NO.18 1984年7月7日


●今号の目次●

1 作文 林みつ子
2 区教委さん、仕事してますか?
3 自主夜間中学の風景
4 会員の声 こば・みつこ(早稲田大学大学院)


作文 林みつ子

わたしは あさろくしごじゅっぶんりしごとに
いきます。しごとはごみとたち
つくえおふいたりします
もつぶでふいたりします
あんなきたないしごとおやています
あさしじはんりしごとにかかります
しごとおするとかなだがつかれて
ぶたおれそうだ
ひるやすみおへらしてはたらきます
さんじできりあげます

「自分の住所と名前くらい書けるようになりたいんだよ」と私たちの自主夜間中学を訪れた林みつ子さんの作文です。「ああ、なんてバカなんだろう」「よくこんなバカに教えるね」――こんなことばがしょっちゅう出てくる林さんですが、体の調子がよほど悪いとき以外は、どんなに遅くなっても必ず出席します。
最近美容院に行ったので、「きれいになったねえ」というと、「いまわかったの。私は昔からきれいだよ」。


区教委さん、仕事してますか?

この5月に、私たちが他区の夜間中学に通えない人たちのために開いた自主夜間中学が3年目に入りました。週3回という毎日やれば効果のあがる学習にとっては不備な条件で、ほとんど休まず出席した人も少なくありません。この自主夜中の門をたたいた“夜間中学生”は50人をこえました。
このささやかな学習の中で、ある人は「やっと、だんだん人間になっていく」と語り、ある人は「(勉強して)自分が好きになった」「生き方を変えました」と綴ります。
この2年間は、学びあうことを知った喜びの日々であり、それに励まされて自主夜中が続けられた日々でありました。と同時に、このことを江東区教委が無視し続けた日々でもありました。
自主夜間中学をはじめる前、江東区は「区内に夜間中学を必要とする人がいなければつくれない」といっていました。当時もいまも、毎年数十人の人が区内から夜間中学を求めてしんどい思いをして他区へ通学していたのにです。しかも、自主夜中を開いてみると、他区の夜間中学へも通えない人がたくさんあらわれました。
それに対して江東区教委は、都教委や他区の夜間中学に責任を転嫁し、広域学区であるから江東区民は他区の夜間中学にいくのが当然、というような主張をしはじめました。
しかし私たちは、調査、交渉のなかでそれが区教委の認識不足であることを明らかにしてきました。「江東区としてどうするのか」ということにしぼられてきたわけです。
そのときになって、区教委は「現状で対応できる」といいだしたのです。
「現状」。江東区に夜間中学がないため――他区まで寝る時間を削って通う人たち(先ごろ、ある夜間中学で遠距離通学者が疲労のため事故で亡くなった……)、それすらできず、私たちのやっている自主夜間中学で学ぶ人たち(いまも、先々も何の保障もない)、あきらめている人たち――これが「現状」です。
いったい、何が「現状で対応できる」というのでしょうか。まったくなにひとつ、この現状に対応していないではありませんか。
そればかりか、夜間中学や自主夜間中学という「現状」の見学すらもやるつもりがないとは……。不思議な話です。こんな不可解なことが、あの教育委員会周辺では、区役所周辺では通用するのでしょうか。
そうではないでしょうし、また、江東区教委は「入学希望者の数は問題ではない。要望の中味、教育状況をみて、区の教育政策を考えて対処したい」(3.12要望書回答)と交渉でいっています。「具体的にはどのような対処を?」と問うたところ、驚くべきことに、最初は「今のまま」(!)=何もしない=無視する(これが対処の中味だったとは! 耳を疑いました)ということだったのですが、やりとりのなかで当然ですが、「次回までに区の教育政策としての対応を具体的に」(4.10)という約束をしていただきました。
あれから3か月たちました。ちゃんと仕事をしていただいているのでしょうか。


自主夜間中学の風景
佐々木昇一

自主夜間中学ブルース(下)

先月号からの自主夜間中学ブルースを続けてみよう。
私たちの自主夜間中学は、この5月で丸2年がたちました。そこで、この2年をふりかえって生徒のみなさんが詩をつくったものです。

中国残留日本人孤児とともに日本にきた村田さんの詩。
昼間の仕事を終えたあと、わたしたちの自主夜間中学をほとんど欠かすことのない村田さんは、日本にきてもう8年になります。

ゆうがた 西の方に赤色が出て
一日疲れの足が 勉強の会に行く
皆んなの顔がみえる
体の疲れ 全部忘れ
皆んなのあたたかい心
自分は字が読めないけれど
はずかしいとも思わない

