NO.3637(合併号) 1986年3月14日


●今号の目次●

1 都夜中研通学実態調査から
2 学ぶ権利をなぜ保障しないのか(上)
3 2.9埼玉集会報告


都夜中研通学実態調査から

江東区から他区の夜間中学へ通っている生徒が夜間中学未設置区と比べてだけではなく夜間中学を設置している区を含めても非常に多いということは、すでに何度も指摘したとおりです。
では、その具体的な数字はどうなっているでしょうか。東京都夜間中学校研究会は毎年、生徒の「通学実態調査」を実施しています。それによると、1973年意向1984年までの12年間で、江東区から他区の夜間中学に通った人は385人にのぼっており、「これだけ多数の夜間中学生を生み出している区は、ほかにない」(都夜中研)のです。

江東区からの通学者
 1973   6人
 1974  22人
 1975  37人
 1976*  43人
 1977  35人
 1978  26人
 1979*  40人
 1980  59人
 1981  40人(51人)
 1982  25人(18人)
 1983    (21人)
 1984  21人
 *は都教育庁指導部調査 ( )は区教委

各校の生徒数(1986年2月末現在)
 小松川二中 135人
 荒川九中   43人
 新星中    67人
 糀谷中    39人
 曳舟中    72人
 双葉中    40人
 八王子五中  40人
 足立四中   54人

単純に計算してみましょう。12年間で385人ということは、1年間の平均が約32人になります。それぞれが3年間在籍したとすると、それだけで96人の学校ができることになります。
都内の夜間中学の生徒数は、江戸川区立小松川二中がもっとも多く120人を超えているほかはだいたい40人から70人ですから、今すぐ江東区に夜間中学ができたなら、それだけで都内で2番目に大きい夜間中学になってしまうのです。しかも、この中には、私たちの自主夜中の「生徒」70人や、今現在夜間中学に行きたいのだけれど、他区までは遠くて通えないという人は含まれていないのですから、この人たちを含めると、東京でいちばん大きい夜間中学になる可能性は極めて大きいといえます。以前、小松崎区長は「江東区に夜間中学を必要とする声がなければ、認められない」(1981年9月22日、区議会本会議答弁)と述べていますが、都内でもっとも多い夜間中学対象者を抱えていながらこんな発言をするのは、あまりにも区の内実を知らないといわざるをえません。
3月4日には都夜中研の25周年記念大会が墨田区民会館で開かれ、江東からも参加させていただきました。現在の都夜中研が抱えているさまざまな課題が話されましたが、その中でも、江東区に夜間中学が必要だという声は、何度も何度も繰り返して強調されました。江東区に夜間中学を作る、作らないという問題は、ただ単に江東区だけの問題ではなくて、夜間中学全体の問題なのです。
都夜中研の通学実態調査は、4月はじめに85年度分がまとめられるそうです。今年度もまた、小松川二中だけで12人が江東区から通学していますので、他の夜間中学を含めたら相当数にのぼることが予想されます。累積生徒数はおそらく400人を超えることは確実でしょう。
江東区はいつまでも他区に迷惑をかけていないで、一刻も早く公立の夜間中学を作るべきです。

さて、最後に「検討中」の区教委に対して、作る会より具体的な「検討」項目を提示してみましょう。

1.どこに作るか?
江東区は南北に長く、しかも南北の交通網は貧弱です。総武線沿線、東西線沿線の2つを同時に開校するよう、場所をさがしてみましょう。

2.予算はどのくらいか?
となりの小松川二中にたずねてみましょう。また、奈良の春日中学で昨年新校舎ができました。問い合わせれば親切に資料を見せてもらえるはずです。


