『神道集』の神々

第四十一 上野国第三宮伊香保大明神事

伊香保大明神は赤城大明神の妹で、高野辺大将の三番目の姫君である。 高野辺中納言の奥方の弟の高光中将との間に一人の姫君をもうけた。
高光中将は上野国の国司を他に譲ったあと、前の目代(国司代理)であった有馬の伊香保大夫のもとで暮らしていた。 北の方の伊香保姫は父や姉君の亡魂に奉幣するために淵名社へ参詣した。 その帰り道、現在の国司である大伴大将が渡しで河狩りをしているところを通り過ぎた。
大伴大将は輿の簾の隙き間から姫を一目見て忘れられなくなり、国司の威勢で姫を奪おうとした。 伊香保大夫は九人の子と三人の聟を大将として防戦したが、国司は四方から火をかけて攻めたてた。
伊香保太夫は、主人の伊香保姫とその姫君、女房と娘の石童御前・有御前を連れて、児持山に入った。 高光中将はひどく負傷しており、伊香保太郎宗安と共に猛火に飛びこんで姿が見えなくなった。
伊香保太夫は上京して帝に奏聞した。 帝は伊香保姫に国司の職を持たせ、高光中将の娘を上京させるよう云った。
伊香保太夫は目代となり、九人の子を九ヶ所社に祀った。 三人の聟も三所明神として顕れた。 また、伊香保山の東麓の岩滝沢(水沢川)の北岸に寺を建てて、高光中将の遺骨を納めた。 高光の姫君は上京して更衣となり、皇子が生まれたので国母として仰がれた。

月日は流れ、伊香保太夫は九十八歳で、その女房は八十九歳で亡くなった。 伊香保太夫の二人の姫、石童御前と有御前は伊香保姫と暮らしていた。 高光中将の甥の恵美僧正が別当になって寺はますます栄え、岩滝沢に因んで寺号を水沢寺とした。
伊香保姫は夫の形見の千手観音を寺の本尊に祀り、二人の御前と共に、亡き人々の現在の様子を知りたいと祈った。 夢とも幻ともなく、高光中将は鳳輦、伊香保大夫夫妻は網代の輿に乗り、九人の子・三人の聟と共に御堂に入って来て、千手観音に礼拝した。 伊香保大夫の女房は輿から出て、伊香保姫の御前に居を正すと、石堂御前・有御前の肩に袖をかけて、「お前たち二人の『千手経』読誦の功徳により、伊香保山の山神や伊香保沼(榛名湖)の龍神・吠尸羅摩女に遵われ、常に御堂に参詣して信心・慙愧し、悟りを開きました。今は高光中将を主君とし、その眷属として崇められています。これもひとえに君(伊香保姫)とお前たちのおかげです」と云った。 高光中将も鳳輦から出て、北の方に「あなたの祈りにより忉利天の瓔珞の台に生まれることが出来ました。我が身も娑婆に天下って神明の形を現し、衆生済度の縁を以て、一緒に正覚の道に入りましょう」と云った。
夢から覚めた北の方は「沼に身を投げて、龍宮城の力で高光中将の所に行こうと思います」と云って伊香保沼に身を投げた。 石童御前と有御前もその後を追った。 別当恵美僧正と寺僧は三人の屍を引き上げ、水沢寺に運んで火葬にし、御骨を本堂の仏壇に下に収めて菩提を弔った。

その後、恵美僧正の夢の中に伊香保姫が現れ、「我らはこの寺の鎮守に成りましょう」と仰った。
夜が明けて枕もとを見ると、一冊の日記が有り、以下のように記されていた。
北の方は伊香保大明神として顕れた。
伊香保太夫は早尾大明神、太夫の女房は宿禰大明神。
御妹の有御前は父の屋敷に顕れ、岩滝沢(水沢川)から北に今も有御前として鎮座している。
御姉の石童御前は岩滝沢から南に立たれ、石常明神と云う。
中将殿の姫君は帝が崩御された後に国に下り、母御前と倶に神として顕れた。 これが若伊香保大明神である
恵美僧正は夢枕に現れた日記に従い、水沢寺の鎮守として崇敬した。

