高良大社 福岡県久留米市御井町 式内社(筑後国三井郡 高良玉垂命神社〈名神大〉)
筑後国一宮
旧・国幣大社
現在の祭神
高良大社中殿高良玉垂命
左殿八幡大神
右殿住吉大神
末社・日吉神社(末社・真根子神社に合祀)大山咋命
本地
高良三所高良大菩薩龍樹菩薩大勢至菩薩十一面観音
八幡大菩薩大日如来釈迦如来阿弥陀如来
住吉大明神高貴徳王菩薩阿弥陀如来釈迦如来
善神王胎蔵大日如来・金剛界大日如来
留守殿(留主殿)善称名吉祥王如来・宝月智厳光音自在王如来・金色宝光妙行成就如来・無憂最勝吉祥如来・法海雷音如来・法海勝慧遊戯神通如来・薬師瑠璃光如来
愛宕権現地蔵菩薩
山王権現釈迦如来・薬師如来・阿弥陀如来・十一面観音・地蔵菩薩・千手観音・普賢菩薩
天満天神観世音菩薩
高牟礼権現地蔵菩薩
坂本大明神不動明王・毘沙門天
九躰王子弥勒菩薩・普賢菩薩・薬師如来・文殊菩薩・釈迦如来・観世音菩薩・阿弥陀如来・地蔵菩薩・大日如来
下宮虚空蔵菩薩
朝妻十一面観音阿弥陀如来七仏薬師

「東大寺八幡験記」

筑後国高良宮御本地。
左宮。宇佐八幡。大日如来。児宮と申。
中宮。高良玉垂。龍樹菩薩。
右宮。住吉大明神。高貴徳王菩薩は、大経対告主光明遍照高貴徳王菩薩也。

「八幡宇佐宮御託宣集」巻二
三国(月支震旦日本)御修行の部

・高良宮三所─┐
 ┌─────┘
 │称徳天皇元年、天平神護元年乙未に造営す。
 ├─左八幡(縁起に云く。本地は大日如来なりと云々。)
 ├─中高良(同記に云く。玉垂将軍右丞相は大菩薩の御乳子なりと云々。本地は龍樹菩薩と云々。)
 └─右住吉

「太宰管内志」筑後之三
(御井郡上)

高良玉垂命神社[LINK]

〔延喜式〕に筑後国三井郡高良玉垂命神社(名神大)あり、
[中略]
〔諸神根元抄下巻〕に筑後国高良社社解云中殿高良・左八幡大日・右住吉、 龍樹菩薩、 天武天皇二年二月八日高良託宣云誉田天皇御宇為晨昏武略之健将、
[中略]
〔諸神根元抄中巻〕に云云、 高良玉垂命以干満両珠令奉行之故奉号玉垂、 住吉明神之化身、 又云玉垂将軍は右相丞大菩薩の御子也、 本地龍樹菩薩云云、
[中略]
〔縁起異本〕に左宮宇佐八幡大菩薩(本地阿弥陀)、 中宮玉垂大菩薩(本地得大勢至菩薩、異説十一面)、 右宮住吉大明神(本地釈迦、私曰当社者住吉高貴徳王三良御子也)
[中略]
〔高良山諸堂記〕に本地堂(高良・八幡・住吉三神之本地十一面観音・阿弥陀如来・釈迦如来安置之)、 大日堂(本尊座像長二尺二寸五分、此堂上古は三重の多宝塔也)、 鐘楼(旧鐘少面不当用故当□長崎貨中寄進之)、 常行堂(本尊阿弥陀如来)、 北院(本尊薬師如来)、 辻堂(本尊十一面、又号今長谷)、 千手堂(本尊千手観音)、 医王院(本尊薬師如来)、 百塔薬師堂(本尊薬師)、 北谷薬師堂(本尊薬師)、 算所観音堂(本尊観音)、 毘沙門堂(有本尊)、 高隆寺の鐘楼(旧鐘損故白口村の長寄進之)、 宝蔵寺(本尊観音)、 右十四箇堂舎或損或少僅残其容

西田長男「高良大社縁起の基礎的研究(―)」[LINK]

