『神道集』の神々

第六 熊野権現事

役行者と婆羅門僧正は熊野権現の本地を信仰された。
縁起によると、甲寅の年に唐の霊山より王子信の旧跡が日本の鎮西豊前国の彦根大嶽に天下った。 その形は八角の水晶で、高さは三尺六寸であった。 その後、各所で長い年月を経た後、神武天皇四十三年壬寅に熊野権現として顕れた。 その後、本朝に仏法が渡来したが、まだ幽微であった。 それから三百余年を経て、四十余代の帝の御代、役行者と婆羅門僧正が参詣して本地を明らかにした。

十二所権現の内、三所権現の証誠権現は本地阿弥陀如来である。 両所権現の中御前は薬師如来、西御前は観音菩薩である。
五所王子の内、若一王子は十一面観音、禅師宮も十一面観音である。 聖宮は龍樹菩薩である。 児宮は如意輪観音である。 子守宮は請観音である。
四所明神の一万・十万は普賢菩薩・文殊菩薩である。 十五所は釈迦如来である。 飛行夜叉は不動尊。 米持権現は愛染王、または毘沙門天王とも云う。
以上を十二所権現という。
那智の滝本は飛瀧権現で、本地千手観音である。
道中には合計八十四所の王子宮が鎮座する。
新宮の神蔵は毘沙門天王、または愛染王とも云う。
雷電八大金剛童子は本地弥勒菩薩である。
阿須賀大行事は七仏薬師である。
金峯山の象王権現は三十八所である。 本地は未来の導師の弥勒菩薩である。 勝手・子守は不動明王・毘沙門天王である。
熊野権現は年籠を第一とする。
権現は天照大神の時の人で、国土に遍く示現されている。

中天竺の摩訶陀国に善財王という大王がいた。 大王の千人の后の内、源中将の娘の五衰殿の女御(別名は善法女御)は最も醜女だった。
女御は千手観音を深く信仰して、三十二相八十種好の姿となり、大王の寵愛を得てついに懐妊した。
残りの九百九十九人の后は女御を嫉妬し、占師を買収して「生まれてくる王子は八頭の鬼神で、大王を食い殺し、天下を滅ぼすだろう」と予言させた。 また、老女に鬼の扮装をさせて都で騒ぎを起こさせた。 その結果、大王も女御の処刑に同意せざるを得なくなった。
后たちの命を受けた六人の武士は、女御を鬼谷山の鬼持ヶ谷に連れ出した。 そして、王子を出産して乳を与えている女御の首を斬り落とした。 その夜、血の匂いを嗅ぎ付けてやって来た十二頭の虎が王子を守護し始めた。 王子の三年目の誕生日に母の髑髏は水となった。 虎たちは王子を養育し続け、王子は四歳になった。
三十里程離れた山奥の苑商山に喜見上人と云う聖がいた。 此の山に籠って修行し、昼夜に『法華経』を読誦し続けていた。 年齢は千七百歳になる。 上人が『法華経』薬王品を講じていた時、一匹の蜘蛛が「鬼持ヶ谷に善財王の王子が十二頭の虎に養われている。引き取って大王に奉りなさい」と糸で文字を書いた。 上人は王子を探し出して虎たちから引き取り、三年間養育した。
王子が七歳になった時、上人は王子を連れて内裏に参じた。 大王が上林苑に行幸していると、上人が虚空から降って来た。 大王は怪しみ畏れたが、王子が走り寄って大王の膝の上に座った。 上人は五衰殿の女御の最期の様子や、虎が王子を養育した事などを大王に申し上げた。
大王は「怖ろしい女たちを見たくない」と仰り、金の早車を召された。 そして、王子・上人と三人で車に乗り、五本の剣を取り出して「この剣が落ちた所に落ち着こう」と仰り、北に向かって投じた。 五本の剣は日本に飛来し、第一の剣は紀伊国牟婁郡の神蔵に留まった。 第二の剣は筑紫の彦根嶽、第三の剣は陸奥国の中宮山、第四の剣は淡路国の和、第五の剣は伯耆国の大山に留まった。 大王の車は剣に従って最初に彦根嶽に着いた。 そこから五ヶ所を転々として、最後に第一の剣に従って紀伊国の牟婁郡に留まった。
(熊野権現は)此の国に来てから七千年は顕現しなかった。

そもそも熊野権現と申し奉るのは、八尺の熊となって飛鳥野(和歌山県新宮市阿須賀)に現れたので「熊野」と云うのである。
牟婁郡の摩那期(和歌山県田辺市中辺路町真砂)に住む千代包という猟師が獲物を待っていると、八咫烏が現れた。 猟師は大きな猪に手傷を負わせて跡を追い、八咫烏に導かれて進んだ。 途中、大平野という場所で、烏の色が変わり金色に見えた。 後にある人が云うには、金烏は太陽であり、外典に「金烏は天上に遊ぶ」とあるのが即ち是れである。
曽那恵に着くと、そこには猪が倒れており、烏は何処かへ見えなくなった。 猟師は空に光り物を見つけて怪しみ、大鏑矢でその光り物を狙った。 光り物は三枚の鏡で、「我は天照大神の五代目の子孫で摩訶陀国の主である。王をはじめとして万民を守る神である。熊野三所として顕れたのは我が事である」と答えた。
猟師が弓矢を捨て、袖を合わせて非礼を詫びた。 木の下に三所の庵を造って「こちらにお移り下さい」と祈ると、三枚の鏡は庵に移った。 猟師は薯蕷を掘り、鹿肉を切って供物とした。 五月五日だったので、糧食の麦飯に薯蕷や菖蒲を添えて供えた。
千代包は山を出て宣旨を賜るために都に上った。 熊野権現も藤代から飛行夜叉を遣わして夢でお告げをしたので、帝も早く御宝殿を造るよう仰せられた。 三所の御宝殿が建立され、千代包はその宮の別当となった。 人皇第七代孝霊天皇の御代の事である。

三所権現とは証誠殿・中ノ宮・西ノ宮の三所である。 証誠殿は本地阿弥陀如来、昔の喜見上人である。 西ノ宮は本地千手観音、昔の五衰殿の女御である。
証誠殿は「一度我が山に参詣した者は、三悪道に落ちても、その験を見つけて救済しよう」と誓願された。 その験とは参詣時の宝印(熊野牛玉宝印)である。
人皇第十代崇神天皇の御宇、証誠殿の左に一社が顕れた。 善財王の御子、若一王子である。
中ノ宮は昔の善財王である。
八十四所の社(王子宮)は人皇十一代垂仁天皇の御宇に顕れた。 九所の社(五所王子と四所明神)は山内に顕れた。 (三所権現と)合せて十二所権現である。 其の外の王子は東西で道を守っている。
大王を追って来た九百九十九人の后は赤虫と成り、本宮の赤坂という所に来たが、九品の地を結界したので三悪道は免れた。
ここを熊野権現と申すのも愚かな事だが、金剛界の地である。