人皇四十九代光仁天皇の御代、上野国司の柏階大将知隆は朝恩を誇って国土の民を苦しめた。 伊香保山で七日間の巻狩を行い、伊香保沼に乗り馬を沈め、多くの鹿を解体した。 また、多くの藤蔓を切り、沼の深さを測ろうとした。 その夜の夢に一人の女房が現れ「この沼の底は丸くて狭く、白蛇の体(あるいは白地の鉢)に似ている。沼の深さを知りたければ図形を見せよう」と云い、その夜の間に小山を出現させた。 夜が明けると、昨夕までは無かった小山が有り、夢の中で見た通り、上が狭く下が丸かった。 国司はこの図形を描き写して日記を添え、都に奉るため里に下った。 その後、沼は小山の西に移り、元の沼地の跡は忽ち野原になった。
国司は里に下る途中、一頭の鹿を水沢寺の本堂に追い込んで射殺した。 寺の僧たちは殺された鹿を奪い取って埋葬し、国司たちを追い出した。 怒った国司は二王堂に火を付けた。 これは三月十八日のことである。 巽の風が激しく吹き、御堂・坊舎・仏像は悉く灰燼と成った。 別当恵美僧正は上京して委細を帝に奏聞した。 帝は国司を佐渡島に流すよう検非違使に命じた。
伊香保大明神は当国・隣国の山神たちを呼び集めて石楼を造った。 国司の柏階大将知隆と目代の右中弁宗安が蹴鞠をしていると、伊香保山から黒雲が立ち上り、一陣の旋風が吹き下ろした。 国司と目代は旋風にさらわれ、行方不明になった。 大明神が山神たちを遣わして、主従二人を伊香保沼の東の窪の沼平にある小山の上に造られた石楼に追い入れたので、焦熱地獄の猛火が移って、燃えている地獄に入ることになったのである。 焦熱地獄における命は一増一減劫なので、此の人たちは未だ猛火の中で悲しんでいるだろう。 山神たちが石楼を造った山が石楼山である。 この山の北麓の北谷沢には冷水が流れていたが、石楼山が出来てから熱湯が流れるようになり、これを見た人は涌嶺と呼んだ。

恵美僧正は水沢寺を山奥に再建しようと考え、黒沢の南の差出山の弥陀峰の大平に大堂を建立した。
赤城沼の唵佐羅摩女と伊香保沼の吠尸羅摩女が沼争いをした昔から、渋河保の郷戸村には衆生済度のため療治の湯が湧き出ていた。 水沢寺が差出山に建てられた時、番匠の妻子はこの湯で衣類の洗濯をしていた。 大宝元年三月十八日、僧正は一人の老女が「衆生済度の為に出した御湯が汚れ物の洗濯に使われるので、この湯を少し山奥に運ぼう」と温泉の湯を瓶に入れて弥陀峰を越えて行く夢を見た。 僧正が目を覚ますと、一夜の内に温泉が出なくなっていた。 僧正が夢に従って奥深い山に入ると、石楼山の北麓、北谷沢の東窪の大崩谷から温泉が出て、里湯本の伊香保の湯に合流していた。

伊香保大明神には男体女体がある。 男体は伊香保の御湯守護のために湯前に鎮座し、本地は薬師如来である。
女体は里に下って三宮渋河保に鎮座し、本地は十一面観音である。
宿禰・若伊香保の二所は共に本地は千手観音である。
早尾大明神の本地は聖観音である。
有御前の本地は如意輪観音である。
石垣明神の本地は馬頭観音である。

その後、恵美僧正は上洛して行基菩薩の弟子の東円に別当を譲り、水沢寺の完成後に入滅した。 大宝二年二月十八日、東円上人は行基を導師に招いて水沢寺で供養を行った。 この大宝二年から延文三年まで七百一年なので、国司の柏階大将知隆と目代の右中弁宗安の主従二名は七百年以上燃やされている。

実方中将(藤原実方)が歌枕を見に奥州に下る時、伊香保山を見て、
 ちはやふる伊香保の沼の底ふかみ 見し山かつは身をまかすかな
 伊香保山ふもとのみゆにたむけして 苦しきこけは又もすてなん
と詠んだ。 この歌の心は国司の罪障消滅を誓う意味だろう。

伊香保大明神(男体)

伊香保神社[群馬県渋川市伊香保町伊香保]
祭神は大己貴命・少彦名命。
式内社(上野国群馬郡 伊加保神社〈名神大〉)。 上野国三宮。 旧・県社。
総社本『上野国神名帳』[LINK]には鎮守十社の第三位に「正一位 伊香保大明神」とある。