 本書(高良玉垂宮縁起甲本)は次の如き三種の記文より成っている。
  (イ) 高良玉垂宮縁起
  (ロ) 大菩薩御託宣状
  (ハ) 高良玉垂宮本地垂迹
[中略]
 宮寺縁事抄、第十一に、次のようにある。
延喜神名云、筑後国四座〈大二座 小一座〉
三井郡三社〈大二座 小一座〉
高良玉垂命神社〈名神大〉
筑後高良宮神々本地
左宮 宇佐八幡 大日如来、申児宮
中宮 高良玉垂 龍樹菩薩
右宮 住吉大明神 高貴徳王菩薩
而してこれに押紙していう、「今案、御本地事、於筑後国者、専用龍樹、於石清水者、殊為勢至歟、但本末両社両尊兼備事、又可為勿論歟、御坐山城国久世郡科手上里十四坪〈図師資景説〉、社南向」と。 これは、石清水八幡宮の末社上高良・下高良両社の縁起乃至は由緒を記すに際し、延いてその本祠たる筑後の高良大社のそれに説き及ぼしたもので、筑後国の本祠においてはその主神高良玉垂命の本地を専ら龍樹菩薩としているのに対し、石清水の分祠にあってはことに勢至菩薩としているけれど、これらの両尊は「本末両社」、即ち高良大社においても石清水の上下高良社にあっても兼備すべきことは勿論であると述べているのである。
[中略]
 ところで、この石清水の両高良社における勢至本地説は、やがて本祠たる筑後国の高良大社にあっても用いられるに至った。 室町時代の末期、大祝家によって述作された高良記に参稽するに、「御内絵ノ次第之事」の條に次のようにみえる。
一、住吉ノトヒラノ内ニハ、釈迦ヲカクナリ、トヒラノ面ニハ、松ニ鶴ヲ書テ、下ニ野スチヲカキ、カケフチノ神馬ヲ書ヘシ、(異筆挿入)「右ノトヒラニハ霊鷲山ノ躰書、」
一、八幡ノトヒラノ内ニハ、阿弥陀ヲ書ナリ、戸ヒラノ面ニハ、梅ニ鶯ヲ書テ、下ニアシケノ神馬ヲ書ヘシ、(異筆挿入)「右ノトヒラニハ、石シヤククウケシクウヲ書ヘシ、」
一、高良ノ戸ヒラノ内ニハ、勢至ヲ書ナリ、戸ヒラノ面ニハ、竹ニ虎ヲ、野スチヲ書テ、クリケブチノ神馬ヲ書ヘシ、(異筆挿入)「内の右トヒラニハ、十一面ヲ書ヘシ、」
[中略]
 即ち、これによるに、少なくとも室町時代末期においては、本社の本地仏が次のように考えられていたことは明らかである。
  左宮(一殿) 八幡 阿弥陀
  中宮(三殿) 高良 勢至、或いは十一面、
  右宮(二殿) 住吉 釈迦
 ここにおいては、今や、曩きの中宮高良龍樹本地説は既に姿を消し、代わって十一面観音本地説が現れて来ているのを知られるのである。 ただし、かの勢至本地説は、依然として勢力を有していたようである。 且つ左宮八幡神にはかつての大日本地説に代わる阿弥陀本地説が、右宮住吉神には同様に高貴徳王本地説に代わる釈迦本地説が、それぞれ現れてきているのに注意せられる。
[中略]
 さて、清原博士がよられた八幡宇佐宮御託宣集はどうかというに、その巻三(護の巻)、三国御修行部、所々造営次第事の條に、次のようにある。
六、高良宮三所─┐
┌───────┘
│    称徳天皇元年天平神護元年乙未造営、
├─左八幡 縁起云、本地大日如来云々、
├─中高良 同記云、玉垂将軍、右丞相、(八幡)大菩薩御乳子也云々、本地は龍樹菩薩云々、本宮下十町許
└─右住吉
 この御託宣集(本文十六巻のほかに、序文及び跋文がある)は、周知のように、宇佐八幡宮の神宮寺弥勒寺の学頭法印神吽によって、正応三年二月より正和二年八月までの前後二十三年間の年月を費やして編纂せられたものである。 随って、上の本地垂迹説が、少なくとも鎌倉時代末期には唱えられてものであることは、何等の疑問も存しないであろう。 即ち、曩きの宮寺縁事抄の記事と相俟って、鎌倉時代の初期から末期に及び全期間を通じて、中宮高良は龍樹菩薩を、左宮八幡は大日如来を本地と仰いでいたと思われるのである。 そうして、右宮住吉について、縁事抄にはその本地を高貴徳王菩薩としてるのに対して、御託宣集にはこれに対して別段に記すことろがないのである。
