『神道集』の神々

第四 鳥居事

そもそも鳥居とは、経文にも説かれず、伝録にも記されず、因縁は判らない。
名を鳥居と云うのは、西方(十二支では酉)は妙観察智に当たり、証菩提心の意味である。
鳥居には二柱と三木がある。 二柱は定恵不二・悲智因果・両界の功徳で、胎金両部の所変である。 第二に二王二天の意味で、魔界を退け、災難を払い、息災延命にして、仏道に進む門戸である。 三木とは、笠木・貫木・嶋木である。 これは戒・定・恵の三木と云い、三身相即、三諦即是の法門、三徳秘蔵の法門である。 その二種を合わせると五木になる。 これは則ち五大、五行、五智、五仏、五分法身、五波羅密である。 顕密二教、世間出世間の万法は、すべてこの五法から為る。

聖徳太子が天王寺を建てたのは、推古天皇の定居三年である。 極楽東門の中心に当たり、額が鳥居に打たれてる。 即ち、極楽往生の東門である。 他力の門戸に鳥居を立てる事は、太子は救世観音であるので、定めて思し召しが有るのだろう。
また、役行者は熊野に発心門という鳥居を立てた。 大峯には等覚門・妙覚門が有る。 しからば発心門は十住の初めであり、妙覚門は第四十二位の断惑証理の因縁、本意円極の門である。

鳥居は煩悩を断じ、一解脱の智恵の門に入る。 総じては、断惑証理の門である。 個別には、生死を出る門戸であり、また菩提に入る門戸である。 仏法は八万四千あり、即ち八万四千の塵労を出る門戸である。 暗冥を出る門戸であり、また三明に入る門戸である。 これらをまとめて鳥居は立てられる。
諸仏菩薩の和光垂跡の御本意は、一切衆生を引導して、大菩提を証する事である。 そして、一切の神明神道の社壇で立って見えるのは鳥居である。 諸国七道のどこでも、他の事は変わっても、社壇に鳥居を立てる事に変わりはない。

二王二天

参照: 「仏前二王神明鳥居獅子駒犬之事」二王

天王寺

荒陵山四天王寺[大阪府大阪市天王寺区四天王寺1丁目]
本尊は救世観音。
和宗総本山。

『日本書紀』巻第二十一の用明天皇二年[587]秋七月条[LINK]によると、蘇我馬子大臣は諸皇子・群臣と共に物部守屋大連を滅ぼそうとした。 軍兵は澁河(現・大阪府東大阪市布施)の物部守屋の家に至ったが、大連は稲城を築いて戦い、朴枝の間に登って矢を雨のように射たので、皇子・群臣の軍は三度退却した。 「是の時、厩戸皇子、束髪を額にして軍の後に随ひたまふ。自ら忖度りて曰く、将た敗らるゝ無からむや、願に非ずば成り難からん、乃ち自膠木を斬り取りて、疾く四天王の像を作りて頂髪に置きて、誓言を発てたまはく、今若し我をして敵に勝たしめば、必ず当に護世四天王の奉為に寺塔を起立てむ。蘇我馬子大臣又誓言を発つ、凡そ諸天王、大神王等。我を助け衛りて、利益を穫しめば、願わくは当さに諸天王と大神王の奉為に、寺塔を起立てて三宝を流通へむ。誓ひ巳りて、種々の兵を厳して進みて討伐す。爰に迹見首赤檮有り、大連を枝の下に射堕して、大連、并に其の子等を誅す」「乱平ぎて後、摂津国に四天王寺を造り、大連の奴半と宅とを分けて、大寺の奴、田荘と為す」とある。
また、同書・巻第二十二の推古天皇元年[593]条[LINK]には「是の歳、始めて四天王寺を難波の荒陵に造りたまふ」とある。

『摂津名所図会』巻之二[LINK]には、
「荒陵山四天王寺敬田院 東生郡にあり。宗旨八宗兼学、今時天台宗江府東叡山日光御門跡に属す。一名難波寺、又難波大寺、又御津寺法花園、又堀江寺、又荒陵寺ともいふ」「夫当山は上宮太子の御草創なり」
とある。
また、石華表[LINK]について
「西門の外にあり。もとは衡門として木にて造れるなり」「華表表題に日く、釈迦如来、転法輪所、当極楽土、東門中心の十六字は、寺説に云ふ、皇太子の真蹟と云ふ。或は日く、小野道風の筆なり。又云ふ、弘法大師なりとも云ふ」
と記す。

聖徳太子・救世観音

『聖徳太子伝暦』巻一[LINK]には、
「(欽明天皇)三十二年[572]、辛卯、春正月朔、甲子の夜、妃(聖徳太子の母、穴穂部間人皇女)の夢むらく、金色の僧の容儀太だ艶き有り。妃に対つて立て、之に謂つて曰く、「吾に救世の願有り、願はくは暫く后の腹に宿らん」と。妃問ひたまふ、「是れ誰とか為る」。僧の曰く、「我は救世の菩薩なり。家は西方に在り」」
「(敏達天皇)十二年[583]、癸卯、秋七月に、百済の賢者、韋北達人、日羅を率いて、我朝に召使、吉備海部羽島に随て来朝せり。〈中略〉日羅、地に跪いて、(聖徳太子に)掌を合せて白して曰さく、「敬礼救世観世音菩薩、伝灯東方粟散王、云々」、人聞くことを得ず。太子、容を修め、折磬して謝す」
とある。

