『神道集』の神々

第十二 祇園大明神事

祇園大明神を世の人は天王宮と呼んでいる、即ち牛頭天王である。 牛頭天王は武答天神王等の部類の神で、天形星・武答天神・牛頭天王として崇めている。 当世は疫病神が病気を流行らせるので、人々は牛頭天王を深く信仰している。
祇園大明神は男体は薬師如来、女体は十一面観音である。

往昔、北海の婆斯帝回国の北陸に天王が在り、牛頭天王と称した。
龍王に五人の娘がいた。 第一は大自在天夫人、第二は陰大女(波利釆女)、第三は須弥山王夫人、第四は琰羅王夫人、第五は文殊菩薩の教えにより南方無垢世界で等正覚を成じた八歳の龍女である。
天王はこれを聞き、南海国に趣いた。 日が暮れたので、宿を借りるために巨端将来という長者の所に行くと、巨端将来は散々に悪口罵詈して天王を追出した。 七谷と七峯を越えたところに小さな家が有った。 主の名は蘇民将来といった。 蘇民将来は宿を貸して天王を饗応した。 翌朝、天王は蘇民将来に南海の娑竭羅龍王宮を知っているか否か尋ねた。 蘇民将来は知っていると答え、桑船を仕立てて天王を南海国に送った。
龍王は喜んで天王を陰大女の聟とした。 天王は龍宮で八年を過し、八人の王子をもうけた。 第一は相光天王、第二は魔王天王、第三は倶魔良天王、第四は徳達天王、第五は良侍天王、第六は達尼漢天王、第七は侍信相天王、第八は宅相神天王という。
九年目の春、天王は本国に帰る途中、蘇民将来の家に寄り、昔のような饗応を受けた。 天王は蘇民将来に「巨端将来には宿を借りようとした時に追い出された恨みを忘れる事ができない。多くの眷属神を放って滅ぼそうと思う」と云った。 蘇民将来は「私の一人娘があの家で召使いとなっています。名を端厳女、または蓮華女といいます」と云った。 天王は「柳の枝を切って札を作り「蘇民将来之子孫」と書いて、あなたの娘の肩に着けなさい」と云った。
蘇民将来は札を秘かに端厳女に送った。 娘は父の教えに従って札を肩に着けた。 その後、天王の王子と眷属八万四千六百五十四神が巨端将来の邸に乱入し、一日一夜の内に百余人を滅ぼした。 その中で蘇民将来の娘だけが難を逃れる事ができた。
天王は蘇民将来と端厳女を連れて中天竺の法界自在国に帰った。 蘇民将来が自分の国に戻る時、天王は「蘇民将来之子孫を名乗る者がいたら、その家に悪神たちを入れない事を誓おう」と云った。 蘇民将来の端厳女は今は波利釆女、または粟佐梨と云う。

牛頭天王は三面十二臂である。 頂上に牛頭が有り、右手には鉾を執り、左手で施無畏の印を結ぶ。 東王父・西王母・波利釆女・八王子など多くの従神が取り囲んでいる。
『普賢経』『牛頭天王経』『波利釆女経』『八王子経』などは竹林精舎で説かれた。 会衆は大比丘衆八万人・菩薩衆三万人である。
仏は文殊菩薩に告げた。
この会衆の中に一人の菩薩がいる。 名は牛頭天王菩薩または武答天神菩薩・薬宝賢菩薩と云う。 この菩薩は薬師如来の変現である。 左面は日光菩薩、右面は月光菩薩、頂上の牛頭は妙法蓮華経である。 両腕は十二神将または十二大願の意である。 左足は東方浄瑠璃世界、右足は西方極楽世界である。 東王父神は普賢菩薩、西王母神は虚空蔵菩薩、波利采女は十一面観音である。 蘇民将来及び粟佐利女は、本地薬王・薬上の二菩薩である。 蛇毒気神及び海龍王は、本地弥勒・龍樹の二菩薩である

問、八王子の本地は如何なるものか。
答、本地については異説がある。 ある説では、八王子は大聖文殊である。 別の説では、八王子は八部菩薩である。 義浄訳『秘密心点如意蔵王呪経』(或は『武答天神王経』と云う)にそう説かれている。 八王子真言は「普賢・文殊・観音・勢至・日光・月光・地蔵・龍樹・唵阿彼耶云々」と云う。
問、八王子の名は。
答、説によって相違がある。 『武答天神経』から書き写すと以下の通りである。
第一王子は星接、別名は太歳神、または相光天王、本地は普賢菩薩である。
第二王子は唵恋、別名は大将軍、または魔王天王、本地は文殊師利菩薩である。
第三王子は勝宝宿、別名は歳刑神、または徳達神天王、本地は観世音菩薩である。
第四王子は半集、別名は歳破神、または達尼漢天王、本地は勢至菩薩である。
第五王子は解脱、別名は歳殺神、または良侍天王、本地は日光菩薩である。
第六王子は強勝、別名は黄幡神、または侍神相天王、本地は月光菩薩である。
第七王子は源宿、別名は豹尾神、または宅相神天王、本地は地蔵菩薩である。
第八王子は結毘、別名は大陰神、または倶摩良天王、本地は龍樹菩薩である。

大興善寺の不空三蔵訳『天形星真秘密』上には、牛頭天王と武答天神は一体異名と説いている。

祇園大明神(男体)

八坂神社[京都府京都市東山区祇園町北側]
中御座の祭神は素盞嗚尊。
東御座の祭神は櫛稲田姫命で、神大市比売命と佐美良比売命を配祀。
西御座の祭神は八柱御子神(八島篠見神・五十猛神・大屋比売神・抓津比売神・大年神・宇迦之御魂神・大屋毘古神・須勢理毘売命)。
また、傍御座に稲田宮主須賀之八耳神を祀る。
二十二社(下八社)。 旧・官幣大社。

