NO.4142(合併号) 1986年9月20日


●今号の目次●

1 区教委の「社会教育化」を批判する
2 自主夜間中学の風景 番外編
  生きるということ(上)
3 第5回夜間中学増設運動全国交流集会報告


区教委の「社会教育化」を批判する

「検討中」などといいながら、実際何を考えているのかわからなかった江東区教委ですが、教育次長、学務課長が変わって数か月、具体的な動きを見せ始めたようです。といっても内容は、例によって「社会教育」での対応の画策、私たちが事実としてつきつけたものを何もわかってくれてはいないようです。

私たちが「社会教育」での対応を絶対に認められないのは、「権利の値引きは許さない」という原則・大前提をこの問題の本質として考えているからです。
具体的に説明していきましょう。私たちが義務教育未修了者をどのようにとらえているか、それは、次のとおりです。つまりこれまで義務教育を受けられないままきた人は、その受けられなかった期間、そして内容とも、受ける権利を留保しているのだ、という考えです。憲法や教育基本法は、「教育を受ける権利」がすべての人にあるのだということを、高らかにうたっています。が、現実には、差別による貧困や「障害」など、さまざまな理由でこの権利を行使できないでいる人がたくさんいることはいうまでもありません。学齢年齢のときに保障されなかった権利というのは、けっして学齢がすぎたからといって消滅するものではなく、必ずそのままのかたちで精算されなくてはならないのです。
ひるがえって、「社会教育」とはいったいどのようなものなのでしょうか。これを規定した法律(社会教育法)によると、「学校の教育課程として行われる教育活動を除」いて行われるもの(第2条)とされています。少なくとも「9年間の義務教育)(教育基本法第4条)を保障する場ではありません。
その内容も又、学校教育の代償として行うには、きわめて「おそまつ」といわざるをえません。
たとえば、社会教育の講座は週何回か公民館などを借りて行われています。これを夜間中学にあてはめて、はたして学校教育童謡の力がつくというのでしょうか。絶対的な時間が足りません。それとも、昼間の学校と同じように1日6時間の授業を週6日間やってくれるというのでしょうか。
また、講師はどうでしょう。学校の教師と同じだけの力量をもった講師が、継続して授業にあたれる態勢がとれるのでしょうか。そして、生徒ひとりひとりに応じたきめ細かい対応ができるのでしょうか。夜間に通わなければならない生徒は、昼間の生徒以上に深刻な悩みを抱えているのです。
次に制度の問題について考えてみることにしましょう。
まず、「卒業証書」の問題はどうなるのでしょう。中学の卒業証書がないために臨時雇いのままになっていたり、各種資格試験を受けられないという人は少なくありません。どう保障するのですか?
通学定期や給食はどうでしょう。昼間の学校では、当然学割が受けられますし、給食もあります。残念ながら、社会教育の○○講座に通うのに学割が利用できるという話は聞いたことがありません。「教育の一環として」社会教育講座に“給食指導”の時間があるというのも知りません。
まだまだ、教育予算の問題、施設・設備の問題など、「社会教育」が学校教育に比べて十分でないと思われる点はたくさんあります。それらをすべて学校教育なみの条件に引き上げてやってもらえるのならば、私たちはあえてこれに反対するものではありません。
しかし、もしもそこまでやるというのなら、なにも「社会教育」にこだわる必要はないでしょう。むしろ逆にききたいのは、「社会教育」にしたら学校教育よりもうんとすばらしいことがあるのなら、それを教えてほしいということです。
大阪の夜間中学卒業生は、こんなことをいっています。この声を江東区教育委員会はどう受けとめるでしょうか。
「天中(天王寺中)の夜間へ入った時、そこに先生がいた、友だちができた。通信教育とか塾とかいうところでなしに、教育委員会から公認された、学校の中にボクはちゃんといる――と思った時に一番うれしかったのは、そのことだったわけです。いわゆる形式的に力を与えてやれば、学力がつけばそれでいいというのんではないことをお知りいただきたいのです」(「うどん学校」より)


自主夜間中学の風景 番外編
生きるということ(上)