史料上の初見は『続日本後紀』巻第四の承和二年[835]九月辛未[29日]条[LINK]
上野国群馬郡の伊賀保社を以て名神に預る。

『群馬県群馬郡誌』の伊香保神社(伊香保町)の項[LINK]には
天長二年〈甲辰〉[825]四月淳和天皇の御代の創建なり。
とある。

明治神社誌料編纂所『府県郷社 明治神社誌料』上巻の伊香保神社の項[LINK]には
創建年代詳ならず、伊香保紀行に云く、垂仁天皇の御宇[B.C.29-70]の創立なりと。
とある。
しかし、跡部良顕『伊香保紀行』上巻の元禄十一年[1698]三月二十七日条[LINK]には、温泉については
此伊香保山は上野の国の西の方にて群馬郡の内なり。 温泉の湧出る事をとへは木暮氏語て曰、神武帝より十一代垂仁帝の御宇はしめてわき出る。
と伝えるが、伊香保神社については
此山上に鎮守の社有。 是も古より大己貴命を祭りきたるなるへし。
だけで創建年代の記述は見られない。

伊香保神社と温泉の関係について、尾崎喜左雄『上野国の信仰と文化』[LINK]では以下のように考察している。
前掲神道集「四十二(四十一)上野国第三宮伊香保大明神事」の中の
男体ハ伊香保ノ御湯ノ守護、湯前ノ御在時ハ本地薬師如来也
の句は伊香保神社は伊香保の湯町にあり、御湯の守護神であり、湯前にあって、本地は薬師仏であることを表している。 同集「十六者上野国九ケ所大明神事」には
三ノ宮伊香保ノ大明神申湯前ト崇上ル時ハ本地薬師仏也
とある。両者において特に湯前という表現が目につく。 湯前とは文字の通り湯の前で位置を示す語であり、伊香保神社の湯に対する位置を表している。 湯自体ではない。 湯の前に位置して、湯を守護しているのである。
温泉は医療の最上のものである。 仏者は薬師の功徳として、温泉自体を薬師の霊力と見做し、更に薬師を温泉明神として祀った。 温泉明神とは湧泉そのものを神格化したものである。
温泉明神の存在は、群馬県神社明細帳に、伊香保神社とは別個のものとして、温泉神社と記載されている。 然もその鎮座地は伊香保神社と同地である。 従って同地域に伊香保神社と温泉神社とが併立しているのであり、伊香保神社即温泉神社ではないのである。 ところで温泉神社なる存在は現在極めて不明瞭である。上野国神名帳[LINK]には群馬東郡之部の筆頭に「正三位温泉明神」、群馬西郡之部に「正五位上温泉明神」が記載されている。 [中略] 恐らく群馬東郡之部の「従三位温泉明神」ではなかろうかと思う。
この湯と伊香保神社との直接の結びつきがなかったと見られる証拠は、更に時代は下っているが、文化十三年[1816]作成の「裁許状」の絵図面によっても知られる。 その絵図面によれば、伊香保神社の現位置に薬師堂があり、その前に、前後に並ぶように伊香保宮がある。 [中略] 薬師堂は医王寺持、伊香保宮は湯泉寺持である。 医王寺と崇泉寺は共に天台宗であり、当時いずれも渋川の真光寺末であったが、全く別個の存在であり、右の「裁許状」はこの二寺と二民家との者の間に地境論が起り、その裁決が与えられたものである。
即ち薬師堂が伊香保の御湯を祀る本体であり、それが温泉明神である。 その前に伊香保神社が鎮座したのであり、湯前なる表現が行なわれたものと解して好かろう。 [中略] ただ、温泉明神とは異るものとの意識があったためか、守護として考えられてはいるが、温泉明神の社が薬師堂そのものであるので、薬師堂と伊香保宮とも、神社と本地堂との関係において捉えていたのである。
かように見る時は伊香保湯町鎮座の伊香保神社は、本来、湯前の守護であり、本社でもなく、或は一分社であったかも知れないが、兎も角、吉野時代においては、里宮に対する湯町の神社であり、里宮に対する山宮「奥宮」の如く解され、里宮と一体を為して伊香保神社の命脈を伝えていたものである。 後にはこれか発展して、伊香保神社の本体と解されるようになり、里宮はいつの間にか忘れ去られ、消滅したかの如き実情となっているのである。
(尾崎喜左雄『上野国の信仰と文化』、「伊香保神社の研究」、第2章 湯前の守護神、尾崎先生著書刊行会、1970)

奈佐勝皋『山吹日記』の天明六年[1786]五月一日甲辰条[LINK]にも、
伊香保の湯に至る。 先湯前明神を拝み奉る。 これそ伊香保の大神にて坐しますなるへし。 後ろに本地院仏なりとて薬師如来おはします。
とあり(引用文は一部を漢字に改めた)、湯前明神の後方に薬師堂(本地仏)が在ったことが記されている。

