NO.3 1983年3月31日


●今号の目次●

1 作文「わたしのおかあさん」 南花子
2 江東区教育委員会の見解に反論する(下)
3 自主夜間中学の風景
4 めだかの学校訪問記
5 映画監督小栗康平さんが
  私たちの自主夜間中学を手伝ってくれました
6 私たちの活動を見守り続けた高野秀夫氏の急逝を悼む


作文「わたしのおかあさん」 南花子

おかあさんのおもいて二たりでたんぼうにいって
たうえをしなからこのいねからこめがたくさんとれたら
おなかいっぱいたべたいとた々そてたけてした
わたしが二十五才のときに
おとうさん死てそれからいろ々なくろかけて
いえないくらいにたくさんしました
いまわたしわおかあさんのくろしたことを
かんがえるとむねがいっぱいでがけません

南さんが私たちの自主夜間中学にきて、おぼえたての字で初めて書いた作文です。
お母さんを思う気持ちが、ひとつひとつの字に、にじみでています。


江東区教育委員会の見解に反論する(下)

引揚の子どもたちにとってまず必要なのはことばです。しかし、ことば指導だけではけっしてすまされるものではありません。
驚きと緊張と不安のなかで、これからの道をまさぐっている子どもたちです。生活習慣ひとつをからだにとけこますだけでも容易なことではありません。
また、家族自身が不安定な状態のなかで、子どもたちに自分自身をしっかりとみつけさせる、それこそ生きていく力をみいださせるためには、時間をかけたていねいなかかわりがどうしても必要になってきます。それは、まさしく子どもの心の底に届くかいなかといった「教育」の場の問題なのです。
中国語を解する講師を時間を区切って配当するということでこの子どもたちへの指導は十分ということ、環境の中に入れたほうがことばぼ修得がはやいといった見解は、子どもの側の視点、ひいては「教育」の視点が忘れられた残念なものといわざるをえません。(江戸川区の日本語学級教師の声=寄稿)

ところで……残念ながら今年度中(3月末まで)には行政交渉がもてませんでした。
新聞記事などによりますと、区はあいかわらず、責任を国や都にすりかえて逃げの姿勢です。調査が難しいともいっているようです(全東京新聞)。
しかし、自主夜間中学には毎回20人前後の人たちが学び続けて、もうすぐ1年。難しいもなにも、ここに実態があるではありませんか。
公立化への道はそう簡単に開かれるものではないことは、残念ながら事実です。しかし、なんとか切り開いていくよう粘り強くはたらきかけていきたいと思います。


自主夜間中学の風景

今月号から自主夜中の風景を紹介しましょう。風景というくらいだから見たままを書くつもりですが、風景画と同じでだれが書いてもその立場は表現されてしまうので、あまり気張らず、気楽にすすめてみようと思います。でも、事実の取りあげ方がマンネリになってきたら、誰かにバトンタッチです。

3月2日の風景

自主夜中は枝川区民館の3階で開かれている。夕方の6時をすぎる頃、「コンバンワ」の声が聞こえ始める。ゆっくりゆっくり階段を昇る足音が聞こえてくる。途中でため息をつき、休み休みやってくる人もいる。そう、この学校に通う生徒の多くは「おばさん」である。在日30年以上というオモニたちである。

中級クラスの授業が始まった。講師の先生も今日が初めてとあってややあがり気味。コトワザのプリントをこしらえたようだ。人間の一生にまつわるコトワザがいくつもピックアップされている。まずはプリントの字が大きくてよいと評判のようす。おばさんたちのなかにはめがねが合わないと訴える人が少なくない。なぜだろうか――。
「おにいちゃんの名前は?」と問われて、あせって名前を書く先生。「ステキですね」と「お世辞」。「むずかしいね、この漢字」……。授業はまずコミュニケーションから、というところ。
みんなで通読。あちこちからつぶやきがもれる。――《箸のころんだのもおかしい》と口に出してクスッと笑う。自分の少女時代を思い起こしたのか。「自分の経験したことが書いてあるんだ」。――音読しながら意味を考える方法は、もっと見直されていい。――「アーア、たどたどしくてだめだなー」「先生みたいに読めないね」……「本当らしいことが書いてあるワ、これ」と平山さん。
《百日のたれっ子》――「大小便は出さないとだめ」「百日もたって大小便も人間らしくなるよ」と6人の子どもを育てたオモニ。……「たどったようなことが書いてあるね、これ」と、自分の子育ての頃に思いをはせる。
《三つ児の魂百までも》――漢字の「魂」の「鬼」に気づいて「鬼はオバケとちがうのかな?」と村田さん。4年前、日本人の夫と共に中国から帰国して、今でも学び続ける。「女も化粧するとオバケになるよ」(笑い)。「男の化粧したのは何というの?」とまた村田さん。すかさず誰かが「それもオバケだろ…」(爆笑)。むかし、中国でも朝鮮でも、日本人は「日本鬼子」「東洋鬼」と呼ばれていた。それを知らないはずのないおばさんたちの会話である。

