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光圀公の千貫櫻歌碑

 9月25日木曜日。朝6時に茨城町の宿を後にした。この日も空はどんよりと曇っていたがツーリングにはそのくらいの天候の方が向いている。しばらく行くと国道の左脇に何か記念碑らしいものが建っていた。自転車を止めて傍に近づくと黄門様こと水戸光圀公の千貫櫻歌碑だ。国道6号はもともと水戸街道だったもので、その頃このあたりには見事な桜並木があったらしい。碑文には「春風も 心して吹け散るわ憂し 咲かぬはかなし 花の木のもと」と刻んであった。当時なお隠然たる権力を誇っていた光圀公がやがては死に逝く自分の運命を櫻の花に喩えて「散るわ憂し 咲かぬはかなし」とその心境を詠んだのだろう、とその胸の内を推測しながらリュックからカメラを取り出し写真に撮った。この旅最初の一枚である。水戸市では偕楽園も見物したかったが寄り道をしている時間がないのでそのまま先へと進んだ。
 地図の上では国道6号は海のすぐ近くを通っているように見える。だが実際には海岸からかなり離れていて見ることなどできないのだ。併走している筈の常磐線自動車道路や常磐鉄道もたまに見かける程度で普段はどこを通っているのかさえわからない。国道6号のように大都市を結ぶ道路ともなると昼夜を問わず交通量が非常に多い。(写真には車がほとんど写っていないが、それは車が通らない時を狙いすまして写したものだからである。当時、あとで旅行記を書くことなど考えていなかった。北海道まで無事に辿り着けるかどうかさえ自信がなかった。もし途中で何か事故でもおきたら、いつでも輪行【自転車を分解して輪行袋に収納し汽車等の交通機関を利用して運ぶ方法】で帰るつもりでいた。しかし輪行の経験はまだ一度もなかった。実は、パンク修理の経験すら一度もなかったのだ[汗])。 常磐線日立駅(国道6号から近いと思って下りて行ったらかなり遠かった)。駅前広場に置かれているのは飛行機その国道上をときにはぺんぺん草が生える歩道、そしてときにはバイクと同じ白線の外側部分を黙々と走る。知らない道で唯一頼りになるのが道端に間隔を置いて立っている「行き先」を示す案内板だ。案内板には「行き先」までの距離を書いたものもある。その距離が50km、48kmと少しずつ縮まっていくのだ。他にとりたてて写す景色もないので、このように距離が少しずつ縮まっていく様子を根気よくカメラに収めた。このペースを保って行きさえすれば北海道まで到達できると自分に言い聞かせながら・・。「な〜んだ、楽勝、楽勝」と嬉しくて堪らない。「旅の2日目くらいで何がわかるのだ」と陰の声が怒っているのも知らないで・・。

東海村(原子力発電所らしい施設が右手遠方に見えた)

日立市(日立製作所創業の地)

 その日の宿泊予定地は福島県のいわき市だった。そこまで行くには、ひたちなか市、東海村、日立市、高萩市、北茨城市を通らなければならない。自分の身体の中で一番自信があるのが足(足から遠ざかれば遠ざかるほど自信が揺らいでくる。頭髪などは若い頃の面影をまるでとどめていない。それを補うために無駄な抵抗と知りつつ髭など生やしている)で、この足が見事に期待に応えてくれている。日立市の長いだらだら坂を上るとき、これがだらだら坂かと左右のギヤーを使って余裕でクリアした。高萩市にさしかかる頃雨が降ってきた。リュックには付属の覆がついているから良いが生憎レインコートは持ってきていない。買うにも持ち合わせが少ないし、あったとしてもリュックはパンパンで雨具を入れるスペースなどない。そうかと言って半袖のままでは寒すぎるので洋品店「しまむら」で黒の長袖シャツと800円[汗]のウインドブレーカーを一枚ずつ買って当面の寒さをしのぐことにした。ついでにジーンズの長ズボン(持参)にはきかえる。幸い雨はそれ以上強くならなかった。次の休息地で気になって携帯電話を取り出してみたところ、案の定家内から2本電話が入っていた。出がけに「携帯電話のスイッチは切っておくからね」と言っておいたのだ。こちらから電話をかけると、骨折した箇所が痛み出したのではないかとか、泊まるところが無くて野宿したのではないかとか考えていたらしく心配しきった声が返ってきた。全てが順調にいっているから何も心配要らないこと、だらだら坂もクリアしたことを話して安心させ、先を目指して自転車に乗った。