『伊香保誌』の温泉神社の項[LINK]には
一、所在地 字香湯(伊香保神社境内)
二、祭神 少彦名命
三、例祭 四月八日
四、由緒 もと伊香保神社境内の西側に摂社として祀られていた。 明治年間の火災で焼失し、その後再建されず伊香保神社に合せ祀られている。 本地仏は薬師如来、上野国神名帳群馬郡の部に「正三位温泉明神」とあるのは当社のことであろう。 別当寺は医王寺である。
とある。

『神道集』には伊香保大明神の男体の因位となる人物への言及が無いが、『水沢寺之縁起』には
高光中将并びに北の方は伊香保大明神男躰女躰の両神なり。 [中略] それ高光中将殿は男躰伊香保大明神、御本地は薬師如来、別当は医王寺、伊香保御前は女躰伊香保大明神、御本地は十一面観世音、別当は湯泉寺也
とある。 同縁起の成立時には里宮(三宮)が忘れ去られており、薬師堂(温泉明神)が男体、伊香保宮が女体と解されていたと思われる。

伊香保大明神(女体)

三宮神社[群馬県北群馬郡吉岡町大久保]
祭神は彦火火出見尊・豊玉姫命・少彦名命。
旧・村社。

『群馬県群馬郡誌』の三宮神社(駒寄村)の項[LINK]には
当社勧請の年代は甚だ幽遠にして詳にするを得ざれども、古記に天平勝宝二年[750]祀るといへり。
とある。

尾崎喜左雄『上野国の信仰と文化』[LINK]では三宮神社を伊香保神社の里宮と推定している。
神道集「四十二上野国第三宮伊香保大明神事」の篇の中、前掲の如く
女体ハ里ヘ下給テ、三宮渋河保に立御在ス本地ハ十一面也
とあるが、三宮渋河保とあるのは地名と考えられる。 それとも「女体ハ里ヘ下給テ、三宮トシテ渋河保に立御在ス」と訓む方が妥当であろうか。
現在、群馬郡吉岡村のうち、旧駒寄村に小字宮或は三宮と称する地が存在している。 そこには三宮神社が鎮座しており、付近の小字名にも宮の文字を付して、宮、宮田等の呼称がある。
「里ヘ下給テ」とある如く、平坦地、且つ村落地帯であることを条件としているものであり、三宮渋河保とは平坦地で耕田地帯であることを要し、祭祀者の常住する村落地帯であるべきことを合せ考える時に、三宮神社鎮座地の周辺を指すものと見るのが最も当を得ていると考えるのである。
(尾崎喜左雄『上野国の信仰と文化』、「伊香保神社の研究」、第3章 上野国三宮)

同書[LINK]には本地仏について
神道集には伊香保神の本地仏として薬師及び十一面観音があげられている。 薬師ついては前述の如くであるが三宮神社に神体として現存している十一面観音像について説明を加えて置きたい。 昭和廿一年十二月十八日に調査したものであり、従来、殊に終戦前にあっては、極秘とされていたものである。
この十一面観音像は三宮神社の本殿の内陣中央に神体として安置されている。 その形は一本彫成の立像で、江戸末期に塗り替えられたと伝える極彩色である。 右手は施無畏の印、左手には現在御幣を持たされている。 恐らく宝瓶ととりかえたものであろう。
伊香保神の本地仏については神道集に説くところ以外に確たる資料は存していない。 而して、それに対応するかの如くに、三宮神社に神体として十一面観音が安置されているのである。 これを三宮神社なる名称、神道集にある「里に下って」の位置、その他の傍証により十一面観音なるが故に伊香保神の本地仏と認めようとするのである。
とある。
(尾崎喜左雄『上野国の信仰と文化』、「伊香保神社の研究」、第5章 伊賀保神の本地十一面観音)

総社本『上野国神名帳』[LINK]には「正五位 小伊賀保明神」とあり、尾崎喜左雄『上野国神名帳の研究』[LINK]ではこれを三宮神社と推定している。
正五位小伊賀保明神
『上野国神名帳』一宮本[LINK]では、この部分に「伊賀保別大明神」となっている。 「小伊賀保」にしても、「伊賀保別」にしても、今此の名の神社は存在していない。 また、類従本[LINK]では単に「伊香保明神」である。
「小伊賀保」も「大伊賀保」にあたるものがどこかにできたものではなかろうか。 すなわち、大伊賀保にあたるものが、伊香保湯町に遷座した現伊香保神社であり、小伊賀保は旧地に残る伊賀保神社すなわち現在の吉岡村大字大久保字宮鎮座の三宮神社にあたるのではなかろうか。 従って、類従本では「伊香保明神」としているのであろう。 また、一宮本では「伊賀保別」としている。 すでに、温泉町の伊香保神社を本社と見るようになると、旧鎮座地の社をどう見るかということになり、特別な称号と考えられる「伊賀保別」としたものであろう。
(尾崎喜左雄『上野国神名帳の研究』、第5章 「上野国神名帳」記載の諸神、尾崎先生著書刊行会、1974)

