NO.30 1985年7月14日


●今号の目次●

1 6.23集会に100人!
2 公開質問状への回答
3 自主夜間中学の風景 公立夜間中学 
4 こらむ・えだがわから…


6.23集会に100人!

いつまで待たせる、江東区教委――私たちは6月23日、区役所となりの江東区文化センターで「夜間中学・日本語学級開設を求める集会」を開きました。1人でも多くの人の声を集めて、江東区の行政を動かそうというものです。
当日集まったのは約100人。私たちの運動にいつも力強い応援をしていただいている都夜中研をはじめ、川崎、千葉、埼玉で夜間中学運動に取り組んでいる仲間たちも数多くかけつけてくれました。
今回、何よりもうれしかったのは、地元江東区で運動をたたかっている区労協、区教組の人が初めて参加してくれたことです。
「江東区に夜間中学・日本語学級が開設されるよう、我々も『作る会』とともにたたかいます」と区労協代表の方。そして昨年の運動方針に夜間中学設置要求を取り入れた区教組の代表の方も、さらに積極的な姿勢で取り組む決意を述べてくださいました。
そして、集会参加者全員の一致で江東区に夜間中学・日本語学級開設に向けて、一致団結したたたかいを展開していくことを確認しあいました。

決議文

江東区に夜間中学はありません。
江東区長、あなたは、4年前、「江東区に夜間中学を必要とする声がなければ認められない」と、区議会で答えました。
夜間中学は義務教育です。夜間中学を必要とする人たちの発掘、その人たちへの学習の場の用意は、あなたがたが、責任をもってしなければならないことのはずです。
あなたがたの怠慢さを肩代わりする形ではじめた自主夜間中学は、ついに4年目に入りました。すでに、50人をこえる人たちがその自主夜間中学に学びたいと名乗りあがってきています。このほかにも、20人近い人がとなりの区の夜間中学に通っています。
江東区長、これでも、江東区に夜間中学を必要とする声にならないのでしょうか。
自主夜間中学の3年あまりのあいだに、一人の生徒さんは、念願の公立の夜間中学の灯をみることもなく、病で亡くなってしまいました。また、何人かの老齢の婦人は、もっとたくさん勉強したいと、となりの区の夜間中学へ、はるばる時間をかけて、からだを無理して通いはじめました。
夜間中学を求める人たちの“学びたい”という願いは、目の前に時間とのたたかいがあるからこそ切実なのです。
いつまで待たせるのですか。もうこれ以上待てません。
江東区は、はやく夜間中学を作ってください。
1985年6月23日
江東区に夜間中学・日本語学級の開設を求める集会参加者一同


公開質問状への回答

私たちが5月末に都議会選候補予定者と区議会議員全員に対して提出した「夜間中学・日本語学級に関する公開質問状」に対して5人から回答がありました(うち1人は党の一括回答)。都議選候補者2人、区議3人というのが内訳で、政党別では社会3、公明1(一括)、民社1です。いずれも夜間中学・日本語学級の開設に対して前向きで真摯なものでした。今後は積極的な活動をしていただけるものと期待する次第です。
なお、自民党、共産党からは今回、回答がいただけませんでしたが、共産党は国政レベルでは絶えず夜間中学・日本語学級の必要性を訴えておられますし、自民党も先の国会で中曽根首相が夜間中学の意義を認める発言をされたことを私たちは承知しています。より生活の場に近い都レベル、区レベルでの具体的なはたらきかけを期待したいと思います。

質問項目

1.夜間中学・日本語学級を御存知ですか。
2.夜間中学・日本語学級通学者が江東区に一番多く住んでいる事実を御存知ですか。
3.他区まで通えない人々が70人も、私たちの自主夜間中学へ着ている事実をどのようにお考えですか。
4.このような江東区に、夜間中学・日本語学級の設立が必要であるとお考えですか。
5.議会に選出されたあかつきには、夜間中学・日本語学級を必要としている人々への、どのような政策を考えておいでですか。

■都議選候補者(順不同)

鈴木つとむ(民社)

1.知っている
2.知らない
3.誠に残念なことで、1日も早くすべての希望者が夜間中学や日本語学級に通えるよう公教育を整備すべきと思います。自主夜間中学の実践そのものは、非常に貴重で、極めて高く評価します。
4.右に書いたようにその必要性は極めて高く、すぐにでもその設立が待たれていると思います。もうその必要性の有無を議論している段階ではありません。
5.現行法令でも設立できると思いますが、必要があればもっと設立しやすいように法令を改める。

市川たかし(社会)

1.承知しております
2.知っております
3.教育は一生を通じて公的に保障されるべきと考えます。
4.私は、教育の充実、都立高校の増設を重点施策にしておりますが、ご質問の趣旨についても、その通りであると考えます。
5.前述した通り、一生を通じる公教育の保障、江東区の教育環境の充実・改善は急務と考えます。

■区議会議員(順不同)

並木辰夫(公明)

1.知っている。
2.比較的に多く住んでいることは知っている。
3.ボランティア活動の一環としてのものであると認識している。
4.(1)夜間中学については、対応せざるをえないものと考へる。(2)日本語学級については、すでに本区において実施しているところである。
5.夜間中学の開設については、関係法令、条件整備をはかることが先決問題である。
※これは区議会公明党としての考え方であるとのただし書きがありました。