この帝の御代、諸国に疫病が流行った。 天皇は大いに驚かれ、国々に多くの神社を創祀した。 総じて三千七百四十二所で、三千七百余社の日本の鎮守と称す。

綏靖天皇は朝夕に七人の人間を食べた。 ある臣下が帝を亡ぼそうと謀り、「近いうちに火の雨が降るだろう」と奏上した。 そして、「火の雨から逃れたい者は岩屋に籠って難を避けよ」と人々に告げた。 諸国に今も残る塚はこの時に人々が作った岩屋である。 都の内裏にも岩屋を作り、柱を立てて下から人が上がれないようにして、帝をその中に入れた。 悪王と善王を引き換えたのである。

三千七百余社の鎮守の中で、熊野嶽は金胎両部の地である。 鎮守の第一は伊勢太神宮である。 天照大神の御心を思い奉ると、天照大神と神武天皇は一つである。 それは熊野権現を惣当明神とも鋳師明神とも申すからである。 天照大神が天岩戸に隠れた時、子孫のためにその姿を鋳留めたのが内侍所である。 鋳師大明神が預かって神武天皇に渡し、天皇は祖父・曾祖父の形見として崇敬された。 開化天皇まで同床共殿していたが、崇神天皇の御宇に天津社と国津社を定められた際に、畏れ多いと温明殿に移された。 内侍所の第一の守護は熊野権現である。

熊野権現

本宮・新宮・那智を熊野三山と呼び、修験道の根本道場である「日本第一大霊験所・根本熊野三所権現」と称された。
熊野本宮大社[和歌山県田辺市本宮町本宮]
第一殿(西御前)の祭神は熊野夫須美大神。
第二殿(中御前)の祭神は熊野速玉大神。
第三殿(証誠殿)の祭神は家都美御子大神(本宮の主祭神)。
第四殿(若宮)の祭神は天照大神。
式内社(紀伊国牟婁郡 熊野坐神社〈名神大〉)。 旧・官幣大社。
史料上の初見は『日本三代実録』巻第二の貞観元年[859]正月二十七日甲申条[LINK]の「京畿七道の諸神の階を進め、及び新に叙するもの、惣て二百六十七社なりき。〈中略〉従五位下須佐神・熊野早玉神・熊野坐神に並に従五位上(を授け奉る)」。
一説に『新抄格勅符抄』巻十(神事諸家封戸)大同元年[806]牒の熊野牟須美神(後述)を熊野坐神と解する。
『紀伊国神名帳』[LINK]には牟婁郡に「正一位 家都御子大神」とある。

『水鏡』巻上の崇神天皇条[LINK]に、
「六十五年[B.C.33]と申しゝに、熊野の本宮は出で御座しゝなり」
とある。

吉田兼倶『延喜式神名帳頭註』[LINK]に、
「熊野 崇神天皇十六年[B.C.82]、始て熊野本宮を建つ」
とある。

『熊野山略記』巻第一[LINK]に、
「熊野権現は、天より中天竺摩竭陀国に降り、慈悲大顕王と名づく。また家津美尊と曰ふ。金峯山金剛蔵王は、中天竺波羅奈国、金輪聖王の末孫、率渇大王と名く。また金剛蔵王と曰う。鷲峯・檀徳の両山の麓を卜し、今仏法・王法を守護せしめ給ふ。爰に慈悲大顕王・結宮・早山宮乃至一万十万眷属、他国衆生を化す為、雅顕長者を以て使と為し、曰して天照大神に言く、我は慈悲大顕王・金剛蔵王の使者也、権現・蔵王の本因縁を説て、王法及一切衆生を護る為、此の土に来て紀州無漏郡(牟婁郡)・和州吉野の霊地を賜り住せんと云々。天照大神言く、我は彼の霊地を免与す、但し秋津島人民頭神武天皇の奏に応ず云々。これに依り雅顕長者、神武天皇に詣で対して霊地を奏し乞い、即ち上の如く免与さる。神武天皇五十八年戊午[B.C.603]冬十二月晦夜半に、雅顕長者の勧請に依て、三所権現は紀伊国無漏郡備里大峯入口、備前(備崎)の楠の三本の梢に三面の月輪として顕現しめ給ふ」
とある。

また、同巻[LINK]に、
「孝照(孝昭)天皇十七年壬午[B.C.459]、大宇原(大斎原)櫟木三本の梢に、三面の月輪顕れ給ふ云々。同二十五年庚寅[B.C.451]、石田河住人、熊野部千与兼、一丈七尺の大猪を射て、其の後を追い、三ヶ日に至て音無河の辺、大猪の死伏せるを見る。彼の宍を取て食す。一宿を経た処、一卑鉢羅樹の上、三光の月輪顕る。勅して曰く、我は結・早玉・家津美尊と号す也。千与兼、勅を奉り、一霊の草を折て三神の籬を結ぶ」
「同御代、十二所権現御船に乗り、紀伊国藤代に着岸、楠の上に七十日御座す。其の後、孝安天皇御代[B.C.392-B.C.291]、権現船に乗て切目浦に着岸、一夜を経て出立浦に着岸、出立浦より船を捨て、稲葉根に着き一夜、次に瀧尻に一夜、次に発心門に一夜。其の次、本宮蓬莱嶋(大斎原)新山の楠木五本の木の上に十二所、藤代の如く影向す」
とある。

『三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集』巻三の神上吉日の条[LINK]に、
「甲午は熊野三所権現、芸旦国より我朝紀伊国牟漏郡音無川の源、屏風岡に来て、玉宝殿を建立し給ふ日也」
とある。

熊野本宮大社の本来の鎮座地は音無川が熊野川に合流する中洲の大斎原であるが、明治二十二年[1889]の熊野川大洪水で社殿が流失し、同二十四年に現在地に上四社が移転・再建された。 再建されなかった中四社・下四社および摂末社は大斎原の二つの別社(石祠)に合祀されている。

熊野速玉大社[和歌山県新宮市新宮]
第一殿(結宮)の祭神は熊野夫須美大神(新宮の主祭神)。
第二殿(速玉宮)の祭神は熊野速玉大神(同上)。
上三殿の第三殿(証誠殿)の祭神は家都美御子大神、第四殿(若宮)の祭神は天照大神、第五殿(神倉宮)の祭神は高倉下命。
八社殿は中四社・下四社を祀る。
式内社(紀伊国牟婁郡 熊野早玉神社〈大〉)。 旧・官幣大社。
史料上の初見は『新抄格勅符抄』巻十(神事諸家封戸)大同元年[806]牒[LINK]の「熊野牟須美神 四戸 紀伊〈天平神護二年[766]に充て奉る〉」「速玉神 四戸 紀伊〈神護二年九月廿四日に充て奉る〉」。
『紀伊国神名帳』[LINK]には牟婁郡に「正一位 御子速玉大神」とある。