大田康弘

1 どぶろくとビラまきと識字

東京の下町、枝川・塩浜地区に「自主夜間中学」という名の識字学級を始めてから6年が経つ。戦前、幻の東京オリンピックが行われようとした時、都内の朝鮮人がめざわりだとの理由で、この地域に強制的に移住させられたことから、今でも多くの朝鮮人が住んでいる。識字にやってくる人達は、ここに住むハルモニ(朝鮮語でおばあさんの意)が多い。

ある時、夜間中学設立の運動を拡めようと、ハルモニ逹とビラ作りをやったことがある。字を知らないということでハルモニ逹が、同胞の組織からもきられてきたのではないかと思っていた。「まいた、まいた。こんなにまいたよ。そりゃ、何を書いているのかわからないけど、話でだいたいわかるよ。やれ、学校がつぶされるだの、デモ行進だの、団結しなくちゃだめなのよ」とハルモニの一人はまくしたてた。胸にぐさっとくる言葉だった。

枝川の町を、警察のトラックがとり囲み、朝鮮のドブロクを取りあげ、ハルモニ逹が次々にトラックに連れ込まれる。子ども逹の朝鮮人学校が閉鎖されようとする中で、学校に座り込みして強制排除される。ハルモニ逹のほとんどが、生活体験の中から“権力”というものと常に対峙してきている。字を知らないということを、運動やその論理もわからないとする自分がいた。

祖国が分断され、親、兄弟がバラバラにされているという状況が厳しくハルモニ逹にのしかかっている。覚え始めた文字で綴ったものに、故郷や親や子どもを想うといったものが多いのは、自然なのかもしれない。「字がうまくできるようになったら、自分のこれまで生きてきたことを書いてみたい」「子どもに話してやりたい」とハルモニ逹はいう。歴史に翻弄されながらも歩んできた道のりを、書き、話していく中で、自分が生きてきたことを確かめる作業を、今字をつかってやり始めたのかもしれない。

2 「こんなことしたって、字なんか覚えられないよ」

初めて、ハルモニ逹と同座して勉強した時のことだ。その時の雰囲気がつかめず、ただ応じられるままに、書き写していくテキストの文字の間違いを直していた。ほかのハルモニが、すらすらと書き写す中で、思うように筆が進まない崔さんは、「こんなことしてたって、字なんか覚えられないよ!」と、顔をひきつらせながら声をあらげた。その迫力に圧倒され、たじろぐ自分がいた。先輩格の仲間は、そんな様子を見てにやにやしていた、

在日50年になる崔さん。前述の言葉からは想像できないほど笑顔の耐えない人だ。60をすぎてからの識字。何度も同じ字を間違えうまく書けないのを、「アイゴー、できないよ。いくらたっても覚えられないよ」といいながらも必死で書く。「字を知らないで苦労したからね。だから、自分の子ども5人いたけどみんな学校出したよ。お金はなかったけどね。小学生の孫に、字知らないでも生きてきたよ、と話すとびっくりしているよ。でも本当によく生きてきたよ」とかみしめるように話す。
若い時、崔さんのご主人が飮んだくれて、どうしようもなかったという。「夫も憎かったことには憎かったんだが、それよりもあの時ほど酒屋やパチンコ屋がなくなればいいと思ったことはなかったよ。酒のはいったビンやパチンコ台を壞して回りたかったよ」。

数年前、在日の朝鮮人が指紋を押すことを拒否して、その裁判が出るという新聞の記事を使って授業をぼくらの仲間がやったことがある。崔さんは、隣に座っていたぼくに向かって、「私らは、新日本人なのよ。○○さんがそう言ってたよ」と、突然言い出した。
同座していたほかの朝鮮のハルモニ逹が、一斉に朝鮮語で、崔さんに向かい激しい口調で何か言っている。「新日本人」という言葉にm「そんなものあるもんか」と怒りをぶつけた。
聞きとれない朝鮮語が飛びかう中で、自分はただ默ってその同行をみるという位置にしか立てなかった。正直いって怖かった。崔さんの日本人への同化をあらわす「新日本人」発言に、「朝鮮人が朝鮮人として生きる。あたりまえのことではないですか」と、たてまえ論で切り返していくことが、在日50年という中で、その言葉がいかに言葉だけのものであるかは、何よりもハルモニ逹自身の体に刻みこまれていることを考えると、孫みたいな若者がえらそうなことは言えなかった。