『上宮太子御記』[LINK]には、
「松子伝云、大慈大悲本誓願、愍念有情如一子、是故方便従西方、誕生片州興正法、我身救世観世音、定恵契女大勢至、生育我身大悲母、西方教主弥陀尊、真如真実本一軆、一軆現三同一身」
とある。

役行者

参照: 「熊野権現事」役行者

発心門・等覚門・妙覚門

熊野では本宮と那智にそれぞれ発心門が有った。

本宮の発心門は発心門王子[和歌山県田辺市本宮町三越]の近くに設けられていた。
藤原宗忠『中右記』天仁二年[1109]十月二十五日条[LINK]には、
「過亥之鼻、次入発心門〈先於其前祓、是大鳥居也、参詣之人必入此門之中、遥見遣、心甚恐〉、次参王子奉幣」
とある。

『源平盛衰記』第四十巻の「維盛入道熊野詣」[LINK]には、
「発心門に着き給ふ。忉利の雲も遠からず。上品上生の鳥居額拝み給ては、流転生死の家を出て、即悟無生の室に入るとぞ思召す」
とある。

『紀伊続風土記』巻之八十五(牟婁郡第十七)[LINK]の三越村の条には、
「発心門鳥居 発心門廃跡 鳥居は〈柱間七尺〉発心門王子の南往還にあり、是今の発心門なり、夫より北に折るゝ事一町許に二王堂といふ地あり、是古の発心門の跡といひ伝ふ」
とある。

芝村勉『熊野古道』[LINK]では以下の様に述べている。
「草叢に「猪鼻王子」と彫り込んだ青石の碑が建っている。中右記には「亥之鼻を過ぎて」とあり、御幸記には「つぎは猪鼻」とのみ書いてあるが続風土記では「御幸記に見えたり、今社退転して碑を建つ」と記されている。〈中略〉やがて赤い鳥居が視界に入り「発心門王子跡」である。昔はここに聖域に入る四門(発心・修行・等覚・妙覚)の最初の門、発心門があり熊野詣の人びとは、この前で祓をしてからくぐったという。〈中略〉御幸記には「つぎに発心門、午時ばかり発心門に着き尼南無房宅に宿す、(中略)此王子の宝前、殊に信心を発す」とあるように、人びとはこの門をくぐることにより、聖域に入った思いを新たにし、熊野権現に間近いのを肌で知ってなお一層敬崇の念を深めたであろう」

那智の発心門は熊野那智大社[和歌山県東牟婁郡那智勝浦町]への参道である大門坂の下に設けられていた。
『中右記』天仁二年十月二十七日条[LINK]には、
「参浜王子〈此所前南海、地形勝絶〉、過那智鳥居政所、渡小川数度、参一野王子社、行十余町入那智発心門鳥居、登坂数十町入大門〈有二王〉」
とある。

『和歌山県史 原始・古代』[LINK]には、
「浜宮には那智山の鳥居がたっていたらしく、宗忠は「那智鳥居政所」を過ぎ、「小川」(那智川か)を何度か渡って一野(市野々)王子社を拝した。そこから行くこと十余町、「那智発心門鳥居」を入ると大門坂にかかり、坂を数十町登って大門(仁王ありと注記する)をくぐる」
とある。

吉野の発心門は金峯山寺[奈良県吉野郡吉野町]の「銅の鳥居」である。
『奈良県吉野郡史料』下巻[LINK]には、
「銅の鳥居は黒門より一丁ばかりの所にあり、高二丈五尺、周囲一丈一尺余、相伝ふ聖武天皇奈良東大寺大仏鋳造の余剰を以て造らせ給ふと、一説には醍醐帝の昌泰元年(紀元一五四九年)[898]建立せられしものなりと、額面の発心門の三大字は聖武帝の御宸筆とも後醍醐天皇御宸筆ともいひ伝ふ〈中略〉古へ金峯山寺四門の内修行門は金峯神社にあり、等覚・妙覚の二門は昔時大峯山にありしが今は額のみ蔵王堂の宝庫に納まれり」
とある。

『大和・紀伊 寺院神社大事典』には、
「一名発心門とも呼び、修験者四門の行の第一の行場である。修験者はここで行を行い「吉野なる銅の鳥居に手をかけて弥陀の浄土に入るぞうれしき」との秘歌を唱え、他界修行の途につく〈中略〉発心門に続いて、山上ヶ岳まで二十数キロの間に修行門(現吉野町金峯神社の鳥居)・等覚門(現天川村洞川のお亀石付近)・妙覚門(現天川村洞川の山上本堂下)が有り、四門の行が行われる」
とある。

『神道集』の「又役行者は熊野に発心門とて鳥居を立らる。又聞く、大峯に等覚門・妙覚門と云う事有り。しからば発心門は十住の初なり」について、和歌森太郎は『修験道史研究』[LINK]で「大峯入りの行程を修行者の心位向上の階梯に擬し、それは大峯は役行者の理想を継ぐものだとして出発点たる那智発心門の鳥居建立者に彼を戴き、行者を熊野にひき寄せるとともに、大峯は菩薩行の最高段階たる等覚門・妙覚門に位させられ、しかもその大峯には役行者三生の霊骨があるのであるから、ここに到達することによつて山臥は役行者に直接し得ると考へられたわけである」と述べている。