『水鏡』巻上の景行天皇条[LINK]に、
「五十八年[128]二月に、近江の穴穂宮に遷りき。熊野の新宮は此の御時にぞ始まり給へりし」
とある。 また、『延喜式神名帳頭註』[LINK]にも「又景行天皇五十八年、同新宮を建つ」とある。

『熊野山略記』巻第二[LINK]に、
「安寧天皇十八年庚午[B.C.531]、新宮神倉に垂迹〈切目六十年御座後に座す〉。孝照天皇五年庚午[B.C.471]、新宮の東の阿須賀社の北、石淵幾禰谷に二宇の社壇(貴禰谷神社[三重県南牟婁郡紀宝町鵜殿])を造立し奉り、三所権現を勧請す。同御宇二十三年戊子[B.C.453]、下熊野に大熊現れ、神蔵に三面の月輪と現る。是与と裸形上人、神殿(神倉神社)を造る。同二十九年甲午[B.C.447]九月十五・十六両日、新宮乙基河原に貴男・貴女顕れ給ふ。伊弉諾・伊弉冉の霊魂云々。同五十三年戊午[B.C.423]、裸形上人岩基隈の北の新山に三所権現を崇め奉る。是れを新宮と号す。孝安四十八年丙子[B.C.345]、熊野新宮焼失。三所の神鏡飛出し榎に懸り、其の後仮殿御遷宮の時、又人の手を懸け奉らず飛入り給ふ云々。景行天皇御宇五十八年戊辰、新宮大廈の締を致す。社壇を倍に構へ、間の廻廊は美を尽す。仍て官の外記に云ふ、景行天皇の御宇、新宮始る」
とある。
熊野那智大社[和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山]
第一殿(滝宮)の祭神は大己貴神。
第二殿(証誠殿)の祭神は家都美御子大神。
第三殿(中御前)の祭神は熊野速玉大神。
第四殿(西御前)の祭神は熊野夫須美大神(那智の主祭神)。
第五殿(若宮)の祭神は天照大神。
第六殿(八神殿)は中四社・下四社を祀る。
旧・官幣中社。
『紀伊国神名帳』[LINK]には牟婁郡に「正一位 熊野夫須美大神」とある。

『熊野山略記』巻二[LINK]に、
「那智山は、仁徳天皇の御時、光峯の山腰に戌時より十二権現光を指し始めて、卯時に至り賀利(訶梨)帝母女・神母女、幡をかざして、三年[315]三月内裏に神変を顕し御座す。詫て曰く、我が権現三御山と顕るべく御座のよし、神告有りと。〈中略〉飛瀧権現の未の方に池有り。八功徳池と名づく。加里帝母女、錦袋を以て千里の浜砂を一夜の内に持ち来たりて埋め畢る。彼の所を指して、光峯より十二権現天下り給ふ所に十二社壇を遷し奉る者也」
とある。

一方、同書・巻第三[LINK]に、
「孝照天皇五十三年戊午歳[B.C.423]六月十八日、(裸形)上人は熊野新宮を出で、那智錦浦に向ふ。沐浴清浄を為し和多水湯に至る。忽ち千手千眼、御影を漁海に浮べ、遐邇に光を放つ。上人将に神光に驚き、遙か瀧本に詣ず」「孝安天皇三十年戊午歳[B.C.363]、瀧本の未方に池有り。是を八功徳水と名づく。龍蛇有り。頭は池に入り、尾は瀧に至る。加里帝母、錦袋を以て秋津浜の砂を運びて、深池を埋む。裸形上人、松擩を結びて三所権現を崇め、蒼生を利す。〈中略〉終に十三の神殿を興造し、結・早玉・地主の列神を勧請す。一宇の途堂を建立し、如意輪観自在尊を安置す」
とある。

『紀伊続風土記』巻之七十九(牟婁郡第十一)[LINK]に、
「社家相伝へて当山の草創を仁徳天皇の御世とす。又曰、往昔裸形上人といへる高僧あり、権現を此地に勧請し其傍に庵を結ひて如意輪観音を安置す、其庵は即今の如意輪堂なりといへり」
とある。

『熊野三山とその信仰』に引用する熊野那智大社の社伝[LINK]に、
「当宮の始めは神日本磐余彦天皇戊午年[B.C.663]東征するや、皇帥を引率し荒坂津(那智山下丹敷浜の宮行程五十余町にあり)に至らせ酋長丹敷戸畔なる者を誅殺す。時に邪神の毒気に中り人物咸く瘁て皇軍振ふ事能はず。爰に奇しき哉。倐忽那智山東の光峯に神光を現して天皇を補佐し、霊光赫々として則那智大瀑布(奥宮飛瀧神なり)の淵底に鎮りたまふ。於是乎天皇神威冥助の灼然たるを叡感し、瀑下に幸謁して親ら奉賽し、初て此所に崇祭す。而後仁徳天皇五年[317](或云五十八年[370])勅して今の宮地に鎮座すと云」
とある。

那智は南海補陀落山につながる観音霊場として崇敬され、花山法皇が那智に参籠して熊野権現の託宣により西国三十三所観音霊場巡礼を始めると、如意輪堂はその第一番札所として信仰を集めた。
明治初年の神仏分離で如意輪堂は廃寺となり、明治七年[1874]に現在の那智山青岸渡寺として再興された。

証誠権現(証誠殿)

証誠殿には本宮の主祭神である家都美御子神を祀る。 家都美御子神は素戔嗚尊または国常立尊と同体とされ、浄土信仰が隆盛すると極楽往生を証明する「証誠大菩薩」として崇敬された。
例えば、『新編相模国風土記稿』巻之六十八(高座郡巻之十)[LINK]には、時宗の開祖一遍上人について
「神託有て紀州熊野神祠に詣で、十二月より百日を期して証誠殿に籠る。翌年(建治二年[1276])三月五日寅刻、権現して神勅あり、頌文に六字名号一遍法、十界依正一遍躰、万行離念一遍証、人中上々妙好華、此の神勅並口伝は、当麻山(無量光寺[神奈川県相模原市南区当麻])歴代住持相伝して他に漏さず、是より一遍と名づく」
とある。

『長秋記』(長承三年[1134]二月一日条)[LINK]に、
「丞相 和命家津王子 法形阿弥陀仏」
とある。

『熊野山略記』巻第一[LINK]に、
「(証誠)権現は、浄飯大王、弟は白飯王、子は四各王。第二の女は父無しに天より光胎内に差して懐妊誕生、慈悲大顕王と号す」
とある。