文献上の初見は藤原忠平『貞信公記』(延喜二十年[920]閏六月二十三日条)[LINK]の「咳病を除かんが為、幣帛・走馬を祇園に奉るべきの状、真祈をして申さしめ、又鑑上人をして冥願を立てしむ」。

吉田兼倶『二十二社註式』(祇園社)[LINK]には
牛頭天皇、初て播磨国明石浦(兵庫県明石市の海岸)に垂迹し、広峯(広峯神社[兵庫県姫路市広嶺山])に移る。其の後、北白川東光寺(岡崎神社[京都市左京区岡崎東天王町])に移る。其の後、人皇五十七代陽成院元慶年間[877-885]に感神院に移る
とある。 内閣文庫本『二十二社記』[LINK]はこの後に「託宣に曰く、我れ天竺祇園精舎守護の神云々。故に祇園社と号す」と付記する。
『二十二社註式』は続けて、
人皇六十一代朱雀院承平五年[953]六月十三日の官符に云く、「応に観慶寺を以て定額寺と為すべき事〈字は祇園寺〉。山城国愛宕郡八坂郷地一町に在り。檜皮葺三面堂一宇〈庇四面在り〉。檜皮葺三面礼堂一宇〈庇四面在り〉、薬師像一体・脇士菩薩像二体・観音像一体・二王・毘頭盧一体・大般若経一部六百巻を安置す。神殿五間檜皮葺一宇、天神・婆利女・八王子。五間檜皮葺礼堂一宇」と。右、山城国の解を得るに称く、「故常住寺十禅師伝燈大法師円如、去る貞観年間[859-877]に建立為し奉る」と。或は云ふ、「昔、常住寺十禅師円如大法師、託宣に依り、第五十代清和天皇貞観十八年[876]、山城国愛宕郡八坂郷樹下に移し奉る。其の後、藤原昭宣公、威験を感じ、台宇を壊ち運び精舎を建立す。今の社壇は是也」と。第六十四代円融院治五年、天延二年[974]三月、官符を被る、愛宕郡観慶寺感神院を以て延暦寺別院と為す事。六十四代円融院天禄三年[972]、祇園社を以て日吉の末社と為す
と記す。

『社家条々記録』[LINK]には
貞観十八年、南都円如上人、始て之を建立す。是れ最初の本願主也。別記に云ふ、貞観十八年、南都円如、先づ堂宇を建立し、薬師・千手等の像を安置し奉る。則ち今年夏六月十四日、天神、東山の麓、祇園林に垂跡せしめ御座す
とある。

『東大寺雑集録』巻一[LINK]には朱雀天皇の承和四甲午年[837]には
六月廿六日、興福寺円如法師祇園天神を建立す。是れ則ち春日水屋(春日大社の摂社・水谷神社)を移す
とある。

『都名所図会』巻三(左青龍)[LINK]には
抑祇園牛頭天皇を、愛宕郡八坂郷感神院に勧請せし濫觴は、聖武天皇の御宇、天平五年[729]三月十八日、吉備大臣唐土より帰朝の時、播磨国広峰に垂跡し給ふを崇め奉れり。其後常住寺の十禅師円如上人に神託あつて、帝城守護の為、貞観十一年[869]に遷座し給ふなり
薬師堂は観慶寺と号す。本尊は薬師如来、作は伝教大師なり。陽成院の勅願所として、開基は円如上人といふ
とある。

『八坂郷鎮座大神之記』[LINK]には
斉明天皇即位二年丙辰[656]八月、韓国の調進副使伊利之使主再来の時、新羅国牛頭山に座す須佐之雄尊の神御魂を斎き祭り来りて、皇国に祭り始む。之に依りて愛宕郡に八坂郷並に八坂造の姓を賜ふ。十二年の後、天智天皇の御宇六年丁卯[667]、社号を感神院と為し、宮殿を造営して、牛頭山に坐す大神を牛頭天王と称し奉り、祭祀畢る
とある。

明治初年の神仏分離により祇園感神院は廃され、八坂神社となった。 観慶寺の薬師如来立像などは大蓮寺[京都府京都市左京区東山二条]に移管された。

牛頭天王

『二十二社註式』の祇園社の条[LINK]には
中間〈牛頭天皇。大政所と号す。進雄尊の垂跡〉
とある。

『諸社根元記』の祇園の条[LINK]には
中間 大政所、牛頭天王、素戔嗚尊の垂跡、本地薬師
とある。

『伊呂波字類抄』巻八の祇園の条[LINK]には
牛頭天王の因縁。天竺より北方に国有り。その名を九相と曰ふ。其の中に国有り。名を吉祥と曰ふ。其の国の中に城有り。牛頭天王、又の名は武塔天神と曰ふ
とある。

『祇園牛頭天王縁起』[LINK]には
須弥山の半腹に国あり、豊饒国と云ふ。其の国の王を名づけて武答天王と曰ひ、一人の太子を有す。七歳にして其の長七尺五寸也。頂に三尺の牛頭有り、又三尺の赤き角有り。父大王、希代の太子を生む者と思ひ給ひ、大王の位を去りて、太子に譲りたまふ。其の御名を牛頭天王と号す
とある。

『三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集(簠簋内伝)』巻一[LINK]には
中天竺摩訶陀国、霊鷲山の艮、波尸那城の西に、吉祥天の源、王舍城の大王を名づけて、商貴帝と号す。曾て、帝釈天に仕へ善現天に居す。三界の内に遊戯す。諸星の探題を蒙りて、名けて天刑星と号す。信敬の志深きに依りて、今、娑婆世界に下生して、改めて牛頭天王と号す
とある。 楊憲本はこの後に「元は是れ、毘盧遮那如来の化身なり」と付記する。

