NO.38 1986年4月22日


●今号の目次●

1 学務課長交替
2 自主夜間中学合同花見大会
3 学ぶ権利をなぜ保障しないのか(下)
4 自主夜間中学の風景


学務課長交替

区教委が「検討」を約束して丸2年がたちました。そのあいだ、私たちは、たびたび区教委をおとずれ、どうなっているのかをたずねました。しかし、そのたびに、「検討中で、おはなしできる段階ではない」の一点張り――それを理由に交渉も拒否という状態が続いていました。
丸2年も!

3月末、私たちは区教委に連絡をし、とにかく一度会いたい旨を伝えました。(何度も実現しなかったことですが)島田学務課長は、そのとき、4月に新しい人事が決まってから場をもつことを約し、4月になって再度、連絡することになりました。
そこで私たちは4月11日に区教委をおとずれました。
区教委は、教育次長も、学務課長も変わっていました。新教育次長は宮川保志氏、新学務課長は依田祐治氏です。
私たちは新学務課長に用件を伝えましたが、まだひきつぎができないでいる(ちなみに島田前課長は、庶務課長に栄転(!)して、すぐソバに座っている)とのことで、後日、連絡をとることになりました。

ところがその後の14、17日の電話連絡で「今、お会いしても新しいことは何もないので……(お会いできない)」
――またまたです!
4月22日、私たちは区教委に行き、2年間の重さを訴え、場の設定を求めました。その結果、依田課長は「お会いするのはかまいませんが、新しいことがなくてはもうしわけないと思って……」と、とにかく交渉自体はかまわないので近日中に設定してくれることになりました。
依田新課長は、物腰もソフトで、フランクにやりとりができる印象。ただ交渉の中味は……? でも、きちんと問題の本質を理解してもらえるよう、働きかけていきます。


自主夜間中学合同花見大会
木場三津子

のめや歌えのド宴会、上を下へのドンチャン騒ぎ。そんなお花見を去る4月13日のよく晴れた日曜日、墨田公園で楽しんだ。江東の呼びかけで松戸、埼玉、法政の自主夜中が集まり、70人をこえるド宴会となった。
生徒さん手作りのお弁当が実にうまかった。どれだけの酒をのんだか覚えていない。「全ての人に義務教育を」「松戸・江東・埼玉に夜間中学をつくる会」というタレ幕の中で、なにしろ70人が一丸となって騷いでいるのだから、目立つ。老若男女いり乱れ、アリラン踊るわ、ピンクレディがとび出すわで、タレ幕と中身のギャップが気になるほどだった。
中国から帰国した人たちが歌い、わが江東のオモニたちは優雅に朝鮮舞踊を踊る。しかしやはり、のりにのってはしゃいでいたのは教師たちだろう。かくいう私も道に出てOさんと踊っていると、一人の婦人がやってきて耳もとでささやいた。「あんた、なかなかうまいよ」。話を聞くと、彼女も在日の一人らしい。私が酒くさい息はきかけて、一緒に踊ろうと腕をつかむと逃げていってしまった。
通行人は例外なく立ちどまり、もの珍しげに見物していったが、なかには「これこそが民主主義教育だ」といって、酒をさしいれてくれる人もいた。観光客らしい外人さんがしきりに我々にカメラを向けていたが、彼らの目には満開の桜の下ではめをはずしさんざめく日本人の姿が「東洋の神秘」と写ったのかもしれない。
そういえば、戦争を放棄した民主国日本の中に多くの戦争犠牲者が文字やことばを奪われたまま、いまだ一顧だにされずにいるのだから、確かにこれは「日本の神秘」だろう。一方で、そういった戦争政策により切り捨てられてきた人々が、あんなに明るい笑い声をあげて、日本の春を満喫している。あのおおらかな笑顔は、我々が交渉のたびにむかいあう教委のおえらがたの能面とは雲泥の差がある。これもやはり「神秘」だ。
「神秘」がはやっているのだろうか。帰り、水上バスで隅田川を下ったのだが、船尾にヒラヒラはためいていた「日の丸」が、何の拍子か風にとんで宙に舞い、あれよあれよといううちに水の底に沈んでしまった。思わずバンザイをした。


学ぶ権利をなぜ保障しないのか(下)
岩田 忠

帰国者を追いこんでいるもの

日本語学級は、引揚げの親・家族のための特設学級である。それを必要とする当事者、地域の人が、70年代始めに、夜間中学増設の高まりとあわさって、「すべての人に完全な義務教育を」という旗印の下、粘り強い運動によって作られたものである。