[中略]
 以上は、本社のとがわに伝えられるその本迹説についてすこしく考えてみたものであるが、然らば本社自体においては如何。
 先ず挙げるべきは、本書に収めた(イ)の高良玉垂宮縁起の末尾に当たり、
高隆寺、皇后異類征伐之御願寺、依四十代天停(イ渟)名原瀛真人命(イ尊)即位二年癸酉御託宣、弥勒寺・先三昧堂・新三昧堂・宝塔院・正覚寺・観音寺・薬師寺・勢至堂〈本地院(イ堂)〉建立之、法躰聖人護持仏法、大聖乙天給仕聖人、迎天竺無熱池之水、流山東南、
とみえる一文であろう。 ここに高隆寺とは、本社の神宮寺・供僧坊で、山号を高良山、寺号を地名(郡名)によって御井寺(三井寺とも)、法名をかく高隆寺と称した。 或いは山号をそのままにとって高良山寺とも呼んだ。 而してこの寺は、もと、神功皇后の「異類征伐(新羅征伐)之御願寺」として創建せられたのに権輿するが、第四十代天武天皇の即位二年癸酉に当たって発せられた高良大明神の託宣に基づき、さらに寺内に弥勒寺以下の諸寺・諸堂とともに、本地院(イ堂)たる勢至堂をも建立することになったというのである。 もとより、これは、いわゆる起源説話の一つに過ぎず、信憑性の甚だ薄いものである。 けれども、少なくともこの(イ)の高良玉垂宮縁起の述作された頃おいには、勢至菩薩を本社の祭神高良玉垂命の本地として安置する本地堂が高隆寺中に建立されていたことだけは、これを毫も疑い得ないのである。
[中略]
 さて、ここに注意すべきは、上に詳しく注記するところにあった社蔵の高良山山内縁起(これをいわゆる社寺曼荼羅の遺品の一つとして数えることもできよう)によるに、御井寺の本堂に向って左手・前方に当たり、「勢至堂」と標する、四間三面の入母屋造の堂が窺われるほか、現在の万治造営の権現造の社殿と些かその結構を異にする本殿(本殿と拝殿の間に繋ぎの廊―釣殿―があり、前面の楼門の左右に善神王が安置せられ、また、四面に廻廊を繞らしているが、これらは今は存していない)の向って右手・後方に当たり、「本地堂」と標する、方三間に廻掾を附した宝形造の堂が見えていることである。 [中略] 鎌倉時代のいつかに、山内には勢至堂(これも本地堂の一つであったことは、前記(イ)の高良玉垂宮縁起の記事によって疑いを入れないであろう)と本地堂との二つの本地仏を安置する堂宇が建立されていたのを知られるのである。
 これらの二つの本地堂のうち、勢至堂が、承安元年五月、建春門院によって感得せられた、かの石清水下高良社の本地説を受けて建立されたものであろうことは、ここに縷説するまでもなかろう。 恐らくは本社の本地説としては大勢至菩薩を以て当てるのがいちばん古く、随ってこの勢至堂のほうが一方の本地堂よりも早く建立せられたものであろうと思われるのである。 ところで、本社においては、やがて、龍樹本地説が唱えられるようになり、従来の本地堂たる勢至堂のほかに、新たに龍樹菩薩を本尊とする別の本地堂をも本殿の背後に建立するに至ったと考えられるのである。
[中略]
 さて、次に掲げるは、寛文十年十二月十七日、第五十世座寂源が藩の寺社奉行稲次八兵衛正次に提出した高良山開基と標する一冊に記すところで、長文ではあるが、是非ともここに引文する必要があろう。 [中略] 即ち、ここに援引する一文は、こうした寂源の努力による成果の蹟を如実に記したものにほかならない。
 筑後国三井郡高良山神社仏閣等之覚
  高良玉垂宮
