NO.22 1984年11月4日


●今号の目次●

1 作文 高梨甚太郎
2 高梨甚太郎さん逝く!
3 情宣活動を続けています
4 バザーとコンサート(日教組教育新聞)
5 こらむ・えだがわから…


作文 高梨甚太郎

若い時の苦しみは買ってでもせよと昔から云い伝へられている位だからその時の苦しみは金だと賛償してやみません
他方金持の男は金銭に不自由なく賢く育ったことは不幸のはじまりと云っても過言ではないでしょう
苦しみは金、たのしみは銀と云う言葉が痛切によみがえってきます
苦しさは何に増しての宝物だと感じます

「苦しさは何に増しての宝物」という高梨さんですが、私たちと夜間中学公立化のよろこびをわかちあえないまま10月28日、永眠されました。つつしんでご冥福をお祈り申し上げます。


高梨甚太郎さん逝く!

自主夜間中学の“生徒”高菜字甚太郎さんが10月28日、入院先の大田区内の病院で亡くなられました。56歳。自主夜中でただひとりの男性“生徒”として、リーダー的立場の人でした。私たちの運動のよき理解者でもありました。
高梨さんが倒れたのは、久しぶりの一家団らんの時でした。
この日、長男の正男くんに生まれた家を見せようと、大田区内の以前住んでいた場所に行ったそうです。公園で食べた昼食の「おにぎり」がのどにつまったことがひきがねとなりました。奥さんの話によると、「一度もどしたものが、あおむけになったときに逆流し、気管につまった」ようです。ふだんから小食で、体が弱っていたのが災いしました。
救急車で運ばれたときにはすでに顔が紫色に変色し、その後一度も意識をとりもどすことなく、そのまま永い眠りにつかれました。
高梨さんは自主夜中が“開校”してまもなく、新聞記事を見て枝川区民館を訪れました。無口な人で、多くは語りませんでしたが、ときどき戦争中に中国にいたときの話をしてくれました。当時おぼえた中国語で、自主夜中に通う中国引き揚げの人たちと話をすることもありました。
自主夜中のある日はいつも一番乗りで、座布団や黒板の用意もしてくれました。
私たちの活動にも積極的に参加され、どんなに力づけられたかしれません。
夜間中学の公立化を望み続けていた高梨さんでしたが、安念ながら「その時」に立ち会うことができませんでした。遠く離れてしまいましたが、私たちを見守っていてください。


情宣活動を続けています

通信紙上でも再三伝えてきましたが、夜間中学公立化に向けて「話し合いをしたい」という私たちの申し入れに対して、窓口である区教委学務課の島田課長は「検討中」「したがって、いま会っても話すことはない」などとして、これを拒否し続けています。夜間中学の実態をまったく知らない、夜間中学を必要としている人たちの声を聞こうともしない区教委の不誠実な態度はきびしく糾弾されなくてはなりません。
先日は“自主夜間中学生”の高梨甚太郎さんが、夢をかなえることなく亡くなりましたが、夜間中学を求める人々のなかには高年齢の人も少なくありません。まさに「時間とのたたかい」のなかで必死になって学ぶ場を求めているのです。
「検討中」の内容も、スケジュールも、メンバーも、何も明らかにすることなくダンマリをきめこんでいる区教委は、その重みをどのように受けとめるのでしょうか。
さて、私たちは区教委の不誠実さを広く訴えるべく、この間、区役所前や駅頭で、数回にわたって街頭情宣活動をおこなってきました。その反応はきわめてよく、区役所で働く労働者や区民の方々から多くの励ましの声が寄せられています。
先日は、区役所の職員の方より自主夜中見学の申し入れがあり、さっそく実現しました。
あたりまえのことをあたりまえに要求する。この正当性は多くの人々に共感をもって受け入れられつつある――。私たちはこの情宣活動をとおして確かな手応えとして感じました。
今後もより多くの力を結集して「私たちの力」としていきたいと思います。


バザーとコンサート
(日教組教育新聞)

義務教育未修了者や中国引揚者らに働きながら学ぶ場を――と夜間中学設立運動を行っている東京「江東区に夜間中学・日本語学級を作る会」が11月11日、支援グループとともに夜間中学早期公立化を訴える「バザーとコンサートの集い」を、同区区役所隣の江東区文化センターで開く。
集いでは、同会が2年半前から週3回開いている“自主夜間中学”で学んでいる「生徒」手づくりのきむちやギョーザ、大阪の公立夜間中学生から寄せられた衣類、日用雑貨、支援団体から寄せられた古本、Tシャツ、消費者自給農場運動たまごの会有志によるたまごと野菜などの販売が行われるほか、在日朝鮮人歌手・黄佑哲(ファン・ウチョル)さんらによるコンサートがもたれる。公立の夜間中学や自主夜間中学の関係資料も多数展示・販売される予定だ。
公立の夜間中学は現在、全国に34校(東京には8校)あるが、義務教育未修了者、中国引揚者の多く住む江東区にはなく、同会は3年半前から公立化運動を進めている。


こらむ・えだがわから…

11 50の縁

自主夜中でほとんど唯一のといってもいい男性の生徒さんだった高梨さんが亡くなった。享年56歳だった。開校後まもなく入学されたから、当時は53歳くらいだったと思われる。高梨さんにとって他の生徒さんや私たちとの出会いは、まさに「50になれば50の縁あり」を地でいったものにちがいない。「50の縁」をもっと広げ、深めようとする矢先であったのに、無念でならなかったのではなかろうか。
いつか詩の授業の時「輝きと暗やみ」の話題の時、暗やみの多さに比べ、輝きが少ないことをみんなで感じとっていたとき、彼は間髪を入れず、自主夜中そのものが輝きだといった。
その輝きを絶やさぬようにと、江東区教委との交渉の時、もつれる舌をたたきつけるようにいった訴えが忘れられない。
ご冥福を祈りたい。