『神道集』の神々

第三十六 上野国一宮事

上野国一宮の抜鉾大明神は人皇二十八代安閑天皇の御代に日本に渡来し、乙卯年[535]三月中頃に上野・信濃の国境の笹岡山に鉾を逆立てて坐した。 ある伝によると、阿育大王の姫宮、倶那羅太子の妹である。
南天竺の狗留吠国に玉芳大臣という長者がいた。 長者には娘が五人いて、上の四人は波羅奈国・毘舎利国・斯羅奈国・沙陀国の大王の后になっていた。 末娘の好美女だけは未婚で家にいた。 この姫は国中に並ぶ者が無い美人で、舍留吠国の大王の后に成る事が決まっていた。
狗留吠国の王はこれを聞いて、自分の后にしようとした。 父の長者は、十六大国の大王の后ならともかくこんな小国の王の后にはしたくないと断った。 狗留吠国の王は大いに瞋り、夜討ちをかけて長者を殺し、好美女を后に迎えようとした。
好美女は父母の敵の国に住むのは口惜しいと、抜提河の真中に降魔の鉾を立て、その上に好玩団を敷いて住んだ。 狗留吠国の王がその河も自分の知行地であると云うと、好美女は鉾を抜き、二人の美女に好玩団を持たせ、好且・美好という二人の船頭を供として、天甲船に乗り笹岡山にやって来た。 好美女は船を山の峯に伏せて、船の中に抜提河の水を保ち、劫末の火の雨をこれで消す事を誓った。

諏方大明神は母神の住む日光山に通う内、好美女と知り合って夫婦と成った。 諏方下宮の女神がこれに立腹したので、上野国甘楽郡尾崎郷の成出山に社を建て、好美女を住まわせる事にした。 美女の一人は船を守るために笹岡山に留まり、荒船大明神と成った。 二人の船頭の末裔は、今は尾崎の社務と大明神の宮官を務めている。
抜鉾大明神の本地は弥勒菩薩である。

当国は赤城大明神が一宮だったが、今では赤城は二宮となり、他国の神である抜鉾大明神が一宮である。 赤城大明神が絹布を織っている内に絹笳が不足した。 狗留吠国の好美女は財の君なので、赤城大明神は絹笳を借用して織り上げた。 これほどの財の君を他国に移らせるのは惜しいと思い、赤城大明神は二宮となり、当国の一宮を好美女に譲った。

好美女は抜提河から鉾を抜いて脇に挟んでこの国に来たので、抜鉾大明神という。

抜鉾大明神

一之宮貫前神社[群馬県富岡市一之宮]
祭神は経津主命・姫大神。
式内社(上野国甘楽郡 貫前神社〈名神大〉)。 上野国一宮。 旧・国幣中社。
史料上の初見は『新抄格勅符抄』巻十(神事諸家封戸)大同元年[806]牒[LINK]の「上野抜鋒神 二戸」。
総社本『上野国神名帳』[LINK]には鎮守十社の筆頭に「正一位 抜鉾大明神」とある。

『上野国一宮御縁記』[LINK]によると、上野国一宮の抜鉾大神は南天竺の相悲国の玉王大臣の乙姫である。 教倒四年[534]三月十五日、三人の供を連れて天早船に乗って本朝に渡り、上野・信濃の境の蓑岡山に鉾を立て降臨した。 諏訪大明神と契りを結び、諏訪下宮の嫉妬により、上野国甘楽郡尾崎郷丸山崎菖蒲谷に遷った。 ある時は美女として現れ、ある時は大きな光物に変じて飛び回った。 大海人皇子(天武天皇)が碓氷郡に流されていた頃、狩猟のため丸山崎に行幸された時、皇子の肩に光物が飛びついて「我は是れ南天竺の者なり。衆生済度の為に本朝に来り」と託宣した。 これにより、白鳳六年[666]三月十五日に菖蒲谷に社殿が建立された。 三人の供は、新船(荒船)大明神、鷺(咲前)大明神、稲含大明神として顕れた。