同書の天道神方の条[LINK]には
天道神は牛頭天王也。万事に大吉。此の方に向きて袍衣(胞衣)を蔵す、鞍置き初め、一切の求むる所、成就の所也
とある。

『大梵如意兜跋蔵王呪経』〔承澄『阿娑縛抄』巻第百三十六(毘沙門天王)[LINK]等に引用〕には
如意蔵王能く万像を変じ、諸の衆生を度する為、十種の降魔の身を現ず。一は無畏観世音自在菩薩、二は大梵天王、三は帝釈天王、四は大自在天、五は摩醯首羅天、六は毘沙門天王、七は兜跋蔵王、[中略]八は多婆天王、九は北道尊星、十は牛頭天王
とある。

光宗『渓嵐拾葉集』巻六十七(怖魔)[LINK]には
却蘊神呪経(仏説却温黄神呪経[LINK])には七鬼神と見たり、又五鬼神云々。陰陽道には牛頭天王と云
とある。 七鬼神(夢多難鬼・阿佉尼鬼・尼佉尸鬼・阿佉那鬼・波羅尼鬼・阿毘羅鬼・波提犂鬼)は行疫神である。

上述の承平五年の官符などを見ると、祇園社の祭神は当初は「天神」と呼ばれていたと考えられる。 牛頭天王の名称が文献上で確認できるのは、信西『本朝世紀』の延久二年[1070]十月十四日の祇園社火災の記事(久安四年[1148]三月二十九日条に引用)[LINK]
牛頭天皇の御足焼損す。 蛇毒気神焼失し了んぬ。
とされる。 なお、皇円『扶桑略記』第二十九の同日条[LINK]には
感神院の大廻廊、舞殿、鐘楼、皆悉く焼亡す。 但し天神御躰は取り出し奉る。
とあり、牛頭天王ではなく「天神」と記されている。

天野信景『塩尻』巻之五十三[LINK]には
牛頭天王の梵語〈密宗の次第物に見ゆ〉世に多く知る者なし。 瞿摩掲唎婆耶提婆囉惹、瞿摩は牛の梵語、掲唎婆耶は頭の梵語、提婆は天、囉惹は王なり。
とあるが、これは原語ではなく「牛・頭・天・王」を一字づつ梵語に変換したものだろう。

『望月仏教大辞典』の牛頭天王の項[LINK]にも
或は梵名瞿摩掲唎婆耶提婆囉惹の訳にして、元と印度祇園精舎の守護神なりとも云ふ。
と記すが、
之を印度伝来の神とするは蓋し據る所なきが如し。
と否定的である。

武答天神

『備後国風土記』逸文[LINK]〔卜部兼方『釈日本紀』巻第七(述義三)[LINK]に引用〕には
疫隅の国の社。昔、北海に坐しゝ武塔神、南海の神の女子をよばひに出でまししに、日暮れたり。彼所に蘇民将来二人在りき。兄の蘇民将来は甚貧窮しく、弟の将来は富饒みて屋倉一百在りき。爰に武塔神、宿処を借りたまふに、惜みて借し奉らず。兄の蘇民将来は借し奉る。即ち粟柄を以て座となし、粟飯等を以て饗へ奉つる。奉ること爰に畢へて、出で坐せる後に、年を経て八柱の子を率て還り来て詔りたまはく、「我、将来が為報答むくいせむ。汝が子孫其の家に在りや」と問はしめたまふ。蘇民将来答へ申さく、「己れ女子とこの婦と侍ふ」と申す。即ち詔りたまはく、「茅の輪を以ちて腰の上に着けしめよ」と詔りたまふ随に着けしめき。即夜に蘇民と女子二人とを置きて皆悉にころしほろぼしてき。即ち詔りたまはく、「吾は速須佐雄能神なり。後の世に疫気在らば、汝、蘇民将来の子孫と云ひて、茅の輪を以ちて腰に着けよ。詔の随に着けしめば、即ち家なる人は免れなむ」と詔りたまひき
とある。
上記の説話は疫隅国社(素盞嗚神社[広島県福山市新市町戸手])の由来であるが、『釈日本紀』では先師(卜部兼文)の説として、
此れ則ち祇園社の本縁なり。[中略]武塔天神は素戔嗚尊なり。少将井は本御前と号く、奇稲田姫か。南海の神の女子は今御前か
と述べており、後代に祇園社の祭神を素戔嗚尊とする説の根拠となった。

『伊呂波字類抄』巻八の祇園の条[LINK]には
牛頭天王、又の名は武塔天神と曰ふ
とある。

『祇園牛頭天王縁起』によると、武答天王は豊饒国の王で、その太子が牛頭天王である。

祇園大明神(女体)・陰大女・波利釆女

現在は八坂神社本殿の東御座に櫛稲田姫命を祀る。

『備後国風土記』逸文における南海の神の女子に相当する。 上記『釈日本紀』では先師の説として「南海の神の女子は今御前か」と述べているが、後代には素戔嗚尊の后(本御前)である櫛稲田姫命と同一視された。

『二十二社註式』の祇園社の条[LINK]には
西間〈本御前。奇稲田媛の垂跡。一名は婆利女。一名は少将井。脚摩乳・手摩乳の女〉
とある。

『諸社根元記』の祇園の条[LINK]には
西間 少将井、波利釆女、稲田姫の垂跡、本地十一面
とある。

『伊呂波字類抄』巻八の祇園の条[LINK]には
沙竭羅龍王の女の名を薩迦陀と曰ふ。此れを后と為し、八王子を生む
とある。

『祇園牛頭天王縁起』[LINK]には
大海中、沙竭羅龍王の女、其の数多あり、第一は八歳成仏の女、第二は珍輪義女、第三は婆利釆女也。此の第三の女、天王の后と為りたまふべし
とある。

『簠簋内伝』巻一[LINK]には
是より南海に沙竭羅龍宮あり。是に三人の明妃あり。第一を金比羅女と名づく。第二を婦命女と名く。北海の龍宮に嫁請して、難陀跋難陀城に収まれる。爰に第三を頗梨采女と号す。紫磨黄金の美膚、八十種好の花の粧を備へ、閻浮檀金の麗容に、三十二相の月の桂を写すなり
とある。

