NO.44 1986年10月16日


●今号の目次●

1 区教委見解に反論する(上)
2 自主夜間中学の風景 番外編
  生きるということ(下)
3 各地の動き


区教委見解に反論する(上)

前号で紹介したように、9月8日に区教委交渉を行いました。今号では、区教委のいいぶんの中から問題点をとりあげて、それらに反論していきます。区教委のいいぶんがいかにデタラメであるかがおわかりいただけるでしょう。

前回の交渉全体をとおして指摘できるのは、区教委は私たちの追及にたいして何ひとつ満足に答えきれていない、とくに「生徒」の訴えにはひとことも答えられなかった、ということです。これに対して私たちのほうも、「どうせ答えられないんだから」と十分な追及をしないでしまったことは、反省せざるをえません。
こうした総括のうえに立って、もう一度、区教委発言の問題点を整理してみることにしましょう。

学務課長 江東区には夜間中学という看板はないが、それなりの対策はとっている。

――この発言が大ウソであることは、区教委自身がすぐあとで認めざるをえませんでした。実際、何もやっていないに等しいのですから。
学務課長が「義務教育未修了者問題の対策」としてあげたのは、「通信教育」「資格試験」「引揚げの人に対する日本語学級会」「その他いろいろ」ですが、このうち通信教育と資格試験は江東区の事業ではなく、国や都の行っているもの。「その他いろいろ」の内容を聞いても何も答えられず、結局は日本語学級会のみでした。
その日本語学級会も、区教委自身がいうように、「引揚げの人に対する」であり、厳密にいうと義務教育未修了者の対策とはなりえません。また、日本語学級会が行われているのは平日の昼間。これでは、働いている人は通えません。
日本語学級会については私たちも評価しますが、それだけで「それなりの対策はとっている」というのはあまりにもおそまつです。
結局「義務教育未修了者には何もやっていない」という追及に「そうですね」と答えざるをえないのです。

学務課長 今の夜間中学は、単発のものもあるが、日本語学級的ウエイトが高い。江東区では夜中の主なるニードは帰国者に対する日本語修得だろう。

――いったい、何を見て判断したのでしょうか。たしかに引揚者生徒が増えていることは事実ですが、けっしてそれだけではありません。たとえば、昨年のデータを見ますと、夜間中学に通う引揚者生徒は421人。これは、夜間中学生全体の14.3%にすぎません。
また、江東区の場合でも、私たちの自主夜間中学を訪れた「生徒」の中には何人かの引揚者とその家族がいましたが、圧倒的に多いのは、義務教育を終えていないという人たちでした。
しかも、自主夜間中学を訪れた引揚げの人の大部分は、昼間は働いているので日本語学級会には通えないという人たちなのです。区教委がいくら「施策化している」と胸を張ったところで、何ら実効がともなっているとはいえません。

学務課長 (夜間中学は)ストレートにいえば、法令上疑義がある。

――1981年10月7日、文部省中学校教育課の横田課長補佐(当時)は、この問題に関して次のようにコメントしています。
「夜間中学は中学校の教育に位置づけられている。学校教育法施行令の二部授業の項によっている。夜間中学は違法ではない」
明快です。ストレートに「違法ではない」といいきっています。
これに対して、江東区教委は、正反対の解釈をしています。どういうつもりなのでしょうか?
区教委は、一方で「義務教育制度というのは国の制度ですから、行政はそれをやっていくわけです」(教育次長)とも述べています。一方では国に責任を押しつけて、「下請け」的ないなおりをしつつ、他方では、公然と国の解釈に反旗をひるがえす。それが許されるのでしょうか。文部省もなめられたものです。それとも、これこそが小松崎区長のいう「地方自治権の拡大」なのでしょうか。

教育次長 (中曽根答弁にある)「夜間中学を評価する」というのが出てきているのは、私は、今ある学校について意義は評価するが、いってみれば“追認的”形であると思うんです。これから新しく作る学校については、ちょっと行政当局としては……。

