『神道集』の神々
第十六 上野国九ヶ所大明神事
一宮を抜鉾大明神と云う。 俗体は弥勒菩薩、女体は観音菩薩である。二宮は赤城大明神と云い、三所に御在す。 大沼は本地千手観音、小沼は本地虚空蔵菩薩、禅頂は本地地蔵菩薩である。
三宮は伊香保大明神と云う。 湯前に崇める時の本地は薬師如来、里に下っての本地は十一面観音である。
四宮は宿禰大明神と云う。 本地は千手観音である。
五宮は若伊香保大明神と云う。 本地は千手観音である。
六宮は春名満行権現と云う。 本地は地蔵菩薩である。
七宮は沢宮小祝と云う。 本地は文殊菩薩である。
八宮は那波上宮、火雷神と云う。 本地は虚空蔵菩薩である。
九宮は那波下宮、少智大明神と云う。 本地は如意輪観音である。
総社と云うのは、本地は普賢菩薩である。
赤城大明神
参照: 「上野国勢多郡鎮守赤城大明神事」赤城大明神参照: 「上野国赤城山三所明神内覚満大菩薩事」赤城山三所明神」
二宮赤城神社[群馬県前橋市二之宮町]
祭神は大穴牟遅命。 一説に国常立尊・大国魂命とする。
式内論社(上野国勢多郡 赤城神社〈名神大〉)。 上野国二宮(論社)。 旧・郷社。
総社本『上野国神名帳』[LINK]には鎮守十社の第二位に「正一位 赤城大明神」とある。
史料上の初見は『続日本後紀』巻第八の承和六年[839]六月壬申[19日]条[LINK]の
上野国の無位抜鋒神・赤城神・伊賀保神に並びに従五位下を授け奉る。であるが、この赤城神が何れの赤城神社(大洞、二宮、三夜沢)に該当するかは未詳。
毛呂権蔵『上野国志』の二宮神社の条[LINK]には
二宮神社 二宮村にあり。 源頼朝の建立。其後北條氏直が為に毀却せらる。 牧野右馬丞再造。 赤城神の同体なり。 祝家説に、祭国常立尊、大国魂命。〈牌篇曰、赤城二宮〉 神主六谷田氏。 本地堂。〈十一面観音〉 別当大胡玉蔵院。〈新義真言〉とある。
古市剛『前橋風土記』下巻の二宮神社の条[LINK]には
二宮神社 勢田郡に在り。 地、神社に因て名を得、二宮村と曰う。 神祝伝て曰く、頼朝始て神社を此地に立つと。 北條氏直上野に到るに及んで之れを毀破し空林に斉うす。 今存する所の神殿は牧野右馬丞焉を造立す。 牌篇写して正一位と曰う。とある。
『赤城皇太神宮御鎮座略本紀』[LINK]には
(三夜沢赤城神社の)東西両宮の離宮あり。 南三里許、赤城二ノ宮大明神と号。 毎年卯月・師走の初辰の日、神衣祭をは二ノ宮大明神行幸ならせ、御衣規式執行せ玉ふ。 当社と二宮との際長徒なるの故、仮に神輿を安置せるの地を輿懸と曰て柏倉邑(前橋市柏倉町)あり。とある。
『上野国赤城山御本地』[LINK]では高鍋之左大将家成(赤城山大明神)の三人の姫(観音・地蔵・虚空蔵の化身)を二宮三躰明神とする。
仁王十七代仁徳天皇の御宇に当て、上野国主をば、高鍋之左大将家成卿迚おはしけるか、くわほふ勇々敷ましまして、姫君三人持給ふ。 一は十六夜之上と申、其次は弥生、御妹の御名をば桜御前と申。 何れも幼稚にましましとも、御形いつくしく、父母の寵愛限りなし。
深津に心とまらねば、二宮という所に、暫く休足被成ける。 爰ぞ住べき所ぞと、斯而爰に住給ふ。 三人の姫共は、元より仏の化身にて、衆生利益の為なれば、(履中三年[402])七月十五日と申には、何れも空敷 成給ふ。