同書の歳徳神方の条[LINK]には
此の方は頗梨采女の方、八将神の母也。容貌美麗にして忍辱慈悲の体なり。故に尤も諸事に之を用ふべきなり
とある。

覚禅『覚禅抄』(吉祥天法)[LINK]には吉祥天の父母を「斎余本頂経云、吉祥天女父、頂多門天王、母ハ陰具六女(陰具大女)」と記している。 この母の名は『神道集』における陰大女と類似している。
(田中貴子『外法と愛法の中世』、第1部 女神と竜女、第2章 姉妹神の周辺—竜女・吉祥天・弁才天、砂子屋書房、1993)

天形星

『辟邪絵(地獄草紙)』[LINK]には疫鬼を喰らう鬼神の姿が描かれ、その詞書[LINK]には
かみに天形星と名づくる星まします。牛頭天王およびかの部類ならび諸々の疫鬼を捕りて酢にさしてこれを食とす
とある。

『簠簋内伝』巻一[LINK]によると、虚空界より瑠璃鳥が飛来し、牛頭天王に「我は是れ天帝の使者たり。汝も元同朋たらくのみ。汝を名づけて天刑星と号し、我を名けて毘首羅天子と曰ふ」と告げた。
同書・巻三の太歳神前後対位の条[LINK]には
太歳常に天刑星の法を行ふ。今此の行法の間、広寒殿に坐したまひて、四空・四禅・六欲諸天・天王天衆皆悉く囲繞して仁王斎会を勤行する時を太歳位と曰ふ
とある。

同書・巻五(文殊曜宿経)の同時宿之事の条[LINK]には
長安城に人死一万人あり。是の故、彼の帝王哀傷して天刑星の法を勤む時、牛頭天王現じ給ひ、託して曰ふ。我が主る所の牛宿、雑乱たるが故に衆人を滅す。若し此の宿を取りて、毎日の丑時に配当せば苦しむべからず
とある。

『晋書天文志』[LINK]には
漢代の京房は『風角書』を著した。それには集星という一章があり、記載されている妖星は、いずれも月の傍に現れるものである。それぞれ五色の方雲がついており、五つの寅の日に現れる。それぞれが惑星から生じたものだという。その書物にいう。「天槍・天根・天荊・真若・天榬・天楼・天垣は、みな歳星から生じたものである。甲寅の日に現れる。その星のまわりには二つの青色の方雲がある。[後略]」と。これらの星が見えれば、水害・旱害・兵乱・喪事・飢饉・兵乱が起こり、それが指す方角では、国が滅んで王が死ぬとか、敗戦して将軍が殺される
とある。
(『世界の名著 続1 中国の科学』、山田慶児・坂出祥伸・薮内清訳「晋書天文志」、中央公論社、1975)
天形星(天刑星)の名はこの妖星「天荊」に由来するという説が有る。

婆斯帝回国

未詳。
『簠簋内伝』巻一における波尸那城(楊憲本では「波尸城」)に相当するか。

娑竭羅龍王(海龍王)

鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』序品第一[LINK]には同聞衆として、
八龍王あり、難陀龍王・跋難陀龍王・娑伽羅龍王・和修吉龍王・徳叉迦龍王・阿那婆達多龍王・摩那斯龍王・優鉢羅龍王等なり。各、若干の百千万の眷属と倶なり
を挙げる。 また、同経提婆達多品第十二[LINK]によると、文殊菩薩は娑竭羅龍宮において『法華経』を宣説した。

娑竭羅(娑伽羅)はサーガラ(Sāgara)の音写で「海」を意味する。
『望月仏教大辞典』の娑竭羅龍王の項[LINK]には
此の龍王は護法の龍神として、法華経巻一序品、華厳経巻一世主妙厳品等に之を列衆の一に加へ、又海龍王経四巻、仏為海龍王説法印経、仏為娑伽羅龍王所説大乗経及び十善業道経各一巻は、仏が特に此の龍王の為に演説せられたる経として伝えらる。名称の由来に関し、法華経文句巻二下[LINK]に「娑伽羅とは居海に従いて名を受く、華厳に称する所なり。旧に云はく国に因りて名を得と。本は智度の大海に住し、迹は滄溟に処す」と云ひ、華厳経疏巻五[LINK]には「娑伽羅とは此に海と云うなり。大海中に於いて此れ最尊なるが故に独り其の名を得」と云へり
とある。

娑竭羅龍王は『備後国風土記』逸文における南海の神に該当する。 『釈日本紀』巻第七(述義三)[LINK]では先師の説として、
祇園の神殿の下に龍宮に通ずる穴有るの由、古来申し伝はる。北海の神、南海の神の女子に通ふの儀、符合するか
と述べており、卜部家では南海の神の住処を龍宮と認識していたと思われる。

大自在天王夫人

大自在天(Maheśvara)はヒンドゥー教の最高神シヴァを仏教に取り入れた尊格で、色界・第四禅の色究竟天を住処とする。 その夫人は烏摩(Umā)である。

『望月仏教大辞典』の烏摩妃の項[LINK]には
摩醯首羅天の妃、毘那夜迦天の母にして、胎蔵曼荼羅外金剛部院の西方大自在天の左側に坐せる尊なり。大聖歓喜双身大自在天毘那夜迦王帰依念誦供養法[LINK]に「摩醯首羅大自在天は烏摩女を婦となし、生む所三千の子あり。其左の千五百は毗那夜迦王を第一と為す。諸の悪事を行ひ、十万七千の諸の毘那夜迦類を領せり。右の千五百は、扇那夜迦善持天を第一と為す。一切の善利を修し、十七万八千の諸の福伎善持衆を領せり」と云ひ
とある。