隣のクラスをのぞいてみよう。ここは初級のクラス。たどたどしくひらがなを読む声の合間からつぶやきが聞こえる。「字を覚えるのはムズカシイ」という嘆きも。そこに遅れてやってきた林さん。
「あんた、私いくつだと思う?」
「私は若いと思ってるよ。(それより)なんで今まで(勉強)やんなかったのよ」
「私がいちばんやってるんだよ。63のときだ」
林さんは日雇いの仕事を終えると、あまり自由に動かなくなった手の治療に通い、その足でまっすぐ学校にくる。だから遅れてくることが多い。残り30分でもやってくる。そんな林さんがいつも「自分はなんでこんなに頭が悪いのかな、このバカ頭!」と自分を責めることばは、私たちの胸にドッシリと響く。ここの会話には、そういう林さんの同胞に対する思いやりがある。
「かきくけこ」の「こ」はこどもの「こ」だ。子どもの話になった。「私は老いて、趣味がなくなって、これ(勉強)をやりにきたんだ」という山本さん。――「子どもには学校を出してやりたかったんだよ」。今、40の息子を頭にして6人の子どものうち4人は中学までしか出せなくて、「くやしくてね。だから、今やってんのよ」。


めだかの学校訪問記

2月18日、千葉の「めだかの学校」に行きました。この学校は、市川市にできた大洲中学の夜間部に入学を希望した藤崎みどりこさんが、障害者であることを理由に入学拒否されたため、彼女の学ぶ権利を保障しようということから運動が始まったもので、現在会員は20人強。
毎週金曜日、夜7時から9時までの間、千葉駅から内房・外房線で2つめ、蘇我駅近くの蘇我コミュニティ・センターで授業が行われています。
「まだまだ始めたばかりで勝手がわからなくって。授業もなかなかうまくいかないんですよ」
そんな声もありましたが、若い人たちが中心となっているだけに雰囲気ははなやか。この日も、ビラで知って見学に来たという2人の女子高生がかわゆくチョコンと座っていました。
同じ夜間中学設立を目指すグループ同士、これからも強力しあっていきたいものですね。


映画監督小栗康平さんが
私たちの自主夜間中学を手伝ってくれました

2月23日、映画監督の小栗康平さんが私たちの自主夜間中学を訪れました。
小栗さんはその作品『泥の河』で私たちに、人の温かさ、やさしさ、悲しさを表し、深い感銘を与えました。そして、映画は数多くの賞にかがやきました。
当日、小栗さんは私たちと一緒に授業を手伝ってくれましたが、そのときの様子はじつにていねいで、ひとつひとつかみくだくように話してくれました。まったく小栗さん自身の人柄を表すような授業でした。
小栗さんの次回作は李恢成作品『伽"や"子のために』だそうです。3月中に脚本を仕上げるということで、いちばん忙しいときに来ていただきました。
ぜひまた来てほしいと思います。そして、1年後の映画完成を楽しみにしています。
また、この日はもう1人、たいへんな美人の李景愛さんも私たちの授業を手伝ってくれました。彼女が小栗さんと私たち自主夜中の橋わたしをしてくれたのです。
景愛さんが朝鮮語でオモニたちと交わすことばに、ほのぼのとした暖かさを感じました。
ぜひまた来てください。


私たちの活動を見守り続けた高野秀夫氏の急逝を悼む
岩田忠

10年前、江戸川の地で夜間中学の設立運動を起こし、開設を果たした前江戸川区議・高野秀夫氏がこの13日、急逝されました。
故人は10代から左翼運動に加わり、あの砂川闘争では全学連の副委員長として闘いの前線に立たれました。
基地測量阻止のために、なみいる警官隊に向かい、例の名口調で「自分の父の土地、母の土地が奪われるのに、あなたたちは加担するのか」と、とうとうと呼びかける声に、警官隊の中からすすり泣きの涙を引き起こしたというエピソードはあまりにも有名です。
31歳の若さで区議に当選して以来、旧中川の河川対策、六価クロム問題、老人医療など地域活動を行い、数多くの業績を残されました。
国や行政がまったくかえりみることのなかった10年前から、引揚者の人々の社会復帰へのセンターの設立を提唱した1人でもありました。
今度の選挙で故人がかかげたスローガン「政治にやさしさを」に故人のすべてがこめられているように思います。原則をふまえつつ、理性と感情をみごとにコントロールされた方でした。そして、常に私たちの活動のよき相談相手であり、知恵袋であり、理論的支柱でもありました。
江東区のこの運動にもいろいろとアドバイスをいただき、最後まで見守っていただきました。
ほんとうにありがとうございました。安らかにおやすみください。