また、同巻第二[LINK]には以下の系図を示す。

熊野系図1

『両峯問答秘鈔』巻上[LINK]に、
「証誠大菩薩は浄飯大王の五代の孫子、中天竺摩訶陀国の慈悲大顕王也」「問云、慈悲大顕王の御母は誰人か。答云、四角王の第二女子也」
とある。

両所権現(中御前・西御前)

中御前は早玉宮と呼ばれ、熊野速玉神を祀る。 速玉神は新宮の主祭神で、伊弉諾尊と同体とされる事もある。 『日本書紀』巻第一(神代上)の第五段一書(十)[LINK]には、伊弉諾尊が黄泉国で伊弉冊尊と離別した時に、
「乃ち唾く神を、号けて速玉之男と曰す。次に掃ふ神を、泉津事解之男と号く。凡て二の神ます」
とある。

西御前は結宮と呼ばれ、熊野夫須美神を祀る。 夫須美神は新宮・那智の主祭神であり、第五段一書(五)[LINK]に、
「伊弉冉尊、火神を生む時に、灼かれて神退去りましむ。故、紀伊国の熊野の有馬村に葬りまつる」
と記された伊弉冉尊と同体とされる。

『長秋記』(長承三年二月一日条)[LINK]に、
「両所 西宮結宮 女形 本地千手観音、中宮 早玉明神 俗形 本地薬師如来」
とある。

『熊野山略記』巻第一[LINK]に、
「結宮・早玉宮は、母雅顕長者の嫡女、父慈悲大顕王也」
とある。

一方、同書・巻第三[LINK]に、
「早玉宮〈中御前〉は伊弉諾尊。日本国主宗廟の霊神也。秘書に云ふ、伊舎那天・伊舎那后は日本開闢の本主、当宮霊神是れ也」「結宮〈西御前〉は伊弉冊尊也。彼の尊は日神・月神・蛭子・素盞烏尊を産みし後、火神を産みし時、紀州有間村の産田宮(産田神社[三重県熊野市有馬町])に於て崩御。即ち彼の霊魂は大般涅槃岩屋(花の窟)に在り」
とある。

『両峯問答秘鈔』巻上[LINK]に、
「(慈悲大顕王は)雅顕長者の息女慈悲母女を以て后妃と為し男女の両子を生めり。結・早玉の両所是れ也」 「結尊は甘露梵王の后也。早玉尊の后は長寛長者の娘也」
とある。

熊野三山の主祭神を祀る証誠殿・中御前・西御前を「熊野三所権現」と称する。

五所王子

地神五代を祭神とする。 五所王子の筆頭である若宮(若王子、若一王子、若女一王子)は三所権現に次ぐ崇敬を受け、上四社の一として祀られている。 その他の四所の王子は中四社として祀られている。

『長秋記』(長承三年二月一日条)[LINK]に、
「若宮 女形 本地十一面、禅師宮 俗形 本地地蔵菩薩、聖宮 法形 本地龍樹菩薩、児宮 本地如意輪観音、子守 正観音、已上五所王子」
とある。

『熊野山略記』巻第一[LINK]に、
「若女一王子・児宮・子守宮は、母結宮、父甘露飯王第二子」「禅師宮・聖宮は僧形なり。母長寛長者の女、早玉の子なり」
とある。
一方、『両峯問答秘鈔』巻上[LINK]に、
「若宮女一王子・禅師・聖等の三所は結尊の御子、児・小守等の二所は早玉尊の御子也。已上五体王子此の如し」
とあり、若宮を除く王子が逆になっている。

『熊野山略記』に基づいて三所権現・五所王子の系譜をまとめると、以下のようになる。

熊野系図2

四所明神

本宮では火・木・水・土の四神を祭神とする。 新宮・那智では天神七代の第二代~第六代を祭神とする。 四所明神は下四社として祀られている。

『長秋記』(長承三年二月一日条)[LINK]に、
「一万 普賢、十万 文殊、勧請十五所 釈迦、飛行薬叉 不動尊、米持金剛童子 毘沙門天」
とある。

『熊野山略記』巻第一[LINK]に、
「勧請十五所は雅顕長者。一万・十万は勧請十五所の右方、上一万眷属、下十万金剛童子也。飛行薬叉・米持金剛童子は勧請十五所の左方の守護神也。参詣衆生の為に守護せしめる也」
とある。

熊野三所権現に五所王子および四所明神を併せて「熊野十二所権現」と総称する。

飛瀧権現

飛瀧神社[和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山]
祭神は大己貴命。
また、御滝祈願所(旧・本地堂)に那智大滝御祭神 大己貴命・同本地仏 観世音菩薩・山伏修験道開祖 役小角行者・大滝守護 不動明王を安置し、御滝行者(花山法皇・弘法大師・伝教大師・一遍上人・文覚上人)を祀る。
旧・郷社(熊野那智大社の別宮)。
『紀伊国神名帳』[LINK]には牟婁郡に「従四位上 飛瀧神」とある。

飛瀧権現は那智の地主神である。 本殿は無く、那智の大滝を御神体とする。 那智山中には、この大滝(一之滝)・二之滝・三之滝をはじめ四十八滝が有ると伝えられ、修験者が妙法山に登る際の禊祓の行場として重視された。

『熊野山略記』巻第二[LINK]に、
「次に那智山は、本垂は飛瀧権現。最初に根本地主権現と顕れ給ふ。三重瀧に千手・如意輪・馬頭と示現し御座ける〈中略〉其の一ノ瀧は、新宮の本地千手観音也。二ノ瀧は、那智の本地如意輪也。三ノ瀧の本地は、本宮の本地馬頭観音也。飛瀧は三重瀧の惣名也」
とある。

また、同書・巻第三[LINK]に、
「抑も飛瀧権現は、天照大神の輔佐の臣也。成劫初起の降来、難陀龍王の応化の神也」
とある。

神蔵

神倉神社[和歌山県新宮市神倉]
祭神は高倉下命・天照大神。
熊野速玉大社の境外摂社。

山上の「ごとびき岩」と称される巨岩を御神体とする。
『日本書紀』巻第三の神武天皇即位前三年[B.C.663]六月条[LINK]に、
「遂に狭野を越えて、熊野の神邑に到り、且ち天磐盾に登る。仍りて軍を引きて漸に進む」
とあるが、「ごとびき岩」がこの天磐盾に比定されている。

「熊野権現御垂跡縁起」によると、熊野権現は最初に「熊野新宮の南の神蔵峯」に降臨した。

『熊野山略記』巻第二[LINK]に、
「孝照天皇御宇二十三年戊子[B.C.453]、猟師是世、新宮熊野楠山に於て、一丈二尺の大熊三頭走るを見て、これを射らんと欲し、追て行く。此の熊、西北の巖上に至て、忽に三面の神鏡と現す。神霊巍々たり、光明照曜す。是世、仰いで信の余り、弓箭を折り捨て懈り無し。裸形上人出来して、三面の鏡の上に、一宇の神殿を造り覆う。勤行三十一年、戊子歳より戊午歳に至る。今の神倉権現是れ也」
とある。