学ぶ権利をなぜ保障しないのか(上)
真野節雄

東京の江東区には夜間中学はない。いわゆる下町の東部地区で唯一、江東区にはない。必要とする声が次から次と寄せられている中で、いっこうに行政は腰を上げる姿勢もない。私たちの運動は6年目の正月を迎え、行政の肩代わりとして始めた自主夜間中学は4年目となり、すでに70名を超える人が名乗り上がってきている。
江東区は枝川・塩浜地区を中心に在日朝鮮人が多住している地域をかかえている。字を教えてくれとやってくる生徒の多くは、その在日のオモニでもある。また、中国からの引き揚げの人々が全国でもっとも多いのが、この江東区でもある。
歳月の徒らな経過に、公立の灯を見ることなく命を引き取った自主夜間中学の生徒さんがいる。また何人かはもっと勉強したいといって、長い時間かけて隣接の夜間中学へ無理して通い始めた。
これ以上の不誠実さは断じて許されない。

生きていくために学びたい

ユーニスがカヴァデイル一家を殺したのは、読み書きができなかったためである。
読み書きの能力は文明の礎石のひとつである。肉体的な「欠陥」をもつ人々にかつて向けられた憫笑が、いまや「文盲」の人々に注がれたとしても不思議ではないだろう。男にせよ女にせよ彼らは無学の人たちのあいだで用心深く暮らしていれば、うまくいくかもしれない。
ユーニスは死ぬほど怯えていたのだ。自分の秘密が暴露されることを(R.レンデル「ロウフィールド館の惨劇」より)

Kのこと

Kと会ったのは、もう10年近くも前のことになる。Kは私より2歳年下で、公立化になる前の川崎自主夜間中学にやってきたのだった。Kは極端な無口で、自分のことは全く語ろうとしなかった。時には仕事を休んでまで、ただ字を覚えることに熱中していた。

昨年はわがまいて、ごめんね/ぼくは、今も速く国語を覚えたい、今は、ぼくは国語に焦ている/先生たち、そして生徒さん/ぼくは今年こそがんばりたい/夜間中学が見つかて助かた/ぼくは、この26年間は、つかれった/なぜかとゆうと、やはり字が読めないためだとぼくは、思う/こんどこそは、がんばる。

自主夜間中学に来て1年ぐらいたって書いたKの作文である。その小さな紙切れは、何度も消しゴムでこすってけばだっていた。
その頃、私はKのすぐ近くに引っ越した。何も語らないKだったが、こうしてたびたび会うようになると、家のことや仕事のことを少しずつ話すようになった。そして、Kがほんとうに苦しんでいるのは、字が読めないこと自体もさることながら、そのことを誰にも喋れず隠していることだと知った。
Kは誰に対しても口をきかないようにしていた。そうしていれば「変人ですむ。でも喋ってボロが出たらひどい目にあうから」。私によく相談するのは、転々とする職場での人間関係だった。
「ひょっとして自分のことを気づかれているのではないか。それでいじわるをされているのではないか」
いくら職場を変えても同じことだった。
Kの気苦労は徐々に大きくなっていった。そしてついに、毎晩のようにやってきては深夜まで繰り返しその不安を語るようになっていった。Kに近づく者は、たとえ親しくなろうとする者さえ、Kにとっては自分を傷つけようとする人間でしかないのだった。その巨大な警戒心を何とかしなければと私は思うのだが、「どうすればいいんだ!」という私の問いに、Kは「どうしていいかわからない」という答えしか見つけることができなかった。
Kは確かにその時、他人を信じることのできない自分に対して苛立ちを感じていたのだ。
そのうちKは、みんなが自分を罠に落とそうとしている、なんと自主夜間中学の仲間もぐるになって罠にはめようとしている、といいだしたのだ。そして私も、その一味のひとりであると疑われていたのだった。
私は何も書かれていない封筒が郵便受けにあるのを見つけた。その中には数枚の猥褻な写真と、明らかにKの字で次のように書かれた紙きれが入っていた。
 おれは/しんのさんが/きらいだ
これがKのただひとつの私への手紙だった。Kは自主夜間中学に来なくなっていた。紹介した東京の夜間中学にも行かなかった。
私は恐かった。「26年は疲れた」とはどういうことだったのか――。Kのなかには深い深い淵がある。それをのぞいてしまった恐さだった。Kにとって私は何だったのか。

