NO.25 1985年2月9日


●今号の目次●

1 1.29区教委交渉 「なぜできない」に理由はない…
2 自主夜間中学の風景 番外編 卒業 平川純也
3 ある文部省通達 引揚者子弟の受け入れをめぐって 岩田 忠
4 こらむ・えだがわから…
5 ザ・夜間中学―100人のトークマラソン


1.29区教委交渉 「なぜできない」に理由はない…

すでに名のり出た希望者は70人。夜間中学をつくらないではすまされぬ江東区の「区としての対処」の検討をすすめてきたはずの江東区教委。何度もいき(既報)、やっともてた交渉。しかし……区教委は相変わらずの「だんまり」で、予定の時間(45分!)がくると、さっさと席を立った。先日死去されたTさんの遺影が……。

私たちは1月29日に江東区教育委員会(教育次長、学務課長)との交渉をもちました。これは昨年4月以来、じつに半年ぶりのことでした。
結論からいえば、このような交渉であったにもかかわらず、区教委は何ひとつとして新しいものを示しえなかった。作業は実質的になんらおこなわれず、「ほったらかし」というものでした。その間に自主夜間中学の生徒のひとりが死去したことなどを考えると、私たちはこのような区教委の姿勢に「冷酷」なものを感ぜずにはいられませんでした。

さて――

この日は、4月交渉時の約束「要求の中味を考え、区の教育政策を考えて対処していきたい。そのための検討をする」の検討内容を聞くことでした。夜間中学の設置主体はあくまで区であり、現在の教育法制では都や国は「作るか否か」にはまったく関与しない――という到達点から、「区としての」意思決定のための検討であったはずです。ところが(またまた)…
「国や都とのからみが……」
と区教委はいうのです。何回もいってきたことですが、私たちはあらためて、そのことが(法的にも実質的にも)まちがいであることを述べました。すでの都教委には確認済みですし、また国も、つい1月22日の参議院で「夜間中学の果たしてきた役割は評価する」「市町村教委が必要があるとした場合に設置し」国は財政措置を行う、と明言し、区教委自身も、「具体的に圧力などはない」ことを認めているのです。それでもなぜか、お題目のように「都や国の…」です。

「なぜ、江東区にだけできないんですか」

交渉に出席した生徒のAさんが声をふるわせました。「働かなきゃ、生きていけないんです。字を知らなければ、今の時代、危険だし、やとってもくれません。机に座っているだけでなく(夜間中学を)みてくださいよ。なぜ、江東区は……。江東区に住んでいる人間は特別なんですか。同じように税金おさめて、生きていかなきゃいけないんです。バカにしないでください!」
すでに近くでは葛飾、墨田、足立、荒川には夜間中学があり、71年には江戸川区にも、その後大阪(7校)、奈良(78年)、天理(81年)、川崎・市川(82年)など、次々と夜間中学はつくられています。江東区にだけ特別な理由があることはないのです。

検討中の中味はなし?

検討がどうなっているのかについても、いっさい明らかにされませんでした。そして“いつ”“どんなメンバーで”ということについては「記録がないので不明」というのです。これは「検討」でしょうか。単なる雑談でしょうか。実質的な検討はなかったのではないでしょうか。信じられない不誠実さです。それが本当であれば。

「検討にあたって夜間中学の現場を見る必要はない」

このような区教委の発言は、教育要求・内容をまったく無視しているか検討自体をまったくしていないかです。いずれにしても、このままにはしておけません。
夜間中学を拒む正当な理由は、もはや区教委にはありません。ただ、何もせず放置しているだけです。


自主夜間中学の風景 番外編 卒業
平川純也

僕が初めてここ枝川自主夜間中学を訪れたのは、一昨年の5月であった。以来2年近く、土曜日になると通うようになっていた。
そもそものきっかけは、大学のゼミで教育経済論なるものを専攻し、そこで夜間中学の存在を知り、興味をもったことからだった。
ある教育問題を考える集いで枝川自主夜間中学のメンバーと会い、参加しないかと誘われたが、僕の中での夜間中学とその生徒さんのイメージは、資本主義社会の教育の歪みと、帝国主義戦争から生まれた犠牲者であり、一方の僕は学歴社会の中の大学生。かなり頭の中で図式だった構えをもって臨んでいたと思う。
実際、くるなり授業を手伝うことになり、「生徒」さんから「先生」と呼ばれることに罪悪感のような抵抗を感じていたのだ。
しかし、通っているうちに心の構えや図式的なイメージ、教育の犠牲者としての「生徒」さんはなくなり、ひとりひとり親しみの感じるおばさんになり、また僕の呼ばれる「先生」にも、おばさんたちの目や声に“土曜日のアンちゃん”というものを感じるようになっていた。それは「先生」としての僕が教える日本の文字よりも、はるかに多くのことを「生徒」であるおばさんたちから教えてもらったからだろう。
おばさんたちひとりひとりが授業のなかで語る人生の1コマ。その中に1人の人生の先輩の歴史をかいま見る。戦中・戦後の話、昔のしきたり、文化から、「にいちゃん、女ってもんはね……」と女性論と将来の花嫁さん選びのポイントまで……。何よりも、教えてもらった最大のものは、おばさんたちを支えた明るさであった。