宝殿〈東西八尺間三間、南北八尺間三間弐尺、但シ三方高欄、四方縁在リ、正面ノ唐戸脇ニ善神王二躰、獅子・駒二疋在リ、〉
[中略]
 此宝殿之中ニ高良・八幡・住吉ノ三神鎮座也、中高良・左八幡・右住吉、
  高良三社本地垂迹之覚
高良大明神 本地勢至菩薩、或ハ十一面観音云云、
 (中略)
八幡大菩薩 本地阿弥陀如来、神躰応神天皇、
住吉大明神 本地釈迦牟尼仏、
  神躰底筒男・中筒男・表筒男・神功皇后、右号住吉四所明神
[中略]
  玉垂宮末社之覚
留主殿 本地七仏薬師、社三尺五寸四方、板葺、神躰未考、
 発八大願无勝世界善名吉祥王如来
 発八大願妙法世界宝円智厳光音自在王如来
 発四大願円満香積世界金色宝光妙行成就如来
 発四大願无憂世界最勝吉祥如来
 発四大願法幡世界法海雷音王如来
 発四大願善住法界世界法海勝恵遊化神通如来
 発十二願浄瑠璃世界薬師瑠璃光如来
五社八幡 五社一殿内ニ摂ス、社三尺五寸四方、板葺、
 筑前大分宮・肥前千栗宮・肥後藤崎宮・薩摩新田宮・大隅正宮
風浪権現 社三尺五寸四方、板葺、
山王権現 七社ノ本地一殿ノ内摂ス、社三尺五寸四方、板葺、
 大宮 本地釈迦如来、神躰大物主神、
 二宮 本地薬師如来、神躰国常立尊、
 聖真子 本地阿弥陀、神躰八幡宮、
 八王子 本地十一面観音、神躰国狭槌尊、
 客人 本地地蔵菩薩、菊理姫、
 十禅子 本地千手観音、宇賀姫、
 三宮 本地普賢菩薩、神躰豊斟渟、
天満天神 社三尺五寸四方、板葺、
 本地観世音菩薩、神躰菅丞相、
坂本大明神 二社、三尺三寸四方、板葺、
 右二社ノ内、南ノ一社ハ、本地不動、神躰手摩乳、北ノ一社ハ、本地毘沙門、神躰足摩乳、
高牟礼権現 一丈二尺ニ八尺ノ藁葺、
 本地地蔵菩薩、当山之地主権現、
伊勢社 三尺四方ノ板葺、
 宝殿ノ四方ニ瑞籬在リ、鳥居両楹ノ間六尺、地ヨリ笠木マテ九尺三寸、前来ノ社大破候故、去年(寛文九年)十二月廿三日建立仕候、
祇園社 八尺・一丈二尺ノ藁葺、
 神躰素盞烏尊、或云牛頭天王、或云武答天神、
朝妻大明神 七社、三間四方ノ藁葺、
 寛文九〈己酉〉年八月廿五日ノ為御幸仮屋起之、第一神功皇后・第二国長明神・第三古父・第四古母・第五妙見・第六乙宮・第七西宮、
 右朝妻ノ七社、当社縁起雖在之、文禄年中破壊シテ、当時一社モ無之、御幸ノ仮屋計在之、
若宮 二三ヶ年以前迄雖在之、当時破壊して其趾計在之、
愛宕権現 社屋三間四面、外三間ニ二間半ノ庇在リ、瓦葺、
 本地地蔵菩薩、或ハ伊弉冊尊云云、垂迹ハ将軍地蔵也、
[中略]
下宮 行幸ノ仮屋、二間三間ノ葺(萱カ)葺、
 右下宮ハ、当山ノ麓府中村ニ在之、本地・垂迹トモニ高良玉垂宮也、従往古当社之行幸場ニテ候、只今社領ノ外ニ候故、非支配候、行幸仮屋、寛文九〈己酉〉年九月五日起立之、
王子 九躰ノ本地一殿之内ニ摂ス、
 一王子相光天王 弥勒菩薩
 二王子摩醯首羅天 普賢菩薩
 三王子倶摩羅天 薬師如来
 四王子得脱神王 文殊菩薩
 五王子良士天王 釈迦如来
 六王子達尼竭天 観音薩埵
 七王子甚染天王 弥陀如来
 八王子宅主神 地蔵菩薩
 九王子天宝珠不可得天 大日如来
 右九躰王子ノ社ハ、当山麓阿支岐ト云村在之、当社末社ノ随一、縁起ニモ在之、其外王子ノ神躰当社ノ内陳ニ在之候ヲ、彼社建立ノ時、神躰・歌仙モ当寺ヨリ派遣候、雖然当時神領ノ外候故、支配不仕候、
本躰所 一間四方、藁葺、
 右本地・垂迹高良大明神也、大祝在屋布中、
印鑰大明神 拝殿二間ニ三間、二殿トモニ藁葺(これに誤脱あるカ)、
 右本地・垂迹高良大明神也、大宮司在屋布中、
 右末社合廿三社、此内朝妻七社・若宮一社令破壊畢、現起立分十三社、何降臨鎮座之来歴未委考候、
[後略]