其の比の帝をば、履中天皇と申奉る。 右之次第を奏聞す。 帝ゑい(叡)慮ましまして、前代希なる事也と、神に祝し申さん迚、左大将家成をば赤城山大明神、三人の姫共は二宮三躰明神と仰べしとの宣旨也。 履中四年癸卯[403]二月十二日に、社を建立ましまして、正一位赤城大明神と勅額を被下。
明治神社誌料編纂所『府県郷社 明治神社誌料』上巻の二宮赤城神社の項[LINK]には
創立年代詳ならず。 但、口碑に垂仁天皇の御宇[B.C.29-70]の創建なりと伝ふ。 後冷泉天皇御宇[1045-1068]、勅願所として仏舎利の奉納ありしが〈○社蔵扁額〉、後鳥羽天皇建久年間[1190-1199]源頼朝深く尊信じ、宮殿を営み地百石を寄奉る。
当社は往古以来毎歳四月十二月の初辰の日に、本郡宮城村県社赤城神社へ神幸あり。 近刊の大日本地名辞書[LINK]は、国帳の勢多郡従五位上赤城若御子明神を以て当社に擬せり。とある。
尾崎喜左雄「赤城の神の信仰をめぐって」[LINK]には
この二宮赤城神社こそ、平安時代の末期からよばれている二宮、すなわち一宮の貫前神社や三宮の伊香保神社とならぶ二宮の赤城神社と考えている。 一宮の鎮座地が一宮、二宮の鎮座地が二宮、三宮の鎮座地が三宮とよばれたのは、どこも同じである。 二宮神社の境内には、鎌倉時代の塔の遺跡や、石塔などがあり、その附近の無量寿寺には、鎌倉時代の等身大の地蔵菩薩の立像があるうえ、さらに古いと思われる観音菩薩の木像がある。 [中略] 二宮には鎌倉時代のものが多いことになって、その頃に二宮赤城神社が栄えていたことがわかる。とある。
(尾崎喜左雄『古墳のはなし』、「赤城の神の信仰をめぐって」、世界社、1952)
宿禰大明神
参照: 「上野第三宮伊香保大明神事」宿禰大明神若伊香保大明神
参照: 「上野第三宮伊香保大明神事」若伊香保大明神春名満行権現
榛名神社[群馬県高崎市榛名山町]祭神は火産霊神・埴山毘売命。 一説に元湯彦命または埴安神とする。
式内社(上野国群馬郡 榛名神社)。 上野国六宮。 旧・県社。
総社本『上野国神名帳』[LINK]には鎮守十社の第六位に「正一位 榛名大明神」とある。
『榛名山志』には
本社 祭神三座
東相殿 饒速日尊
中殿 元湯彦命
西相殿 熟真道命
神伝は略して記さず。 三神一社号を満行宮大権現と曰ふ。 人皇二世綏靖天皇御宇[B.C.581-B.C.549]鎮座、三十二代用明天皇御宇[585-587]始建社祭焉。
一に吉田の説とて、
東殿 国常立尊
中殿 伊弉諾尊・伊弉冊尊
西殿 大己貴命
右の説甚怪むべし。
霊容巌 本社の上にあり。高さ三四十丈、巍然として孤立す。 岩頭くひれて人の頸領の如し。 洞穴あり、本社この岩穴を蓋ふ。
本地堂 勝軍地蔵菩薩とある。
『上野国志』の榛名山の条[LINK]には
榛名山、満行大権現と云。 延喜式曰、群馬郡椿名神社。 神社本紀(『先代旧事本紀大成経』巻七十一)曰、背野国、秦名神祠、高丘宮天皇(綏靖天皇)時、元湯彦大神至這国鎮坐。先是、橿原宮天皇(神武天皇)時、与父神美真遅大神、伏夷賊、亦戦大力之悪神、威殺之、威伏之、依之此神主勝軍道。 大成経皇孫本紀曰、元湯彦命者、真道見命子、母石長媛命、葛城高丘宮御宇天皇時、元為足尼、次為申食国政大夫、奉斎大神、倶父命神、前征東夷、至尾張国、戦猛力雄 神、此神力至強、常食以神児、対元湯彦神、競戈相闘 、猛力雄神遂屈請服、赦之、尚撃至参河国、伏隠飡 彦鬼、尚至科野国、殺縁長祇 鬼、還上佐万機、寿百十万七千五百八十五歳、登廿瀬峯、刺山而入、双槻宮(用明天皇)御宇天皇之御代、出毛上国秦名山峯、形人神名云満行権現。
