NO.29 1985年6月16日


●今号の目次●

1 公開質問状提出
2 自主夜間中学の風景
3 会員の声 
4 指導室長に会いました


公開質問状提出

1982年の5月末にスタートした私たちの自主夜間中学もはやいものでもう4年めを迎えました。何度もお知らせしたように、私たちのたび重なる夜間中学公立化の要請に区教委は、わけのわからない「検討中」ということばを繰り返すのみです。そこで私たちは、7月に行われる都議選への地元立候補予定者に次のような公開質問状を送りました。

公開質問状

謹啓 選挙戦も目前となりましたが、候補者各位におかれましては御健闘のことと存じます。
さて皆様は夜間中学・日本語学級を御存知ですか。
夜間中学には、貧困・戦争・民族差別・落ちこぼし等の諸事情から義務教育を受けることのできなかった人々が通学しています。現在、公立の夜間中学が全国に34校、都内に8校ありますが、義務教育未修了者数が推定140万人とも200万人ともいわれている日本の教育状況下で、この数は圧倒的に少ないと思われます。
また、日本語学級は、中国・韓国引揚者及びその子弟に日本語を教える場ですが、公立学校に開設されている数は少なく、大多数がしめだされている現状です。
そこで私たち「江東区に夜間中学・日本語学級を作る会」は、今回の選挙で政治現場へ乗り出さんとしている方々が、あるべき教育の姿をどのように考えておられるか御見解を伺いたく、この公開質問状を作成した次第です。

まず、この運動の輪郭を紹介します。
1.江東区には、前述したように、義務教育を求める人たちが多数住んでいます。それは以下の事情からも明かです。
 ○在日朝鮮・韓国人が全然・戦後から多住している。
 ○中国・韓国引揚者の40%が住む。
 ○隠れ維持の長期欠席率が極めて高い。
 ○他区にある夜間中学への通学率がもっとも高い。

2.運動の経緯は以下のようです。
○日本語学級で教える教師たちが江東区の状況を憂慮し、設立運動を4年前より始める。区教委は「社会教育で対処する」「他区へ行け」「現状のままで対応できる」ととりあわず。
○3年前より枝川の地で自主夜間中学を開設。これまでに約70人もの人々が通学。
目的
(1)江東区に公立の夜間中学をつくる
(2)その夜間中学に、中国・韓国引揚者のための日本語学級を設置する
(3)同引揚者の子弟が集中する区立枝川小・深川八中に専任教師を配置した日本語学級を設置する

以上のような状況下で、私たちは「全ての人々に義務教育を」という基調のもとに運動をすすめてきました。国会・都議会においても夜間中学・日本語学級の必要性を認め、その設立を促す見解を示しています。その一方で江東区教委の姿勢は、このような世論に大きく立ち遅れ、人々から教育を奪った責任を値引きし、転嫁し、放棄するものであって、私たちはこれを見逃すわけにはいきません。

私たちは江東区に住む者として、この貧困な教育行政に抗議するとともに、候補各位の御意見を伺いたいと考えます。

1.夜間中学・日本語学級を御存知ですか。
2.夜間中学・日本語学級通学者が江東区に一番多く住んでいる事実を御存知ですか。
3.他区まで通えない人々が70人も、私たちの自主夜間中学へ着ている事実をどのようにお考えですか。
4.このような江東区に、夜間中学・日本語学級の設立が必要であるとお考えですか。
5.議会に選出されたあかつきには、夜間中学・日本語学級を必要としている人々への、どのような政策を考えておいでですか。

御多忙とは存じますが、以上の事項の御回答を6月10日までに御返送いただければ幸いです。

             ※

なお、この公開質問状はほぼ同じ内容で全区議会議員にも発送しました。結果は6月23日の集会で発表する予定です。その後もあらゆる機会に公表していきます。


自主夜間中学の風景
長谷川博

4年目を迎えた自主夜間中学に通いはじめて、私も丸1年がたった。
「運動というのは、人と人とがつながってゆくことなんだね」という言葉を聞いたことがあるが、確かにこの1年、多くの人と出会ってきた。その中で、子どもたちとの出会いも、だんだんと大きくふくらんできている。
去年の秋から自主夜中の机の一画を占めるようになった子どもたち(中2〜小1)と、最近、夜中が始まるまで一緒に遊んでいる。子どもが教室で静かにするのがむずかしいように、こちらも外で一緒に動き回るのが正直「疲れる」ことだと実感しているが、二、三感じたことを書いてみたい。

さんどぶつけ

ある土曜日の午後のこと、枝川区民館の近くにあるA荘の空き地で子どもたちと一緒に「さんどぶつけ」という遊びをやった。
このA荘は、中国からの引揚者が多住しており、この場にも引き揚げの子どもが3人ほど一緒だった。
「さんどぶつけ」は読んで字のとおり、ドッヂボールをもったひとりが3歩以内で近くの誰かに投げつけていく遊びで、3回ぶつけられたら「シケー、シケー」とはやしたてられ、覚悟を決めた子どもは、股下から後方へ「エイッ」とボールを投げる。落ちた地点から全員の「ぶつけ」をくらうわけだ。
引き揚げの子のB君は、投げつけたがうまく当たらない。すると、「ふさぎ」といって、はりつけの子の後ろにかぶさっていく。多少顔を赤らめながら、B君は背を向ける。
今まで、はりつけの子を思いやるようにゆっくりだったボールが、「思いっきりー」のかけ声でとたんに強くなる。あからさまなちがいに目を見張ったが、默って見ていた。
自分の番になって構えると、横から「やらせて…」といってボールをとられた。そのC君も、投げたが当たらない。「ふさぎ」に入るかと思ったら知らんぷりをしている。
「当たらなかったら『ふさぎ』になるってぇルールだろう!」と語気を強めていうと、「うるせーな」という顔をして渋々入った。
投げつけるときだけ調子のいいC君に「いじめ」の根を感じたが、今からどう伝えていくのか、大人のむずかしい宿題になっている。