須弥山王夫人

須弥山(Sumeru)は古代インドの宇宙観において世界の中心に聳える高山で、衆山の王として「須弥山王」と称される事も有るが、その夫人が何を指すのかは不明。

琰羅王夫人

琰羅王(Yama-rāja)は古代インド神話における冥界の王で、焔摩・閻魔などと音写される。 その夫人は黒夜天(Kāla-rātri)または死后(Mṛiti)である。

『密教大辞典』の黒夜天の項[LINK]には
胎蔵現図曼荼羅外院閻摩天の西にあり、又は暗夜天・黒暗天とも云ふ。大日経疏五[LINK]及び阿闍梨所伝曼荼羅によらば、閻摩天の東にあり、大疏十六[LINK]には左辺画黒暗后と云へり。閻摩天の侍后なり、然るに大疏五及阿闍梨所伝曼荼羅の外、死后・黒夜・閻摩后を並べ挙ぐるもの稀なる故に、常に謂ふ閻摩后は即ち黒夜天なるが如し
とあり、死后の項[LINK]には
閻摩天妃なり、又は死王とも名く、梵名を没㗚底と云ふ。死后・閻摩后同異につき古来異説あり、阿闍梨所伝曼荼羅には閻摩后の西に閻摩没㗚底后を連ね、大疏五には、閻摩之西作閻摩后及死后、亦是閻摩后也(閻魔の西に閻摩后及び死后を作れ、亦是れ閻摩の后也)と釈し、[中略]玄法・青龍二軌には、南門より東に夜摩女(Yamī)、南門の西に、七母並黒夜死后囲繞と説く、夜摩女は焔摩后なるべきが故に、是等は死后焔摩后を別とせるものなり。然るに大日経・同疏・広大・摂大二軌等、死后及び黒夜の外に閻摩后を説かざるもの多く、現図曼荼羅には夜摩女(Yamī)ありて死后の名見えず
とある。

八歳の龍女

『妙法蓮華経』提婆達多品第十二[LINK]は以下の龍女成仏を説く。
文殊菩薩は大海の娑竭羅龍宮において法華経を宣説した。 智積菩薩が「此の経を修行して、速かに仏を得る有りや不や」と問うと、文殊は「有り。娑竭羅龍王の女年始めて八歳なり。[中略]刹那の頃に於て菩提心を発して不退転を得たり」と答えた。 智積は「我釈迦如来を見たてまつれば、無量劫に於て難行苦行し功を積み徳を累ねて、[中略]然して後に乃ち菩提の道を成ずることを得たまへり。信ぜじ、此の女の須臾の頃に於て便ち正覚を成ずることを」と疑った。 この時に龍女が出現したが、舎利弗は「女人の身には猶五障あり、一には梵天王となることを得ず、二には帝釈、三には魔王、四には転輪聖王、五には仏身なり。云何ぞ女身速かに成仏することを得ん」と否定した。 その時、龍女は仏に宝珠を献じ、仏はこれを受けた。 龍女が智積・舎利弗に「我宝珠を献る。世尊の納受、是の事疾しや不や」と問うと「甚だ疾し」と答えた。 龍女は「汝が神力を以て我が成仏を観よ。復此れよりも速かならん」と云うと、忽然の間に変じて男子と成り(変成男子)、南方無垢世界に往き、等正覚を成じた。

八王子

現在は八坂神社本殿の西御座に八柱御子神を祀る。

『備後国風土記』逸文における武塔神の八柱の子に相当する。

『簠簋内伝』巻一の八将神方の条[LINK]には
八将神は牛頭天王の王子。而して春夏秋冬四土用の行疫神なり
とある。

その名称・本地等については以下のように異説が多い。
『祇園牛頭天王縁起』[LINK]の説
 第一王子は相光天王と名づく〈本地は釈迦如来也〉。太歳神に変化して、春三月を行ふ役神也。
 第二王子は魔王天王と名づく〈本地は文殊師利菩薩也〉。大将軍に変じて、四方を司る。
 第三王子は倶魔羅天王と名づく〈本地は弥勒菩薩也〉。歳徳神に変じて、秋三月を行ふ。
 第四王子は徳達神天王と名づく〈本地は観世音菩薩也〉。歳末神に変じて、冬三月を行ふ。
 第五王子は羅侍天王と名づく〈本地は薬師如来也〉。黄幡に変じて、平満成収等十二支(十二直)を司る。
 第六王子は達尼漢天王と名づく〈本地は普賢菩薩也〉。伏神に変じて、八専を行ふ。
 第七王子は侍神相天王と名づく〈本地は阿弥陀如来也〉。豹尾に変じて、四季土用を行ふ。
 第八王子は宅相神才天王と名づく〈本地は地蔵菩薩也〉。大隠神に変じて、夏三月を行ふ役神也。
『簠簋内伝』の説
 第一太歳神は総光天王、本地は薬師如来なり(楊憲本では「本地薬師如来の垂迹なり」)。
 第二大将軍は魔王天王、本地は他化自在天なり(楊憲本では「盤牛王の化身と申すなり」)。
 第三大陰神は倶摩羅天王、本地は聖観自在尊なり(楊憲本では「本地は観自在菩薩なり」)。
 第四歳刑神は得達神天王、本地は堅牢地神なり(楊憲本では「本地は毘沙門天王なり」)。
 第五歳破神は良侍天王、本地は河伯大水神なり(楊憲本では「本地は龍樹菩薩なり」)。
 第六歳殺神は侍神相天王、本地は大威徳なり(楊憲本では「本地は千手観音なり」。
 第七黄幡神は宅神相天王、本地は摩利支天なり(楊憲本では「本地は勝軍地蔵なり」。
 第八豹尾神は蛇毒気神、本地は三宝大荒神なり(楊憲本では「本地は三宝荒神なり」。