謹按神史、元湯彦命者、天照太神五代之孫也。 〈天照皇太神、天忍穂御水尊、饒速日尊、熟美真味命、元湯彦命、物部遠祖也。十巻旧事本紀、天孫本紀、彦湯支命、亦名木開足尼とあるは、元湯彦命と同神なり〉
別当岩殿寺満行院、天台宗東叡山兼帯。 社壇は盤石に作掛てあり、其巌宮の上に蓋ふ。 社の四辺、奇石怪岩、重畳環峙て、実に仙境と云うべし。 其宮上を蓋ふ高岩を、御姿と云。 本地堂勝軍地蔵。とある。
『群馬県群馬郡誌』の榛名神社(室田町)の項[LINK]には
創立は社伝に據れば神武・綏靖両朝の御宇[B.C.660-B.C.549]饒速日命の御子可美真手命及び孫彦湯支命東国戡定の任果てゝ榛名山中に薨ぜりとも言ひ伝へ、山上に神籬を立てゝ天神地祇を祭り皇孫を寿り奉り、永く東国五穀の豊穣を祈り鎮護国家の霊場なりしといふ。 用明天皇元年[586]四月八日始めて斎祀が行はれ鎮魂祭の遺法に因り十月中の寅の日を以て皇祖の無窮皇孫の天寿を祝福し奉るといふ、祭神は土御祖埴山毘売神・火御祖火産霊神なり。とある。
尾崎喜左雄『上野国神名帳の研究』[LINK]には
榛名神社の鎮座地は所謂深山幽谷にあたり、奇岩、奇渓の存在する地である。 密教徒或は修験者の好む地と考えられる。 巌殿寺の名があるように、本殿は御姿岩という男根状の奇岩の根方の洞窟内にあり、女陰と見られている旧弁天社傍の渓谷がある。 自ら金胎両曼茶羅を具えた地である。 『神道集』では「春名満行権現」といい、榛名神社所蔵の中世文書には「榛名寺」、「榛名山寺」、「榛名満行権現」とし、「寺領」と記して、「社領」とは言っていない。 ほとんど寺院扱いである。
榛名神社は榛名寺と一体を為していたようである。 本地仏は将軍地蔵であり、この地蔵に固定したのは十三世紀(鎌倉時代)末あたりであろう。 しかし、すでに建久元年(1190)十二月の留守所の下文には「榛名御山謂垂跡、謂本地、旁以鎮護国家、恒化修良之霊地也」とあって、その前文に榛名寺領とのせ、神仏習合の度が極めて高度だったことが知られる。とある。
(尾崎喜左雄『上野国神名帳の研究』、第4章 古文献に見える上野国の諸神、第2節 延喜式内社、尾崎先生著書刊行会、1974)
井田安雄「榛名信仰」には
「満行権現」とは榛名神社の仏名で、『神道集』(十四世紀中頃成立)の「上野国九ヶ所大明神事」の項に、「六宮ヲハ春名満行権現ト申ス、本地ハ地蔵菩薩也」とある。 満行の名は、現在でも、旧群馬郡や碓氷郡下に、地名(ここには、榛名神社が鎮座)や、寺院関係の名称として残っている。
中世古文書の中にも、次のように、満行寺、あるいは満行権現の名がみえている。とある。
・六宮春名満行権現(『神道集』、前出)
・榛名山満行寺(応安四年=1371年、頼印僧都御教書)
・榛名満行権現(永正十年=1513年、箕輪城主長野伊予守立願状)
なお、このことに関連して、文化十一年(1814)上野寛永寺よりの尋書の回答の中に以下の記述がある。榛名神社満行宮鎮座、本殿埴安神、本地地蔵菩薩、左相殿 国常立命、本地不動尊、右相殿 大己貴神、本地 毘沙門天また、天明四年(1784)の崇敬者および天台一門宛の、榛名神社社頭造替費勧化のための輪王寺一品大王の令旨によると、
右三神一社に満行宮と祭来候上野州榛名山大権現者本地将軍地蔵尊にして、天下泰平五穀成就之神社也とあり、本地仏を将軍地蔵としているとある。 これについて、今井善一郎氏は、『神道集』の、「本地ハ地蔵也」の記事をもととして、将軍地蔵の信仰は、中世の武家政治の影響によって、勝軍の二字が地蔵の上に加えられたものと解釈している。
