NO.28 1985年5月18日


●今号の目次●

1 自主夜中、4年目に!
2 自主夜間中学の風景
3 会員の声 次の鼻血はどんな時?
4 こらむ・えだがわから…


自主夜中、4年目に!

この6月で自主夜間中学が4年めにはいります。ということは、その1年前にはじまった私たちの運動は5年めを迎えているわけです。たび重なる私たちの切実な要求を、机上の判断のみによって無視し続けている江東区教委に対しては強い怒りを覚えますし、また、すでに夜間中学・日本語学級を「作らない」という根拠については破たんさせているにもかかわらず具体的な手だてを講じさせえない私たち自身の力量についても、もう一度とらえ返す必要があると思います。
この欄は運動の経過について紹介していくために設けられたものですが、ここしばらくは大きな動きがありませんでしたので、今後の予定について述べておきます。

まず5月22日(水)、午後4時から区教委の指導室長と面会します。交渉というよりも、夜間中学や日本語学級の問題について区教委がどう考えているかざっくばらんに聞こうというのがその主旨です。

7月には都議選が行われますが、江東区から立候補を予定している方に公開質問状を出す計画もすすんでいます。この時には、少し文面を変えて区議会議員の方にも意見を聞いてみたいと考えています。

6月23日には、自主夜中が4年めに入ったことを「記念」する集会も開きます。これまでの状況を分析し、新しい運動の展開をみんなで考えていこうというもので、夜間中学や日本語学級の関連団体のみならず、江東区内の労働者団体などにも広く参加を呼びかけ、運動体の力量アップをはかっていきたいものです。
集会は午後2時から区役所となりの江東区文化センターで。広くみなさんの参加をお待ちしています。


自主夜間中学の風景

熱川温泉の女“ゆ”
平野博子

伊豆の熱川温泉へ春の修学旅行に行ってきた。
みんなといっしょに東京を出発できなかった私が宿についたのは、夕食の終わる頃だったが、つくなり、いつものメンバーのおばさん逹に交じって何人かの見知らぬ顔があることに気づいた。そんな中のひとりであるMさんについての話。

夕食後の宴会も半ばになった頃、私はその場をぬけだして温泉につかりに行った。女湯の戸を開けると脱衣場にはおばさんがひとりいるだけ。「こんばんは」と声をかけてふと顔を見ると、さっき宴会場にいた人だった。「お名前はMさんでしたっけ……。今からですか?」と声をかけた私に、Mさんは“夜間中学の先生”と察したのか、その瞬間にとっても親しげな顔を向けてくれた。
そしてMさんは、ずっと以前に夜間中学に通っていたけれど、身体の具合が悪くてしばらく休んでいること、せめて修学旅行だけはと今回の旅行に参加したこと、それから、もう少し身体の調子がよくなったらぜひまた夜間中学へ通って勉強したいと思っているということなどを話してくれた。

こうした会話をして、私たちは風呂場へ入っていった。私は、湯船につかってぼんやりしていた。しばらくして洗い場に上がると、ちょっと離れていたMさんが、湯おけと石けんをもって私のところへやってきた。「先生、背中流しましょうか」……。私は一瞬とまどったけれど、「ええ、お願いします」と洗ってもらうことにした。
なんだか、私の母より年上くらいのMさんからこうやってもらって「悪いなあ」って気もしたし、Mさんのそういった気づかいが、もったいないような、うれしいような、ちょっと複雑な心境で背中を流してもらった。Mさんは、「先生、いつも大変でしょう」なんていいながら、ていねいに洗ってくれた。
私は、また今日も、いつものように“おばさん逹のやさしさ”にふれたなあと思った。
それに、私は、ふだんは夜間中学に通えないMさんの、彼女の中で夜間中学を大切にしている思いというものを感じた。
Mさんに限らず、今、区民館に通えなくても夜間中学で勉強したいという思いをもって生活をしている人が何人いることか……。その人達のためにも夜間中学の運動をしっかりと続けていかなくてはと思ったりする。

先日、旅行の写真ができてきた。おばさん逹のいろんな笑顔の中でMさんのやさしい顔が目にとまる。
私は、Mさんが早く学校へくる日を楽しみにしている。

高校生の感想文
香取秀明

昨年11月に私の勤務する大宮北高の同和教育の講演として、荒川九中の見城慶和先生をお招きした。この種の講演は、騒々しくなってしまうか、大半が昼寝になってしまうかが相場なのだが、この日は教員を含めてすべての人間が見城先生の話をくいいるように聴いた。
後で生徒の書いた感想を読むと、その感動がひしひしと伝わってくる。その感想の中からふたつを選び、12月に枝川で授業を行った。
授業といっても、読んで、漢字の解釈、内容の説明といった程度のものである。参加者は井田さん、秋本さん、武田さん、矢野さんの4人であった。いつもは内容の説明の時に一生懸命字の練習をする秋本さんも、この作文を熱心に何度も読んでいたようだったし、井田さんなどは何度もうなづきながら感動している様子だったように記憶している。以下、生徒の感想ひとつと、4人の方の作文をのせておきたい。