『新宮町郷土誌』[LINK]に、
「高倉下命は又の名を天香語山命又手栗彦命ともいふ天孫邇々杵命の御兄にして河内の哮峰(生駒山嶺の中の一峰)に天降りまし大和の鳥見に遷られし饒速日尊(又の名火明命)の長子なり。〈中略〉饒速日尊哮峰に天降られし時天香語山命亦天磐船に乗られてこの熊野なる神倉山に降られて高倉下命と号ばれ」
とある。

阿須賀大行事

阿須賀神社[和歌山県新宮市阿須賀]
祭神は事解男命・熊野夫須美大神・家都御子大神・熊野速玉大神。
旧・村社(熊野速玉大社の元・境外摂社)。

『熊野山略記』巻第二[LINK]に、
「飛鳥大行事、大宮、大威徳明王、六頭六面六足、魔縁降伏の為也。摩訶陀国にては権現の惣後見也。 飛鳥・稲葉根・稲荷は同躰也。飛鳥大行事は、権現より以前に、蘆鳥神と云ふ鳥の翼に乗て下り、熊野へ来る故に飛鳥権現と名づく」
とある。 また、系図(後述)には、長寛長者について
「吾朝に於ては稲荷大明神と号す。新宮飛鳥大行事是れ也」
と注記する。

『両峯問答秘鈔』巻下[LINK]に、
「彼の千代包は猟師也。阿須賀大明神と号し、本地は大威徳明王なり」
とある。

『紀伊続風土記』巻之八十一(牟婁郡第十三)[LINK]に、
「祀神は社家の伝へに事解男命・早玉男命を祀るといひ、土人は荒き神にて祀りなど疎にすれば祟りありといふ。按するに愛徳山縁起に軍武男阿須賀大明神鰐を斬りて熊野大神を助け奉れる事見えたれは、其功を賞して摂社に祀れるならむ」
とある。

『新宮町郷土誌』[LINK]に、
「長寛勘文熊野畧記にも早玉神初め切部山玉那木の淵に天降り、次に神倉山に移り、次に阿須賀森に移り、景行帝の御宇に新宮の地に移し奉ると在り。即ち阿須賀森に移らせ給へし熊野大神は後、家津御子大神のみ対岸なる石淵の貴弥谷に移り後、崇神天皇の六十五年熊野の上流音無の里に移らせ給ひしもの今の本宮にして結速玉大神は、景行天皇の五十八年に今の新宮の御宮に移らせ給へるなり。即ち速玉神社の元宮に当り。祭典も同じく十月十五日に同時に行はれ神馬渡御の事あり。当社の創建は孝照(孝昭)天皇の五十三年[B.C.423]にして古は天朝の御尊崇厚く朝廷よりの御寄進の神宝少からず」
とある。

雷電八大金剛童子

右足を振り上げて太鼓と撥(あるいは金剛杵)を持った忿怒形の鬼神で、礼殿執金剛とも呼ばれる。
礼殿は本殿に付属して経供養などを行った施設で、本宮の礼殿(現存しない)には守護神として金剛童子(あるいは執金剛)が安置されていた。 「礼殿」と「雷電」の音通により、雷神の表象である太鼓を持つようになったと考えられる。
(東アジア恠異学会 編『怪異学の技法』、梅沢恵「熊野曼荼羅に顕れた雷電神」、臨川書店、2003)

『熊野山略記』巻第二[LINK]に、
「礼殿執金剛童子、本地弥勒菩薩、智証大師顕し給ふ」とあり、
『両峯問答秘鈔』巻下[LINK]に、
「礼殿執金剛 本地八字文殊〈同大師(智証大師)之を顕す〉」
とある。
垂迹本地
三所権現証誠殿阿弥陀如来
中御前薬師如来
西御前千手観音
五所王子若宮十一面観音
禅師宮十一面観音(または地蔵菩薩)
聖宮龍樹菩薩
児宮如意輪観音
子守宮聖観音
四所明神一万眷属
十万金剛童子
文殊菩薩
普賢菩薩
勧請十五所釈迦如来
飛行夜叉不動明王
米持金剛童子愛染明王(または毘沙門天)
その他飛瀧権現千手観音
神蔵権現毘沙門天(または愛染明王)
阿須賀大行事七仏薬師(または大威徳明王)
雷電八大金剛童子(礼殿執金剛)弥勒菩薩(または八字文殊)

象王権現

参照: 「吉野象王権現事」象王権現

三十八所

『神道集』には「金峯山の象王権現は、三十八所なり」とあるが、通説では三十八所は蔵王権現の眷属である。

文観『金峰山秘密伝』巻上の「三十八所本地垂跡事」[LINK]に、
「三十八所は即ち子守明神所生の若宮の兄弟なり。或は行者神山に於て日本国中の三十八所の大神を勧請、悉地を祈り所願を成して、八幡賀茂春日熊野等光を并て本誓を同くす、共に護国の益を施す也。今は即ち三十八神合して一所に崇ぬ。本地は即千手、垂跡は一身を分ち多身と為す」
とある。
同書・巻下の「当山諸神本地異説事」[LINK]に、
「三十八所 本地千手観音。一説には十一面。秘密は胎蔵大日也。一説には金剛界三十七尊也」
とある。

『両峯問答秘鈔』巻下[LINK]には「三十八所の八大明王戌亥の護法なり。本地十一面」とある。

勝手

勝手神社[奈良県吉野郡吉野町吉野山]
祭神は天忍穂耳命で、大山祇命・久久能智命・木花佐久夜比咩命・苔虫命・菅野比咩命を配祀。 一説に愛鬘尾命(受鬘命)とする。
旧・村社。
吉野八社明神の一。
平成13年[2001]9月27日に不審火で本殿が焼失したため、現在は吉水神社に仮遷座している。

『金峯山寺文書留』に、
「勝手宮 人王第六代孝安天皇影向。人王十六代神功皇后建社頭。新羅国退治之守護神たるに依て、隨て号勝手明神。又は役行者建立とも云々」
とある。

『金峰山秘密伝』巻上の「鎮守勝手子守等神体習事」[LINK]に、
「勝手大明神は此れ多聞天王の垂跡、此れ仏法護持の大将、国家鎮守の首領也」「今和光同塵の三昧に入り、当山の神体と顕す。此れを勝手明神と号す。即ち護法護国の神威を振ふ。此の故に左の手に大定の弓を持し、即ち四魔の群敵を射払い、無辺の福寿を射取る。右の手に大智の刀を執り、能く国家の怨賊を断滅す、四海の賊徒を摂領す。是れ故に亦勝手明神と号する也」
とある。
同書・巻下の「当山諸神本地異説事」[LINK]に、
「勝手大明神 本地多聞天。一説には大勢至菩薩」
とある。