『一宮御本地堂縁起』[LINK]によると、上毛の国の一宮抜鋒太神の本地は多聞天(毘沙門天)の尊像である。 養老年中[717-724]、東夷征伐の勅命を蒙った兵庫宿禰の夢に多聞天が示現し、 「われは是、日頃汝が信心なる処の軍神の多聞天なり。当国貫前宮は我が分神なれば長く此土に止つて天下の守護をなすべき間、軍終らば彼の処に一宇を立、我を安置せよ」と告げた。 宿禰はそのお告げに従って金色の毘沙門天像を得て、朝敵を亡ぼして凱旋し、本地堂を建てて尊像を安置した。
昔、抜鉾大神の鎮座の時、悪神が荒船山の方から雲を起こして鎮座を妨げようとした。 この時、毘沙門天の神通の兵が現れて、悪神を追い退けた。
その後、一人の旅僧が来て、尊像を直に拝するのは畏れ多いと、自ら弥勒像を作って中に尊像を納めたので、一宮の本地は弥勒菩薩となった。

『上野志』[LINK]には、
「貫前神社 菖蒲庄一の宮 名神大〈俗説に、昔磯部に貫前社あり、今略して前宮といふ。小社残れり。さきの宮と号す。同所に尾崎といふ村あり〉」 「菖蒲の谷に荒船・稲含の迹を垂る。安閑天皇二年[535]、現当国、経津主神
とある。

毛呂権蔵『上野国志』[LINK]
「抜鉾神社 一宮村に鎮坐、これ順和名抄所謂貫前の地なり、抜鉾は社号なり、故国史或は抜鉾と曰、或は貫前と云、祭神経津主命〈一宮記〉、異説神社本記(『先代旧事本紀大成経』巻七十一)曰、金橋宮天皇〈安閑天皇〉時、若桜宮天皇〈神功皇后〉魂、従洲輪〈諏訪〉遷至鎮坐、元坐洲輪下宮」
とある。

『北甘楽郡郷土誌』[LINK]には、
「貫前神社 一之宮町にあり国幣中社貫前神社と言ひ、経津主命を祭る(古は抜鉾明神と云う)命御名を斎主命と称へ、延喜の制名神大社に列し後上野国一之宮と称し現今に至る、太古鴻濛の世天神天祖の勅を奉じ大将軍として彼の不順を逐ひ国土を拓き東国を定むるに方り、諏訪大神不服にして信濃国に據り勅命に反く、大神此の地に本営を定め給ひ、天照皇大神を祀り荒船山に出陣し、信濃国に攻め入り征伐帰順せしめ荒船と碓氷の嶺に国境を定め、其鉾を抜て此地に立て給ひしより抜鉾明神を以て即ち其当時の創始にして、所謂神代鎮座の大旧社なり」「社殿は人皇二十七代安閑天皇の御宇[532-535]と白鳳三年[663]三月修造せりと云ふ」
とある。

「上野国九ヶ所大明神事」では、抜鉾大明神を俗体(弥勒)・女体(観音)の二神としている。 これについて、尾崎喜左雄は貫前神社と抜鉾神社とは本来は別の神社だったとする二神二社説を提唱した。
同説によると、本社の祭神は以下の二系統に分けられる。
・荒船系統 荒船山、荒船神社、女神、弥勒、帰化人崇敬 — 貫前神社、小舟神社
・稲含系統 稲含山、稲含神社、男神、観音、物部崇敬 — 抜鉾神社、咲前神社
本社には本地堂が二ヶ所(弥勒堂・観音堂)在った。 弥勒堂はその延長上に荒船山を礼拝するように配置されており、「上野国一宮事」が述べるように荒船系統の女神(貫前神)の本地仏は弥勒であった。 しかし、武士の勃興と共に稲含系統の男神(抜鉾神)が崇敬を集めるようになり、一方で観音を女体とみなす信仰が起こり、「上野国九ヶ所大明神事」のように本地仏の混同を招いたと考えられる。
(尾崎喜左雄『上野国の信仰と文化』、「上野国上代神社についての一考察」[LINK]、尾崎先生著書刊行会、1970)
垂迹本地
抜鉾大明神俗体弥勒菩薩
女体観音菩薩