 以上は神社について述べたもので、万治造営以後の復興の姿を示しているのであるが、さきに掲げた大縁起に記すところと比較するに、さほど変化が生じていないのに注意せられる。 [中略] ただ、この万治の造営に当たっては、楼門と廻廊とが再建されず、そのままに今日に及んでいるのである。 また、高良神の配偶神である、延喜式神名帳にいう「豊比咩神社」も、再建せられなかったが、その後、元禄年中に至り、やはり、寂源によって復興せられるところあった。 寛政元年十月に第五十五世座主僧正伝雄が著した高良玉垂宮略縁起、板本一冊には、本殿の背後に当たって、留主殿・真根子・風浪宮・八幡・山王の諸末社とともに豊姫社が図絵せられている。 それが寂源によって復興せられたものにほかならない。 寂源は、風浪権現・天満天神・祇園社・愛宕権現などの諸末社も新たに創建したのである。
  当山堂塔之覚
本地堂 三間四面、板葺、
 此堂内ニ十一面観音・阿弥陀如来・釈迦如来安置、
 右ノ三尊、併高良・八幡・住吉ノ本地也、右ノ本地堂ハ、寛永十八〈辛己〉年九月吉日、春林院殿尊儀(第一代豊氏)、前々ヨリノ高良ノ宝殿大破故、御建立ニテ候、万治年中、右如書記、瓊林院殿尊儀、当社宝殿・拝殿等結構ニ御造営被遊候故、古宝殿ヲ本地堂ニ仕置候、
[後略]
 この「当山堂塔之覚」の條には、まず第一に「本地堂」を掲げ、その三間四面・板葺の堂内には、本社の中宮高良の本地十一面観音、左宮八幡の本地阿弥陀、右宮住吉の本地釈迦が安置せられているが、それは、寛永十八年九月、久留米有馬藩の第一代豊氏が再見したもので、のち万治二年、第二代の忠頼が本社を改築するに当たって、古宝殿をあらためてこれに宛用するに至ったむねを述べている。 即ち、かく「本地堂」をまず第一に掲げているのは、御井寺なるものが、本社の本地仏の信仰を基礎として成立したものあるのを何よりも雄弁に語っていよう。 そうしてこの「本地堂」が、「右ノ本地堂ハ、…春林院殿尊儀、前々ヨリノ高良ノ宝殿大破故、御建立ニテ候」ともあるように、かの大縁起にみえる、本殿の背後なる「本地堂」の後身であろうことは、もう一つの本地堂の「勢至堂」が破却・退転の寺院・堂塔の中に数えられていることからしても、想察に難くないであろう。 然るに、この「本地堂」は、上にも述べたように、中宮高良の本地としての龍樹を本尊として安置するところであったと思われるにもかかわらず、そこには十一面観音が阿弥陀・釈迦の二尊とともに安置せられているのである。 つまり、時代の移り行きとともに、その本地は龍樹より十一面に変わり、いつしか龍樹は除かれて、かく十一面が安置せられるに至ったものと思われる。 また、かつては左宮八幡の本地は大日であり、右宮住吉のそれは高貴徳王であったのが、このように阿弥陀や釈迦に変えられるに至ったものと思われるのである。 尤も、「高良三社本地垂迹之覚」の條には、「高良大明神 本地勢至菩薩、或ハ十一面観音云云」とあって、中宮高良の本地としては、ほかに勢至も挙げているが、この承安元年五月における建春門院の感得にかかる本地を安置する由緒の古い勢至堂も、今や破却・退転して既に存在しないのである。
[中略]
 ところで、この本地説は、また、主としてここに解説しつつある縁起の(ハ)の高良玉垂宮本地垂迹に基づいて少こしく増補・訂正を試みたものであることは、著しいように思われる。 即ち、次のようにいう、
 高良玉垂宮本地垂迹
左宮 一殿 八幡大菩薩 本地釈迦牟尼仏
中宮 三殿 玉垂宮大菩薩 御本地得大勢至菩薩、或説、十一面云云
右宮 二殿 住吉大明神 本地阿弥(陀脱カ)如来、或虚空蔵菩薩
 留守七所宮 本地七仏薬師
 善神王 左右 両部大日如来
 両坂本 左右 本地不動・毘沙門