奪うもの・奪いかえすもの

公式には○○中学二部などと呼ばれる夜間中学は、現在全国に34校あり、約3000人の人たちが学んでいる。いずれも義務教育であるはずの学校教育が、さまざまな理由で受けられずに生きてきた人たちである。
日本が誇る99.9%の就学率。だが残る0.1%の人たちのことを考える人は少ない。チョコレートに書かれた「キケン」という字が読めず、文字どおり危険にさらされる人がいることを何人の人が想像しただろう。病院の窓口で問診票を「書かない」とどなっているヤクザ風の男が、実は字が書けないのだと考える人がどれだけいるだろうか。
夜間中学は、その0.1%の、教育から切りすてられた人たちのための「救急病院」のような学校であり、憲法・教育基本法で保障されているはずの教育権を行使できる最後の場でもある。
中退者を含め義務教育未修了者は、戦後だけの累計で推定140万人――その存在は、今日の教育の「繁栄」「機会均等」が見せかけ、たてまえだけであり、実際には深く病み、差別の構造のなかにあることを示している。そして、夜間中学の数は圧倒的に少ない。
夜間中学には実にさまざまな人が集まる。戦前・戦中・敗戦直後の貧困・混乱、戦争の犠牲者、部落差別による貧困のなかに育った人、強制連行による在日韓国・朝鮮人、国策による移住からの中国をはじめとする韓国・南米などからの引揚者、就学を結うよ・免除された障害者、「おちこぼれ」「登校拒否」として現在の学校教育から疎外された者、等々である。
若ければ若いほど、文字を知らないコンプレックスの塊になり、「社会」という怪物にこづきまわされ、やっと夜間中学にたどりつく。彼らは学歴がほしいのではない。生きていくために、ひたすら学びたいと思っているのである。
役所や子どもの学校からくる書類を前にしてただ泣くことしかできなかった人。はじめて書いた自分の名前をじっと見つめながら「よくここまで生きてきたよ」と、在日50年の歴史をふりかえる朝鮮人のオモニ。平仮名でことばをひとつ書くたびに「やっと、だんだん人間になっていくような気がする」とつぶやく。銀行に行けず、知り合いに預けた数百万円をだまし取られた人。
ある者はメニューが読めないために食堂でラーメンしか注文しなかった。ある者はメモがとれず、約束を時々忘れたり間違えたりするため、いいかげんな人というレッテルをはられた。ある者は仕事で伝票や日誌など“書く”ことが出てくると、そっと会社をやめた。あきっぽいやつだといわれながら。みんな、ひとりぼっちだった。
夜間中学に来る10代から70代までの生徒のひとりひとりが、過去から現在の日本がつけた“傷”であり、“差別”の具体的なあらわれである。差別のあるかぎり夜間中学生は生み出されるのだった。しかし、彼らが学ぶ姿はその過去と反比例するかのように明るい。あるオモニはいう。
「わたしわ うまれてはじめて やかん中学校て じをかいたとき むねが いっぱいて ほんとうに うれしくって まいにち学校にくるひがたにしいです」
文字を学び、奪い返すことは、単に字を覚えることではない。ある夜間中学生は集会で「私が夜間中学で得た最大のものは、こうして自分のことをおおぜいの人の前で言えるようになったことです」といいきる。また、ある夜間中学生は「(学校へ行って)だんだん自分が好きになってきました」という。
文字を奪い返すということは、劣等感から自らを解放し、また今まで気づかなかった自分を発見し、自分の人生への自信が持てるようになることなのかもしれない。