『両峯問答秘鈔』巻下[LINK]に、
「勝手は辰巳の護法なり。悪相を慕い四魔を払い、八大龍王威を振るい怨敵を破る。本地毘沙門」
とある。

『麗気記』巻第三(降臨次第麗気記)[LINK]において豊受皇太神の降臨に供奉した三十二執金剛神の中に、
「愛鬘尾命〈勝手大明神 毘沙門〉」
とある。

『和漢三才図会』巻七十三[LINK]に、
「勝手社 吉野山中に在り 祭神一座 受鬘命 天孫降臨時陪従三十二神の一也」
とある。

子守

吉野水分神社[奈良県吉野郡吉野町吉野山]
正殿の祭神は天水分神。
右殿の祭神は天万栲幡千々姫命・玉依姫命・瓊々杵命。
左殿の祭神は高皇産霊神・少彦名命・御子神。
式内社(大和国吉野郡 吉野水分神社〈大〉)。 旧・村社。
吉野八社明神の一。
史料上の初見は『続日本紀』巻一の文武天皇二年[698]四月戊午[29日]条[LINK]の「馬を芳野水分峰神に奉る。雨を祈ればなり」。

『金峰山秘密伝』巻上の「子守明神本地垂跡事」[LINK]に、
「子守明神は地蔵薩埵の垂跡、同塵三昧に入り跡を当山に垂る。此れを号して子守明神と為る也。此れ即ち女体の神勝手大明神の所妻也。身に七珍宝衣を着す。即ち左の手の宝珠は衆生の所願を満し、右に天扇を執て国土の災難を払う」
とある。
同書・巻下の「当山諸神本地異説事」[LINK]に、
「子守大明神 本地地蔵。一説には阿弥陀如来」
とある。

『両峯問答秘鈔』巻下[LINK]に、
「子守は未申の護法なり。慈哀を宗とし衆生一子のごとし。本地地蔵」
とある。
垂迹本地
蔵王権現釈迦如来・千手観音・弥勒菩薩
勝手明神毘沙門天
子守明神地蔵菩薩
三十八所千手観音

役行者

役君小角の通称で、役優婆塞とも呼ばれる。 修験道の開祖とされ、日本各地の数多の霊山を開いたと伝えられる。

『続日本紀』巻第一の文武天皇三年[699]五月丁丑[24日]条[LINK]に、
「役君小角伊豆島に流さる。初め小角葛木山に住し呪術を以て称さる。外従五位下韓国連広足初め師と為す。後其の能を害み讒するに妖惑を以てす。故に遠処に配す」 「世の相伝に言く、小角能く鬼神を使役し、水を汲み薪を採せ、若し命を用ひざれば即ち呪を以て之を縛す」
とあり、役行者が伝説的な呪術者として世に知られていた事がわかる。

景戒『日本霊異記』上巻の「孔雀王の咒法を修持し異験力を得て以て現に仙と作り天に飛ぶ縁 第二十八」[LINK]では
「役優婆塞は、賀茂の役の公氏、今の高賀茂朝臣といふ者也。大和国葛木上郡茅原村(奈良県御所市茅原)の人也」
と出自が述べられている。 四十歳を過ぎた頃から俗世間を離れて巌窟に住し、孔雀明王の呪法を修習して験力を得て、鬼神を自在に駆使した。 諸の鬼神に「大倭国の金峯と葛木の峯とに一の椅を度して通せ」と命じると、葛城の峯の一言主神が「役優婆塞は時を傾けんと謀る」と讒言した。 天皇は使者を遣わしたが、験力により役優婆塞を捕える事が出来なかったので、その母を捕えた。 役優婆塞は母を救うために出て来て、捕まって伊豆島に流された。 昼は天皇の命に随って島に居たが、夜は駿河の富岻の巌(富士山)で修行した。 大宝三年[701]正月に許され、遂に仙人となって天に飛び去った。

『大峯縁起』上によると、武烈天皇の御時(仁賢天皇十一年[498])に大伴金村が平群真鳥を殺した。 真鳥の娘は大和国葛上郡茅原村に逃れ、高賀茂氏を称した。 高賀茂氏は二十四歳の時に熊野に参詣し、十一月一日の夜に宝殿の裏で月を飲む夢を見た。 同日に継体天皇の皇后は日を飲む夢を見た。 高賀茂氏と皇后は懐妊して翌年八月十八日に男子が誕生した。 これが役優婆塞と欽明天皇である。
高賀茂氏は懐妊中の三月十五日に熊野に参詣し、権現の教えにより縁起(大峯縁起)を感得した。 男子は九歳で出家し、十九歳の年に高賀茂氏から縁起を相伝された。
役優婆塞が同年十二月十八日に熊野に参詣した時、三所権現が「汝は三生の行者也」と告げた。
初生は中天竺に於いて昭王四年八月十八日に誕生し、名を慶摩童子といった。 童子が二十一歳の時、浄飯大王に太子(釈尊)が誕生した。 太子は十九歳で出家して能忍と名乗った。 童子も三十九歳で同日に出家して智教と名乗り、壇徳山で四十五年間修行した。 教主釈迦如来が一乗妙典(法華経)を説いた時、智教はその説教を聴いて十地等覚位を証得した。 釈尊は七十九歳の二月十五日夜に涅槃に入り、荼毘に付された。 智教は遺身の舎利を二粒取り、翌十六日の暮に九十九歳で入滅した。
第二生は三百四十七年後、中天竺の雅顕長者の姉の胎内に宿り、十二月八日に誕生した。 父は真覚長者と云う。 三歳の二月十五日(釈尊の涅槃の日)に初めて左右の手を開くと、掌中に二粒の仏舎利が有った。 金剛三蔵が塔婆を作ってこの舎利を納めると、舎利は百六十粒に増えた。 真覚長者の子は十九歳で出家して顕覚と名乗った。 二十三歳で霊鷲山に至り、八年間修行して『法華経』七軸を書写し、百三十五歳で入滅した。
第三生は千二百四十七年後、大日本国に生まれた。

『両峯問答秘鈔』巻上[LINK]によると、役優婆塞は印度に於いては雅顕長者と号し、慈悲大顕王に家臣として仕えていた。 その後、雅顕長者は千二百余年の間に行者の身として七回生まれ、その第七生が役優婆塞である。

寛政十一年[1799]に聖護院門跡の盈仁法親王より光格天皇に役行者没後千百年の御遠忌を迎える旨の上奏があり、同年一月二十五日に「神変大菩薩」の諡号を賜った。

婆羅門僧正

菩提僊那(Bodhisena)の通称。
天平八年[736]に来日、天平勝宝四年[752]に東大寺大仏の開元供養の導師を勤めた。

『両峯問答秘鈔』巻下[LINK]に、
「証誠殿〈法体〉 本地阿弥陀〈婆羅門僧正、天平勝宝五年[753]十二月、南都に於て示現に依り参詣の時、これを顕し奉る〉」
とある。