 九躰王子座位之事
南間 第五王子良士天王 釈迦如来〈除一切障碍〉
第四王子得脱神王子 文殊〈除妻子眷属産褥等〉
第六王子達尼竭天王 観音〈除疾疫等、牛馬諸難〉
中間 第二王子摩醯首羅天王 普賢菩薩〈除一切災難〉
第一王子相光天 弥勒菩薩〈御願勝千万人〉
第三王子倶摩羅天 薬師〈除一切病悩・毒気〉
西間 第八王子宅主神 地蔵菩薩〈除一切横難・横死〉
第七王子甚深天王 阿弥陀〈除腹病等難〉
第九王子宝珠不可得天王 大日〈助護今世・後世〉

 下宮者、高良俗躰
 朝妻 神功皇后、十一面、或阿弥陀如来
 高牟礼 当山地主神、本地地蔵菩薩
と。 [中略] 而して縁起に、「左宮 一殿 八幡大菩薩 本地釈迦牟尼仏」「右宮 二殿 住吉大明神 本地阿弥陀如来、或虚空蔵菩薩」とあるのに対し、「八幡大菩薩 本地阿弥陀如来」「住吉大明神 本地釈迦牟尼仏」としているのは、既に掲げた高良記の所説も同様であることからするに、少なくとも室町時代末期頃からはそう伝えられており、かつ、また、殿内の実際の状況もそうであったために、かく左右の本地を逆に記したものであろう。 とともに、右宮住吉の本地を虚空蔵とする或る説の如きも、同じく当時の殿内の状況としては、それを安置していなかったので、これを取り除いてしまったものであろう。 そうして、縁起に「善神王 左右 両部大日如来」とあるのも亦、当時は楼門は退転したままに再興されず、随ってこれらの二王も現存しなかったため、掲げなかったのであろう。 もちろん、この縁起のほかにも参稽した資料はあったわけで、たとえば、縁起に「朝妻 神功皇后、十一面、或阿弥陀如来」とある本地の記事を省略し、新たに「朝妻大明神 七社、……第一神功皇后・第二国長明神・第三古父・第四古母・第五妙見・第六乙宮・第七西宮」などと記している如きは、そのことを推測せしめるであろう。
 然らば、縁起に収められている、上の「高良玉垂宮本地垂迹」なる一條は、いつ頃の成立にかかるものなのであろう。 それについては、次の如き高良記、「カヰサウ(改造)ノ次第之事」の一齣が参考になろう。
一、左宮、宇佐八満(マヽ)大菩薩、
一、中宮、玉垂大菩薩、
一、右宮、住吉大明神、
一、善神王、左、本地或ハ両部大日、右本地或ハ不動・毘沙門、
一、坂本、左、本地不動尊、右、本地毘沙門天、
一、留守七社、本地七仏ノ薬師ナリ、
一、朝妻七社之事、神功皇后・国長神・古父・古母・乙宮・両妙見、本地七仏ノ薬師ナリ、
一、阿志岐九躰ノ王子之事、同真言ヒミツナリ、
 第一、弥勒、サ光天皇、千万人ニカ(勝)ツ、
 第二、普賢、南無マ皇天皇、一日ノナン(難)ヲノカ(脱)ル、
 第三、薬師、クマル天皇、一サイ(切)作物、ムシクイ(虫食)ノカル、
 第四、文殊、南無トクタツ天皇、セウルイ(生類)・ケンソク(眷属)、ナンサン(難産)ノカル、
 第五、釈迦、南無ラシ天皇、ハンシ(万事カ)ノナンヲノカル、
 第六、観世音、タツヽカツ天皇、丑午(牛馬)ヘキレイ(疫癘カ)ノナンヲノカル、
 第七、阿弥陀、南無シンシサウ天皇、フクヒヤウ(腹病)ノナンヲノカル、
 第八、地蔵、南無タクシャウシン天皇、ワウナン(横難)ヲノカル、
 第九、大日、南無一天ホウシユフカトク、コンシヤウ(今生)・コシヤウ(後生)ノタスケ(助)□□□□也、
一、九州五社之次第、
 阿蘇十二宮、क{ka}本地十一面、
 宝満大菩薩、क{ka}本地十一面、
 天満大自在天神、क{ka}本地十一面、
 志賀大明神、मं{maṃ}本地文殊、
 河上大明神、क{ka}本地十一面、
  九州七社ト申ハ、九州五社ニ大善大菩薩・千栗八満(マヽ)大菩薩ヲアイソヱ申、九州七社トハ申ナリ、
一、下宮、本地虚空蔵菩薩ナリ、下宮三所ノ時、住八満(マヽ)下宮、
一、高礼(牟脱カ)、本地地蔵菩薩ナリ、
 なお、これには本殿の中・左・右三祭神の本地について記していないが、他のところに中宮高良は勢至或いは十一面、左宮八幡は阿弥陀、右宮住吉は釈迦であるむねを述べていることは、既に上に引文したとおりである。