そういう一方で、もう1つの崔さんの姿を見るのだ。集会や行事などが終わった宴会で、アリランやトラジに合わせてまっ先に踊りだす崔さんでもある。時に朝鮮のことわざを語り、特性のキムチを作って持ってきたりもする。朝鮮人であることを否定しないながらも、どこかでゆれ動いている。
朝鮮というものを体中に持っていながらの新日本人発言。崔さんのふところにぐっと踏みこもうとしない自分にイライラが募るばかりである。

3 「それをいっちゃおしまい。けんかになる」

「おまえ、ばか博士。じんなものもできないか」
「なんだ、この」
「おい、お兄ちゃん、ちょっと外でろ」
「あんまりこないんで、死んだかと思ったよ」
「ちがうよ、今、目がさめたんだよ」
どちらかというとハルモニ逹のまとめ役でもある玉英さんは、よくこう言って勉強の合間、笑いを誘い、息抜きの時間を作る。「いや、こんなばあさんがいなくちゃおもしろくないからね」と自らを分析する。

玉英さんは、よく字の練習をふとやめ、短い文を書く。「昔人は勉強したくても金かなくっできなかった。いまは私は字をならっているのが楽しいのです 今の人命をそまつにしないて下さい」「親はいつも子どものことばかりです」。命や親の心を大切にと、最後はいつもこれでしめくくる。今の若い人が、あまりにも簡単に死んでいくのが、玉英さんにとって口惜しくてたまらないらしい。

指紋の話の際、玉英さんは崔さんに向かって最後まで何か言い続けた1人だった。「指紋にしろm名前にしろ、根は日本人の問題であり、責任ではないですか」と言ったことに説き諭すように、「そりゃ、よくわかる。でもそれを言っちゃおしまい。ケンカになる」とやり返した。

現実的にそういった問題を、在日50年を生きる中で、幾度もくぐってきたに違いない。その答えとしての「けんかになる」という言葉が、どこかで逃げているのではないかと、頭だけでわかろうとする自分には、その時はそうとしか思えなかった。玉英さんが言わんとしたことは、もっと違うところにあるに違いない。(続く)
(全国解放教育研究大会分科会での発表より)


第5回夜間中学増設運動全国交流集会報告

8月24、25日の両日、恒例の「夜間中学増設運動交流集会」が静岡県浜松市の舘山寺温泉で開かれました。今年で5回目を迎えたこの集会には、江東からの8人(「生徒」3人を含む)をはじめ、松戸、埼玉、法政、奈良、天理、大阪などから約40人が参加。運動の現状や公立化後の課題などを話し合いました。
今回の集会ではm交流の時間を少し多めにとろうということで、各地の各地の報告に対して今後どういう展望を開いていこうかという話は十分に深めることはできませんでした。また、11月に予定されている本『ザ・夜間中学―文字を返せ、170万人の叫び』(夜間中学増設運動全国交流集会編)の打ち合わせにもかなり時間をとられてしまいました。この点で、話し合いのほうを期待されていた人にとってはもの足りないところがあったかもしれません。

しかし、それを差し引いても、今回の集会で得るものは多かったように思います。
たとえば、2日目の話し合いの時、奈良のオモニはこんな話をしてくれました。
「私は奈良の夜間中学に入る前、大阪の夜間中学に通っていました。大阪の夜間中学は当時、修業年限が3年間でしたが、それでは足りません。私たちが運動して、これを9年にのばしてもらいました」
この時、オモニは毎日のように校長先生にお願いをしたそうです。
「先生はどうして夜の生徒がにくいですか。昼間の生徒のことだったら、すぐにとんでいってやるでしょう」。そいううながら、朝鮮の最高のおじぎをし続けたといいます。その運動がやがて身を結び、大阪の夜間中学では修業年限が延長されることになりました。
「私たちはもう、先の人生は短いからいいのです。でも、あとに続く人のことを考えたら、私たちがやっておかなくてはいけないのです」

この話は、私たちにとっても気持ちをあらたにさせられましたが、私たちと一緒に参加した「生徒」の心にひびいたようです。
「帰ったら、署名でも何でもして、生徒が頑張らなきゃいけないね」
「座り込みでも何でもして、作ってくれるまで動かないよ」
帰りのバスでも話はつきませんでした。