オモニと少年

先日、映画「オモニと少年」を子どもたちと観た。観たといっても、静かな映画館とちがって、映写機の前で両手をさしだして影絵遊びをする子、もってきたボールを退屈そうに転がす子など、喧噪のかなでの映写だった。
映画は1957年作で、常磐炭坑が舞台になっている。炭住に独り住まいのオモニが、孤児になった少年(日本人)を育てる話。
一郎(少年)の担任からは「親戚が見つかるまで頼みます」と言われ、同胞からは「朝鮮人は朝鮮人を育てるのがいいよ」と言われるが、金さん(オモニ)の決意は固い。「ニンニク臭いぞ。こいつ日本人のくせに朝鮮人になったんだぞ」といじめられた時など、金さんは「悪い子は悪い子だ」とはっきりと親へ怒鳴りに行く。
その時、D子(民族学校へ通う小5の女の子)が、「ニンニクは生活の中で活用されているんだから」と自信をもって言うと、「フーン」と相づちが返ってくる。いい風景だと思った。
金オモニと“ボロ買い”に同行した一郎が、リヤカーを押しながら「朝鮮語で『お父さん』は?」ときくと、「アボジ」とゆっくり答える。「お母さんは?」「オモニ」「学校は?」「ハッキョ」「僕は?」「一郎は一郎さ」と金さんがニコリとすると、「朝鮮語っておもしろいね」と答える。
このシーンの時、しきりにD子は母国語を教えようとしていたが、「あのおばさん、おまえの祖先だろう」と水を差されて、「もう日本人には言葉を教えない」と怒ってしまった。
しばらくして、一郎におじさんが見つかり、修学旅行先で会うことになり、一郎を断腸の思いで見送る金さんを見ながら、「一郎、戻ってくるんだぜー」とB君が先を読む。予想どおり映画は、戻ってきた一郎がいっしょにリヤカーを押すシーンで終わる。
そのB君が「一郎は、ばかだと思います。親せきのところにいたほうが、よかったと思います」と感想を書いているが、「ほのぼのとした映画でよかった」と安心している私には、ドライな答えに思えた。
なぜB君はそう思うのか、怒ったD子を見てまわりの子は何を感じているのかなど、片手間にはできない問いをかかえつつ、子ども会は始まっている。


会員の声
茂木康彦

枝川区民館の3階、和室2部屋の間仕切りに黒板を据えると、そこは自主夜中の世界。そして、学びたい「生徒」と教えたい「先生」が集まれば、そこはもう「学校」に早変わりする。
そんな学校・自主夜間中学に通うようになってから2か月がたった。思えば、授業見学をさせていただいたのが縁で、そのまま毎週水曜日におじゃましているが、今では自主夜中に行くのが楽しくて仕方がない。
先日、鈴木さんが「ノートにボールペンで書くのが夢なのよ」と笑顔でおっしゃった。すなわち、ノートに鉛筆で書いては消すことのくり返しなので、はやく上達して消すことのないようになりたいとのことだが、それに向けての、鈴木さんに限らずオモニたちのひたむきな努力は計り知れない。
ましてや、オモニたちが、これまでどのような生活を強いられてきたのかは――真剣に学ぶ横顔を拝見しただけでは――若輩の私には想像しがたい。
ただ私は、オモニたちが学ぶ喜びを、その一端でも共有できたら、と思っている。それゆえに、自主夜中は、自己発見の場ともいえる。
なぜならば、偏差値主導の学校教育では、学ぶことは競争に勝つことで、いわば知識を詰め込むことによって学ぶのだが、自主夜中においては、そんなことには無関係に、よりよく生きるからこそ学ぶのであって、大いなる喜びを伴って学ぶのである。
――というようなことを、夜中に出会って初めてわかったような気がするのだが……。
みなさん、よろしくお願いします。


指導室長に会いました

5月22日(水)、江東区教育委員会指導室の清水指導室長と面会してきました。作る会からは5人が参加。
いつも私たちが交渉するときに対応する窓口は学務課。しかし、今回は教育内容に直接責任をもつ指導室です。いわば学校の先生の“先生”とでもいうべき地位にある人です。「江東区に夜間中学を作ってください」という私たちの切実な声にたいして何らの誠意をも示さない島田学務課長相手ではまるで話の進展が望めないばかりか、これしか言葉を知らないのかと思われる「検討中」にしびれをきらしたからです。教育行政の任にあたる者としては考えられない発言を繰り返す島田課長では限界があると思われ、私たちは教育内容についての任の長である指導室長との面会になりました。
面会の結果から報告しますと、大きな成果があったわけではありません。清水指導室長は「私は何も知らないので、あなたがたのお話をきかせてください」のことばを繰り返すのみでした。さらに、教育委員会内部での「検討」が本当に行われているのか、行われたのか、との質問にも「今回はそれにおこたえすべきではないし…また担当課が違うから……」と逃げの姿勢でした。
私たちは、教育委員会の指導室長ともあろう者が夜間中学の存在とその意義について「何も知らない」ということじたいがたいへんな問題だと指摘して面会を終わりました。
ただ、今回の面会の唯一の救いは、今後も私たち作る会と指導室長との「交渉の場をもちたい」という申し入れにたいして、そのむね快く了承してくれたことです。
今後は学務課だけではなく、指導室のみなさんとも「仲良く」していきたいものです。ねえ、島田学務課長、ねえ、清水指導室長。