NO.34 1985年11月26日


●今号の目次●

1 東京都夜間中学校研究大会
2 自主夜間中学の風景
3 全国同和教育研究大会 識字分科会で発表 
4 夜間中学マメ知識 1 法制度の問題
5 会員の声


東京都夜間中学校研究大会

10月30日、今年度2回目の都夜中研大会が葛飾区立双葉中学で開かれました。
東京の夜間中学は今、若年生徒(登校拒否など)の増加、教員の異動問題などいくつかの課題がありますが、増設運動にも大きな関心が寄せられています。

増設運動の現状
今年度の都夜中研の要望書には新たに増設に関する要望事項が付け加えられた。また江東自主夜間中学については、江東区からの都内夜間中学への通学者が多数にのぼることも踏まえ、都夜中研としての支援を再確認する。
(都夜中研ニュース629号 10月28日付)

ここに見られるように、また私たち作る会が再三再四強調してきたように、江東区から他区の夜間中学に通う生徒は膨大な数にのぼり、他区の夜間中学にとって大きな問題になっています。都夜中研の調査研究部による「通学実態調査」をみると、この調査が始まって以来、12年間で385人にものぼっていますが、この数は夜間中学を設置していない区の中ではダントツであるばかりか、「設置区と比べてみてもこの数は非常に多い」(同ニュース)のです。
「江東区に今すぐ夜中が必要であることは明らか」なのです。

都夜中研では8年前、江戸川区立小松川二中と墨田区立曳舟中に通学している江東区出身生徒についての具体的で詳細な資料を江東区当局に説明するとともに、夜間中学の設立要望書を提出しましたが、江東区はこれに対してなんら具体的なリアクションは示しませんでした。
そして今年、当時と比べてもさらに累積生徒数が増えたこともありますから、都夜中研は再度、同主旨の資料を用意して江東区教委に「現状を説明し、またそれについてのお考えをうかがいたい」と連絡したそうです。
しかし、これに対する江東区教委の対応はあまりにもひどいものでした。
3回にわたる電話での連絡に対して江東区教委は「答えられない」「検討していない」と逃げたばかりか、「夜中の現場の教員の話を聞く必要はない。資料があるなら送ってくれればよい」とさえいいきったのです。
これが、責任ある行政のとる態度でしょうか? 都夜中研は長いあいだ、夜間中学生と正面から向かい合い、夜間中学生の実態なり要求をもっともよく知っている先生逹の集まりです。こうした「夜中の現場の教員の話」を聞かないで、いったい誰の話を聞くというのでしょうか? 区教委自体は、他区の夜間中学の現場はおろか、70人以上の人が切実な要求をもって通っている私たちの自主夜間中学すら見学しようとしないのです。夜間中学の実態の何を知っているというのでしょうか?

区教委はまた、昨年春に私たち作る会に対して「(夜間中学問題に対する)区としての具体的対応を次回までに示す」と約束しながら、いまだにその内容について何も示していません。会いに行くたびに「検討中」「今はお話しできる段階ではない」と逃げ続けているのです。
1年半たった今、本当に「検討」が行われていると信じている人がどのくらいいるでしょうか? ここまで逃げ続けられていては、誰しもが「本当は検討など行われていない。区教委は作る会がたたかいに疲れて解散するのを待っているだけだ」と思うのは当然でしょう。

それでも私たちが区教委の「検討」結果を待っているのは、区教委に自ら目ざめてほしいからです。自らの力で夜間中学の必要性をわかり、いい学校をつくってもらいたいからです。
区教委が、そして都教委、文部省がなんといおうと、全国に120万とも160万ともいわれる義務教育未修了者がいることは歴然とした事実だし、江東区を含めて各地に夜間中学を必要とする声が大きくあるのは事実なのです。
江東区は今こそ、全国に誇れる立派な夜間中学を作るべきなのです。私たちが面会に行くとこそこそ逃げるよりも、江東区自身にとって誇れることなのです。
私たちは、都夜中研をはじめ多くの区民・労働者とともに、ねばり強く江東区教委に対する働きかけを続けていくつもりです