「引揚げ者」との出会い

ここ数年、“中国残留孤児”問題が社会問題として大きくクローズアップされている。マスコミによって伝えられるのは、涙の対面であったり、困難な条件の中でがんばっている努力の姿であったりする。
受け入れのボランティアの中には、かつての“旧満州”にかかわっていた人が少なくない。その多くは、1日も早くよき日本人になるための“指導”にとりくむことに何の疑念も、はばかりもない。
そして、そういった引揚げ者、それに連れ立ってくる人々に最も近くかかわっている人々からは、引揚げ者は、生活保護など福祉に頼り切って自立心を失い、一方で権利意識だけは強いというダメな引揚げ者像を、これまたはばかりなく語るのをよく耳にする。
私は、10年前、ただ中国語専攻、それだけの理由で、引揚げの子どもたちを対象とする日本語学級に配属された。「引揚げ」という言葉を聞くのも、引揚げ者との出会いも、その時が初めてであった。もちろん、戦後生まれの戦後育ちである。
私が赴任の年の生徒は、韓国引揚げの生徒5名と、中国引揚げの生徒1名であった。このうち中3の5名は、“荒れ”ていた。驚かされ、何もできずにじっと子どもたちのなすがままに身を任すだけの私であったが、なぜか子どもたちとの時間に心の落ち着きを覚えるのであった。日本語学級の教室の中の子どもたちの表情が、廊下を肩をいからせて歩く姿とはうってかわったやわらかな眼差しに戻ることがそうさせたのかもしれない。
とにかく子どもたちはよくしゃべる。故郷・韓国を、つきることなく語るのであった。日本語で教師にくってかかる時は吃音する子どもが、母国語では流れるように語っているのが、まず強く心に焼きついた。
ただ1人の中国引揚げの生徒は、そういう時には仲間から離れてさびしそうにしている。その子に、拙い中国語で声をかけると、にっこり微笑んで、「先生、中国語うまいよ、通じるよ」と答えてきた。些細なことであろうが、私にとっては出会いの印象深いものであった。
その中国引揚げの男子生徒Lは、その時には、学校ではどうしようもない“問題児”のらく印を押されていたのであるが、実は何年かして、彼と同じ地から引き揚げてきた子どもから、「Lさんどうしてますか」とたずねられたことがある。そこで、Lの中国での生活を知り、多くの仲間から慕われ、人望の厚い人間であったことを知ったときは、子どもの揺れの根っこをがつんと示されたような思いがしたものだった。
この時の子どもたちは、何度も「自宅謹慎」を言い渡され、登校できずにいた。私はその都度、家に寄せてもらっていたが、そこで、親や家族の話、戦争体験、戦後の重い生活の話にいくつも接する機会をもつことができた。
川原に日本人が寄り添い合うようにバラックを立て、韓国人の正妻の陰に耐えていた親の話。食べるものが絶え、雑草で子どもと共に飢えをしのぎ、子どもが倒れた時は、胃袋の中には枯草だけだったということを涙ながらに語る親。中国で、韓国で「小日本」「日本鬼子」とからかわれ、日本では中国人、朝鮮人と白い目で見られることへのやるせない憤りなど、次から次に親から知る事実の前には、とても、子どもたちや親に“指導”など言い出せるものではなかった。
そんな親の生活を背負い、かつ、自らの生まれ育った中国・韓国を離れ、日本にやってくる子どもたちの思いの底をおもんばかる時、私自身の教師としてというより、それまでの私の人間としての位置が大きく揺すられる思いがしてならなかった。