宿禰大明神

甲波宿禰神社[群馬県渋川市川島]
祭神は速秋津彦命・速秋津姫命。
式内論社(上野国群馬郡 甲波宿禰神社)。 上野国四宮。 旧・郷社。
総社本『上野国神名帳』[LINK]には鎮守十社の第四位に「正一位 岩根大明神」とある。

史料上の初見は『続日本後紀』巻第十六の承和十三年[846]八月辛巳[12日]条[LINK]
上野国群馬郡の無位甲波宿禰神に従五位下を授け奉る。

『群馬県群馬郡誌』の甲波宿禰神社(金島村)の項[LINK]には
当社創立は不詳なれども宝亀二年[771]九月二十九日なりと云ひ伝へられる。
とある。

尾崎喜左雄『上野国神名帳の研究』[LINK]には
「岩根大明神」は「宿禰大明神」の誤りである。 「宿」を「岩」と誤写し、「根」を「禰」にあてているのである。 「甲波宿禰」の略称である。 「甲波宿禰」は「川宿禰」であろう。 吾妻川の川筋を本流と見たもので、その右岸に下流から川島、祖母島、箱島の地に鎮座している。 吾妻川の川岸に建てられていたものであるが、川島の甲波宿祢神社は天明三年(1783)の浅間山の大噴火の際、吾妻川を流下してきた泥流に押し流されてしまって、現在は榛名山裾の河岸段丘上に鎮座している。
とある。
(尾崎喜左雄『上野国神名帳の研究』、第2章 「上野国神名帳」三異本の概要)

『渋川市誌』の川島甲波宿祢神社の項[LINK]には
江戸時代の記録は、天明三年の浅間押しによってほとんどなくなっているが、絵図がいくつか残されている。 明和元年(1764)の「鵜飼左十郎様御役所宛絵図」(川島区有)には、流失前のこの神社や観音堂(柴原)・諏訪神社が並んで書かれ、「古川・寛保二戌年迄の図」と添え書きしてある。
安永八年(1779)の「訴訟図」(川島区有)や、天明二年(1728)の「原田清右衛門様御役所宛麁絵図」(川島区有)にも、記名はないが吾妻川沿いに甲波宿祢神社らしき社があって、この位置は甲波宿祢神社宮司の宮本家で「もとやしろ」と呼んで今もまつっている所に適合するので、ここを流失前の甲波宿祢社の位置とみてよい。 ここは川島柴原観音堂の東に当たり、甲波宿祢神の石碑が二つ建っている。
天明五年[1785]建築の社殿については「御真筆下賜願」に「本社九尺四方、拝殿四間半・四間、本地正観音菩薩、本地堂三間四方土蔵造り」と記録してある。
この社は甲波宿祢で川の守り神であるが、市内にある他の二つの社については、「神社社記」に「箱島村甲波宿禰神社(吾妻郡東村)・祖母島村宿禰神社・湯上村甲波宿禰神社ハ、文安ノ頃当社ヨリ勧請セシモノ」とあり、文安年間(1444~)に分社したものと書いている。
とある。
(『渋川市誌』第2巻 通史編・上 原始~近世、第1章 原始・古代、第7節 文化と信仰、第2項 平安期の神々、1993)

若伊香保大明神

若伊香保神社または水沢寺鎮守の子安神社に比定される。

若伊香保神社[群馬県渋川市有馬]
祭神は大己貴命・少彦名命。
国史現在社(若伊賀保神)。 上野国五宮。 旧・村社。
総社本『上野国神名帳』[LINK]には鎮守十社の第五位に「正一位 若伊香保大明神」とある。

史料上の初見は『日本三代実録』巻第七の貞観五年[863]十月七日丙寅条[LINK]
下野国従五位上勲五等温泉神に従四位下、上野国正六位上若伊賀保神に従五位下を授く。