以上の資料によってみると、中世においては、榛名神社は神仏習合の形をとり、地蔵信仰と一体となっていたことがわかる。 榛名神社の本殿は、現在の拝殿から続く御姿岩そのものを本殿として、そこにご神体がまつられているといわれる。 そして、榛名神社の神札に示されているように、御姿岩そのものが、地蔵菩薩の姿をあらわしたものと考えられている。
(『山岳宗教史研究叢書(8) 日光山と関東の修験道』、「榛名信仰」、名著出版、1979)
沢宮小祝
小祝神社[群馬県高崎市石原町]祭神は少彦名命。
式内社(上野国片岡郡 小祝神社)。 上野国七宮。 旧・郷社。
総社本『上野国神名帳』[LINK]には鎮守十社の第七位に「正一位 小祝大明神」とある。
史料上の初見は『日本三代実録』巻第三十七の元慶四年[880]五月二十五日戊寅条[LINK]の
上野国の正四位上勲八等貫前神に従三位勲七等、従四位下赤城石神・伊賀保神に並びに従四位上、正五位下甲波宿禰神に従四位下、正五位下小祝神・波己曽神に並びに正五位上勲十二等を授く。
『上野国志』の小祝神社の条[LINK]には
小祝神社 石原村にあり。 [中略] 本地薬師仏。とある。
『群馬県群馬郡誌』の小祝神社(片岡村)の項[LINK]には
正徳年中[1711-1716]別当石昌寺四世住職亮珍城主間部越前守に乞ひて新に神殿を造営し享保二年[1717]に落成せり。 現今の本社是なり。 蓋し其の前一宇仮殿ありて祭神を少彦名命とし社号を小祝神社と云ひ古来より祭りしが如し。 今社傍の田地に小祝名所の号あり。 是れ往古の神殿なるべし。とある。
火雷神
火雷神社[群馬県佐波郡玉村町下之宮]祭神は火雷神。
式内社(上野国那波郡 火雷神社)。 上野国八宮。 旧・郷社。
総社本『上野国神名帳』[LINK]には鎮守十社の第八位に「従一位 火雷大明神」とある。
史料上の初見は『日本後紀』巻第五の延暦十五年[796]八月甲戌[16日]条[LINK]の
上野国山田郡の賀茂神・美和神、那波郡の火雷神を並びに官社と為す。
『上野国志』の火雷神社の条[LINK]には
火雷神社 下宮村にあり。 神事十月季の午日に入、十とある。二 月初の午日に開く。 神事の入日は土人井田氏を冒る者これを行ひ、開く日は高田氏なる者行之。 別当東林寺相共に執行す。 東林寺は真言宗、瀧村の慈願寺の末寺なり。
『佐波郡神社誌』の火雷神社(芝根村)の項[LINK]には
当社創立は人皇第十代崇神天皇の元年[B.C.97](大正十二年を去ること二千有余年)なり。 景行天皇五十七年[127]東国大都督御諸別王始めて之を奉ると称す。
当社に古式の神事あり。 第五十六代清和天皇貞観四年[862]より毎年陰暦十月末の午日の夜丑の刻秘密神事を行ひ翌十一月初めの午日まで十二日間境内に注連縄を張り衆庶の出入を禁ず。 若し過ちて注連の内に犯し入る者あらば忽ち大風或は雷鳴を起すと云ふ。 而して此神事中は特に村中鳴物高声を禁じ各謹慎す。 古昔より伝へて那波神事と云ふ。とある。
尾崎喜左雄『上野国神名帳の研究』[LINK]には
この神社は『延喜式神名帳』大和国忍海郡の葛木坐火雷神社に関係あるものと見られる。 火雷神社の下之宮に対して、伊勢崎市大字上之宮鎮座の倭文神社を上之宮と称しているが、この神社は同書の大和国葛下郡の葛木倭文坐天羽雷命神社の関係が考えられる。 ところが、この両神社は『神道集』巻第三、十六上野国九ケ所大明神事に於ては混同され、はっきりしていない。 すなわち、
