紫に生れたまふ。
是に軍に従ひし神表筒男・中筒男・底筒男、三の神、皇后に誨へて曰く、「我が荒魂を、穴門の山田邑に祭はしめよ」とのたまふ。 時に穴門直の祖践立・津守連の祖田裳見宿禰、皇后に啓して曰さく、「神の居しまさ欲しくしたまふ地をば、必ず定め奉るべし」とまうす。 則ち踐立を以て、荒魂を祭ひたてまつる神主とす。 仍りて祠(住吉神社[山口県下関市一の宮住吉1丁目])を穴門の山田邑に立つ。神功皇后摂政元年[201]二月条[LINK]には
爰に新羅を伐ちたまふ明年春二月に、皇后、群卿及び百寮を領ゐて、穴門豊浦宮に移りたまふ。 即ち天皇の喪を収めて、海路よりして京に向す。
時に皇后、忍熊王とあり、広田神社[兵庫県西宮市大社町]・長田神社[兵庫県神戸市長田区長田町3丁目]・生田神社[神戸市中央区下山手通1丁目]・住吉大社の創祀を伝える。師 を起して待てりと聞しめして、武内宿禰に命せて、皇子を懐きて、横に南海より出でて、紀伊水門に泊まらしむ。 皇后の船、直に難波を指す。 時に、皇后の船む海中を廻りて、進むこと能はず。 更に務古(武庫)水門に還りましてトへたまふ。 是に天照大神誨へまつりて曰く、「我が荒魂をば、皇后(または皇居)に近づくべからず。当に御心を広田国に居らしむべし」とのたまふ。 即ち山背根子が女葉山媛を以て祭はしむ。 亦稚日女尊誨へまつりて曰く、「吾は活田長峡国に居らむと欲す」とのたまふ。 因りて海上五十狭茅を以て祭はしむ。 亦事代主尊誨へまつりて曰く、「吾をば御心の長田国に祀れ」とのたまふ。 則ち葉山媛の弟長姫を以て祭はしむ。 亦表筒男・中筒男・底筒男、三の神、誨へまつりて曰く、「吾が和魂をば大津の渟中倉の長峡に居さしむべし。便ち因りて往来ふ船を看さむ」とのたまふ。 是に、神の教の随に鎮め坐ゑまつる。則ち平に海を度ること得たまふ。
『摂津国風土記』逸文[LINK]〔卜部兼方『釈日本紀』巻第六(述義二)[LINK]所引〕には
住吉と称へる所以は、昔、息長帯比売の天皇の世、住吉の大神、現れ出でて、天の下を巡り行きて、住むべき国を覓ぎ給ひし時、淳名椋の長岡の前に到り給ひき。〈前とは今の神宮の南の辺、是れ其の地なり〉 すなはち謂り給ひしく、こは実に住むべき国なりと宣り給ひて、遂に讃め称へて、真住吉し住吉の国と云ひて、すなはち神の社を定め給ひき。とある。
『諸社根元記』の住吉の条[LINK]には
延喜神祇式曰摂津国住吉郡 住吉坐神社四座。〈伊弉諾尊所生〉
第一 底筒男神。
第二 中筒男神。
第三 表筒男神。
第四 神功皇后霊神
三社並神功皇后鎮座也。
御本地 第一薬師 第二阿弥陀 第三大日 第四聖観音。とある。
橘成季『古今著聞集』巻第一(神祇)[LINK]には
住吉は四所おはします。 一の御所は高貴徳王大菩薩なり。 御託宣に曰く、「我は是れ兜率天の内なる高貴徳王菩薩なり。国家を鎮護せんが為に、当朝墨江の辺に跡を垂る」。とある。
『山家要略記』(山王部)[LINK]には
本朝千載伝に云ふ、天地開闢して後、三葉の葦海上に開し之在昔、住吉大神天降し、鋒を四面の波間に立て葦の葉の上に垂迹、是れ吾国とある。興起 の縁也。 道照和尚記に云ふ、住吉明神は娑竭羅王の化身也。 釈尊在世説法の日、蛇身を改め神明と現れ、釈迦の遺教を護り恒に虚空に住す。 天地開闢の最往天降り吾国を営興す。 蓋し吾国の地主也。
『玉伝深秘巻』の「七歌鳥風問答記」には
住吉大明神は天忍穂耳尊の御子にて御座す。 安閑天皇の御宇に、摂津国住吉津守の浦に御影向あり。とある。 また、同書の「阿古根浦口伝」には
