NO.16 1984年5月5日


●今号の目次●

1 作文 幸はせな人 井田けい子
2 4.10区教委交渉報告
3 自主夜間中学の風景
4 こらむ・えだがわから…


作文 幸はせな人 井田けい子

家賃を払っていても毎日毎日を明るく暮す御言葉を聞くと、全国の皆様までが心が楽しくなります。物事はすべて平凡に暮らせば失敗も無いと思います。無せい限な派手な事は恐い金を借りて派手ことうすると、太く短かく生きないで細く長く生活をしたいとのぞみます。六畳を一間に八人十人の暮し内職しよと、日やとりをしても家族は一生懸命に働き、隣り近所人々となんでも貸したり借りたり相談がで来で幸せ

「すべて平凡」で「細く長く生活をしたい」というのが、井田さんの“幸せ”観です。ゆっくりとだけれども着実に1日1日を生きてきた井田さんらしい文章です。


4.10区教委交渉報告

前回の交渉で、夜間中学が江東区に必要ないのは東京都が夜間中学は広域学区制をとり、また、それにしたがって他区の夜間中学は江東区民を受け入れる――という区教委見解が「ウソ」であることがわかり、それを再確認するためにもたれたのが今回の交渉です。4月10日、4時より1時間(今回も時間ぎれを理由に話の途中で一方的に区教委は退場!)、教育次長、学務課長、そして「作る会」からは8名が参加しました。
その結果、「広域学区制」については、「学区制」ではなく広域的「機能」をもっているというふうになり、他区については区教委は、あくまで大丈夫であろうと期待しているだけで、当該の区教委には確認がとれないとのこと。そこで、私たちが江戸川・墨田にきいたこと、すなわち「現状では問題ないが、原則は自分のところの区民のための学校であり、江東区民はことわることもありうる」ということを両者で確認しました。
つまり区教委が夜間中学必要なしとしていた根拠は次のようにあいまいになりました。
『他区の夜間中学は広域的機能をもっており、将来も江東区民を受け入れてくれることを期待している』
これでは根拠になりません。やはり、江東区教委の姿勢以外に夜間中学の開設をさまたげるものはなくなったのです。
私たちはあらためて、区教委に「作るか否かは江東区の判断次第である」ことを確認させ、「作らない」という「判断」がどこからでてきたのかを問いました。もちろん「都が“広域学区制”をとっている」とはもういえません。
その答えは「現状で対応できる」というものでした。では具体的にどう対応できているのかを問うと、もう答えが出てこないのです。他区の夜間中学に通える人はまだいいとしても、通えなくて自主夜間中学で学ぶ人たちのことをどうするのか。せめて生活保障をして他区の夜間中学へ通えるようにするのか――「そんなこと(ぜんぜん)考えていません」
どうも具体的に江東区がやっているのは昼間の日本語学級(引揚者のための)だけらしいのです。話になりません。
しかも、区教委のいう「現状」とはまったく実体のないものであることが明らかになりました。他区の夜間中学や自主夜間中学を一度として見たこともなく、そこでどのように生徒が学んでいるのか、まったく知らないし、知る気もなさそうなのです。さらに「夜間中学は義務教育だから…」というと、「えっ! 義務教育ですか?」という始末。あきれると同時に認識不足(基本の基本です!)を抗議しましたが……。
夜間中学も、夜間中学生も、つまり「現状」をまったく知らない、「対応」もしない人にどうして「夜間中学は必要ない。現状で対応できる」などといえるのでしょうか。これが江東区民のための教育の責任者であると思うと、悲しくさえなります。話し合いの共通の基盤すらもてません。
「現状で対応できる」というのなら、せめて「現状」をもう少し知ってほしいと、私たちは夜間中学、自主夜間中学の見学を求めましたが、
「その意思はない」
……次回以降の交渉で、私たちは「現状」と「対応」を具体的に問いただしていきます。