『吽迦陀野儀軌』麼迦多聞宝蔵吽迦陀野神妙修真言瑜伽念誦儀軌𮥩𮥟漫荼羅品第一[LINK]に説く證入漫荼羅世界には
中央主都鉢主多聞天王、弥王上居、山下三夜叉鬼女有、大天王腰長大刀著。東方牛頭有、正面可甚怖畏、頂上十一面怖畏形、各牛角出為出其荘厳、又正面左右各一面有、其又畏相、衣服帝釈天相也。[中略]其女右第一良侍天、左手鉾右𨨞。次赴須王神、左右持独鈷。左方一達尼漢天、左右作拳、各牙当臆意左方鉾立。次侍相天、右刃左鉾。次四方東北角一渇都天王、左弓右二箭。次相光天、合掌左方鉾立。次魔王天、左鉾右刀未地付。次倶魔羅王、左刀右棒、左方鉾立。次徳達天王、左弓右箭、左鉾立。次宅神摂天、左手持弓横当意、右手持用箭
とあり、八王子に該当する尊名が見られる。
(三崎良周『密教と神祇思想』、「中世神祇思想の一側面」、創文社、1992)

巨端将来

『備後国風土記』逸文における「蘇民将来二人」の弟の将来に該当する。

『祇園牛頭天王縁起』では古単長者と称する。
牛頭天王は后・八王子を連れて豊饒国に帰る途中、見目・嗅鼻という眷属に命じて古単の家を探らせた。 怪異を感じた古単が相師に占わせると、相師は「三日の内に大凶あり。天王の御罰也」「千人の大徳の法師を屈請して、大般若経を読誦すべし。七日七夜せば、若しや此の難を遁れべきか」と答えた。 千人の法師が『大般若経』を読誦すると、六百巻の経典は四十丈六重の築地、経の箱は天蓋となった。 しかし、目に疵の在る法師が飯酒に飽満して経文を読み誤ったので、彼所から天王の眷属が古単の家に乱入し、「蘇民将来の孫也」の札を付けた娘一人を残して悉く蹴り殺した。

『簠簋内伝』巻一[LINK]には「南天竺の傍に一の国有り。夜叉国(楊憲本では広遠国)と曰ふ。彼の花洛に望む。厥の国の鬼王を名づけて巨旦大王と号す。厥の国の四姓、魑魅魍魎の類たり。天王安然として彼の鬼関に望む。鬼王弾呵して戸を閉じ天王を通せず」とある。
牛頭天王が中天竺に帰ろうとした時[LINK]、八王子に「我は北天の主たり。往昔南海に趣むきし時、中間に国あり、広遠国と曰ふ。彼の国の主を巨旦大王と名づく、みな是れ魑魅魍魎の類なり。己に彼の鬼門を望みて一宿を巨旦に求めんと欲す、恚怒して我をして彈呵せしむ、我已に斎せし故に恐然として退去す、今彼の国に到りて鬼王の城郭を破却せんと欲す」と命じた。 八王子は武装し、四衆・八龍等の眷属を率いて蜂起した。
巨旦大王が凶兆を感じて博士に占わせると、博士は牛頭天王の禍を遁れる為に「一千人の苾蒭(比丘)を供養して、正に退散することを得るべし」「太山府君王の法を行じて頗る解除すべし」(楊憲本では「祭星の法に任せて、金銭銀錦を抛てば、豈此の災に逅はんや」「一千人の苾蒭を供養して、衆僧をして、百部の大般若・仁王経を講読せば、宜しく此の害を免るべし」)と答えた。 巨旦大王は大いに歓喜し、清浄の明僧に諸の大陀羅尼を唱えさせた。
牛頭天王が阿儞羅・摩儞羅の両鬼に鑑見させると、一人の懈怠の比丘が居眠りをして偈句を諳んじたので、牖窓となり大穴が生じた。 天王はそこから鬼館に入り、巨旦の一族を滅ぼした(楊憲本では、天王は「枳哩枳哩縛日羅曳示吽発咤」と唱えて矢を射放ち、巨旦の一族を滅ぼした)。
その後に巨旦の屍骸を切断して五節に配当した。 五節の祭礼は、正月一日の赤白の鏡餅は巨旦の骨肉、三月三日の蓬萊の草餅は巨旦の皮膚、五月五日の菖蒲の結粽は巨旦の鬢髪、七月七日の小麦の素麺は巨旦の継、九月九日の黄菊の酒水は巨旦の血脈である。 総じて、蹴鞠は巨旦の頭、的は眼、門松は墓験であり、修正の導師・葬礼の威儀は巨旦調伏の儀式である。 牛頭天王は長保元年[999]六月一日に龍宮界より閻浮提に帰還し、祇園精舎において三十日間巨旦調伏の儀式を行った。

同書の金神七殺方の条[LINK]には
此れ金神は巨旦大王が精魂也。七魂遊行して南閻浮提の諸衆生を殺戮す。故に尤も厭ふべき者也
とあり、非常に恐れられた。

蘇民将来

『備後国風土記』逸文には「蘇民将来二人ありき」とあり、兄弟二人を蘇民将来と称していたが、後代の文献では兄を蘇民将来とする事が多い。

『簠簋内伝』巻一[LINK]によると、牛頭天王が巨旦大王に宿を断られた後、千里進むと松園があり、そこで一人の賤女(巨旦の奴婢)に出会った。 賤女は「是より東方一里程を去って浅茅生原あり。彼の曠野の中に莓買むぐらの生ひ掛くる菴有り。貧賤にして禄乏し。彼を蘇民将来と曰ふ。外には慈哀の志を抱き、内には悲敬の計らひを含む。彼に往いて宿を求めよ」と薦めた。 天王は歓喜して東に向かい、庵主(蘇民将来)に宿を求めた。 蘇民将来は梁粟の茎を敷いて天王の席を設けた。 また、粟を煮て梛の葉に盛り、天王達を餉饗し、眷属にも配った。 天王は「汝の志足んぬる哉、大なる哉、禄は鰥寡孤独の人にも劣り、心は富能貴徳の君にも勝れり、汝が其の志を謝せん」と云い、亭主(蘇民将来)に千金を報いた。
また、牛頭天王が巨旦大王を滅ぼした後[LINK]には
蘇民将来が所に至る。変じて祐しき長者なり。久しく天王の帰国を期す。五宮を造り、八殿を構へ、八王子を請入す。三日車を停め、諸珍果を尽す。故に天王喜快して、彼の夜叉国を蘇民将来に報ず
とある。