「想中国」

彼らの卒業のあとには、たまたま熱心な生徒の入学が続いた、私を休み時間も放さず、日本語や教科の学習に食いついていた。夏休みの学習にも1日も休まず参加するなど一心不乱に学習にとりくんでいた生徒の一人が、ある日、誰もいなくなった黒板に小さな字で「秘」「想中国」と書き、「先生、私、これです」と目をうるませてつぶやいてきた。一心不乱の裏にぐっと深く押しこめているものの存在にはっとさせられた。
私はどんどん食いついてくる学習意欲の旺盛さにほっとし、その学習要求に応えることに自分を置いていたのであったが、それは子どもたちを結局、ただ私たちの側に引き上げることでしかなく、そのこ向かうために、子どもたちは、自らの核となるようなものまでも押し殺していたのであった。
Tは日本人とのトラブルで、仲裁に入った私に向かって、突然、土下座し、目をはらし、手をすり合わせて「求求●」(どうかどうかお願いします)「どうなってもいい」と仕返しに立つことを懇願するのであった。            
中国で十分に教育を受けることができず、早くから農作業にたずさわっていた生徒であり、日本でいうところの“基礎学力”はなく、そういう生徒にとっては、日本に慣れ、日本の社会がみえかけたときが一番、おそろしい時でもあるのである。自分の位置をいやおうなしにみせつけられるからである。
Tはそのトラブルの前後に、国籍の切りかえを促され、悩みを教師にぶつけていた。Tの両親は、ほとんど文字を知らず、言葉も南方の地の言葉で北京語はよく通じない。Tあ、この両親が果たして日本にいることがいいことなのか心配もしていた。日本の生活の中で、話題も少なく無口になり、暗くなっていく親の姿を見、そしてその分、かかってくる期待の重さにおしつぶされそうになりながら、懸命にふんばっている子どもを、実は、日本の社会は、さらにさらに、追いこませようとしているのであった。

変わらぬもの

引揚げ、それは戦後処理の問題であり、戦争責任にかかわる問題であることはいうまでもない。私は、引揚げの親、連れ立ってくる子どもたちの姿に接していくうちに、戦争責任とは、私たち戦後を日本で迎えた者一人ひとりにふりかかっているのだということを改めて思い知らされた。
それは今、私たちが江東区に夜間中学・日本語学級の開設を訴えて運動として行っている自主夜間中学にやってくる在日朝鮮人のオモニの語り綴る在日の歴史にも同じように激しく自分自身の位置を問うものがある。
あるオモニは、「私も、朝鮮から日本に連れて来られて、学校に行ったよ。何も言葉もできないで、いろいろといじめられて、頭にきて、履いているげたを、日本人に投げつけてやめちゃったよ」と日本の学校の原体験、受けてきた差別の事実を目の前のことのように語る。引揚げの人、その家族の出会っているこの日本は、本質的にあのかつての不幸な歴史を生み出した日本と何らかわっていないのである。
私たちが日本語学級の増設を訴えて、各行政に働きかけをすると、決まって返ってくる反応は、「日本語ができることが義務教育の前提であり、その前提にない者は、私たちの責任外である」という論理である。世論の高まりに抗しきれす、最近では、言葉の教育には若干の態勢をとることが多くなってはいるが、それはあくまで小手先のまやかしでしかない。教育の流れを変えるものとは決してならない。
それは、学校教育を十分に受けることができなかった人々の再教育の場としての夜間中学に見向きもしない行政の位置と全く、重なるものでもある。
臨教審は国際理解教育の推進をうたっている。こともあろうに、最近は、在日外国人教育の推進まであげている。それは決して戦前・戦後の近代の教育の反省の下に出ていることではないことはいうまでもない。それどころか、再び、世界進出という経済侵略の尖兵の養成という恐ろしい道を用意しようとしているのである。

ある自主夜間中学の中国引揚げ者の妻は、仕事で様々の差別を受ける。自分の幼い子どもまでが地域でいじめられ、耐えきれず、悩みに悩んだあげく、日本に生活するためには、日本人でなければだめだと、帰化を決意する。そして帰化の同意を求めるために、中国の病床にいる両親に偽りの手紙を送り、同意をとり寄せ、複雑な、言葉で言い尽くせぬ苦悩の中で法務省に向かった。その婦人に対し、法務省の役人は、帰化を認めた際にかけた言葉が、「おめでとうございます」であった。
この経緯を、私たちの集会で、「皆さんにあやまらなければならないことがあります」と前置きして、涙ながらに語ったのであった。
私はすぐ後の授業で、もう一度、皆の前で話してもらった。在日のオモニの励ましを受けながら、一気に書き上げた14枚余の現行の終わりには、「私の父も母も中国人です。私も中国人です」としめくくられていた。

自らの存在の基盤を揺り動かされながら、懸命に生きる道をまさぐる秘ちびとの苦闘は、日本との出会いで、日本のどうしようもない閉塞状況に対する命の叫びでもある。その人々に私たちがていねいにつき合うことから自らを問い、自らの位置を正し、確かめられていくものに徹底してこだわっていきたいと思う。