――「私」の考えだから何をいってもいいとはいいますまい。それとも、あまりに強引な「こじつけ」をしなければならないので、あえて「私は」とことわったのでしょうか。
先の質問書は、まず「夜間中学校の存在意義、今まで果たしてきた役割について、国としてどう評価しているか」と問い、その答えが「役割は評価されなければならないと考えている」というもの。これまでのことを聞いているのだから、「追認的」であることはあたりまえなのです。さらに答弁書は続けて、「現実に義務教育を修了しておらず、しかも勉学の意思を有している者がいる以上、これらの者に対し何らかの学習の機会を提供することは必要なこと」であり、「当面、中学校夜間学級がこれらの者に対する教育の場として有する意義を無視することはできない」と、より具体的に意義を認めています。
また、「各都道府県あるいは主要都市に夜間中学の設置を行うことが望ましいのではないか」という質問に対しては、「(夜間中学は)市町村教育委員会が地域や学校の実態を勘案の上、その必要があると判断した場合に設置し、その周知をも図るものと考える」と述べています。どうこねくりまわしてみても、新しく作る学校を否定しているような解釈はできません。
付け加えるならば、答弁書では、教職員定数や教職員給与、建物建築費は法律に基づいて「国庫負担している」ことを述べ、その法律の具体的な名前もあげられています。もし夜間中学が「法令上疑義がある」ものならば、こんなことができるはずがありません。

まだまだ区教委発言の「おかしい」ところは指摘できますが、誌面の関係上、今回はこの程度にとどめておくことにします。
そして、これらをまとめていえることは、いかに江東区が夜間中学を作る気がないか、そのためには、あらゆるいいのがれ、デタラメをいっているか、ということだと思います。あるいは、教育次長や学務課長には判断能力がないため、苦しいウソもつきながら、必死になって追及が「上」にいかないように頑張っているのかもしれません。

「昼間の学校といっても、私たちは行けない。働かなくちゃ食べられないですから。どうしても江東区に夜間中学を作ってほしい。いくら待てばいいんでしょう」「ぜひ作ってください。よそができたのにこっちができないということはないでしょう」
交渉に同席した「生徒」の声に、区教委は何も答えられませんでした。答えられないところに区教委のせめてもの「良心」を読みとろうというのは、私たちのセンチメンタリズムでしょうか。しかし、行政は甘えることなく自らの責任を果たさなくてはなりません。


自主夜間中学の風景 番外編
生きるということ(下)最終回

大田康弘

5 自らをみつめ直すなかで―決意表明―

崔さんの、人を憎しみ恨むのではなく、そうならざるをえない状況をつかみ、李さんの「とってもいい人なんですよ」と、逆に自分の宝物にしてしまうふところの深さに心をゆさぶられた。
そんな出会いの中で、田舎で病気で寝ていることが多い父と、ひとりで農作業を続ける母のことを考える時、これからどうやっていけばいいのかを迷い、悩んだ時期があった。そういうことをまずハルモニたちの前で話していかなければ、これまで自分が学んできたことが形だけのものになるのではないかという指摘を受け、「息子よ」という詩を使って授業をしたことがあった。

「お前が生まれた時 父さん母さんたちは どんなに喜んだ事だろう 私たちだけを頼りにしている 寝顔のいじらしさ ひと晩中 母さんはミルクを あたためたものさ 昼間は父さんが あきもせず あやしてた
お前は大きくなり 自由がほしいと言う 私たちはとまどうばかり 日に日に気むずかしく 変ってゆくお前は 話を聞いてもくれない 親の心配見むきもせず お前は出てゆく あの時のお前を 止めることは 誰にも出来なかった
息子よ お前は今 悪の道へ走り 荒んだ暮しをしていると聞いた 息子よお前に何があったのだろうか 母さんは ただ泣いている きっとお前の目にも 涙があふれているだろう きっとお前も今では 後悔をしているだろう」

2度、3度とくりかえし読む中で、玉英さんは声をつまらせ、遠くを見つめるように字面を追っていた。「これ、お兄ちゃんが書いたの。そうお兄ちゃんもこうだったの。実はね、私の息子が39歳になるんだけれど……」と、言ったきり、言葉にならなかった。そんな姿にせき立てられるように語りはじめた。

年をとっていたせいもあると思うのですが、ぼくの祖父も「あいうえお」ぐらいしか読み書きできませんでした。新聞やテレビをみていると、「あの字はなんという」「どういうことを言っているのか」とよく聞いてきましたが、そのことがうっとおしくてしかたがなかった時もありました。「字を読むことができないのは、勉強しなかったからだ」。そんなふうにしか祖父の姿をとらえることができませんでした。若い時から郵便配達をしながら、田畑を買い、農業だけでも食べていかれるようにしてきたことや、とにもかくにも家の生計をたてるために学校どころではなかったと言っていたことを思い出します。「百姓には、頭はいらない」という一方で、子どもたちの教育には厳しかったと聞きます。
小学校6年生の頃、百姓をしていた父は、山で足をケガした体に無理をしたため、両方のヒザが「く」に字をなしたまま伸ばすことも曲げることもできない病気にかかりました。どの病院に行っても、その原因・治療方法がわからず、結局中度の身体障害者として家で療養していました。足の痛みと働くことが思うようにできなくなったふがいさからか、よく家族に当たり散らしていました。そんな父の姿を、短気者というふうにしかみていませんでした。

