NO.15 1984年4月7日


●今号の目次●

1 作文 秋本栄子
2 3.12区教委交渉 「逃げ」のみの区教委
3 ながいながい助走(下) 田中のりあき


作文 秋本栄子

世界中 日本は豊な国になりました。
けれとも 人間の心は豊かでありません
私いつもだんちに住てる。若い奥さんたちの話しに
よると人間がこわいといいます いつのまに
か人間かこわい、いめちに思うようになりました。
人間は好で一人り住む人はないと思うのです
いろいろな苦りしみがあって女の人は、
若い人も年とった人一人住む人多く安心して
クラスいまたちに住て人たは昼もかきをしめて
でも世中がやんばり人間か信用できないか

「幸福」っていったい何なのでしょうか? 日本は豊かな国(経済的)になったけど、人間の心は豊かでないと、秋本さんはいいます。私たちも、もう一度本当の「幸福」について考えてみたいと思います。


3.12区教委交渉 「逃げ」のみの区教委

3月12日、午前9時20分〜10時10分、江東区教委交渉をもちました。すでに報告したとおり、2月1日に出した質問状の回答をきくためです。区教委から教育次長、学務課長、作る会からは9名が出席しました。回答の主な点は次のとおりでした。

●夜間中学の広域学区制について、都教委の見解の確認(江東区が夜間中学を作る必要がないとする唯一の客観的理由です)、および他区(夜間中学のある)の区教委の江東区民通学者への考え方と対応。
――都教委、義務教育課に確認している。「学事事務連絡会議」でそのように聞いている。他区では今までどおり……と思う。

●何人の希望者がいればいいのか。
――「数」ではなく、「要望」の中味、教育状況をみて考えたい。現在の教育法制、区の教育政策を考えて対処していく。

●夜間中学・自主夜間中学の実態調査、見学。
――現在のところ考えていない。

夜間中学は広域学区制という見解は法的にありえないことであり、大きな疑問が残りましたが、時間の問題もあり、とりあえずパス。最低限の質問をしておきました。それは、仮にそうだとしても、現実に他区へは遠くて通えない人をどうするのか、そして希望者の状況をみて考えるといいながら、実態調査すらしない、という矛盾についてです。
それに対して区教委は、「区の教育政策」としていままでどおりやっていく、としかこたえません。では「区の教育政策」は彼らを無視し、切り捨てるということか――いや、無視するとはいわない――では何か――という話にならないやりとりのあと、ともかく検討してみる、とは最後にいったものの……。区教委の主張は論理的にまったくデタラメで、どうするかを早く検討し、我々に示すべきです。

区教委は大うそつき!

交渉後、私たちは「広域学区制」について都教委、江戸川・墨田区教委に確認の問い合わせをしました。ところが、江東区からは問い合わせすらなく、しかも「見解」の真実は、どうひかえめにみても次のようなのです。
――夜間中学は、原則として当然、各々の区民のためのものである。しかし、ない区もあるので、都教委は広域的に運営するよう設置区に要請、指導している――。
これなら十分納得できます。現実として広域的にならざるをえない。それを設置区と都教委のあたたかい「善意」がささえている。
だから、他区にまかせておけばいい、「広域学区制」だ、という江東区の曲解は根末転倒、あるいは「盗人たけだけしい」といわざるをえません。
私たちは、すぐに区教委に対して問い合わせすらしていないことを抗議し、再度、回答するために4月初旬に交渉を設定するよう要求し、区教委もこれを了承しました。


自主夜間中学の風景
府川弓子

いたく恋ひらし

先日の授業で、万葉集の防人の歌“我が妻はいたく恋ひらし 飲む水に影さへ見えて よに忘られず”というのをやりました。この防人の男性がどんな気持ちでうたったのか、みんなで解釈したあと、ひとりひとりに心から人に恋したことがあるかということを話してもらいました。
金光さんは、若い頃かなりもてたようですが、そして自分もいまならその人と結婚していたかもしれないという人がいたそうですが、家(とくに祖母)にそむくのが恐ろしくて、家が決めた人に嫁いだということです。また、韓国では小さい頃から布を染める仕事を手伝っていて、遊ぶ機会もなかったので、人を好きになるひまもあまりなかったそうです。
井田さんは、大家族の農家の生まれでしたが、戦争で召集された兄の代わりをつとめて一家を切り盛りすることにせいいっぱいで、やはり人を好きになるひまがなかったそうです。兄が無事に帰ってきたあとに、27歳という当時では遅い年齢で見合いをし、結婚したそうです。
でも、娘時代にやはりラブロマンスがあり、ラブレターをくださる人もいたそうです。
字を知らない井田さんは、読もうにも読めないし、まして返事をくれといわれても返事が書けるわけがありません。字を知らないことでばかにされるのではないかという不安と、字を知らなければ恋もできないという悔しさを味わったそうです。
何十年たったいまも、井田さんはそのラブレターを読めないそうです。はやく読めるようになるといいですね。
照れ屋さんの秋本さんは、なかなか白状してくれませんでした。9歳から18歳で結婚するまで日本の工場に勤めていたそうですが、きっとその間には心をときめかすことがあったにちがいありません。いつか教えてもらえたらと思います。いまは、34歳の長男がなかなか結婚しないので気をもんでいるそうです。
はじめは顔を赤く染めてなかなか口を開かなかった高梨さんでしたが、みんなの話を聞きながら黙々とペンを走らせて披露してくれました。