天本孝志「九州の山と伝説」

耳納連山

高良の神は、仏教伝来ののちさらに複雑になる。 いわゆる神仏混淆によって権現の名で呼ばれるようになった。 高良の神、つまり祭神の景行天皇は、仏尊の仮りの姿だというのである(本地垂迹説)。 長保五(1003)年癸卯三月一五日に、筑後大介菅野敦頼が撰記した「高良山十講会縁起」によれば、 「当国に霊山有り、高良と申す。高良の名を以って山名と称す。山に権現有り。これ古仏の垂迹かな」 とある。
[中略]
文永、弘安の元寇の役のあと、 高良社の神人たちは、八幡信仰(神功皇后)の広がるなかで京都の石清水八幡宮の社僧に資料を提出して、 「八幡愚童訓」を編纂させ、高良社においては、前述した「高良玉垂宮縁起」を自ら編している。 この「縁起」は神功皇后が征新羅勝利を筑前四王寺の峰の榊に、金鈴をかけて、七日七夜の間祈願し、 九月一三日になって、明星天子(住吉神)と月天子(高良神)が示顕した。 高良神の月天子は、武内宿禰の請で「藤大臣」と称し参戦、筑前の八女神のうち豊姫を竜宮に遣わせて借りた干珠・満珠をもってついに新羅王を降伏させた、 というのがその内容で、これが玉垂命という神名になったようである。 また「同縁起異本」という別書に、はじめて高良権現の本地仏が明らかにされる。 いわく中殿宮玉垂神を玉垂大菩薩とし、本地を大勢至菩薩または異説に十一面観音とあり、 左殿宮は宇佐八幡大菩薩として、本地を阿弥陀如来、右殿宮の住吉大明神を本地釈迦如来としている。

「中世諸国一宮制の基礎的研究」

筑後国

Ⅰ 一宮

1 高良玉垂命神社(高良社・高良宮)。 中世には高良大明神・高良玉垂三所大菩薩・高良大菩薩などとも称す。
5 武内宿禰高良玉垂命(その内容は現在取られている武内宿禰説の外諸説あり)、のち八幡大神・住吉大神を合祀。
本地仏左宮八幡=釈迦。 中宮高良=勢至または十一面観音、右宮住吉=阿弥陀または虚空蔵。
6 神宮寺は高隆寺。 高良山々腹にあり、『宮寺縁事抄』から天平勝宝6年(754)の創建と推定される。