そんな中で忘れられないことがあります。町に1軒か2軒ぐらいしかないパチンコ屋に松葉杖をついて出かける父の姿を目にしました。自分はのうのうと高校に行きながらも、そんな父がだらしなくてしようがありませんでした。松葉杖をついてかろうじて体を支えている父に向かって、あらゆる限りの罵声を浴びせ、今にも殴りかかろうとする自分がありました。
止めに入った母が、「とうちゃんは、おまえがおもちょよな人じゃちごど」と言った言葉が、崔さんや李さんの言葉と重なってよみがえってきました。ハルモニたちはよく言いますね。「自分たちは、字が書けなくて苦労した。だから子どもにだけはそういう思いをさせたくない」と。
大学の受験に失敗したものの、大学に行くことを強くすすめたのは、ほかならぬ父でした。家を継ぐため高校を途中でやめ、自分の体がボロボロになるまで働いた経験から、苦労をさせたくないということだったのかもしれません。

家を出て下宿して予備校に通う生活の中で、辛いことがありました。それは、毎月送金されてくるお金を銀行に引き出しに行くことでした。足を引きずりながら仕事をしている父や年老いた祖父の働いたお金で、かろうじて生かされているというなさけなさとふがいなさでいっぱいでした。大学にはいるまでは、なんとかやってもらおう。でもその後は自分の力でやっていきたいと考えた時に、新聞配達をしながら夜の大学に通う今の生活を知りました。

まだ夜が明けないころ、多くの種類と大部数の新聞を短時間で配達していく。夕刊の時も人混みの中を抜けるようにしていく。そういった、ある意味で単純で肉体を酷使する仕事を続けていると、自然に心が閉ざされていきます。何を考えるのもいやになってきます。新聞屋という一種のさげすまされた偏見を感じ、自分がみじめにみえてきます。集金に行った時などよく感じるのです。
そんな時、父や祖父の働いている姿をいつも思い出し、「こんちくしょう」と気を持ち直してがんばれるのです。ぼくは、ハルモニたちからそういったがんばれる、踏んばれる基を学んだような気がします。

ハルモニたちは、私らことばがうまくできないけれどもと前置きしながら、口々に、がんばってしっかりやりなさいよと励ましてくれた。

6 魂をゆさぶるもの

ハルモニたちの前に、ぼくらは自らを語ったり、朝鮮の歴史なり文化、水俣、部落、筑豊、戦争などの問題を教材として差し出してきた。共に考える中で認識を新手にしたいという思いがあった。
「もう、昔のことやそういったことはいいから、字だけ教えてくれればいい」
ある時、ハルモニのひとりがもらした言葉である。ハルモニたちの魂をゆさぶるどころか、ぼくらの側の認識や思想がいかに自分のものになっていないのかを、ハルモニたちは見抜いているのかもしれない。見すかされている。そんな思いがする時だ。自分の生活・体験をとおして語ってほしいとするハルモニたちの批判であり、要求であると考えている。


各地の動き

埼玉・作る会が1周年

9月23日、川口市民会館で、「埼玉に夜間中学を作る会発足1周年集会」が行われました。江東・作る会からも代表が3人参加しましたが、ぜんぶで100人をこえる盛況ぶりでした。
川口で行われている自主夜間中学を紹介したスライドの上映、子ども電話相談室でおなじみの塚原雄太さんの講演のあと、参加者の発言が相次ぎ、自主夜間中学のすばらしさ、この自主のよさを行政に伝えることの重要性などが訴えられました。
県議会、市議会議員(この日、合わせて4人が参加)の支援もさらに大きくなったようですし、「生徒」「スタッフ」一体となった運動は、確実に地域に根づき、広がりもまた大きくなったようです。

法政自主夜中1周年集会

9月27日、法政自主夜間中学の1周年記念集会が、法政大学で開かれました。土曜日の午後ということもあり、ひょっとするとこぢんまりとした集会かなと思っていたら、なんと100人近い人が集まり大盛況。
経過報告では、学生らしく(?)OHPを使っての“研究発表”も。また、江東をはじめ松戸、埼玉などの代表が登壇してのシンポジウムも、これまでの集会には見られないものでした。
「不なれなもので、いたらないところもいっぱいです。途中で“閉校しようか”と思ったことも」と、若いスタッフ。
でも、夜間中学が必要な人はたすさんいるんだから、がんばらなくちゃね!