私の初恋
入船検査区から大石橋検査区に行ったときです。甲種検査はやって居りませんが、乙種検査区まで行って居ました。その検査区に技術員として拝命した私にとって、たった二人の女務員が居りました。一人は鞍山高女を出た山田さんと云うふっくらとした女性でした。もう一人の女性亀井悦子さんと云う細面の色白の女性でした。ある春の日の午後のことでした。兵隊に行く私をいろいろとやさしい言葉をもって慰めてくれました。それでも私はきみが好きだと云う元気はありませんでしたが、出征する私を送ってくれた彼女たちに手を握るだけの愛情表現でした。これが初恋と云えるかも知れません。

みんなの話を聞いていると、苦労の連続で好いたほれたなんて余裕もなかったんだなあと思ったわけですが、そのあとで作ってもらった和歌を見ると、どうしてどうして、あふれる恋心がうたのなかでおどっているではありませんか。

私し心中に恋しています
出会いのうれしさ
ぼうとに愛す(秋本)

悦子さん 目に残り
いまでもうつる
よに忘られじ(高梨)

少女時代
恋も可愛いらしい
だれが
恋を忘れましょ
峠を越えて会いに行く
遠くの道も
近くにかんじる
会えばさほどの
話もないのに
又会う日が楽しい
彼の為ならどんな苦労も
くにしない(井田)

やまゆりの
いたく恋ひらし
みずうみに影さへ見えて
よに忘られず(西村)

孫がかわいのです
私の大すきな息子よ
この母をいつも
大事にしてくれる
私しも息子を
大事にしてあける
私はおいににえ顔をが
いつもうかぶ(金光)

子どもたち
いたく恋ひらし
人が何といおうと
誰が何といおうと
よに忘られず(岩田)

我が父は
いたく恋ひらし
電話にて
言いし言葉ぞ
よによに忘られず(府川)


ながいながい助走(下)
田中のりあき

ここ、江東の自主夜中にきて、毎週、毎週ぼくが感じていたズレみたいなもの。それはとくに、きているおばちゃんたちから「いつもたいへんですね」とか「いいことばかり教えてもらって」などといわれるとき、かえって逆に強く感じてしようがないのです。そんなときほど、おばちゃんたちがかまえているような気がして、くるしかったのでした。なんだかヘンにかんぐっているみたいな言いかたで気が引けるのですが。
ときどき、ぼくはこんなことを思います。
かりに「日本語を教える」ということをとっぱらってしまって、ついでに「夜中」のワクなんかもとっぱらってしまったらどうだろう。そして、ただ、おばちゃんたちのとなりにドッカリと腰をおろしてみる。さて、そこでどんな話がしたいのか?
はたして、となりにすわっておばちゃんたちから話を聞く心のアンテナをどれほどもっているのか?
「文字を教える」とか「差別の歴史を背負った在日一世の話を引き出す」という“目的”をもってしか接することのできない人間の方こそ、かまえた姿勢ではないのか?
そんなんでは、おばちゃんたちの「ふつうの思い」すら知ることできないんじゃないか?
なんだかんだいっても、やはりぼくは若い者のリズムの中でしか生きようとしていない自分をみるのです。世の中は若い者だけで成り立っているのではないのに、社会からも、そして自分の心からも、おばあちゃんたちのリズムを知らず知らずのうちに追い出してしまっている。そんな人間に、はたして心を開いてくれるおばちゃんなんているんでしょうか?
もしかしたら、いま、ぼくは夜中で、日々おじいちゃん、おばあちゃん世代からの復しゅうを受けているのかもしれません。