『群馬県群馬郡誌』の村社一覧表[LINK]では若伊香保神社の創建を「円融天皇貞元二年[977]」とするが、これは『日本三代実録』の記事より百年以上後である。

富田永世『上野名跡志』二篇巻下の有馬村の条[LINK]には
若伊香保神社は泰叟寺の境内の山にませり。
とある。

尾崎喜左雄『上野国の信仰と文化』[LINK]では以下の様に推定している。
旧社地の神社、地主神の神社を若宮と称するのは勿論大宮、本宮の成立の後であり、御子神でないことは明かであり、大宮または本宮に対して若宮と付したのであろうから、若伊賀保神の名も伊賀保神に対し右の如き関係があったものではなかろうか。 後に伊賀保神が湯前の守護神となってからは、里宮は専ら三宮とよばれ、それが遂に別個の神社として扱われてきているのである。 私は若伊賀保神は伊賀保神の旧鎮座地に祀られた神を指すものと推定している。 即ち伊香保神はもと若伊賀保神の鎮座地有馬の地にあったが、崇敬の増大と崇敬者の活躍と国府からの待遇とによって、有馬の地から三宮の地に遷座せしめられ、その旧地に従来の神社が存続し、これを三宮の新本社から若伊賀保と称したものであろう。
(尾崎喜左雄『上野国の信仰と文化』、「伊香保神社の研究」、第6章 伊賀保神付若伊賀保神)

また、同『上野国神名帳の研究』[LINK]には
若伊香保神社の現状については疑問が多い。 『群馬県神社輯覧』には、群馬郡古巻村(現渋川市)大字有馬字宮前に鎮座しているが、古代からの鎮座地であるか疑がわしい。 隣接の寺院の隷属的な形であり、この寺院は満行山泰叟寺と称し、その山号からは榛名神社関係と見られる。
とある。
(尾崎喜左雄『上野国神名帳の研究』、第4章 古文献に見える上野国の諸神、第1節 国史所掲社(国史現在社))
子安神社[群馬県渋川市伊香保町水沢]
祭神は木花佐久夜毘売命
旧・村社。

『伊香保誌』の水沢寺の条に引用する『伊香保聯合村誌』[LINK]には
今の観音堂敷地は、往古小伊香保神社の在せしに、永正年間野火の為めに炎上し、その後現在の地に移動せしは古老の言伝となりてあり。 当時は仏法隆盛の頃なれは自然観音の勢力の為めに小伊香保神社を押し陜め境内の隅みに纔かに建立し置きたるを歳月をし移りて今日に至りて水沢神社は水沢村にありと諸冊に名を止めし而巳。
然るに水沢寺の古書の内より別紙写の通り宝暦十年[1760]まては寺僧より其筋え届けたる書類発見せしかば、村鎮守子安神社の御躰を改めたるにそ、御躰たるや婦人小児を膝の上に置き、右手を以って枕にせしめ、左手に軍配扇をとれる姿を石にて彫刻して安置したる。 按するに如此なる神躰あるべきやふなし、こは当社も観音堂と同一に再々興せしとき、僧が寺の本紀にある伊香保姫と又弱伊香保若宮明神たる名称と附会して、神躰を彫刻せしめて安置したる事何の疑いかあれ、然るに神名わ正さずして後年に至り伊香保神社啻に神躰の形容により子安神社となせしは其誤謬も甚しといふべし。
宝暦の文書には
旧号 弱伊香保
一若宮大明神   壱社
右者観音堂領廿五石
御朱印境内ニ在之当村惣鎮守
古来より拙寺別当仕候 以上
とある。

野崎竜太「国史現在社若伊香保神社について」[LINK]では以下の様に推定している。
この説話のなかで若伊香保神は宣旨によって都へ行き、更衣となって王子を産み、天下の国母といわれてのちに帝の死後国に帰って母御前と倶に神となって現れる。 といった全体的に悲惨なこの話しの中で最も恵まれた待遇を受けている点も注意すべきである。 また、この説話には伊香保明神、有御前、石童御前がどこに祀られているかを明示しているが、若伊香保神には具体的な場所は記されていない。しかし、 夢日記に「中将殿ノ姫君ハ都へ奉上、帝モ崩御ノ後国へ下給テ後、母御前ト倶ニ神ト顕給テ、若伊香保ノ大明神ト申ハ是也ト、夢枕ノ日記ニ任テ、水沢寺鎮守ニ崇奉ル、」とあり、母御前と倶にというのが若伊香保神を祀る場所を示しているようにも思える。 『伊香保誌』[LINK]に水沢観音堂の真上のやや平な所で室町初期の常滑焼の骨壷状の大瓶が三箇発見されたとある。 水沢寺の高僧の墓地であったろうと推定されているが、これは『神道集』に入水した伊香保姫、有御前、石童御前を観音堂に埋めたという話しとモチーフとして結びつきうるものであろう。 母御前と倶にが場所を示しているとすれば伊香保神社の付近か遺体を埋めたという観音堂の近くに若伊香保神社の場所を推定出来そうに思う。 観音堂は千手観音を祀っており、同時に若伊香保の神の本地仏でもあるから観音堂の近くがその場所として適当であろう。 また、水沢寺が伊香保神、若伊香保神を鎮守としていたと考えられる次の理由として、水沢寺に祀られている仏との関連が考えられる。 水沢寺の本尊は『伊香保誌』によると薬師如来である。 またこの寺には文化財[LINK]として鎌倉時代以前の古い様式をもつといわれる十一面観音立像があり、水沢寺の観音堂は千手観音を祀る。 この三仏は湯前の伊香保神の本地である薬師仏、三宮の伊香保神の本地である十一面観音、若伊香保神の本地である千手観音と一致する。 また子安神社(弱伊香保神)が水沢村の鎮守として祀られていることも神道集の伊香保姫の発言から考えて当社を若伊香保神社と推定するのに有力である。 以上の理由から若伊香保神社は、水沢寺が伊香保神を鎮守として寺の近くに勧請したものであると考えるのが良いであろう。
(野崎竜太「国史現在社若伊香保神社について」、神道及び神道史、54号、pp.51-76、1997)