この神、津守の浦に跡を垂れたまふことは、安閑天皇御宇三年[536]正月十三日にはじめて御影向ありしことなり。 この神はその日より前には四天王に住みたまひける。 その時の御名をば、金剛輪妙多自在天神と申しき。 又は、とある。仙達御足達尊 とも申すと云々。 延光中納言住吉に参籠の時、示現に見奉るところなり。
『八幡愚童訓(甲本)』巻上[LINK]には
(神功皇后は)四王寺山に御行して、榊の枝に大鈴を付け御手に捧て立給事、六日儘に成れ共其験無し。
第七日には虚空に光明充満て光り、則虚空蔵菩薩と成り、菩薩又俗躰と成給ふ。 其御形は翁仙人の如し。 此の俗の申給は、「我は是れ地神第五の彦波瀲尊成り。軍には大将軍を先と為す。我子月神と云は力とある。健 心武し。是を進すべし、隣敵を責給へ」とて、「月神や有」と召せば、月神空中より出づ。 御冠に赤衣を着し、平胡籙を負、鏑矢二に御弓を執具し持せ給て前に坐す。 此彦波瀲尊と申は住吉大明神の御事也。 月神と申は高良大明神(高良大社[福岡県久留米市御井町])の御事也。
王子
諏訪大社上社の初代大祝・有員に相当する。上社の大祝は現身の諏訪大明神とされ、有員の子孫である神氏(諏訪氏)の一族から選ばれた八歳の童男が即位した。 大祝は上社前宮(長野県茅野市宮川)の神殿に住居し、神長官(守矢氏)と共に上社の祭祀を執り行った。
『諏方大明神画詞』(諏訪祭巻第一)[LINK]の正月一日の条には
祝は神明の垂迹の初、御衣を八歳の童男にぬぎきせ給ひて、大祝と称し、「我において躰なし、祝を以て躰とす」と神勅ありけり。 是則御衣祝有員神氏の祖なり。とある。
『諏訪信重解状』の「大祝を以て御体と為す事」[LINK]には
右大明神御垂跡以後、人神と現れたまひ、国家鎮護眼前たるの処、機限に鑒み、御体隠居の刻、御誓願に云はく、「我に別躰無し、祝を以て御躰と為すべし、我を拝せんと欲せば、須らく祝を見るべし云々」。 仍て神字を以て祝の姓に与へ給ふ。とある。
『陬波私注』[LINK]には
大明神、甲寅に御誕生有り、甲寅に御身を隠し給ふ。
続旦大臣と申は大明神の叔父御前、天竺より御同道。 大明神御体を隠させ給し御時、御装束を彼の大臣に抜き着せ奉り給て御衣木法理と号し、「我の躰は法理を以て躰とせよ」と誓給し也。
御衣木法理殿御実名は有員云々。とある(「法理」は「祝」を表す)。
(金井典美『諏訪信仰史』、Ⅱ 史料篇、金沢文庫古書「陬波御記文」と「陬波私注」)
『神家系図』の「諏訪神元祖御衣木祝有員由来事」[LINK]には
用明天皇の御宇[586-587]、大明神信濃国諏方郡影向し給ふの時、有員童子の形体を為して御共せしむる也。 爰に同郡内守屋大臣大明神と諍い奉り、御来臨の間守屋山に至り、彼の大臣大明神と御合戦あり。 時に有員御共して合戦の忠を致し大臣を追い落し、則ち守屋山麓に於て社壇を構へ、諏訪大明神と化現せしめ給ふ。 即ち有員始めて祝となり、祭礼を成し奉る者也。 豈に大明神は普賢、有員は文殊師利菩薩の化身と云ふ。とある。
『神氏系図』[LINK]によると、有員は諏訪大明神の子孫である。
諏訪大明神とは、天照大神の御弟、健速須佐之男命の六世孫、大名持命の第二子、御名方富命神是れ也。 尊神、父大神の大造の功を輔け、国土を経営し、終に天祖の命を奉、之を皇孫命に讓り、永に此国に鎮座す。
子伊豆早雄命の十八世之孫、健国津見命の子、健隈照命、科野国造健甕富命の女を妻(娶)る。 健甕富命の子諸日別命、幼くして父を亡す。 是に茨木国造(の祖)許々意命、磯城島宮朝天皇(欽明天皇)御宇、科野国造を拝す。 許々意命、綏撫の道を失ひ、健隈照命、之を逐て竟に襲ふ。