荒船大明神

荒船神社[群馬県甘楽郡下仁田町南野牧]
祭神は経津主命。
一之宮貫前神社の境外摂社。
一宮本『上野国神名帳』[LINK]には甘楽郡に「正一位 荒船大明神」とある。

『上野国志』[LINK]には、
「荒船宮 西牧、信州の界上にあり、上州西畔の最高山なり、状ち屋宇の如く、山上平なり、故に搏風山といふ、其平かなる事砥の如し、故に又砥山とも云ふ、これ抜鉾大明神最初の鎮座地なりと云、菖蒲池と云処もあり〈尭恵の紀行に、白雲山、并あら舟の御社みゆと云へり、菖蒲池綾女に作るべし、一宮、小幡のあたり、総て綾女庄と云〉」
とある。

『北甘楽郡郷土誌』[LINK]には、
「荒船神社 南野牧村字里宮にあり、天武天皇白鳳二年[662]の勧請にして、経津主神を祭る」
とある。

諏方大明神・諏方下宮

参照: 「諏方縁起事」諏方大明神

赤城大明神

参照: 「上野国勢多郡鎮守赤城大明神事」

【参考】貫前神・抜鉾神の信仰関係社

稲含神社(甘楽郡下仁田町栗山)
祭神は宇迦之御魂神。
一之宮貫前神社の境外摂社。
一宮本『上野国神名帳』[LINK]には甘楽郡に「正一位 稲含明神」とある。

『上野国志』[LINK]には、
「稲含神社 栗山村の深山の頂上にあり。祭神、一説抜鉾大神第二の鎮座の地なり。この処より今の一宮の地に遷坐し玉ふとも云ふ。本地は弥勒菩薩と、祝氏の説なり」
とある。
咲前神社[群馬県安中市鷺宮]
祭神は経津主命。
旧・村社。
総社本『上野国神名帳』[LINK]には碓氷郡に「従五位 咲前明神」とある。

『碓氷郡志』[LINK](『東横野郷土誌』の記事を採録)には、
「祭神経津主命、建御名方命を征し給はんとて荒船山に御出陣の砌御宿営あらせられし地と伝ふ。降て人皇二十八代安閑天皇の御宇、雷斧石と称する武器三個出現せるを以て新に宮殿をこの地に造り経津主命の神霊を奉祀す。依て時の守護司より奏達に及び、奉幣使として小倉季氏朝臣を遣はされ、之より相続き小倉氏神主として代々祭祀を掌るに至れり。季氏から十一代侍従介邦平の時神託に依て同国神楽の里蓬ヶ丘菖蒲谷に遷座せり。之れ今の北甘楽郡一の宮なり」「之より神楽の里を宮と称し、当社の地を前の宮と呼ぶに至り、前の宮は後に鷺の宮となり現今の村名となれるものなり」
とある。
小舟神社[群馬県富岡市富岡]
祭神は経津主命。
旧・村社(一之宮貫前神社の元・境外摂社)。
総社本『上野国神名帳』[LINK]には甘楽郡に「従五位 小船明神」とある。

『上野志』[LINK]には、
「瀬下村に小舟の宮あり。古来荒船と申伝ふる由」
とある。

『北甘楽郡郷土誌』[LINK]には、
「小舟神社 富岡町字下町にありて当郡一之宮町国幣中社貫前神社の摂社にして鎮座は或る私書に依れば白鳳七年[667]三月十五日にあり、瀬下郷の内字小舟に社畠と言伝ふる地あり、始め茲に鎮座せしものにして其後寛永年間富岡新田検地の内卜町雷電領壱段二歩を社地と定め万治二年[1659]遷座す」 「尚当社は一之宮貫前神社の前宮にして一之宮に参詣する人は先ず小舟神社を拝し後貫前神社に参拝する吉例なりしといふ」
とある。