早尾大明神

早尾神社[群馬県渋川市中村]
祭神は須佐之男命。
旧・村社。

『群馬県群馬郡誌』の早尾神社(豊秋村)の項[LINK]には
当社は本部式外神名帳[LINK]に従四位上家尾明神と記されたり、家尾国音通じて早尾と訛れるならん。 又祭神速素盞嗚命の速と嗚との二字国音相通じる故に社号を早尾と称せりとも云ふ。 古老の伝説に当社は申すも畏き事なれど豊城入彦命勅命を奉じ此の上毛野を創め給ふのとき上村・中村・下村と名づけ給ふ、其の時自ら当社を勧請し紀念として当社左側に欅を御手植ゑ遊ばされしと、爾来御神木と称へ奉りし。
とある。
ただし、尾崎喜左雄『上野国神名帳の研究』[LINK]では家尾明神について「該当する神社は見当たらない」としている。

有御前

大宮神社[群馬県北群馬郡榛東村長岡]
祭神は小長谷若雀命(武烈天皇)。
旧・村社。

『群馬県群馬郡誌』の大宮神社(桃井村)の項[LINK]には
欽明天皇の御代三年[542]二月八日の創立にして大連大伴金村の孫大伴森多大人の勧請なり。
とある。

尾崎喜左雄『上野国神名帳の研究』[LINK]では以下の様に推定している。
前掲『神道集』の記事のように、有御前は「御父ノ屋敷ニ顕テ」、「自岩滝沢北ニ……今ノ代ニテモ御在ス」とある。 「御父ノ屋敷」とは何であろうか、「岩滝沢」とはどの沢であろうか。
右の説話において有御前の父は先目代有馬伊香保太夫、姉を石童御前ということになっている。 有馬伊香保姫の乳母であり、その娘二人は言わば侍女的な存在である。 伊香保姫は伊香保沼に投身したとあるが、その前に土地を二人に与えている。 「岩滝沢ノ南ヲハ石童御前ニ奉ル沢ヨリ北ヲハ有ノ御前ニ准スル」とある。 岩滝沢は伊香保山の東で、その岸に寺を建て、「寺号額ヲハ水沢寺トソ被ケル」としているので、水沢寺(伊香保町大字水沢)の沢に当る。 この沢水は現在は渋川市大字有馬の村落の北に流れ下っているが、吉岡村(旧明治村)大字上野田字宮東に滝泉神社があり、その背後の沢に続いていたものと見られる。 岩滝沢の上流は船尾滝である。 この滝沢を隔てて、北に有御前、南に石童御前が居り、有御前は父の屋敷に顕れ、石童御前は石常明神となったとある。 有御前の父は有馬伊香保太夫で、先の目代である。 相当な屋敷を想像することができ、且つ目代であるので役所的な意味も考えられよう。
北群馬郡榛東村(旧桃井村)大字長岡字大宮の地に大宮神社が鎮座している。 この地に続いて字西御門という地名がある。 「御門」という地名は群馬県の郡毎に七箇所程数えあげられ、古墳群を伴い、多くの場合近くに八世紀頃の寺院跡が発見されており、大宮神社の鎮座しているところもある。 この条件が最もよく揃っているのが、多胡碑の存在している多野郡吉井町大字池字御門の地であり、御門の名は郡衙の地と考えている。 [中略] 大字長岡の大宮神社も西御門の名と併せて、郡衙の地と推定される。 目代の屋敷跡と郡衙の跡とを考え合わせてみると、そこにある大宮神社が有御前ではないかと思われる。
しかし、長岡の地は現在では所謂滝沢の北ではなくて、南である。
(尾崎喜左雄『上野国神名帳の研究』、第4章 古文献に見える上野国の諸神、第4節 『神道集』にあらわれた上野国の諸神)