皆んなの苦労
私の苦労も心の中に
書きたいこと
話したいことは心の中に
今思えば 懷かしい泪
心を広く 胸の中を明るく
学校を続けたい
字が読めない苦しさに
負けないで がんばれ

中国を故郷にもつ村田さんは、今年の1月、里帰りしてきた。中国に残してきた両親のことにいつも気づかう村田さんは、親類、幼なじみとともに中国で「春節」を祝ってきました。
「先生、とっても楽しかったよ。日本の正月とちがってね、夜は明るいし、徹夜で花火を打ち上げたり、ごちそうを山のようにつくって、みんなですごしたんだよ。それはにぎやかなんだよ……」
と、明るく語るがゆえに、詩のなかの一節が私たちの胸をさします。
日本にきた当時は、字が読めないし、他人が何をいっているのかがわからないし、また、字を教えてくれるところもなかったといいます。そして、字が読めないがために、会社で働いているときも、「この人、変な日本人」「中国人は中国へ帰れ」というバ声を何度もあびせかけられたといいます。そのことが「今思えば 懷かしい泪」の中に託されているのです。

高梨甚太郎さんの詩。
私たちの自主夜間中学に毎日欠かすことなく出席する高梨さんは今年65歳になる。
いつもいちばん早く来て、他の生徒のみなさんおためにざぶとんを1枚1枚ていねいに敷いてくれます。
高梨さんは、若いときに交通事故に遭い、少し体が不自由な身です。私たちの自主夜間中学では唯一の男性の生徒さんです。
そんな高梨さんが、次のようなたいへんすばらしい詩を作ってくれました。

はっきりと言葉を
話せぬ 友なのに
笑顔で過す2年間
今は駄目でも
明日がある
あと一踏んばりだよと
手を握る

もう、この詩には説明はいりませんね。ひとことひとことに高梨さんの優しさがにじみ出ています。

この自主夜間中学ブルースをつくったあとのこと。
先月と今月の2回にわたって紹介してこのブルースは、中級クラスのみなさんが4月、5月と2か月かけてつくった詩です。自分で書いた詩に、何度も何度も手直ししながらつくったものです。できあがったあと、あらためて綴じなおし、ささやかな発表会をしたときのこと、」「わぁー。私の一生の宝物……。でも、なんとなく恥ずかしいわ……。大事にとっておきます」
と語った秋本さんの笑顔がとても印象的でした。


会員の声
こば・みつこ(早稲田大学大学院)

不謹慎な表現だが、初めは何でもよかった。何でもいい、なにか社会的な事象に取り組みたい。そういう気持ちで自主夜中を選んだ。だが、毎週水曜日、この自主夜中に通い始めて3か月たった今、つらつらと思いやるに、私の選択がけっして偶然的なものだけに左右されていたわけではなかったことに気づく。
家庭教師をしていた子どもたちの中の2人が在日朝鮮人三世の少年少女だった。ふたことめには「日本人はバカだ」を連発し、日本語の不自由な彼の祖母をいみ嫌っていた少年。日本名でとおしていたところが、ある郵便物から自分のもうひとつの名前が「李」であることを私に知られて半ベソをかいていた少女。あの子どもたちの日常的に経験しているさまざまな苦労を前にして、私は日頃大上段にふりかざしていた「疎外」やら「差別」やらの概念が、自分にとってただのとりとめのない抽象にすぎないことを痛感せざるをえなかった。
あのときの無力感に似た思いを、この3か月ほど、私は味わっている。夜中に通ってくるオモニたちのおかれている状況を概念化すれば、「疎外」「差別」「抑圧」等々であって、図式的にはそれでいいだろう。だが、仕事を終えてやってくる彼女らと、濁音やカタカナや数字のかきかたに四苦八苦している彼女らと、そして授業が終わって「ありがとうございます」と深々と頭を下げる彼女らと接していると、そういった概念なり理論なりを座って覚え込むだけという学問態度の不毛さについていやというほど思い知らされる。この認識は、私にとって、自分の学生としてのあり方を問い直すひとつのきっかけとなった。還元すれば、自主夜中においては、教え教えられる者の関係が、同時に教えられ教える者の関係をも可能にしているのである。
そのような状況は、大学の凉しい研究室に埋没している師弟関係にあっては、とうてい望みえまいという感想を余談ながら付け加えておく。この夜間中学についての私の細かい報告に対して「お給料を出せばいいのに」とだけのたまった我がゼミナールのありがたき指導教授を思い浮かべながら……。