その運動がはじまるとき

夜間中学に来る人は、差別・偏見や嘲笑におしつぶされそうになりながら、なお人として心豊かに生き、生きようとしている。そして苦しみのなかを生きぬいてきた人が持つやさしさ、おおらかさがあった。しかし一方で、彼らは深い淵を抱えている。状況が困難なほど夜間中学すら通うことができないでいる。一歩まちがえば生活は崩壊し、ある者は精神病院に行き、ある者は殺人事件を起こし、ある者は自殺した。
ところが文部省を頂点とする教育行政は、ギリギリのところで夜間中学を求める切実な要求に対し、一貫して冷たい。「税金のムダ」であり、「ボランティアによる自主的活動が効果的」であり、公教育体制を乱すものとして、新たに夜間中学を作ることなどとんでもないということになる。それが許されているのは、夜間中学生の多くが分断されひっそりと生きていることをいいことに放置しておいても社会問題にならない、つまり、世間の常識から彼らの存在が切りすてられているからである。
夜間中学を作らせる運動は、教育が権利であることを認めさせ、差別が教育を奪い、それがさらに差別を生むことへの反撃であると同時に、そういう常識とのたたかいでもある。

――なんで江東区にだけ夜間中学ができないんですか! ちゃんと税金払っているんです! 朝鮮人だからバカにしているんですか! 日本のために、千人針さって縫ったんですよ!――

江東区教委に夜間中学設立を求める交渉で、在日50年のオモニが口にした言葉である。彼女をはじめ、江東区の自主夜間中学に集まる人たちは、とことんやさしい。
この運動に関わる私たちは「先生」「ありがとう」という言葉におもはゆい思いをしながらも、包まれ、安穏としてしまう。
このオモニの言葉は、全く無責任な行政に向けられたと同時に、そういう私たちに対しても向けられていたのではなかったかと、ふと思う。オモニのなかにある深い淵がぼんやりと見えるような気がする。それに正面から向きあおうとした時、はじめて夜間中学を作る運動は始まるのかもしれない。
(雑誌「解放教育」204号 1986年3月号所収)


2.9埼玉集会報告

2月9日、埼玉の夜間中学を作る会の集会に参加してきました。
私たちの仲間、埼玉の作る会は今までにも紹介してきましたが、昨年の12月より、いよいよ江東・松戸に続いて自主夜中を開校しました。行政の不誠実な態度に怒りを持ちつつも“学びたい”という人たちをそのままにしておくわけにもいかず、自主夜中の開講にふみきったものです。
集会では、おなじみの奈良の自主夜間中学の記録映画「うどん学校」に続いて基調報告がなされました。その中で、作る会は県教委に対して交渉の場を設定すべく、何度も連絡をとっているとのことでしたが、県教委側は「忙しい」だの「交渉は30分にしてくれ」だの「交渉の内容をマスコミに流さないでくれ」だの、理由にならない理由で、ただ引きのばしをはかっている旨の報告がありました。また自主夜中のおひざもとの川口市教委もmまったくその態度は消極的で、会場からは一同、怒りの声があがりました。
集会は基調報告に続いて、東京・荒川九中の見城先生から、夜間中学の歴史と、夜間中学の果たす今日的意義について話がありました。夜間中学でしか学べない人にとっては、ここ(夜中)が教育権復権の最後の場だとする指摘は、とても大事なことだと思いました。また、現在の学校教育の病んだ姿が夜間中学をとおして実によく見えるではないか――現在の学校が、だれとだれを比較して、どうのこうのという姿――。さらに続けて、夜間中学では、昼間の学校を登校拒否した生徒が生き生きと通う現実から、生徒から拒否されるような学校、それは学校のほうが病んでいる証明なのであって、生徒のほうが健全なのだという指摘も、参加者の納得いくところでした。
そして何よりこの見城先生の発言を受けて、埼玉自主夜中の生徒アマノ君が「ここに来ると、外でいやなことがあっても、そんなことがふきとんでしまい、楽しく勉強ができる」と話してくれたことがとても印象的でした。
逆説的にいえば、“楽しく勉強できる”場が現在の昼間の学校に確保されていないことの証左だと思いました。