自主夜間中学の風景
長谷川博

先日、チュジャハルモニの家へおじゃました。
ハルモニとは、自主夜中で出会ってから2年近くになる。1、2度立ち寄ったことはあったが、上がり込んでゆっくり話をしたのは今度が初めてだった。
東西線の木場駅で降り、待ち合わせたもう1人の男と一緒に、家まで歩いていくことにした。まだ肌寒い薄暗がりの中を、小舟を横目に見ながら行く。塩浜町という町名が示すように、埋め立て地のまわりには縦横に運河が走っている。
「こんばんは、チュジャさん」と玄関をあけると、今か今かと待っていたハルモニは、すぐに出てきて、「もっと早く来ると思ってたのに……。表へ出たり入ったりしてたよ」という。
孫の女の子が、はずかしそうにピョコリとおじぎをして、二階へ上がっていく。
部屋のテーブルには、ごちそうがみごとに並んでいる。ハルモニが、「こんなに作ったよ」と、ボールいっぱい入ったホルモンをかかえてくる。まずは、言葉に甘えてごちそうになることにした。「いつも作るときはたくさん作るんだよ」というように、テーブルにはキムチ、酢のもの、イナリと朝鮮料理と日本料理が、5人いても十分すぎるほど並んである。
「今日は“用事があるから帰るよ”といって、早く帰ってきたんだよ」という。ハルモニは、仕事のあと、集会所近くの無料の風呂に入りに行き、そこでいろいろと話に花を咲かせるのが日課になっているそうで、そこの仲間との話もそこそこに切り上げてきてくれたようなのだ。
ハルモニにもビールをすすめたが、去年肺炎で入院したばかりなので「今は酒を飲んでないよ」といって、ぼくらばかりにしきりについでくれる。
「昔は、生活するのに必死だったから、仕事のない時は何でもしたよ。家で酒を造って売りに行ったよ」
「酒っていうのは、マッカリのこと?」
「マッカリも造ったし、焼酎も造ったよ」
「今でも造れる?」
「もちろんだよ。マッカリはうんとまとめて造るとおいしいんだ。焼酎のほうは、大きな道具がいるけどね」といって、手を大きく広げて説明してくれる。
「亀戸のほうに売りにいくとね、おもしろいことに警察がかぎつけて呑みにきたよ。制服脱いでくるけど、その日はちゃんと呑んで帰ってね。こっちは顔知ってるから知らんぷりしてると、次の日、今度は“密造だ”といって取りおさえにきたさ」
「警察につかまったわけ?」
「何も悪いことしてないから、つかまらないよ。いってやったよ。“こっちは、生活できないから造ってんだ。どこが悪い!”って。でも、何回も持っていかれたよ」
話をするハルモニの顔は、毅然としてハギレがいい。
「こんなこともあった。近所の日本人が、戦争の時、闇米を商いしててつかまりそうになったんで、“この人も、生活に必死でやってんだ”って啖呵きったら、どうしたことか、捕まえずにいってしまったよ。昔は、日本人も貧しかったからね」
こう語るハルモニの顔はやさしい。ぼくも、チュジャさんと出会ってから、以前は「在日朝鮮人とどうかかわればいいのか?」と頭で図式的に考えがちだったのが、少しずつだが、ひとりひとりと向き合えるようになったような気がしている。
話によっては、柔和なハルモニの顔もきつくなる。
「まだ、今でもいるんだよ、“朝鮮部落”って、この町を呼ぶのが……。日本人だって住んでいるのにね。昔はこの町もひどかった。夏にはハエがすごいし、水道管もきていないから、水も出やしない。でも、今はりっぱなもんさ。それでも呼ぶもんがいる!」
少し悲しそうに怒りをこめて語るハルモニの言葉は、ずっしりとひびいてくる。

ところで今、自主夜中では、足し算の筆算の勉強をしている。「商売の時は、不思議とできたもんだよ」と語るハルモニも、数字ひとつひとつを書いてやるやり方はたいへんそうだ。どうやったら、ハルモニの生活実感に沿って伝えられるのか、いつも皆で暗中模索の連続だが、計算することと、商売するものの値打ち、そしてそれを感じる感性がえてして分離しがちなぼくらだから、よく抽象的にサァーっと説明してしまうこともあり、無理を強いてしまう時もあるようだ。
でも、むずかしさもあるが、楽しさもある。ハルモニたちの感性とぼくらの感性を照らし合わせながらやっていくことが、時々耳にする「はたして、夜間中学は、反差別の拠点になりうるのか?」という大上段な問いかけに答えていくことになるんじゃないかと、今ごろ思えてきている。