北茨城

野口雨情記念館の看板

 雨は降ったり止んだりしていた。まだウインドブレーカーにしみ込むほどの量ではない。高萩市を過ぎ、北茨城に入る。野口雨情記念館と書いた古びた立て看板の脇を通る。子供の頃よく歌った童謡がふと頭に浮かぶ。間もなくして日が暮れ始めた。すると瞬く間にヘッドライトを点けた車両が行き交うようになる。自転車に点灯するがほとんど気休め程度で実際の役には立たない。その頃から幾つもの長いだらだら坂や急坂が始まるのだ。これまではギヤーの「1」は使わず、どうしようもなく辛い時のためにそれを残しておいたのだが、その残しておいた「1」を使っても上りきれない急坂がある。上りきれないというよりあまりにも繰り返えし出現するので 根負けしてしまうと言う方が当たっているのかも知れない。疲れが高じると急に眠気がさしてくる。疲れだけが原因ではなく加齢の所為で眠気を催すこともある。そういうときは早め持参したビニールシートを道路脇に敷いて横になる。目をつむって10分くらい横たわっているだけでまたシャキッとした気分になる。起きあがって一旦肩からはずしたリュックをもう一度背負うときは段差を探すのに苦労した。まだ段差の助けを借りなければ骨折部位が痛くて背負うことが出来なかったからだ。
 急坂でギヤーを「1」に入れるとチェーンが外れ易くなるのには参った。ギヤーの力を一番必要としているときにガシヤッと外れるのだ。結局このツーリング中6回チェーンが外れた。外れたチェーンを元通りに取り付ける作業自体はこの自転車の構造上誰にでも簡単に出来るようになっているのだが、その都度手指が油だらけになるのには閉口した。洗うにも水がないのだ。その日は窪みに溜まった雨水で洗った。木の葉で拭いたときもあった。油をハンカチで拭けばすぐ真っ黒になるので使えない。ちり紙は薄すぎるからこれも駄目だ。
 坂にばかり気をとられ悪戦苦闘しながら上り下りしてきたがそろそろ泊まる宿のことが気になり始める。いわき市にはよい温泉旅館があると聞いていたので兎に角いわき市まで行くことにした。時刻は既に午後10時を過ぎている。行き交う車両はまだ結構多いが沿道には人っ子ひとりいない。見えるのは黒々と茂る木立だけだ。しかし、暗い山中をひとりで走る恐怖心はあまりなかったように思う。国道を通る車両がまだ多かった所為かも知れない。行き先を示す表示板の文字はもう暗すぎて読めない。兎に角いわき市まで行こうと黙々とペダルをこぐ。相変わらずホテルはおろか人家すらない。深夜12時が過ぎる。状況に変化はない。アップダウンはまだ続いているがもうそれどころではなくなってきた。疲れきった身体に深夜の冷気がこたえる。胸の骨折部位が気になる。だが泊まるところがない。温泉宿があるのは国道から離れた所ではないかという考えが頭をよぎるが、そこに行く道を知らないのでどうしようもない。たとえ見つかったとしてもこの時間にはもう閉まっているに決まっている。ラブホテルのネオンサインだけは山中にもあったがこれまでは無視してきた。しかしこの時間に泊めてくれそうな所はもう他にありそうもない。1人でも泊めてくれるかどうか心配だったが次のラブホテルで思い切って聞いてみた。すると意外なほどすんなりと泊めてくれた。

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