自主夜間中学の風景

いつもの「醉月」で、元気のないA氏が元気者のB氏に語りかける。
A 自主夜中も満2年になるけど、内容はどうかな?
B 内容って、勉強の中身のことかい?
A うん。そのことでもいいんだけど、もう少し広い意味でのことなんだ。というのはさ、君もよく耳にすると思うけど、夜中のおばさんたち、「先生、私の字へたでしょう。何年やってもちゃんと書けないんだから」ということばをよく口にするでしょう。これ、どう思う?
B そんなことないぜ。おばさんたちは確実に字は覚えてきたし、文章だってりっぱに書けるようになってきたし……。
A じゃ、なぜあんなこと、しょっちゅういうのかね?
B それはもっと向上したいという表れじゃないの。ぼくなんか、そんなことば聞くとさ、「まだ自分たちの力が足りないからなんだなー」といつも思うけど……。君はどうなんだい?
A うん。そもそもさ、この学校は、学校という看板はついているけどさ、既存の学校にはない面を創り出したいと思って開校したという一面もあるわけでしょう。だからさ、ただ字を覚えてそれでよかったで終わるような学校であってほしくないと思っていたわけよ。
B ぼくだってそう思うよ。だからただ字を覚えるだけの教材じゃなく、いろいろ考えて用意してるんじゃない。そういうことではダメということかい?
A そうじゃないんだ。ぼくらは実際、教材をいろいろ工夫してやっていると思うんだけど、どうもおばさんたちの「字を覚えればいい」という気持ちにたいしては無力な気がするんだ。
B フーン、きみがいいたいことはだいたいわかるけどさ、きみは、どうもあれかこれかと、堅苦しく考える傾向があるようだね。文字の勉強か、それともそうじゃない勉強かというふうにね。人間にとって、そもそも文字は必要なもんでしょう。だったらそれを否定することはできない。かといって、それにとどまることもできない。なぜなら、教育とは生き方を学ぶことだからさ。だから、最低必要な勉強と、生き方を学ぶことというものを分離させないでともに実現できる内容を創造することが必要なんじゃないの。現にこの学校にはそういう実践がある。C氏の漢字の授業なんて、そういうふうにみられるんじゃない。
A そうなんだが、既存の学校体系のなかでは、字を覚えることについては「できるだけ早く覚えることがいい」とされているムードがあったと思うわけよ。そういうムードのなかでは、こと改めて「生き方を学ぶ」なんて内容を考えなくても、字を覚えることが即「覚えの遅い人はダメ」なんていう見方・生き方に自然に結びついてしまうと思うんだよね。だからさ、字を覚える勉強というものをただ実用の面だけから考えてもダメだと思うんだ。そういう勉強のありかたをそのままにして、いくら「生き方を学ぶ」ってな勉強をしても、実用的な勉強が自然に強いる人間の見方からは自由になれない。いくら人間はひとりひとりすばらしいなんていう勉強をしたって、片一方で自然に「覚えの遅いのはダメだー」なんて見方を身につけたんじゃ、なんにもならないと思うんだ。
B なるほどね。きみらしい考え方だな。でもそれは、ないものねだりかもしれないぜ。人間はそういう矛盾を抱えているからこそ人間的だともいえるからね。だいいち、実践のないところであまりこういう話をしても仕方ないんじゃないの。
A それもそうだ。まあ、1杯やるか……。

醉月に入れてるボトルは、週2本の割合でなくなっていく。議論の種はつきない。

注:「醉月」とは、授業の終わったあとで「必ず」よように通った飲み屋さんのこと


こらむ・えだがわから…

7 子どもたちの日本語学級

「娘(中学生)が、私といっしょに歩くのをいやがるんですよ。私はまだ日本語が十分でないから、つい韓国語でしゃべるでしょう。それを娘がいやがるんです」
――先日私たちの自主夜中に通う韓国引揚者のYさんが、こんなことをいった。Yさんの娘さんは、自分が韓国で育ったことを他人に悟られないようにかくしつづけているという。学校でも、日常生活でも……。
国や行政当局、マスコミは、中国残留孤児に肉親捜しには大騒ぎして注目するが、その後永住帰国した家族、とりわけ子どもたちが日本社会で受けるさまざまな苦しみや痛みをわかろうともせず、逆にその子らが彼の地ではぐくんできた「大切なもの」さえもうばっていく。
隣の江戸川区には中国・韓国引き揚げの子どもたちのために日本語学級が設けられており、子どもたちが日本で生きていくよりどころとなっている。しかし、引揚者が多く住む江東区には日本語学級はない。