NO.5 1983年5月31日


●今号の目次●

1 作文 今の気持ち 高梨正男
2 1年のまとめと今後の方針
3 江東区長へ… 盛善吉
4 自主夜間中学の風景


作文 今の気持ち 高梨正男

今の気持ちは、ぼくにとって、いろいろなこと学び知りたいとう願いですが邪魔にされず長い人生をおくりたいと思います。でも普つうの頭になるのは、たくさんの努力が必要だしみんな心を、学んで 立派な社会人になる時には、みんなに 愛さられるそんざいになるかもしれません

自主夜中が1周年を迎えるにあたって、高梨くんがこの学校で学んだことの感想を綴りました。彼は、入学したばかりの高校に通うことをやめ、昨年の9月、私たちの自主夜中にやってきました。「いろいろなこと学び知りたい」という彼が邪魔にされる「学校」というものについて深く考えさせられます。
高梨くんは、今年の4月に別の高校に合格しました。新しい高校で彼の願いがかなえられることを祈らずにはいられません。ガンバレ!



1年のまとめと今後の方針

行政は……

まず第1に、この1年でみえてきたものは、行政の予想以上の無理解さです。
自主夜間中学を始めて1年、入学希望者が学ぶ実態をみせれば行政としては当然動き出すだろうという常識は裏切られました。1年間の自主夜間中学の実態をもってしても、行政からは「他の夜間中学に通えばいい」「社会教育でなら考えてもいい」という姿勢以上のものを引き出すことができなかったのです。
私たちの考えに甘さがあったことを反省し、今後は広く区民にこの問題をPRし、行政に対しても実態をもって強く夜間中学の必要性を訴えていきたいと思います。また同時に議員の方々の理解を得られるように働きかけなければなりません。しかるのちに、請願などは検討したいと思います。

自主夜間中学は……

自主夜間中学は、1年間、火・水・土の週3回の授業をやりきりました。この様子は多くのテレビ・新聞などで取りあげられました。常時20人前後の「生徒」が出席し、また「教師」も着実に増えてきています。もっともっと自主夜間中学を中心に運動を広げていきたいものです。
「授業」は貴重な実践が積み上げられる一方、「教師」間の連絡がうまくいっていないこともありました。今後は連絡ノート(日誌)と月1回の授業会議を行って、さらに充実させていきます。週3回の授業日も堅持します。
               ※
自主夜間中学を基盤に、いよいよ行政に対しての行動を、地道に粘り強く開始します。


江東区長へ…
盛善吉

江東区長殿

一度、いや幾度でも、枝川区民館でやっている自主夜間中学をご覧下さい。たくさんの朝鮮のオモニが機嫌よく勉強しています。その間を数人の無料の先生が走りまわって文字を教えています。何故オモニたちが文字を持たなかったのか。それは、日本人の都合で戦前戦中は無理に「日本人」にされ、戦後はまた日本人の都合で、「外国人」にされ、あらゆる保護から見はなされ、赤貧の生活を強要され、今その子らが一人前になってようやく学校と名のつく所に通えるようになったんです。そういう人を大事にしませんか。
朝鮮人は日本の都合で、土地収奪、徴用・徴兵、強制連行によって、日本に無理やりつれてこられたんです。
日本人は今も、朝鮮人の作った道の上を歩き、朝鮮人の屍の埋まっている鉄道やダムを利用しています。恥ずかしいと思いませんか。胸が痛くありませんか。
今、その子孫、家族が朝鮮にも帰れず(故郷へ帰っても土地・職業もない)日本におられるのです。

江東区長殿

これらの人々をもう日本人の都合で不幸なめに合わせては断じていけないと思うのです。
日本で、朝鮮人として堂々と生きてもらうのが、日本人のすることではありませんか。
予算がないということを、夜間中学公立化をすすめるとき、必ず行政者からきくことばです。しかし公立化すれば何でもないんです。せいぜい全予算の0.05%ぐらいでできるのです。
他の目ざめた、江東区よりもっと貧しい自治体でもやっているんです。すぐにでも担当者に調査させて下さい。
そしてみんなで江東に日本一開かれた夜間中学をつくりませんか。江東を「教育にめざめた区」にしませんか。
不就学児、おちこぼされた子どもが、日本におよそ140万もいます。江東にだけはおちこぼれのない学校、おちこぼれてもはい上がれる学校、どんなに疎外され差別された人でも学べる学校、中国、ブラジルから帰ってきた人でも、誰でも学べる学校を作りませんか。
住民が真に望み、必要とするものなら、できないものはなにもないというのが民主主義の鉄則でしょう。
教育は空気だといった人がありました。教育は生命だともいわれています。
具体的にいえば、役所で「ここは危険だから立ち寄らないで下さい」と立て看板を出しても、「危険」という文字が読めなかったら、文字を持たない住民は気づかずに近寄って本当に「事故」を起こしかねないのです。
生きるための、生活できるための文字や知識はこちらからたのんで学んでもらってもいいのではないでしょうか。