自主夜間中学の風景
府川弓子

枝川の夜間中学に通いはじめたころ、朝鮮人や中国人のおばさんたちを日本名で呼んでいることが不思議に思えた。最初からかかわっている人に聞いたら、「おばさんたちがいやがったから」とか、「信頼関係ができてくれば、だんだんと教えてくれるようになる」とかいわれた。その時は、私はまだおばさんたちとの関係が薄かったから、何もいえなかった。
3年近くへて、このことがたいへん苦痛に思われるようになった。おばさんたちを1日も早く本名で呼びたい。そうでなければ、おばさんたちと顔つき合わせている自分がいいかげんなかかわりをしているようでいやだった。おばさんたちとうそのつきあいをしたくないと思った。なぜなら、私はおばさんたちが好きだからだ。
ようやく今年の夏になって、皆で話し合いの場をもった。私たちは本名で呼びたいんだと、おばさんたちに宣言した。
おばさんたちは「ずっと日本名できたからピンとこないけど」といいつつも、「先生たちが呼びたいというなら、どっちでもかまいませんよ」とか、「私は表札もみんな本名だよ」と応えてくれた。あるおばさんは、「やっぱり、おばあちゃんと呼ぶ孫よりハルモニと呼んでくれる孫のほうがかわいい」という印象的な話をしてくれた。
また、あるおばさんは、自分の本名について、発音を説明するのがめんどうだし、字を見て笑われたりするから自分の名前がきらいだったといいながらも、日本名を名乗り、日本人と結婚し、朝鮮を隠して生きている息子のことを「育て方を失敗した。朝鮮人としての生き方をしてほしかった」と語ってくれた。
おばさんたちの朝鮮を思う熱い心にふれたような気がした。
今、私は、本名で呼ぶことを契機に、おばさんたちを丸ごと朝鮮人、中国人として受けとめられる日本人でありたいと思っている。
玉英(オギョン)さん、、秋子(チュジャ)さん、斗容(トヨン)さん、福姫(ポッキ)さん、粉性(プンセン)さん、分善(ブンスン)さん……やっぱり、いい響きだなあ。


全国同和教育研究大会 識字分科会で発表

東京で2回めの開催となった全国同和教育研究大会が11月23日から3日間、領国国技館を中心に開かれ、作る会からも「識字分科会」で発表を行いました。
識字分科会は主に、被差別部落で解放教育・闘争の一環として行われている識字学級の実践を交流し合うことを目的としていますが、夜間中学の運動とも大きくかかわっています。「教育を受ける権利」が不完全にしか保障されていない現実への怒り、識字学級で自らのおかれてきた(おかされてきた)現実を知り、たたかいに立ち上がる部落のおじさん・おばさんたちの姿、また、識字学級に関わる人の意識・姿勢の問題……。これらは、私たち自主夜間中学の実践そのものと同じ課題を有しているといえそうです。
今年はとくに、夜間中学と識字学級のかかわりを強調する発言が相次ぎました。
「今は閉鎖されましたが、過去、夜間中学の多くが部落の中にあったことを知って欲しい」と大阪・天王寺夜間中学の岩井好子先生。奈良・春日中学夜間学級の中田庄史先生は、夜間中学で学ぶオモニの詩を紹介してくれました。
また、東京都立大学の小沢有作先生は、識字学級(夜間中学も含めて)にかかわる人たちの意識の持ち方にふれられ、「ただ単に文字を教えに行くだけではだめ。自分がどう変わっていくのかが問われている」と指摘されました。作る会のメンバーもひとりひとり考えていく必要がありそうです。

さて、この全同教に、江東区教育委員会の方々はどのくらい参加されたでしょうか? そして参加された方はどんなことを考えられたでしょうか?
大阪のおばさんは、こういわれました。「私たちは、自分が苦労したことなど話したくない。けど、話さなきゃ動いてくれない」。私たちは「生徒」とともに「話し」続けていきます。


夜間中学マメ知識
1 法制度の問題

江東区教委は、夜間中学が法制度上問題があるために設置がむずかしいと、ことあるごとにいっています。本当ですか?