八宮 那波上宮 火審神 本地虚空蔵菩薩
九宮 那波下宮 少智大明神 本地如意輪観音
となっている。 火審神は火雷神の誤であろう。 火雷神ならば那波下宮であるべきで、これが上宮となっているのが不審である。 火雷神の本地仏が虚空蔵であることは首肯できるが、これも『神道集』巻第八、四十八上野国那波八郎大明神事とあるうちに其夜ニ震動雷電大雨ヲ雨ラシ、大虵ハ那波郡へ下リテ 下村云処ニ神ト顕レ下(給)テ今ノ世ニ八郎大明神ト申ハ即是也とあり、また、同項に白雲衣ノ権現ハ本地虚空蔵菩薩也 八郎ノ大明神本地薬王菩薩也とあって、那波八郎大明神は薬王菩薩となっており混乱されているようである。
『神道集』に見える那波八郎大明神は八宮を指しているものではあるまいか。 上野国には一宮から九宮まで存在するのであって、この成立は国司勢力が衰え、神祇祭祀が国司の手を離れて、総社が独立はじめた頃と見られる。 [中略] 八宮は那波上宮、九宮は那波下宮でよろしいようであるが、八宮は倭文郷に鎮座していたものであろうし、たとい、祭神は間違えても、神社の称号と鎮座地は一致していたものと見られよう。 したがって、八宮は倭文神社を指すのであり、九宮は火雷神社にあたることは明らかである。
また、「那波八郎大明神」という神名は、八宮にヒントを得て名づけられたものではなかろうか。 ところが『神道集』の「上野国那波八郎大明神事」には、「今ニ八郎大明神ト申ハ即是也」とあって、「八郎大明神」という神社があったかにもとれる。 伊勢崎市の郷土史家渡辺敦氏は火雷神社の通称ではなくして、別に八郎大明神があったと提唱されている。 本地仏が薬王菩薩と『神道集』にあることは、確かにこれを裏附けている。
八宮を火雷神としている『神道集』の編者は、八郎大明神というところから八宮にあわせ、雷神というところから火雷神に附けたものではあるまいか。とある。
(尾崎喜左雄『上野国神名帳の研究』、第4章 古文献に見える上野国の諸神、第2節 延喜式内社)
佐藤喜久一郎『近世上野神話の世界』には
火雷神社の「那波神事」は、神社境内に注連縄を張り、闇のなかで行われる特殊神事で、旧暦冬十月に行われる。 その起源は分らないが、神官和田義弓は明治二十八年[1895]の「郷社火雷神社調書」で、その由緒を以下のように説明している。
[中略]
さて和田義弓は、この神事を五穀豊穣の祭りであると説明して、そのはじまりを、那波八郎による妖怪退治に求めている。 貞観四年(862)の十月から翌月にかけて、この国の空は闇に暗く閉ざされ、しかも大雪が積もって道が塞がれた。 そして妖怪が現れ、子供をさらって喰った。 時に乗じて盗人が跋扈し、上野国は不穏な空気に包まれた。 那波郡の郡司は都に上って、このことを朝廷に訴え、僧侶と武士(後の那波八郎)が妖怪退治に遣わされた。 僧は「社辺清地」に神壇を設けると、「妖恠降伏理生安民法」を行い、七日目に満願となった。 このとき、ついに妖怪が現れた。 神壇の神鏡を奪おうとする妖怪に八郎が立ち向かい、これを斬って退治することができた。 切られた妖怪の角が後に淵と変じて「角淵」となり、その手が捨てられたところは「神ノ手」(上ノ手)と呼ばれるようになった。 怪物自体にも神威があったので、角折明神という神に祀られた。 こうして妖怪が倒されると、時をおかずして雪は溶け、春のような気候となった。 朝廷は妖怪退治の功を賞して、八郎に那波郡を与え、八郎は在地の茂木長者の娘と結ばれて、那波郡下之宮には「黒木殿」という名の「八郎殿居館」が造られた、と説かれている。