江東区長殿

一度、ぜひ、楽しく学ぶ童子のようなオモニたちの姿を見にきて下さい。まず区長の身分も、背広も脱いで、一市民として気軽にきて下さい。その次に何を、今行政は何をなさねばならないかじっくり考えて下さい。手伝うことがありましたら、江東に夜間中学を作る会の人々とその支援者は何でもいたします。

盛善吉(放送作家)
著書「シーメンス事件」「昭夫の日記」「もう戦争はいらんとよ」ほか多数。映画「うどん学校」「世界の子らへ」「世界の人へ」ほか多数


自主夜間中学の風景
岩田 忠

木場駅の階段を上り地上に出ると、かすかにほのかな木の香が海風と車の排ガスに乗って私の鼻をつく。
にわかに気分が引き締まる。「昼」の顔から「夜」の顔へ。「今日は何があるのかな」。新しい出会いへの期待が足取りを軽くする。
運よくバスに飛び乗ることができた。車内の奥に目をやると、先週はじめてお会いした法政大学の平川さんがいた。彼はゼミの仲間という青年と連れ立っていた。
私たちがともした小さな灯がわずかながらも確実に分けともされていく実感を覚える。
その青年にとっても、この「自主夜間中学」が確かなものであってほしいと思う。

枝川区民館のはす向かいに「たつみ」という小さな小料理屋がある。会でお願いして「仲間」の夕食のおにぎりを作ってもらっている店である。トタン張りの鉄骨ビルの一角にあり、狹い間口のカウンターきりのこじんまりとした、そして、お世辞にも「きれい」な店とはいえない。
夜勤明けの長距離運転手さん相手のひとときの憩いの場になっているという。
働く者の汗が黒光りするカウンターは、かえって私を引きつける(いや、からわらにかけてある池波志乃のヌードポスターと、1品100円台という品書きの黒板が引きつけているといったほうが、状況に即しているかもしれない)。
ちょっとはやく着くと、おかみさんと話し込むことがある。そんなとき、つい「ビール1本!」と声が出かかってくる。
「70歳の生徒さんもいらっしゃるんですって。先生も生徒さんもたいへんですねえ。ご苦労様」
ときどき、遅くなると、わざわざ区民館まで運んできてくれる長男のお子さんは、今年高校に進んだ。
私たち「自主夜間中学」を支えてくれる人々である。

おかみさんにあいさつをし、池波志乃さんに黙礼をして、おにぎり片手に区民館の3階へ。
高梨さん、金光さん、井田さんは、いつも6時前には到着している。この人たちが座布団、黒板の準備をしてくれている。そして、プリントの漢字を綴りながら、世間話、身の上話を楽しんでいる。
この日は村田さんが、いつもより早くきていた。2日ほど休んだので「どうしたのですか」とたずねると、「中国の親戚が日本にきたので会いにいったんです」。
中国船の船員として、横浜港に滞在している親戚に会いに横浜に向かったものの、示された場所に着くのに4時間もかかったとか。在日5年。まだまだ「日本」は“壁”であるようだ。
その中国船は食料品のかんづめを積んでやってきて、日本の小麦や鉄をのせていったという。中国がなぜ日本の小麦を?

若い女性が入り口際に立っていた。「なにかご用ですか?」と出ていくと、「Excuse me」。ことばを選びながら英語で語りかけてきた。「韓国人ですか?」。つたない韓国語にうなずいた。
オモニに通訳してもらいながら事情を聞いた。
1月に在日韓国人のもとへ嫁にきて、日本語が全然できないという。近所の、今すこし足が遠くなってしまっている「生徒」さんから聞いてきたらしい。
仕事や家庭の事情が足を遠くさせてしまっているのだろうが、その人とも何か1本つながるものを持っていると考えると、なにか夜間中学の“社会的責任”を感じてならない。

それにつけても、この日の「小麦」と「英語」は、現代史の縮図をかいま見る思いがした。