国造九世の孫、五百足、常時尊神に敬事す。 一日、夢に神告有り、「汝の妻兄弟部、既に妊身せり、分娩せば必ず男子を挙ぐ。成長し吾将に之れに憑み有らんと欲せば、汝宜しく鍾愛すべし」と。 夢覚て後、之を妻兄弟部に語る。 兄弟部も亦夢を同くし恠なり。 且慎み、後に果して男子を産む。 因て神子と名づけ、亦熊子と云ふ。 神子八歳の時、尊神化現し、御衣を神子に脱ぎ着せ、「吾に体無し、汝を以て体と為す」と神勅有り御身を隠す。 是れ則ち御衣着祝神氏有員の始祖也。 用明天皇御宇二年[587]、神子湖南の山麓に社壇を搆へる。
其の子神代。 其の子弟兄子。 其の子国積。 其の子猪麿。 其の子狭田野。 其の子高取、亦は豊磨と云ふ。 其の子生足、亦は繁魚と云ふ。 其の子豊足、亦は清主と云ふ。 其の子有員、亦は武麿と云ふ。
延暦二十年辛巳[801]二月、坂上将軍田村麿、勅を奉り蝦夷を征す。 有員幼くして之に隨逐す。 神験多般なり。 士卒神兵と称し尊敬す。 是に先、尊神、有員に告て曰はく、「吾在し昔、天祖神の命を奉り、父兄と共に皇孫命に国土を譲避し奉る。[中略]既に三韓征伐の日、吾親ら皇旗を護りて之に向ふ。今高丸将軍に叛し、応に此の国に到る。汝宜しく就て之を平すべし」と。 有員、神馬に鞭ち銕蹄に任せて発し、竟に賊首を得て之を将軍に送る。 将軍、其の神異奇瑞を感じ、帰洛の後天聴に達し、宣旨を下行し、大に社壇を搆造す。 諏訪郡を挙て神領に附し、年中七十余日を神事の要脚に充つ。 復、寅申の支干に当り、一国の貢税課役を以て、式年造営を創す。 有員を以て大祝と為し、之を御衣着祝と謂ふ。 〈御衣着祝と云ふは神体の義なり〉
『諏訪系図』の一本〔太田亮『姓氏家系大辞典』の諏訪の項に引用〕[LINK]によると、有員は敏達天皇の第三皇子(泊瀬王子)である。
仁王三十一代、敏達天皇第三泊瀬王子也。 勝照三年[587]、上宮太子、泊瀬王子、蘇馬子、群臣と師を帥て、物守屋を渋川に誅し給ふ。 其の功を感じ給ひ、御衣を泊瀬王子に賜ふ。 故に之を御衣の臣有員と謂ふ。 其の子、諏方神殿に於いて、初冠して神太郎武員と云ふ。『諏訪系図』の別の一本〔同上〕によると、有員は桓武天皇の第六皇子(平氏)である。
桓武天皇の第六皇子を有員と曰ふ。 平城天皇大同元〈丙戌〉年[806]、始めて平姓を賜ひ、信州諏方上宮大祝職に任ず。 此れを御表衣の祝・有員と謂ふ。 是より以来、子孫相続して其の職を守り、其の住、諏方なるを以て、故に遂に諏方氏と為る。
『神長守矢氏系譜』の守矢清実の条[LINK]によると、有員は桓武天皇の第五皇子である。
大祝職位書云 桓武帝第五皇子、平城帝御宇大同元年〈丙戌〉、御表衣祝有員極衣法奉授神長清実十三所行事也。 其後有員諸祭行給ふ。
仁和二年〈丙午〉[886]御表衣大祝有員八拾七歳にて御射山大四御庵頓死。この伝に基づき、御射山社境内の大四御庵社の側に「初代大祝有員の墓」が設けられている。
諏方大明神
諏訪大社上社本宮[長野県諏訪市中洲宮山]。祭神は建御名方神。
諏訪大社下社秋宮[長野県諏訪郡下諏訪町上久保]・春宮[下諏訪町大門]。
祭神は八坂刀売神・建御名方神で、事代主神を配祀。
式内社(信濃国諏方郡 南方刀美神社二座〈並名神大〉)。 信濃国一宮。 旧・官幣大社。
「諏方縁起事」によると、諏方の上宮は甲賀三郎、下宮は春日姫である。 また、「諏方大明神五月会事」によると、諏方の上宮は祇陀大臣、下宮は金剛女である。