多くのことを自主夜中で学び、2年近くの日がすぎ、この春、僕は大学と枝川自主夜中を「卒業」することになる。民間会社に就職し、仙台に配属されることになっているのだ。
しかし、僕にとっての夜間中学との関わりは、通学課程が終わったにすぎず、新たに通信課程が始まるのだと思っている。これまでの学生としての授業参加から、またちがったかたちで関係をつくっていきたいと思っている。
振り返ってみて、これまで僕は自主夜間中学公立化運動のおいしいところしか食べていなかったと思う。おばさんたちとの直接のふれあいを求めて授業への参加はするものの、ビラづくりや通信の編集、会場の設定など運動の裏方的な仕事にほとんど参加しなかったのだから。そしてまた、運動をすすめ広げるうえで、表に出ない部分がいちばん大事であるのだということも、やっぱり学ばせてもらったのだ。これから社会人として、また遠くに住む者として何ができるのかを考え、行動してみたいと思う。
「放課後」のメンバーの集まり(飲み会)でも気負ってずいぶん青臭いことをいっていたと思う。学生としての僕が「風景」に登場するのは最後になると思うが、公立化に対して重い腰をあげぬ行政当局に最後にもう一度、青臭い理屈を述べてみたいと思う。
憲法に保障されている義務教育に対する行政の責任とは、教育を、学ぶことを欲する人間の権利に対して環境を保障する義務である。この権利と義務はけっして割り引きされるものではないのだ。


ある文部省通達 引揚者子弟の受け入れをめぐって
岩田 忠

1952年の暮れ、中国の北京放送から、それまで中断されていた中国からの残留日本人の送還を人道的立場から再開するというニュースが流れた。日本政府は、大量の引き揚げを前に、受け入れ態勢の整備が迫られていた。引き揚げの子弟についても、年月のへだたりから言語習得のちがいが目立ち、あちこちの現場で混乱が起こり、特別な手だての必要性がさけばれていた。
1953年3月、文部省は次のような主旨の“前進的”な事務次官通達を出し、引き揚げの子弟の受け入れの徹底を指示した。
「引き揚げの子弟が多くいる地域には、特設学級(日本語学級)を設けて対応すること」
「高校への転入学については便宜をはかること」
おりから国会でも、引き揚げの人々の受け入れについて審議されていたが、その中で、その子弟の受け入れ、教育方法について物議をかもしていた。そして、「中共から帰国してくる子弟は、政治教育が徹底しており、こういう子弟を集めることは、偏向教育の拠点になりかねない。特設学級は逆効果である」という意見が大勢を占めるようになっていった。
それから1か月後、文部省はこんな“偏見”初等中等局長通達を出している。
「中共からの帰国の子弟は情緒不安定でゆとりに乏しく、批判的で従順でなく、何をするにも徹底している(から気をつけろ)」
そして、こうしたつくられた「反共」「中国批判」の世論の広がりに、ついに中国政府は、日本人の送還をわずか1年あまりでストップしてしまったのである。
それから32年、東京弁護士会が今月はじめ、都知事にたいし、「引揚者子弟に対し、都立高校に受け入れの特別枠を設けよ」と申し入れをした。海外駐在員等の子女に対して特別枠を設けながら、引揚者子弟になんら対応がないのは差別であり、人権侵害にあたるという。また、今国会予算委員会でも、先の通達がらみの質問が予定されているときく。そして「日本語学級を考える会」――引揚者子弟の教育権の保障をめざす住民団体――は、各地で起こっている入学拒否・猶予、登校拒否、学校不適応、ノイローゼ、差別事件などの事例調査に着手、それをもって文部省、都にはたらきかけていく予定という。
具体的なひとつひとつの生活、ひとりひとりの存在、生を背負う命の叫びは、声なき人々の唯一・最大の武器である。


こらむ・えだがわから…

12 教科書の皮肉

江東区で使用されている小学校の社会科の教科書では、地方政治についてどう記述されているだろうか。

○地方議会は…地域にかかわる条例や予算を決めたり、住民からの願いを受けつけたりなどに仕事をしています。

90人にもおよぶ「文字を学びたい」という人の願いは、どう受けつけてもらっているのだろうか。期限が切れたから「願い」も消滅したのか。

○一定の地域の住民が自分たちの代表を選んで、地域の政治を自分たちの手で自主的に行うことを、地方自治といいます。

江東区に夜間中学がほしいという願いは、地域の政治の問題ではないのか。いつも「国や都は……」と区教委はいうけれど、まず設置するかどうか決めるのは江東区の問題ではないのか。
この教科書には「地方自治は民主主義の学校だ」とも記述されている。教科書が江東区に皮肉をいっていると思えてならないのだが、どうだろうか。


ザ・夜間中学 100人のトークマラソン

「ザ・夜間中学 100人のトークマラソン」が2月3日、千葉・市川市で開かれ、江東区からも24人が参加しました。
市川には3年前、市民の要求によって千葉県唯一の夜間中学(大洲中学)が開校しましたが、行政のPR不足もあり、生徒数が年々減少。この春からは生徒が1人になってしまいます。集会は、夜間中学のPRと行政の前向きな対応を求めて計画され、当日は210人もの参加者を集めて盛大に行われました。
えんえん5時間。100人めのランナーがゴールインしたのは6時すぎ。それでも歌、おどりとみんな元気いっぱい。
集会でいちばん感じられたのは、夜間中学生たちの連帯の強さ。地元・市川からのランナー高橋さんが「君がやめたら卒業式と閉校式が一度にできると教師にいわれた。でも私は、最後までがんばる」と述べたとき、会場にはその教師に対する怒りと高橋さんへの声援がいっぱいに広がりました。
また、埼玉県の参加者が「埼玉にもぜひ夜間中学を」と決意表明。大きな盛り上がりを見せました。