NO.27 1985年4月13日


●今号の目次●

1 はじめての「修学旅行」
2 「日本語学級は有効」文部省が前向き答弁
3 名古屋の「夜間中学」31人が入学
4 自主夜間中学の風景
5 こらむ・えだがわから…


はじめての「修学旅行」

自主夜間中学が「開校」3周年を迎えるのを記念して、3月30・31日、伊豆・熱川に「修学旅行」にいってきました。参加したのは「生徒」12人を含む32人。いきの電車の中からお酒が入って、もうたいへん。ほんとうにバクハツした2日間でした。
「1泊くらいでどこかにいきたいねえ」という話は、かなり前からありました。が、ついつい延び延びになっていました。ほんとうは年に1回くらいはみんなで温泉につかってのんびりしたいものです。
さて当日は、午後1時30分発の「踊り子」号で東京を出発。乗り込むなり、酒盛りが始まりました。熱川に着いたのが4時少し前。6時から食事、8時から宴会というスケジュールです。しばらく休んでいた青山さんや南さんも参加して、大いに飮み、かつ歌いました。
翌日は、二日酔いの頭をズキズキさせながらの朝食をすませて、いよいよ本番です。食べ放題のみかん園、バナナ・ワニ園……みんな、子どもにかえったようにハシャギまわりました。帰りの電車でもお酒を飲んで踊って、ほかのお客さんもおもしろがって見物にくるほどでした。また、ぜひやりたいものです。

ところで……

ひとくちに3年間といいますが、公立の中学だったら1年生で入学した生徒が卒業式を迎える期間です。とくに高齢者が多い夜間中学では、3年という期間は、若い人以上に重要な時間なのです。
この3年間、区教委は多くの人たちの「学校が必要だ」という声に対してほとんど対応らしい対応を示そうとはしませんでした。いかりをこめて抗議をします。


「日本語学級は有効」文部省が前向き答弁

4月10日に開かれた衆院文教委員会で中国引き揚げの子どもたちの教育問題が取りあげられました。文部省のこれまでの対応はひどいもので、実態調査もしていないしまつ。しかし、文部大臣から「誠意をもって対応する」との答弁を引き出したほか、特設学級=日本語学級の有効性を文部省に認めさせることができました。
質問したのは佐藤徳雄議員(社会)。その答弁によると、引き揚げ子女の教育実態については「まだ調査をしたことがない」(文部省の阿部助成局長)。高校進学状況についてもほとんど把握していないというズサンな状況。
これに対して早急な対策をせまったところ、松永文部大臣は「いままでの措置では不十分。誠意をもってこの問題に対処する」と答弁しました。
また、阿部局長は「特設学級も有効な方法と認める」と述べ、日本語学級の重要性を確認したほか、(1)今年度中に実態調査を実施する、(2)今年度中に引き揚げ子女教育研究協力校(現在12校)全校に教師を加配する――ことを約束しました。
日本語学級の有効性を認めた文部省の姿勢を評価します。引揚者の子どもたちが多い江東区がこの姿勢を受けて早急に日本語学級を設置することを期待します。


名古屋の「夜間中学」31人が入学

名古屋に「夜間中学」があるのをご存じですか? といっても、行政が値切りに値切った社会教育としてのそれですが、一応中学の卒業資格が認められるようです。
さて、その「夜間中学」で4月8日、入学式が行われ、10代から70代まで31人が入学しました。50代、60代がもっとも多く、合わせて22人。10代も4人います。
入学の理由は、他の夜間中学同様「基礎学力を身につけるため」「「高校へ進学するため」が多いようです。いいかえれば、これまで学習する機会を十分に保障されていなかったということです。

変則的な学級ですが、勉強したいという生徒たちに十分応えられる授業をすすめてほしいものです。


自主夜間中学の風景
衣川由喜江

枝川に流れ着いて約2年。いまだに授業をとおして自分をぶつけられない。それよりも――ただ横に座って話を聞いたり、文字を教えることよりも――オモニたちの「生」を感じていたいと思ってしまう。そんな空間が現在の私の「えだがわ」だ。人に会えば自主夜中のことを話し、自分の夜中観を語るが、そうした自分と「えだがわ」にいまだふみこめない自分にジレンマを感じてしまう。