尾崎清(社会)

1.知っている。
2.知っている。
5.実現を見たいと思います。

間東祥吉(社会)

1.知っている。
2.知っている。
3.江東区の行政側の実態を知らぬ、知ろうとしない態度を改めさせることを目的都市、当面行政側が夜間中学の必要性を認識させることを第一の目標として発足した。すでに70人以上の方が自主夜間中学に通学していることを考える時、いつまでもボランティア活動に任せるのではなく、1日も早く夜間中学設置の方向で行政が動かなくてはならないと考えますが、実態は、ボランティア活動に補助、助成をすることで責任を逃れようとしているのは残念です。もっと積極的に行政対策を考える必要がある。
4.本区は、中国・朝鮮からの引揚者が多数居住していることを考えると、日本語学級の必要性は他区以上に感じるところである。
夜間中学についても、自主夜間中学通学者と、現在、他区の夜間中学通学者を含めると、現在の状況のみを見ても必要性を十分感じます。
5.いろいろの理由で中学(義務教育)を卒業できず中退した方がたくさんいる。
社会に出て、そのことが障害となり困っている、苦しんでいる方の実態をよく知っており、近隣に学べる場所が有れば勉強したいと願っている人々のために、江東区に夜間中学は絶対に必要である。
日本語学級にしても、生徒の立場に立ち、学びやすい環境づくりを優先させなくてはならない。対象者が少ないとかで、安上がり教育をめざす区教委とは今こそ、対決せざるを得ない。
いつまで待てば良いのだろうというみなさんの要求は切実であり、私共区議団も協力に支援する考えです。
秋の代表質問で行政側を厳しく批判し、設置へ向けて努力させたいと考えています。


自主夜間中学の風景

「お母さんは、生きていると九十九歳ですが、背の高い人でした。所は埼玉県、朝早く起きて、老眼鏡を掛けて、養蚕をやっていました。小さい、小さい虫を よおく見ていました。
母の手は真黒で、クマデのような手、そんな手で、私によく絹織物を教えました。
農家の仕事はよく教えてくれたが、母も無学な人間で、イロハもしりませんでしたので、私には全然教えませんでした。今、生きていたら、私が母の手を持って教えてあげたのに残念です。
先月、母の墓参りに行き、母の前で『私は平井第二中学校に4月6日入学しました』と、声を出して泣きました。勉強を、頑張ります」

江戸川区平井にある小松川第二中の教室で、井田さんは自分の作文を読みあげながら、「母も無学な人間で」のところまでくると、胸がつまって、その先を読み続けることができなかった。
井田さんは、この4月、私たちの自主夜間中学から小松川二中に“転校”した。
6月はじめ、小松川二中を訪れた私たちを迎えてくれた井田さんは、とてもはずんでいた。生まれて初めての遠足の話を喜々とし、また「先生! 私、かけ算の九九もわからなかったのに、今、1桁の計算ならできるんですよ。毎日すこしずつやってるとできるもんですね」と笑う。

この日、久しぶりの再開を手をとりあって、井田さんと喜んでいたKさんも小松川二中への入学を希望していた。「自主夜間中学は私の恩人です」というKさんは、その数日前に「ここ(自主夜間中学)で、一緒にやっていきたいんです。でも(公立化が)いつになるかわからないでしょう? もうこれからさき、どこまでできるか自信はありません。でも、(夜間中学に入学して)私、やれるところまでやってみたいんです」と決意を語ってくれた。
Kさんはその日、翌日から小松川二中に通学することを決めたのだった。なにが彼女たちをこうまでかりたてるのか。一度も学校に行ったことのないふたりの「学校」によせる思いは、私たちの想像をこえて強く、そして熱かった。

井田さんは64歳、Kさん69歳、これ以上、待てない、待たせることはできなかった。
ふたりを入れて、今、江東区から小松川二中に通学する人は13人。ふたりは住所も比較的小松川に近く、仕事をふくめた家庭状況=通学条件はどちらかといえば、よいほうだった。しかし、自主夜間中学に来ている人の大部分は、もし、小松川二中に通おうと思っても、何重にも壁がある。

Kさんは、小松川二中からの帰り道、「私、江東区に(夜間中学が)できたら帰ってくるね。転校するね」と、力をこめて言った。
この思いに、なぜ江東区はこたえようとしないのだろう。

1週間たって、Kさんから手紙がきた。「あのつぎの日から毎日通校しており、国語の教科書を頂くことができました」とかいてあった。


こらむ・えだがわから…

16 唄は世につれ(3)

“苦労がなけりゃ 泣くことはない。音楽があれば気楽にやれる”と『バンジョー鳴らし』で唄ったのはアメリカのフォスター。
“音楽があれば気楽にやれる”これは古今東西を貫く真理だろう。第二次大戦下の大日本帝国陸軍でも、いわゆる「軍歌」より「軍隊歌謡」というものが広く唄われていた。たとえば、こうである。

♪お国のためとはいいながら
 人の嫌がる軍隊に
 志願ではいったバカもいる

夜な夜なこのたぐいの唄を唄う下級兵士たちに、上官たちは見て見ぬふりをしたという。
音楽でうさをはらすというのではない。ただ好きな唄を唄うことで辛い人生をおおらかにながめることもできるのだ。
もうすぐ終業式。オモニたちのアリランがまたきけるといい。