NO.11 1983年11月30日


●今号の目次●

1 第29回全国夜間中学校研究大会報告
2 自主夜間中学の風景
3 会員の声 平川純也(法政大学)
4 こらむ・えだがわから…


第29回全国夜間中学校研究大会報告

12月1、2の両日、東京・世田谷区の深沢区民センターで「第29回全国夜間中学校研究大会」が開かれました。全国の夜間中学の先生が集まって、それぞれの問題点を出し合い、話し合おうという大会で、今年のテーマは「夜間中学校の実態から義務教育を問い返し、教育内容の創造と教育条件の拡充を図ろう」。夜間中学の生徒や、私たちのような増設運動団体を含めて約200人が参加しました。
いま、夜間中学は全国に34校(うち1校は休校中)ありますが、それぞれ抱えている問題がたくさんあります。1日目の全体会議では各地からの報告がありました。
「遠距離通学(片道1時間30分以上)が多く、生活指導や保健指導の問題や授業時間数の確保がむずかしい」(東京・八王子五中)
「日本語学級では高年齢・低学歴の生徒が以前より増加し、指導がむずかしくなった」(東京・曳舟中)
「夜間学級専用の特別教室がない」(大阪・天王寺中)
「教室は古い木造の2つだけ。学校として完備しなければならない設備・条件がまったく不足している」(奈良・福住中)
などなど……。
江東区からも運動の経過、区教委の対応、自主夜中の様子などについて報告してきました。

2日目の分科会は、第6分科会(増設運動)に3名が参加し、報告しました。この分科会には松戸、市川、川崎、奈良、天理などからも参加がありましたが、このうち市川、川崎、奈良、天理はすでに住民運動によって公立の夜間中学が開設されたところ。より充実させていくための運動の報告です。
市川は登校拒否についての講演会を継続中。川崎は35人にふえた生徒とともに入学制限などへの条件整備の取り組み。奈良・天理は校舎新築への取り組み、などです。
さて、松戸は江東と同じように自主夜中をやりながら行政に働きかけている仲間ですが、先日「市民の会」が陳情書を出しました。委員会審議のなかで教育委員会は、「夜間中学は文部省が認めていない」(これはウソです)、「未修了者はいない」(出席日数0でも卒業証書を出すからです)、「生涯教育(社会教育)の一環として考える」「卒業証書がほしい人は東京の夜間中学がある」など、行政の典型的な不要論で逃げています。これはそっくり江東区にも当てはまることであり、他の自治体(川崎、市川、奈良など)でも行政がいってきたことです。そして残念ながら、陳情は5対5で委員長裁決→不採択となってしまったそうです。議員の理解もあと一歩でした。しかし「市民の会」は県教委、文部省との話し合いも設定しながら、資料と自主夜中の実態でさらに強く運動を進め、夜間中学を要求していく予定だそうです。

そして午後の全体会で「現在自主夜間中学を行っている江東区、松戸市に公立の夜間中学の開設」も入った行政への要望書が採択されました。「江東、松戸に夜間中学を!」は、全国の夜間中学関係者の願いです。大きな支援をバックに、全国の仲間たちと確信をもって江東区へ要求していかねばならない……。


自主夜間中学の風景

年賀状

久しぶりに土曜日の夜中に顔を出してみました。初級のほうをのぞいてみると、「あらっ、しばらく顔を見なかったわね。あっち(中級)のほうがいい女がいるから、あっちばっかり行くんでしょう」と。「いい女」ということばにはちょっととまどいを感じましたが、たしかに自主夜中にきているおばさんたちはいい女にちがいない。
このクラスは「歌の先生」で親しまれている仲間の担当授業でした。年賀状を書いてみる練習です。
最初すこし決まった書き方をやってから、親しい人に出してみる年賀状の練習になりました。すると、すかさず林順花さんが、「それはヒミツですよ」といえば、平山さんも「昔のひとを思い出すよ」といって、みんなをリラックスさせます。
ここで山本さんのを紹介しましょう。
〈あけましておめでとうございます。ふじさんのくうきのいいところで、わたしもうれしくてたまらないです〉
ご主人が亡くなって今年で11年目を迎えた山本さんは、やっと富士山の見える場所に墓を建てました。それがうれしいのです。遺骨はそれまでお寺に預けてあったので、心配で心配で眠れない夜もあったといいます。ホッとしてやさしくご主人に語りかける気持ちがこちらにも伝わります。