同書の天徳神方の条[LINK]には
天徳神とは蘇民将来の方也。或は武塔天神と白ふ。宜しく此の方には病を避くべし、[中略]此の神、広遠国の王なり。牛頭天王の大檀那也。八万四千の行疫神流行するもこの方を犯さず。大吉の方と識るべき也
とある。

八坂神社では、摂社・疫神社に祀られている。
七月三十一日には、祇園祭の最後の神事である夏越祭が行われる。 参拝者は疫神社の鳥居に設けられた大茅輪を通って邪気を祓い、茅之輪守(「蘇民将来子孫也」護符)と粟餅を社前で授与される。

粟佐利女(端厳女・蓮華女)

『備後国風土記』逸文における「蘇民の女子」に該当する。

『簠簋内伝』巻一[LINK]によると、牛頭天王が巨旦大王を滅ぼした時に「天王の曰く、我昔此の国に到る時、此の松園の中に一人の賤女有り。巨旦が奴婢女たりと雖も、我が為には恩徳の人なり。彼の女を助けんと欲す。桃の木の札を削りて、急急如律令の分を書写し弾指せしむ。彼の牒、賤女が袂の中に収まる。然して此の禍災を退く」とある。(ただし、『簠簋内伝』には「賤女」を蘇民将来の縁者とする記述は無い)

粟佐利女と類似した名称に「粟舎利」がある。
『河原由来書』には
そもそも河原に奉ずる氏神は、天竺毘舎利国の大王縁太羅太子と申し候
かの縁太羅王子、日本穐津嶋に我手指七つ切り投げ給ひ、近江国志賀浦に流れ留まり、人の形となり候。その名を粟舎利と申すなり。その時、巨旦大王と申す者あり、賢貪第一の者に候間、祇園牛頭天王天竺より飛び来り給ひ、かの長者に罰を当て給ふとき、かの粟舎利の子に蘇民将来と申す者あり。かの者の内に奉公仕り候。天王かの蘇民将来の命ばかり助け給ふなり
粟舎利ならびに蘇民将来親子は志賀浦に住み給へば、河原の先祖なり。粟舎利は志賀明神と祝ひ給ふなり
とあり、粟舎利の子を蘇民将来とする。

薬宝賢菩薩

「赤山大明神事」では薬宝賢明王とする。

覚禅『覚禅鈔』(薬師法)[LINK]には
祇薗天王 薬宝賢童子〈本地薬師〉の如し。神農〈薬師の所変と云々〉医師説
という記載が有るが、薬宝賢童子の名は薬師経関係の経軌には見られない。
毘沙門天の眷属(夜叉八大将)の宝賢大将との関係について、三崎良周「中世神祇思想の一側面」には
宝賢の上に薬の字のないことが少しく疑問であるが、やはり同じものと見て支障はないようである
薬宝賢明王とか或いは童子に、毘沙門の眷属としては支障がないことになるし、それは宝賢とも別のものでないことにもなろう
とある。
(三崎良周『密教と神祇思想』、「中世神祇思想の一側面」)

東王父・西王母

『山海経』には「又西すること三百五十里、玉山といふ。是れ西王母の居る所なり。西王母の状は、人の如くして、豹の尾、虎の歯ありて、善く嘯ゆ。蓬髪にして勝(髪飾り)を戴く。是れ天の厲(病神)及び五残(災禍悪疫を司る星)を司る」(西山経)、「西王母、几に梯りて、勝を戴く。其の南に三青鳥あり。西王母の為に食を取る。昆侖虚の北に在り」(海内北経)、「人あり、勝を戴き、虎歯にして豹の尾あり、穴処す。名づけて西王母といふ」(大荒西経)とあり、疫病神の取締りを任務とするらしい。
『荘子』には「西王母は之(道)を得て、少広(山)の上に坐す」(大宗師編)とあり、西王母を得道の真人としている。 また、『淮南子』には「羿、不死の薬を西王母に請ひしに、恒娥竊みて月に奔る」(覧冥訓)とあり、西王母を不死の薬の持主として、神仙として扱っているのが窺われる。
後漢の頃から西王母と並んで東王公が崇拝され始めた。 『呉越春秋』には「東郊を立てて以て陽を祭り、名づけて東皇公といふ。西東郊を立てて以て陰を祭り、名づけて西王母といふ」とある。
魏晋時代以後になると、東王公と西王母とを一対の神として見る傾向が著しくなり、『集仙録』には「東王公は男仙を宰領し、西王母は女仙を宰領する」とある。
(森三樹三郎『支那古代神話』、第1章 神々の列伝、西王母[LINK]、大雅堂、1944)

『伊呂波字類抄』巻八の祇園の条[LINK]には「牛頭天王、又の名は武塔天神と曰ふ。其の父の名を東王父天と曰ひ、母の名を西王母天と曰ふ。其の二人の間に生れし王子を名づけて武塔天神と曰ふ」とある。