『熊野山略記』巻第一[LINK]に、
「聖武天皇御宇天平宝字二年戊戌[758]、梵僧婆羅門僧正〈菩提と号す〉金剛山(葛木神社[大阪府南河内郡千早赤阪村千早])に参拝の刻、熊野権現〈家津美尊〉・葛木神・法喜(法起)菩薩、僧正に告て曰く、日本第一霊験所根本熊野三所権現は、開元世祖の主、伊弉諾・伊弉冊尊也。日本第一の宗祧伊勢大神宮は、天照大神、日神尊是れ也。父子の芳契浅からず、毎年十二月廿七日・廿八日・廿九日三ヶ日夜、紀州無漏郡熊野山備里水天山の嶺に権現と天照大神御対面有り〈今対面嶽と郷す〉。神武天皇五十八年戊午[B.C.603]より当代まで懈る者無き也。然らば彼の本を送る為、行者の大峯入りを欲す云々。僧正神勅を承り、観久筑前禅師を以て、始て入峯を遂ぐ。是れ晦山臥の濫觴なり」
とある。

唐の霊山

「熊野権現御垂跡縁起」では天台山とする。 『長寛勘文』は同縁起を引用した後[LINK]に、
「唐の天台山の王子信の垂跡云々、王子信は誰人なるを知らず、若しくは周霊王の太子晋か」
と述べている。

徐霊府『天台山記』[LINK]によると、周の霊王(在位: B.C.571-B.C.545)の太子喬は字を子晋という。 笙を吹く事を好み、鳳凰の鳴き声のような美しい演奏をした。 道人の浮丘公に伴われて嵩山に上り、三十余年後に白鶴に乗って飛び去った。 桐柏真人・右弼王・領五岳司なる仙官に任ぜられて天帝に侍し、天台山を治めた。 また、唐の開元年間[713-741]の初め、玄宗皇帝が天台山に桐柏真人を祀る王真君壇を建立した。

延久四年[1072]に入宋した成尋の『参天台五台山記』[LINK]によると、天台山の地主山王元弼真君として祀られており、真君は仙人に成って数百年後に智者大師(智顗)に謁見して受戒したという。

『山家要略記』の「熊野神王子晋垂跡事」[LINK]に、
「扶桑明月集に云ふ、伝へ聞く、熊野山霊神は異域冥道、王子晋の垂迹也。山王院秘記に云ふ、熊野権現は晨旦国天台山の守護神、本地阿弥陀如来、垂迹俗体也」
とある。

『神道集』原文では「唐の霊山より、王子旧跡を信じたまひ」とあり、"信"を王子の名前ではなく動詞と誤解しているが、概要では「熊野権現御垂跡縁起」に準じた。

善財王・五衰殿の女御・喜見上人

『熊野山略記』巻第二[LINK]には以下の異伝を記す。
「摩訶陀国大王は中御前也。善哉王と号す。西御前は御衰殿の后、土女御也。証誠殿は剣山の麓、智剣上人即ち女御の伯父也。若王子は女御の御本尊、長五尺の十一面観音也。大王の御太子は児宮許り也。如意輪也。九十九人の后の中、只一人御衰殿の御腹に王子を産み給へり。御産所は金谷の谷云々。五躰王子は、若殿(若宮)より子守までなり。禅師宮は智剣上人の一の弟子、聖宮は二の弟子、子守宮は虎、一万は公卿、十万は殿上人也。勧請十五所は山神、飛行夜叉は狼、米持は狐、即ち王子を養い給へり」(引用文は一部を漢字に改めた)

五本の剣

『彦山流記』『鎮西彦山縁起』(後述)では、五本の剣の飛来した先を「熊野権現御垂跡縁起」にある豊前国彦山・伊予国石鎚山・淡路国諭鶴羽山・紀伊国切部山・紀伊国神倉山とする。

存覚『諸神本懐集』[LINK]では紀伊国牟婁郡・下野国日光山・出羽国石城郡(不詳)・淡路国諭鶴羽峰・豊後国(豊前国)彦山とする。
「熊野の権現といふは元は西天摩訶陀国の大王慈悲大顕王なり。然るに本国を恨みたまふことありて、崇神天皇即位元年[B.C.97]秋八月に遥かに西天より五つの剣を東に投けて我か有縁の地に留まるべしと誓ひたまひしに、一は紀伊国室の郡に留まり、一は下野国日光山に留まり、一は出羽国石城の郡に留まり、一は淡路国踰鶴羽の峰に留まり、一は豊後国彦山に留まる」(引用文は一部を漢字に改めた)

筑紫の彦根嶽(鎮西豊前国の彦根大嶽)

「熊野権現御垂跡縁起」では「鎮西日子の山峯」とする。

英彦山神宮[福岡県田川郡添田町英彦山]
祭神は天忍骨尊(天忍穂耳尊)・伊弉諾尊・伊弉冊尊。
旧・官幣中社。

『彦山流記』によると、権現は東土利生を志し、摩訶陀国から五本の剣を投じた後、甲寅年に震旦国天台山の王子晋の旧跡から東に向かった。 豊前国田河郡大津邑に着き、香春明神(香春神社[福岡県田川郡香春町香春])に宿を借りようとしたが拒まれた。 権現は金剛童子に勅して木を引き抜かせ、香春嶽は岩石が露わになった。
次に権現は彦山に登った。 地主神の北山三御前は権現に住処を譲り奉り、暫く中腹に居した後に許斐山に移った。 これは金光七年丙申[576]で敏達天皇の御宇である。
権現は八角水晶の三尺六寸の石体として般若窟に天降った。 第一の剣を般若窟で見つけた時、四十九窟に各々御正躰を分かち、守護の天童(金剛童子)を安置し奉った。 三所権現は法躰・俗躰・女躰として三嶽に鎮座した。
その後、八十二年後の戊午年に権現は伊予国石鎚嶺に第二の剣を見つけて移った。 また、六年後の甲子年に淡路国楡靍羽峯(諭鶴羽山)に第三の剣、六年後の庚午年に紀伊国牟漏郡切部山に第四の剣、六十一後の庚午年に神蔵峯(神倉山)に第五の剣を見つけて移り、六十一後の庚午年に阿須賀社の北の石淵谷に勧請された。 二千年を経て甲午年正月十五日に権現は元の彦山に移った。

