NO.26 1985年3月16日


●今号の目次●

1 作文 秋本栄子
2 都夜中研が全面的支援約束
3 自主夜間中学の風景 番外編 最後は反省しきりです 鵜沼克浩
4 会員の声 平野博子
5 こらむ・えだがわから…


作文 秋本栄子

私は人生は おもうよにいかん門てす
てもいつも明かるくいきたいものてす
あすをしんちてきぼをもていきたいてす
そうしたら道か広ろかると思うてす

春です。出発の季節です。この作文を書いてくれた秋本栄子さんは、いつもにこにこと明るいオモニ。自主夜中設立時からの生徒さんであります。あすを信じ、希望をもって生きている秋本さんは、「作る会」の力強い柱です。世の中、思うようにいかないことだらけ。でも、ともにがんばれば、こわいものなし。


都夜中研が全面的支援約束

私たちは2月27日、東京の夜間中学の先生たちで組織されている東京都夜間中学校研究会の大会に出席しました。そこで、会場の江戸川区立小松川二中に集まられた8校約70人の先生たちに、江東区教委の姿勢((1)ほかの区の夜間中学には余裕があるので、そこへいけばいい、(2)夜間中学は広域的に作られたものである)――を説明し、その不当性を訴えるとともに、運動への支援を要請しました。

江東区にこそ、夜間中学が必要です

それに対して、夜間中学の先生たちから、
「江東区のいいぶんは、とんでもない話。そもそも江東区からの通学者がもっとも多かったこともあるくらいで、むしろ夜間中学がいちばん必要なのは江東区である」
「江東区に夜間中学ができることは、関係者すべての願いである。私たち(夜間中学の教師たち)こそが設立運動をしなければならなかった」
などというような発言が相次ぎ、会長からも全面的な支援を約束していただきました。たいへんに心強い援軍です。
都教組江東支部に続いての、先生たちの支援です。

夜間中学の有する意義を評価

さて、もうひとつの援軍は、好転した国の姿勢です。
前号でもかんたんに紹介しましたが、1月22日付で出された参議院の質問答弁書によりますと、中曽根首相は、夜間中学のこれまで果たしてきた役割を評価。義務教育未修了者に対して「当面、中学校夜間学級がこれらの者に対する教育の場として有する意義」を認め、「中学校夜間学級は市町村教育委員会が地域や学校の実態等諸般の実状を勘案の上、その必要があると判断した場合に設置」することができると明言しています。
「国や都のからみがあり……」と判断を避けている江東区教委が真摯に事実に沿って判断すれば、夜間中学はすぐにでもできるのです。そして、江東区が「その必要がある」にもっともふさわしい場所でなければ、いったいほかにどこがあるというのでしょうか。

日本語学級、4月から中学に増設検討

さて、話は変わりますが、3月定例都議会は、中国引き揚げの子どもたちに対する日本語学級問題が大きくクローズアップされました。すでにマスコミでとりあげられたもののうち、日本語学級増設に関するやりとり(都教委の姿勢)を紹介しておきます。

さらに同議員は「日本語学級の増設も急務である」と追及。同教育長は「今年4月から中学校1校で(日本語学級の増設を)行うよう関係者と詰めている」と明らかにした。

中川儀郎議員(自民)が日本語学級の増設問題を質問し、水上教育長は「中国引き揚げ子女の居住状況や小、中学校在籍状況を検討し、小・中学校の適切な設置場所の選定を十分考えていきたい」と答え、前日の答弁をさらに一歩進めた積極的姿勢を示した。
また鈴木知事も「中国で生まれ育った子供たちが日本社会の中で立派に成長し、これからの日中友好のきずなになるようきめ細かに対応したい」と答えた。

積極的です。日本語学級は増設されます。どこに?
江東区教委は、私たちとの交渉で「(日本語学級の設置は)考えていない」といっていますが、今その設置場所としてもっとも適切で、もっとも必要としているのは、中国引揚者の居住がもっとも多く、その子どもたちがもっとも多い江東区以外には考えられません。この「客観的事実」が、江東区教委によって圧殺されないことをいのります。

――なお、都議会では、引き揚げの子どもたちの高校進学問題にもふれ、水上教育長は「入試の方法や入学後の教育指導は“都立高校入学者選抜検討委”などで具体策をつめ、61年度入試に間に合わせたい」と答弁。
今年度入試はすでに終わっていることから、二次募集時に(1)問題にすべてふりがなをつける、(2)時間を1.5倍に延長する線―などの配慮がなされることになりました。


自主夜間中学の風景 番外編 最後は反省しきりです
鵜沼克浩

東京を去るにあたって何か最後に書いていけとのことだが、さて、自分は何を書けるだろうか。
こんなにはやく就職の機会がやってくるとはまったく考えていなかったので、この数か月の間、とてもあわただしい思いをしてしまった。それとともに、この2年間の自分の夜間中学へのとりくみかたを、自分の中でもう一度問うことにもなった。
そうしていま思うのは、もっとこうすればよかった、ああすればよかったということばかりなのだ。

それにしても、夜間中学ってふしぎな場だと思う。授業のある土曜日は、正直にいって、昼間から気が重いことが多かった。それは、なにかしんどさみたいなものを感じるからだ。川崎から枝川までの道のりの遠さもたしかにあったが、それだけではなかった。
けれども、夜の授業が終わるときには、そんなしんどさもどこかへとんでいってしまってすごく落ち着いた気持ちになってしまっているのだった。この2年間、そのくり返しだった。