和田義弓がこうした伝統の創造に成功する以前においては、「那波神事」の起源は八郎伝説ではなく、別の伝説と結びつけられて説明されていた可能性が高い。 それを強く示唆する資料がある。 最近になって私は、元氏子総代の高田通昭氏の協力により、これまで知られていたものとはまったく異なる「那波神事」の由来を、版木の状態で発見することができた。とある。
[中略]
第一の部分は「那波神事」の起源の説明である。 神代の聖武天皇の頃、「雪鬼」が雪を降らせて道を塞ぎ、人家に侵入して人民を取り喰った。 雪解けとともにこの知らせを聞いた天皇は、次の冬には自ら甲冑をつけ、帯剣して「悪魔降伏之法」を行った。 鬼はそれによって倒されたので、代々の天皇がこの法の執行を続けてきたという。
[中略]
第二・第三の部分には「那波神事」の歴史が述べられる。 断片的な伝承が不整合なままに並べられていてきわめて分かりにくいが、以下のような内容と考えられる。
清和天皇が「頭陀行」のために関東に下向し、まず武蔵国の勅使河原五郎三郎の元に身を置いたが、何らかの事情から、五郎三郎の屋敷に落ち着くことはできなかった。 そこで茂木長者という人が新たな屋敷(長者屋敷)を造り、三種の神器を安置したので、内裏と同じように、毎年の「那波神事」を行うことができた。 清和天皇が「那波神事」の時に奉幣した山が今の「御幣山」であり、その崩御の後に「火薨」した場所が「清和天皇宮」と呼ばれているという。
(佐藤喜久一郎『近世上野神話の世界』、第3章 『神道集』と「在地縁起」、岩田書店、2007)
火雷神社と八郎大明神の関係については「上野国那波八郎大明神事」も参照のこと。
少智大明神
『勢多郡志』[LINK]には少智大明神というのは不明であるが、上宮は現在は倭文神であり、上野国神名帳にも少智大明神はみえず、倭文神があり、式内社にも数えられているので、倭文神とみるのが正しいと思う。とある。
倭文神社[群馬県伊勢崎市東上之宮町]
祭神は天羽槌雄命。
式内社(上野国那波郡 倭文神社)。 上野国九宮。 旧・郷社。
総社本『上野国神名帳』[LINK]には鎮守十社の第九位に「従一位 倭文大明神」とある。
史料上の初見は『日本三代実録』巻第三の貞観元年[859]八月十七日庚子条[LINK]の
上野国の正六位上倭文神を官社に列す。
『上野国志』の倭文神社の条[LINK]には
倭文神社 上宮村にあり。 [中略] 別当慈眼寺〈真言宗新義也〉とある。
『佐波郡神社誌』の倭文神社(宮郷村)の項[LINK]には
当社は人皇十一代垂仁天皇の御宇三年[B.C.27]の創建に係り、清和天皇の御宇貞観元年八月十七日庚子上野国正六位上倭文神をして官社に列し始て官幣に預る。
古は一庄を以て神領とす因て倭文の庄と云ふ。 応仁以来天下乱れ祠宇も又兵火に罹り人心頗る敬神の念を失ひ田園荒廃し社官五名社家等皆散乱せり。 後水尾天皇御宇元和年間[1615-1624]年間徳川将軍家の崇敬厚く寛永年間[1624-1644]に至り新義真言宗慈眼寺実秀を別当と為す。とある。
尾崎喜左雄『上野国神名帳の研究』[LINK]には