石常明神(石垣明神)

未詳。
尾崎喜左雄『上野国神名帳の研究』[LINK]では以下の様に推定している。
滝沢の南は旧桃井村に当るのであり、『和名抄』の上野国群馬郡桃井郷で、『神道集』では「桃井郷上村」と記している地である。 『神道集』の「上野国群馬郡桃井郷上村内八ヶ権現事」には、
[中略]
とあって、この物語には「津祢宮」というのが出ている。 この桃井郷上村というのは現在の榛東村大字山子田の地帯で、その下村は同村大字北下、南下にあたる。 この大字山子田字柳沢の地に現在常将神社というのが鎮座している。 常将神社の祭神は千葉常将となっているが、恐らく後世の附会によるもので、津祢宮の社号から発想されたものであろう。 それと同様に石常明神の名も津祢宮から起ったものではあるまいか。
(尾崎喜左雄『上野国神名帳の研究』、第4章 古文献に見える上野国の諸神、第4節 『神道集』にあらわれた上野国の諸神)

垂迹本地
伊香保大明神男体(湯前)薬師如来
女体(三宮)十一面観音
宿禰大明神千手観音
若伊香保大明神千手観音
早尾大明神聖観音
有御前如意輪観音
石常明神(石垣明神)馬頭観音

赤城大明神

参照: 「上野国勢多郡鎮守赤城大明神事」赤城大明神

淵名社

参照: 「上野国勢多郡鎮守赤城大明神事」淵名明神

九ヶ所社

『水沢寺之縁起』には
九子をは当国の内の九箇所〈惣社也〉に之を崇め
とある。

参照: 「上野国九ヶ所大明神事」総社

三所明神

未詳。
『水沢寺之縁起』には
三婿をは三宝殿と号し勢多郡〈深須也〉に之を崇む
とある。

吠尸羅摩女

未詳。
多聞天(Vaiśravaṇa)の音写の吠尸羅摩那を女神化した名称か。

恵美僧正

恵美僧正は説話上の人物であるが、『水沢寺之縁起』などでは実在の慧灌僧正に附会している。

虎関師錬・恵空『元亨釈書和解』巻第一の慧灌の条[LINK]には
釈慧灌は高麗国の人なり。隋の世にかの国に入て、嘉祥大師吉蔵に逢て三論の旨をうけらる。 推古天皇三十三年〈乙酉〉[625]春正月に高麗より貢ぜられて来朝せり。主上の勅して元興寺に住居せしめる。 夏、天下大に旱し、万民いたみくるしむことあり。 帝、慧灌に宣旨して「雨を祈るべし」とありしかば、慧灌青衣を着て三論を講ぜらりしに、大雨すなはち下て、天子の御感かぎりなく、貴賎上下悦の眉をひらきければ、擢て僧正にこそは任ぜられける。 後に河内国において井上寺を草創して三論宗を弘められたり。 〈是日本三論宗の始なり〉
とある。

水沢寺

五徳山水沢寺[群馬県渋川市伊香保町水沢]
本尊は十一面千手観音(水沢観音)。
天台宗。 坂東三十三箇所の第十六番札所。

『水沢寺之縁起』には
抑々此の寺の来由は、人王三十四代推古天皇の朝、上野国司高光中将公の菩提処と為し、御勅宣を以て、高麗来朝の貴僧恵観僧正を南都より請待し、開山別当と為し、伊香保御前の御守の持尊千手観世音菩薩を安置し奉り、建立する所の寺也。
とある。

毛呂権蔵『上野国志』の観音堂(水沢村)の条[LINK]には
観音堂 水沢村にあり、五徳山水沢寺と云。 千手観音、長二寸八分。 開祖高麗慧観僧正。〈日本紀[LINK]、推古天皇三十三年春正月、高麗王、貢僧慧灌、仍任僧正〉
とある。

『群馬県群馬郡誌』の水沢寺(伊香保町)の項[LINK]には
推古天皇の御宇高野辺左大将家成の二女伊香保姫の守護仏千手観音を安置す。
国司高光中将建立、勅宣を得て南都在住高麗渡来の僧恵灌僧正を聘し当時の開山としたりと伝へらる。
とある。