夜間中学は、正式には「○○中学校二部」「○○中学校夜間部」……などといいます。
戦後からまもなく6・3制学校制度が発足しましたが、当時はまだ混乱の中にあり、生活のために働かなければならない子どもたちが多数いました。昼間登校できないこの子どもたちのために夜授業を行うようにしたのが夜間中学の始まりです。
この二部授業を行うことができることの根拠は、学校教育法施行令の中にみることができます。同法25条は公立小中学校の設置と廃止について触れていますが、この中で二部授業を行おうとするとき、市町村教委はその旨を都道府県教委に届け出るよう求めています。つまり、裏を返せば、市町村教委は届け出さえすれば二部授業を行うことができるわけです。
政府や文部省は、以前から夜間中学は好ましくない、との見解を示しています。しかしこれは、法制度そのものを問題にしているのではなく「夜間中学を認めれば、昼間の生徒が夜に流れる」ことを心配したもので、それこそ学校や教育委員会の対応がきちんとされているならば問題は起こりようのないレベルのものなのです。
それどころか、私たちが主張している「義務教育を不完全にしか保障されていない人に対しては公的な立場で対応すべきだ」ということに対しては「夜間中学がこれまで果たしてきた意義」を認め、「中学校夜間学級は市町村教委が必要を認めれば設置できる」(1985年1月22日付政府答弁書)と明言しているのです。
江東区教委は、夜間中学のどこに法制度上の問題があるといっているのでしょうか? 自らの発言に対して、いつまでも逃げ回っていないで、責任ある回答をすべきです。


会員の声
荒牧浩二

夜間中学に通いはじめたのは、昨年の9月頃だったように思う。その頃のぼくは、母を亡くしたこと、会社でのゴタゴタ、4年ほども一緒に暮らした人との別れ、などが引き続いて起こり、思考が内へ内へ、自分へ自分へと向かって、あげくに身動きのとれないような状態だった。だから自分自身のことではないことに気を向けたかった。それが夜間中学へ行くようになった動機だった。
とはいっても週1回、土曜日に顔をだすだけで、他の曜日やいろんな集まりにはほとんど参加していないので、あまり夜中のことやオバサンたちのこと、つまり自分以外の何かについて真剣に考えてきたとはいいがたい。また、すごく感動的なことに出会ってすさんでいたぼくは明るく元気な青年になりました……というようなことももちろんない。
あらためて振り返ってみると、ただなんとなく通っていた、というような気もするが、ぼくの精神状態は大分回復してきているし、その要因のひとつは、やはり夜中への関わりにあるような気がする。
ぼくにとって土曜日の6時半から8時半という時間はどういう意味があるのか? と、さらにあらためて考えてみた。
今のところ、ぼくとオバサンたちとの関係は、それほど深まっているとはいえないが、最低2時間とそれに付随する若干の時間、ぼくはどうやったらオバサンたちが字を覚えやすいかというふうに考えているし、他人の経てきた人生について何事か感じたいと考えている。いや、感じたいというよりも、やはりオバサンたちの何気ないことば(たとえば「字は知らなくてもしっかり生きてきたし、これからも生きていける。だけど今は、ここに集まって皆と一緒に字を覚えていくことがいちばん楽しい」といったような)や、存在そのものに感じ「させられて」いるのだと思う。
とかく、自分のことだけしか考えられないぼくに、世の中にはもっとたくさん考える必要のあることや、やらなければいけないこともあるんだと感じさせてくれるのが、土曜日の夜中であるようだ。