同所に所在する新義真言宗豊山派の宮川山普明院慈眼寺[伊勢崎市東上之宮町]が別当であった。 慈眼寺の本尊は観音であり、寺号も観音を示しているし、山号も神社に関係あると見られるので、倭文神社の本地仏は観音であろうと考えられる。
倭文神社の祭神は天羽槌雄命となっている。 『延喜式神名帳』大和国葛下郡の条にはとある。葛木倭文坐天羽雷命神社〈大、月次新嘗〉とある。 この神社を祀る氏族が分祀したものであろう。 「倭文」は「しどり」であり、「しずおり」の転証と言われている。 すなわち平絹であり、これを織る職業集団を倭文部(しどりべ)と称した。 この倭文部の祀る神を倭文神と言うのであり、神名を「天羽雷(あめのはつち)」と称していた。
(尾崎喜左雄『上野国神名帳の研究』、第4章 古文献に見える上野国の諸神、第2節 延喜式内社)
総社
総社神社[群馬県前橋市元総社町1丁目]主祭神は磐筒男命・磐筒女命・経津主命で、赤城大明神・抜鉾大明神・若伊香保大明神・伊香保大明神・岩根(宿禰)大明神・小祝大明神・榛名大明神・浅間大明神・火雷大明神・倭文大明神および上野国内五百四十九社を配祀。
上野国総社。 旧・県社。
『上野国一宮御縁起』には
彼(高野辺左大将家成)の北の方は、惣社大明神と現し給ふ。 普賢菩薩の垂迹也。とある。
総社本『上野国神名帳』[LINK]には
両部習合神道に云、摠社大明神と一宮抜鋒明神とは父子一躰分身の弥勒菩薩、是れ一宮の親也。とある。
『上野国志』の護国霊験総社大明神の条[LINK]には
護国霊験総社大明神 元総社村にあり、安閑天皇甲寅年[534]三月十五日鎮坐。 祭神磐筒男命、並に上野国中五百四十九社を合せ祀る。 本地弥勒菩薩。とある。
『群馬県群馬郡誌』の総社神社(元総社村)の項[LINK]には
抑当神社は崇神天皇四十八年[B.C.50]三月皇子豊城入彦命当国に下り給ひし時、経津主命の武勇を敬慕され軍神として之を奉祀し尋で其の親神にあらせらるゝ磐筒男命磐筒女命を合祀せられしに創りたりと伝ふ。 その後第二十七代安閑天皇元年三月十五日社殿を改築し蒼海明神と称し郷人の崇敬殊に篤かりき。 聖武天皇の天平九年[737]四月国分寺建立に及び国司は当社を遥拝所とし茲に参拝せらるを以て政治の要とし、翌年九月九日国内十四郡五百四十九社を奉招し始めて総社と称へ同社を総社明神と改称せられたりと云ふ。 此の時国司より献納せられし額面今尚存せり。 (護国霊験総社明神とあり) 越えて永仁六年[1238]十二月二日国内の神職此の神社に会合し各社の神名帳を作り是より初めて総社大明神と称せり。とある。
垂迹 | 本地 | |
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抜鉾大明神 | 男体 | 弥勒菩薩 |
女体 | 観音菩薩 | |
赤城大明神 | 大沼 | 千手観音 |
小沼 | 虚空蔵菩薩 | |
禅頂(地蔵岳) | 地蔵菩薩 | |
伊香保大明神 | 男体(湯前) | 薬師如来 |
女体(里下) | 十一面観音 | |
宿禰大明神 | 千手観音 | |
若伊香保大明神 | 千手観音 | |
榛名満行権現 | 地蔵菩薩(勝軍地蔵) | |
小祝大明神 | 文殊菩薩(または薬師如来) | |
火雷大明神 | 虚空蔵菩薩 | |
少智(倭文)大明神 | 如意輪観音 | |
総社大明神 | 普賢菩薩(または弥勒菩薩) |
抜鉾大明神
参照: 「上野国一宮事」抜鉾大明神