30分ほど遅れて「ねちゃったんだよー」といって林さんが入ってきた。土曜日で現場が午後は休み。医者にいってから、4時半ころからほんのちょっとのつもりだったが、寝すごしてしまったらしい。
今日の林さん「年賀状なんて書けたらどんなにいいか……。書けないもんな――」と弱気です。「来年したいことを考えてみたら」とひとことはさんだら、「来年したいこと? それは来年がこなければわからんね。来年になったら死んでしまうかもしれないや」と微笑むのです。当方はちょっと重たい気分になりました。たしかに「来年」という字は「年が来る」と書きますので、きてみなければわかりません。私たちは現に生きていますが、いわば死と「となりあわせ」で生きているといってもいいでしょう。にもかかわらず若い私たちは死をあまり意識しないことも確かです。
林さんはもう還暦もすぎた女性です。つまりお年寄りだからふと日常の会話にも「死」が出てくるのでしょうか。〈若さ→生〉・〈老い→死〉という固定した考えをどこかで見直す必要がありそうです。
それにしても江東区に公立の夜間中学がほしいものです。

コトワザ2題

中級のクラスで「人を見たら泥棒と思え」というコトワザについてあれこれ話し合ってみました。「なるほど、そう思う」という秋本さんの意見です。「私はすぐ人を信用してだまされた経験がたくさんあるんです。それでお金もずいぶんなくしました。でも、そういうときは、だました人が幸福になればいいと思ってあきらめてしまいます」と。
「そうは思わない」という立場の人の理由も聞いてみました。井田さんは「ひとさまを信用して初めて出世できる。人を疑っていたら出世などできないし、偉くなるには人を信用しないとね」。井田さんの「出世」とは、「下積みでなく、人の先に立つ」だそうです。「人の先に立つには、人を信用しなければ。そして、人を見分けることも必要だ」と説きます。
両方の立場の意見交換をやってお互いに感想を出し合いました。「なるほどそう思う」という金山さんは、「あまり他人を疑うと、自分がみじめになる。私は全財産をのっとられたことがあるけれど、あまり他人を疑いたくないですね」と。そこで当方が、「それじゃ、このコトワザにたいしては“なるほど、そう思う”ではなくて“そうは思わない”という立場に変更ですね」と東都、金山さんも秋本さんも「いや、変えません」ときっぱりいいました。
彼女たちの人生というのは、やはり一枚岩ではいかないようです。それがふつうの人々の人生の厚みというもののように感じられました。
最後に反対の意味のコトワザの「渡る世間に鬼はない」を提示したら、みな大きくうなづいていました。


会員の声
平川純也(法政大学)

土曜日の夕方、枝川区民館に急ぐ。「先生、よくきてくれたね。こんな頭の悪いバアさん相手に、ほんとうにアリガトウ」。笑顔で迎えてくれるおばさんたち。
ぼくが黒板に書く字を真剣にノートに書きとるおばさん。
「先生、その漢字、かなふっておくれよ」「アサっていう字かい。アサ、アサ」
口で繰り返しながら、何度も書く。
「これでいいかい」
ぼくはノートをのぞき込む。
「いいよ」
「ほんとうかい」
笑顔があふれる。
ここでは、ぼくが忘れていた学ぶ喜びがある。感動がある。
おばさんたちはぼくに、学ぶ喜びを教えてくれる。そしてぼくは、いままで学んできたことってなんだろうと。
20歳の大学生の「先生」と、60歳の生まれて初めて「学校」に通う「生徒」。学ぶことが喜びなら、その喜びをおばさんたちから奪ってきたものの正体はなんなんだろう。
いまぼくが本当に学ばねばならないことは、そのことではないだろうか。節くれだった手に鉛筆を握るおばさんたちを見て、ぼくは考える。


コラム・えだがわから…

3 能力に応じて

文部省の中央教育審議会(中教審)が最近、経過報告書を出した。「教育の多様化・弾力化を求めて」と称してである。報告における義務教育のとらえ方は、“中学を卒業してもほとんどすべてが引き続き何らかの学習活動を行ったり、生涯教育が高まるなど、いまや義務教育内容の完結性を求めることの意味は変化しており、見直しを要する”としている。
何をぬけぬけと、という気がする。この視点の中には義務教育未修了者が全国に140万人以上もいるという事実が完全に欠落し、はたまた学習蓄積のないまま形式的に中学を卒業させた人たちにたいして生涯教育という美名のもとに「能力・適性に應じて」と称し、差別・選別の切り捨てを正当化しようとする意図がみえみえである。