蛇毒気神

『二十二社註式』の祇園社の条[LINK]には
東間〈蛇毒気神は龍王の女。今御前なり〉
とある。

『諸社根元記』の祇園の条[LINK]には
東間 蛇毒気神、沙竭羅龍王女の垂跡、本地毘沙門
とある。

一条兼良『日本書紀纂疏』上第五[LINK]には
三は蛇毒気神、疑ふらくは是れ八岐大蛇の化現か
とある。

一方、『簠簋内伝』巻一の八将神方の条には「第八豹尾神は蛇毒気神、本地は三宝大荒神」とある。
『簠簋抄』巻一[LINK]には
蛇毒鬼とは、龍宮にて七人の王子を生し給ふ時、衣那と月水を血逆の池へ捨給ふ。彼が集りて蛇毒鬼神と成り給ふ。しかるに七王子を召つれて閻浮提に帰り給ふ時、海上にて舟動かざるに依て、珍財を海底に沈れども其の験無し。其の七王子の裳を切て沈め給ふ時、第三の王子を直に海中に入れ給ふ時、彼の蛇毒鬼、大陰神を戴き上て、蛇毒が曰、我も是の王子たり。何ぞ捨て給ふや、天王の曰、我が子にあらずと有り。重て蛇毒が曰、血逆の池に捨て給ふ衣那と月水と集て我と成る也と云ふ。其しるしを見んとて、頗梨采女、乳水をしぼり出し給ふ時、七人の王子と同く蛇毒の口にも入る。其の時、蛇毒も王子たりと有て、舟に乗て帰朝有り
とある。

「赤山大明神事」には「この天王に十種の変身あり、[中略]四は蛇毒気神王」とある。

上述の『本朝世紀』『扶桑略記』には延久二年の祇園社の火災で蛇毒気神の像が焼失した事が記されており、その頃には牛頭天王(天神)と共に蛇毒気神が祀られていた事が判る。 また、『扶桑略記』の延久二年十一月十八日条[LINK]には「官使を以て、感神院の八王子四躰、并に蛇毒気神・大将軍御躰焼失の実否を検録す」とある事から、蛇毒気神・大将軍は八王子とは別だったと考えられる。
『孔雀王呪経』などに、蛇の毒を消すのに孔雀の尾が効力があるとされ、牛頭天王の疫毒に隣せる如き蛇毒の神が共に祀られるようになったと推測される。
(三崎良周『密教と神祇思想』、「中世神祇思想の一側面」)
垂迹本地
祇園大明神(牛頭天王)薬師如来
波利采女十一面観音
八王子文殊菩薩
八王子(各別)太歳神(相光天王)普賢菩薩
大将軍(魔王天王)文殊菩薩
歳刑神(徳達神天王)観音菩薩
歳破神(達尼漢天王)勢至菩薩
歳殺神(良侍天王)日光菩薩
黄幡神(侍神相天王)月光菩薩
豹尾神(宅相神天王)地蔵菩薩
大陰神(倶摩良天王)龍樹菩薩
東王父普賢菩薩
西王母虚空蔵菩薩
蘇民将来薬王菩薩
粟佐利女薬上菩薩
蛇毒気神弥勒菩薩
海龍王龍樹菩薩

『秘密心点如意蔵王呪経』『普賢経』等

『秘密心点如意蔵王呪経』『武答天神王経』は「赤山大明神事」の『仏説武答天神王秘密心点如意蔵王陀羅尼経』と同一と思われる。
『祇園牛頭天王縁起』[LINK]には
秘密心点如意蔵王呪経曰、爾時世尊放一光明都跋羅国、光明普照彼国、還摂世尊頂上、忽然光中現牛頭天王与八大王子・五龍王・及無数眷属、倶来詣会中、世尊前告言、咄大善男子、蒙我勅否、時天王脱着無価瓔珞、献釈尊、而作是言、我従過去年化度願、当仏勅、爾時世尊微笑、放大光明、照天王身、如閻浮檀金色、而作是言、汝善男子、医王調御師、過去無量劫来、以慈悲心、利益一切受苦衆生、舎衛国人民遇七種悪病死悶遠、亦為邪毒鬼王、𠵇精気、速救大苦悩云々、時天王説七種神呪、発十五大願、抜救受苦、化度衆生云々
とある。

『天形星真秘密』は天野信景『牛頭天王弁』[LINK]には
天刑星秘密儀軌〈三巻、不空三蔵の訳す所也〉、牛頭天王癘魂を縛撃し、疫難を禳除する事有り〈牛頭天王修法、此儀軌に在り〉
とある『天刑星秘密儀軌』と同一の書であろう。
『天形星真秘密』や『秘密心点如意蔵王呪経』は台密において制作された偽経・偽軌の類と思われる。

『牛頭天王経』『波利釆女経』『八王子経』などと、種々の経典があったかのように述べられているが、個々に存してかどうか甚だ疑わしい。 恐らくは牛頭天王縁起のことを色々に称したと思われる。

『普賢経』は『薬宝賢経』の誤記と思われる。
『祇園牛頭天王縁起』[LINK]には
又如薬宝賢経説曰、爾時世尊得文殊問、答牛頭天王行、今此会中、有一菩薩、名牛頭天神菩薩、従無量劫来、成就大慈大悲、善修習無量法門、為諸衆生、令安穏、故出現於世云々、然又天王不本誓、為化受苦群情、権号素盞烏尊、垂跡於吾朝、来鎮護皇城、抜済人民、[中略]爰吉備大臣詣至霊壇、其時天王親告曰、我是牛頭天王、本師薬師如来也云々、復日、口噛四牙、身生万針、左手捧日輪、右手擏月輪、左足極東雲、浄瑠璃界薬師如来也、右足尽西霧、安養界阿弥陀仏也、鎮兼薬師・弥陀之力用、普厳飾十二・六八之誓願、次梵髪中戴牛頭、是妙法蓮華経也、何者、則五味之中、醍醐味為病即消滅之薬王也、三車之中、大ナルハ白牛車、仮後生善処之引導、爰知罸巨端者、雖匪一朝之忿、為邪見放逸之凡愚、人々早飄心中無慚之貪欲、修慈悲哀憐之本誓、流入薩般若海、増進無上善心、有衆病悉除之、憑垂四生恐怖之憂、現世成就、福智両足、当来往生安養浄妙者
とある。
権号素盞烏尊、垂跡於吾朝」とあるから、我が国において制作された偽経である事は言うまでもない。
(西田長男『神社の歴史的研究』、「祇園牛頭天王縁起の成立」[LINK]、塙書房、1966)