いつかの授業で「昔、今、10年後」という3つの語にそれぞれ文を続けて3行の作文をしてもらった。
「10年後は思うことをすらすら書けるようになりたい」という文や「今より仕事が、ずっとうまくいきますように」という文がでてきた。それをおばさんたちに発表してもらったところ、期せずして「がんばろうね」の声がおばさんたちの中からあがり、肩をたたいたりのはげましあいになった。
そういうことは、授業の中でときどきあるのだが、おばさんたちのそんな姿に接することができる夜間中学は、ほんとうにすごい世界だと思う。
けれど、その授業の作文に「昔のことはわかりません」と書いたおばさんがいた。そう書いたおばさんの重いに近づくことはどれだけできたのか。
おばさんたちの人生のもつ重さと向き合うだけのものは、なんとなくいいかげんに25年を生きた自分にはない。しかし、でも、おばさんたちと対等な人間関係を求めるには、やはり、あるがままの自分を、おばさんたちの前にさらすことしかないわけだ。こんなかんたんなことに、最近になって気づいたのだ。

この2年間、自分は楽をして、おばさんたちの思いの深いところにとどこうとしていたのだ。思い上がり以外のなにものでもない。
たとえば、自分が「うぬま」という名であることを知っているのは、おばさんたちの中で半分もいない状態なのだ。もう2年になるというのに。そんなところにも、自分の関わり方のあまさが見えてしまうのだ。

2年間、ほんとうにいろいろなことがあった。授業の場でも、またそれ以外でも。
バザーは、予想を上回る成功をおさめたが、あの古着がとぶように売れたのは驚きだった。
高梨さんの死は、本当に突然だったが、おばさんたちと作る会の仲間の対応はあたたかいものだった。
授業では失敗のほうが多かったが、おばさんたちが語るのを聞くのは、ときにつらく、ときにうれしかった。
日本にきたばかりの人と身ぶりと手ぶりを交えて話したり、勉強したりしたが、思っていることが相手に伝わったときは、顔を見合わして笑った。
授業を長く休んでいる人、もうこなくなった人も何人かいる。その人たちの事情を、自分はあまり知らない。最後はやはり、それがくやしい。

4月から新しい生活が始まる。夜中での多くの失敗とほんの少しの成功を、またひとつの出発点としたい。
作る会の仲間とおばさんたち、またどこかでつながりましょう。


会員の声 平野博子

「自主夜間中学で教えてみないか?」って誘われたのが去年の5月。そして、冬になってちょっとさぼりがちになったけれど、仕事が終わると、やっぱり枝川に足を運んでいる私がある。
なんら主体的に夜間中学へやってきたのではなかったような私。昼間、仕事してても、5時すぎたら電車3つ乗り換えて、バスに乗ってって思うと“ああ、枝川は遠いなあ……”なんて思ったりすることもあった。
でも、初めていったときから、いっしょうけんめい「あいうえお」や漢字を覚えているおばさんたちの姿が私をひきつけたっていうか、とにかく通い続けてしまった。そのうちに、ちらっとだけおばさんたちのいろんな「かお」に出会うことができた。
――とってもおいしかった「ちらしずし」をふたたび食べたいとゆめみて出かけた浅草のすし屋で自信をもって「ちりがみください!」と注文して恥をかいた話。それは、笑い話ではなくて、じつは苦労話なんだけど、かわいい顔して語ってくれるおばさん。
――ある日、1時間以上も遅刻して、とぼとぼと枝川区民館へ向かう私の横を、ほっぺたをまっ赤にして猛スピードで自転車で駆け抜けていくおばさん。「あー、昼間の仕事を終えて、そして家事もちゃんとやって、いま、やってくるんだなあ」って思う。
そんなおばさんたちの存在自体が、しっかりと私にいろんなことを考えるきっかけを与えてくらている。
私に可能性を与えてくれる、私の学校としての夜間中学に、足をはこぶ、この頃の私がある。


こらむ・えだがわから…

13 「和歌山の奇蹟」は奇蹟じゃない

以前、勤評闘争関係の資料を読んだことがある。勤務評定をめぐっての教師・父母・地域住民対教育委員会という構図が全国に広がる1950年代後半のことである。
今日露呈されている管理教育の弊害がここから始まるとさえいわれている勤評だが、その資料でとりわけおもしろいと思ったのはが和歌山だ。教育委員会と勤評反対派との大衆団交で、教育における差別問題を議論するうちに、教委側から1人また1人と立ち上がり、いう。本来あってはならない差別が教育現場でおこなわれていることをいま初めて知り、無自覚だった自分を反省するとともに、このような状況を打破すべく共にたたかおう、と。そして教委側の席から反対派の席へと移り、心あるいち教育委員として、文部省―教育委員会の方針を批判するのである。
20年以上も前の、古きよき時代ののどかな教委とわらってはいけない。彼らは「お上」から選ばれた任命委員なのである。わが江東区にも同様に、任命の教育委員たちがいるわけだが、はたして自らの主体性をもって仕事にあたっていただいているのであろうか。はるか昔の「和歌山」の“奇蹟”などではない。私たちの努力によって彼らをゆり動かしていくことがいま、ほんとうに求められている。