大宮北高3年
「私のおばあちゃんは80歳を超えていて、畑仕事ばかりやってきて、今では杖なしでは歩けません。このおばあちゃんもやはり字が読めず、もちろん書けません。けれど今年の夏おばあちゃんの家にいった時、おしいれから小学校低学年用の本を2、3冊出してきて『おまえたちの手紙を読みたいからおばあちゃんは今一生懸命勉強しているんだよ』と言っていました。私は今までおばあちゃんが字を読めないことを知りませんでした。とてもショックでした。いつも私の手紙を、私のいとこに読んでもらっていたそうです。そこで今年は全部ひらがなの手紙を出しました。北高に入り、私のおばあちゃんのように字がかけない人が多いということを知りました。そして、それは深い事情があることも知りました。……いろいろなことを学ばせていただきました」

井田
「私もすぐ66歳ですが、孫の手紙は読む事はできません。もう中学生なので、私も自分の恥を孫に話しました。おばちゃは、昔貧乏に生まれ一日も学校へ行けず仕事ばかりと話ました。孫はすごく感動しました。貴女のおばあちゃんは、80歳で勉強やって、皆の手紙を読みたいというので私は驚きました。私もこれから見習います。おばあちゃんのお合いして、勉強を教えてもらいたいと思います。しかし80歳で偉いです。私はこの作文を読で胸がしめつけられました」

秋本
「私は、今毎日夜間中学校で、勉強をしています。今から2年まえまでは、なにも知らんかった。今は字を学ぶということは、本当にいいことです。世界のこども知るこどもできました。生きる喜びもしりました。これからも一生懸命に字を覚えて、多くの本を読みたいのです。そのために字をならっています。やがて老後には友達と文つうをします。高校生のみなさん勉強頑張って下さい」

武田
「私自身が今、勉強しなければどうにもならない大切な時であります。なかなか進まないから、いらいらしたり、もうなるようになれとか、自分でもいやになるほどいかげんな人間です。学ぶという事はとっても良いのですが、現実は、むずかしいです。私にとって今一番こわいものは無知ですから、うんと勉強して一日でも早く、なんでも自信をもって、一人前の人間になりたいのに、頭では分かっても、努力をあんまりしないのです。今日、80歳のおばあさんの勉強なさることを聞いて、また私は若いから、もっとがんばらなくっちゃと反省いたしました。せいいっぱい努力すれば、いつかは、かならずがんばった分の結果がもどってくると信してこれからは、おばあ樣にまけないように、少しづつ漢字をおぼえていきますので、これからもおうえんして下ださい」

矢野
「今日二人の感想文を読みました。とてもいい文章と思いました。私は日本に来てもう5年になりましたが、日本の学校に入たことありませんでした。だから今までも、日本語がとても下手なので、自分がよく考えて恥かしくなりました。この夜間中学校で初めて日本語を勉強しています。この学校の先生逹はとても親切な方です。いつも笑顔で熱心に教えて頂きました。私は本当に心から感謝致します。これから一生懸命勉強して、一日も早く日本語ができるようにがんばりたいと思います」


会員の声
次の鼻血はどんな時?
西村忠雄

気持ちの良い鼻血が出た。先の旅行(3月30・31日、伊豆・熱川)でみんなと浜辺で騎馬戦をやった時である。もちろんおばさん、おねえさんたちはやらなかった。けれど、老いも若きも、朝鮮人も中国人も日本人もおにぎりをほおばり、海を見ながら談笑する光景はすばらしいものだと、チリ紙で鼻を押さえながら思った。しかし、外側からみる人は、日本人の集団としか感じないのでは……。

江東区はわけのわからぬことばかり言って、夜間中学・日本語学級の開設をいまだもって拒んでいる。いま文字を必要とする人が存在しているとき、公立化があんな役人ごときに邪魔されているのが口惜しくてしかたがない。このままだと、公立化がだんだん彼岸へと押しやられてしまうような危惧もおぼえる。公立の夜間中学でもいろいろと問題を抱えているようだが、日本の文部行政に対しては、すべての人に教育を無条件で保障させる責任を断固とらせなければならない。日本人が自らの差別性を自覚し、他民族同士が尊敬しあう世の中をつくるためにもそれは緊急の課題としてあると思う。
やっぱり、アジアの民族が日本のあっちこっちでおにぎりを食べあえるようになるには、責任をとるところはとらせなきゃね! その時は谷岡ヤスジばりの『鼻血ブー』で喜ぼう。


こらむ・えだがわから…

15 唄は世につれ(2)

今回は大正8年の「東京節」を紹介しよう。もと歌は「ジョージアマーチ」だが、作詞の添田さつきが東京の裏表をみごとにちゃかしておもしろい。前回と同じく「市長」を「教委」におきかえるとゾクゾクするほど味が出てきます。

東京で自慢は なんですね
 三百万人 うようよと
 米も作らずに くらすこと
 タジれた市長を 仰ぐこと
 それにみんなが感心に
 市長のいうことよくきいて
 豆粕食うこと やせること
 シチョウサンタラ ケチンボデ
 パイノ パイノ パイ

しかし、70年近くも昔の歌謡に現実味が感じられるなんて、私たちの住むところとはつくづく情けないと思いません?