いつか、こんなことがあった。それは昨年のバザーの時だ。私は何人かの親の想いに寄せられて、中国・韓国から引き揚げてきた子どもたちと一緒に参加した。彼女たちには、とりたてて「えだがわ」については話さず、オモニたちにも「きょうはいっしょにきました。よろしくお願いします」とだけ告げた。
私は、そこでオモニたちと子どもたちの意外な場面に出会えたのである。
家族が分断され、残留孤児だった母と2人で故郷を離れ、日本を生きている女の子が、秋本さんのそばで淡々と自分について語っていた。彼女は、最愛の母の前でも素直になれず、まして、まわりの日本人に対しては、かたくなまでに心を閉ざしていた。
「私は、日本へきたら、変わりました。なぜ、急にこんなにも変わってしまったのか、私にもわかりません。……私は前に進みたい。でも、まだ進めません。どうしたらいいのか――」
そんな手紙を託した彼女が、秋本さんに心を開いている。私を含めてことばや態度で彼女をつなぎとめようとしたまわりの日本人とは対照的に、秋本さんは、そんなものではない何かで彼女を受けとめていた。そんな秋本さんが夜中でしばしば「私はハンチョッパリだから、韓国も日本もわからないの。ほんとうにダメなんですよ」ともらすことがある。そんなことではない。私自身、いつかそれを超えたいと思う。

自分たちと同じように中国からきて日本を生きている村田さんに熱い想いを寄せてきた子どもたちが何人かいた。前もって村田さんの作文を読み、わかっていたのだ。しかし、当日、実際に村田さんはなぜか表面にはそれを感じさせず(そのことの意味はいまだにわからないが)子どもたちはとまどってしまった。「中国語を忘れてしまったのか」「どうしてこうなのか」――子どもたちは何度も不満を私にぶつけた。ばかな私は、それを弁明しようと必死にとりつくろい、結局その日はすれちがったまますぎてしまった。
その中の1人がつい先日、思い出したように、村田さんを否定しながらも「村田さんに会いたい」ともらした。

また、こんなこともあった。韓国から引き揚げてきた女の子が、黄佑哲さんの歌を聴き、そっと私に近づくと、耳元でこうささやいた。
「やっぱ、韓国を思い出しちゃうよね……」
当時、彼女は家族のことなどでメロメロだった。そんなことをおくびにも出さず、バザーを楽しんでいる矢先だった。韓国で生まれ育った彼女にとって、日本で、在日朝鮮人のオモニや黄さんの歌に出会うことは、とまどいもあっただろう。ある時、彼女は自分の将来について、こともなげにこういった。
「自分が韓国と日本の血を引いていることは、大きくなって、きっといいと思うんだ」
私は、こうしたとき、きまって「えだがわ」のオモニたちを思い出す。それも、いつもある1人のくったくのない笑顔である。
授業をするのでもない。積極的に運動をすすめるのでもない。なんで「えだがわ」にいくのか、いまだにわからない。これからも、いったり休んだり。体ごとぶつかるには、まだ時間がかかるだろう。

敗戦を日本で迎えた日本人の子どもというより、むしろ枝川の近くで育ち、枝川をいみ嫌った母の子として生まれた私。そんな私がオモニたちと向かい合うとき、彼女たちと私とのドキドキした想いに、私はまだ支配されそうである。
ただ、私の場合、こうした子どもたちとの空間にからみあって、私の「えだがわ」はあるような気がする。そして、このごろ気がつくのだが、「えだがわ」「引き揚げの子どもたち」という一括したものではなく、決まった顔がどうしても浮かび上がってしまう。それは、うれしい半面、さびしいことでもある。
ああ、いつかおばあちゃんをつれて「えだがわ」へいきたいな。


こらむ・えだがわから…

14 唄は世につれ(1)

「唄は世につれ――」とよくいわれるが、まったくしかり。世相は唄の中に反映している。唄をきけば時代がわかる。お国柄がわかる。わかるものこそが唄い継がれるのか。
大正7年にできた「ノンキ節」などは、現代でも十分に通用する新しさをもっている。

♪ウンと絞りとって 泣かせておいて
 目薬ほど出すのを 慈善と申すげな
 なるほど慈善家は 慈善をするが
 あとは見ぬふり 知らぬふり
 ア、ノンキだね

いや、これは「新しさ」というのではないのかな。この慈善家というのはニッポンのこと。勝手によその国へ出かけて戦争して、人の生活をこわしたあげく、目薬ほどの改善や保障で民主主義国と自画自賛。あら、いい気だな。

大正13年に生まれた「月は無情」もいい唄だが、「あなた」のところを「教委どの」におきかえてもおもしろい。

♪月は無情というけれど コリャ
 月よりあなたは なお無情