NO.23 1984年12月8日


●今号の目次●

1 作文 具粉性
2 夜間中学問題に区教委は社会教育で対応?
3 11.11「バザーとコンサート」大成功!
4 自主夜間中学の風景


作文 具粉性

私はこどものときはせんそうやったときだから、なんにもなくてくろうしました。そのために学校にもいってないからもっとくろうしました。

具さんはいつも、夕食の用意を終えてから自主夜中にくる。だからいつも、着くのは7時をすぎてしまう。そんな具さんが、先日、真新しいふでばことノートを持ってきた。聞けば、だんなさんが買ってきてくれたのだという。身体も疲れるだろうけど、いっしょにがんばりましょう!


夜間中学問題に区教委は社会教育で対応?

夜間中学を社会教育として計画?――江東区教委のこんな姿勢が、このほど当局関係者から明らかにされました。発言したのは須田・江東区教委社会教育主事。11月23日から3日間、鹿児島で開かれた全国同和教育研究大会でのことです。
私たちは区教委が何らかの“前向きな姿勢”を打ち出したことには評価しますが、社会教育のなかに位置づけることについては、これを認めるわけにはいきません。
なぜなら、社会教育と義務教育とはまったく別のものだからです。社会教育で中学校の卒業証書が出せるでしょうか? 社会教育で専用教室が確保され、必要な授業時数がえられるでしょうか? 時間講師が夜間中学生の日々の悩みにきめ細かい対応ができるのでしょうか?……
私たちの運動は、これまで“留保”されてきた「教育を受ける権利」=義務教育をあらためて要求していこうというものです。義務教育を保障するのは義務教育の場でしかないのは当然のことです。
そろそろ来年の予算編成作業も詰めを迎えるころです。島田学務課長のいう「検討中」と須田主事の「社会教育で」発言を吟味し、あらたな対応を考えていく必要がありそうです。


11.11「バザーとコンサート」大成功!

「江東区に夜間中学を! バザーとコンサートの集い」が11月11日、区役所隣の江東区文化センターで開かれ、1,000人以上を集めて大成功に終わりました。多くのご協力、ほんとうにありがとうございました。
当日は雨の降りそうな天気でしたが、熱気はすごいものがありました。開場前から人、人……。日用雑貨などはあっという間の売り切れです。
古着も安さのせいか大人気です。中にはダンボール箱に何箱も買っていかれた人もいました。中国引揚者の人々が多くこられたのは地域性ですが、この人たちのために日本語学級がぜひ必要です。
おにぎりやキムチ、ぎょうざもすぐに売り切れました。とくにぎょうざは人気が高く、あわてて仕入れを追加したほどでした。
売り上げは、品物の単価が安かったにもかかわらず、作る会のぶんだけでも20万円をこえました。
多くの人たちの強力がありました。
黄バンドの人たちは、寒い中で2ステージをこなしてくれました。黄バンドファミリーやたまごの会、筑豊と共闘する会、共同作業所なかまの家のみなさんからは、売上金のカンパをいただきました。日本語学級(葛西中学)の子どもたちも頑張ってくれました。ダンボール30箱の荷物を1年間もあずかってくれた葛西工業高校の酒井さん、多くの品物を供出してくれたみなさん、ほんとうにありがとうございました。
ともにがんばっていきましょう。


自主夜間中学の風景
木場三津子

今回は追悼の意も含めて、秋の運動会と高梨さんがフォークダンスを踊ったときのことを語ろう。2か月も前の話である。
去る10月7日、日曜日、晴天、荒川九中で東京都の夜間中学8校による連合体育祭があった。松戸、江東の2自主夜中と川崎の夜中もはせ参じたこの催しに、われらの高梨さん、秋本さんも参加した。引率の先生は、恥ずかしながらこの私。木場の駅から町屋までお二人をお連れした。にこやかに話しかけてくる秋本さんと、石のように黙して語らぬ高梨さんを「あっちですよ」「こっちですよ」と道案内すること、約半時間。町屋で待っていてくれた佐々木さんと合流して荒川九中へ。
久々にラジオ体操をし、久々に「若い力」を歌い、そして生まれて初めて客席から、人が運動会に興じるさまを、老若男女がうち乱れて「競う」というよりむしろ「はしゃいで」いるさまをながめた。
トラックを走る10代の少年に向かって力いっぱい帽子を振りながら「○○君、がんばって」と叫ぶ年輩の婦人。たどたどしい日本語で「ガンバレ」を繰り返す男性。それは演技でも競技でもない、作為もなければ勝敗への執着もない、素朴でさわやかで感動的なながめだと思ったりした。
秋本さんが用意してくれたおにぎり20個、ゆでたまご30個、きんぴらごぼうをほおばり、差し入れのみかんに手を伸ばし、みんなが笑いさざめくなかで、高梨さんはあいかわらず無口だった。きんぴらごぼうの品定めをする輪の外で、ひっそりと持参の握り飯を食べていた。
以前から、私にとって高梨さんは気になる存在だった、彼の寡黙さは重かったし、あの悲しい表情を見るのは辛くもあった。そして、みんなで楽しむべき運動会に参加してさえ、何かに耐えるようにひと所に座って動かない彼は、場ちがいな感すらした。思えばそのときまで私は、高梨さんが笑ったのを見たことがなかった。
しかるにこの日、私ははからずも彼の笑顔に触れる機会を得る。それは、運動会終盤の観戦を中座して帰る地下鉄のホームでのことだった。
「来年は見るだけじゃなくて、出し物にも参加したいね」と秋本さん。「そうですね、フォークダンスだって楽しいですしね」と私。その時、それまで黙り込んでいた高梨さんが勢いこんでこういったのだ。
「フォークダンスなら、ぼくできます」
え、と皆は彼に注目した。彼は繰り返す。
「フォークダンスは昔やりました。オクラホマミキサ」
そうだ、運動会にはオクラホマミキサがつきものなのだ。小学生のころ毎年踊らされ、私はオトコと手をつなぐのがいやで逃げ回っていた。そういう記憶もなつかしくよみがえり、うれしくなって思わず手拍子をとりながら「ララ、ラララララ……」と口ずさんだ。それに会わせて高梨さんが右手を高く、左手を方の位置にあげて、オクラホマを踊ったのだ。
よほど楽しい思い出だったのだろう。ステップも軽やかだった。ほんの一瞬のささいなひとこまであったが、あの時の彼の表情を私は忘れない。
昔フォークダンスを踊ったことが高梨さんの心をはずませたように、この日が二人三脚や騎馬戦に汗を流したあれらの人々にとってかけがえのない思い出になればいいと願いもする。