『鎮西彦山縁起』によると、田心姫・瑞津姫・市杵嶋姫命の三女神は日神の勅により宇佐嶋に降り、後に彦山に移った。 大己貴命は田心姫・瑞津姫命を娶り、此の山の北嶺に住んで「北山地主」と呼ばれた。 市杵嶋姫命は山の中層に住まわれた。
天忍穂耳尊は鷹の姿で飛来し、此の峯に留まった。 その後、八角真霊石の上に移った。 大己貴命は北嶽を天忍穂耳尊に献じ、田心姫・瑞津姫命と共に山腹に降った。 後に三女神は宗像宮、大己貴命は許斐山に遷った。 また、伊弉諾・伊弉冊尊が二羽の鷹の姿で彦山に飛来して留まった。 その後、伊弉諾尊は中嶽、伊弉冊尊は南嶽に移った。 三羽の鷹は石像に変作した。
彦山の山腰に在る霊山寺(後の霊仙寺)の開祖は善正法師である。 魏国の人で、普泰元年[531]に太宰府に来て仏法を弘めようとしたが、志を遂げられずに故国に帰ろうとした。 其の夜に化人が来て、善正に彦山の由縁(天竺摩訶陀国の慈悲大顕王が五本の剣を投じ、日子峯・石鎚峯・楡鶴羽峯・切部山・神蔵峯を経て、崇神二年[B.C.96]に彦山に還った)を説いた。 これを聞いた善正は彦山の石窟に入った。
その頃、豊前国日田郡に藤原桓雄という者がいて、狩猟を好んでいた。 宣化天皇三年[538]、桓雄は一頭の白鹿を射た。 そこに三羽の鷹が来て、その鹿を蘇生させた。 桓雄は鹿・鷹が霊神の変化である事を知り、弓矢を捨て謝罪した。 また、仁祠(仏堂)を建て、善正が持って来た仏像を安置して「霊山」と名づけた。 その後、桓雄は善正の弟子となって剃髪し、忍辱と名乗って修行した。 これが本朝の僧の始めである。
忍辱は鹿・鷹は方便の姿であり本地の真身ではないと思い、権現の本地を知りたい事と祈った。 北嶽に僧身が現れ「我は阿弥陀仏の垂迹した神である」、南嶽に俗形が現れ「我は釈迦牟尼仏の変した神である」、中嶽に女容が現れ「我が本身は観世音菩薩である」と告げた。 忍辱は初めて仏菩薩の名を聞いて感喜し、三嶽の頂に茅茨で祠を作った。
忍辱は善正の跡を継いで霊山寺の第二世となり、その霊は白鹿が倒れた場所に狩籠護法神として祀られた。 白鹿は中宮(英彦山神宮の摂社・中津宮)の市杵嶋姫命の使獣である。

近世には聖護院と彦山の間で本末論争が起きたが、元禄九年[1696]に彦山は修験道の別山である(聖護院の末山ではない)事が幕府に裁許された。 享保十四年[1729]に霊元法皇は彦山に"英"を冠した勅号を与える院宣を下し、同十九年から「英彦山」と公称した。
明治初年の神仏分離により英彦山霊仙寺は廃寺となり、大講堂は英彦山神宮の奉幣殿となった。

陸奥国の中宮山

不詳。

淡路国の和

「熊野権現御垂跡縁起」では「淡路国の遊鶴羽の峯」とする。

諭鶴羽神社[兵庫県南あわじ市灘黒岩]
祭神は伊弉冊尊・速玉男命・事解男命。
旧・郷社。

『諭鶴羽大権現其外所々縁起』[LINK]に、
「神武天皇廿五年[B.C.636]酉(乙酉)の二月十三日、西天摩河隨(摩訶陀)国ゟ大権現鶴之羽車に召し淡路国諭鶴羽の峯に鎮座有、此大王・后・王子本地阿弥陀・薬師・観音の化身に而日本第一権現当二世守の御神」
とある。

『諭鶴羽山縁起』[LINK]に、
「当山は扶桑第一の霊峯にして、紀伊国熊野権現奧廼院、淡州諭鶴羽大権現と別当記録に遺せり。茲に人王九代開化天皇の御宇[B.C.157-B.C.98]に神鶴に乗り遊び玉ふ。高天原に狩人鶴の舞ひ遊ぶを見付て放つ箭を〈此所を鶴田と云、中島村にあり〉箭を負ひ乍ら東山の隱峯に慕跡を至れは、絶頂に棑檮梢に忝くも日光・月光と顕玉ふ。「我は伊弉諾・伊弉冉二神なり、国家安全・五穀成就を守る為、本山に還り、今より以後諭鶴羽権現と称す」と神号自ら唱へ玉ふ。狩人涙を流し、平伏して前非を悔ひ、其の罪を謝し奉る時、南海より龍燈樹上に耀き、狩人奇異神変を拝し、忽ち長く弓箭を捨て、其の地を浄め、工匠を招き、一宇を建立し、神体を勧請し奉る。毎年々に至るまて除夜には龍燈南海より備る事絶へず」とある。


『淡路国諭鶴羽山勧進状』[LINK]に、
「淡州諭鶴羽山とは、其の権輿を尋るに、元は多々之横峯と曰ふ。然るに人王九代(開化天皇)御宇、五竺の境より、摩迦陀国の尊神、鶴の羽に乗て此の峯に来り、和光の霊窟を卜し已に降りたまふ。名づけて諭鶴羽山大権現と号す」
とある。

碧湛『淡国通記』[LINK]に、
「踰鶴羽大権現 南海に臨みて最高の峰あり、この山を踰鶴羽山という。この神、はじめ鶴の翼に乗り、鼻子山より南紀に飛び往来神遊したまう。この山にありては踰鶴羽権現と称し、熊野にありては熊野権現ともうす。この神は熊野権現と同体分身にして、伊弉諾・伊弉冊尊なり。毎年臘月(十二月)大晦日の夜分、熊野の海中より竜灯飛来して、終夜神殿を照して元朝に至る、これ衆人の見る所にして、妄説なきものなり。一[客]のいわく、熊野権現は天竺摩竭陀国王の飛来の説あり、また社職のいわく、伊弉冉と二神の王子合せて三所権現となすというも、未審いぶかし」
とある。

伯耆国の大山

大神山神社・奥宮[鳥取県西伯郡大山町大山]
祭神は大己貴神。
旧・国幣小社。

『今昔物語』巻十七(本朝 付仏法)の「地蔵の示しにより愛宕護より伯耆の大山に移る語 第十五」[LINK]に、
「今伯耆国大山と云ふ所に詣でて、二世の求めむ所を祈り願へ。彼の権現は地蔵菩薩の垂迹大智明菩薩と申す。自然大悲の願力を以て広く一切衆生を化度し給ふ」
とある。

西行『撰集抄』巻七の「大智明神之御事」[LINK]に、
「伯耆国に大山といふ所に、大智の明神と申す神おはします。利益のあらたなる事、実に朝の日の山の端に出るが如くに侍り。御本地は地蔵菩薩にておはしますとぞ。昔、俊方といひける弓取、野に出て鹿を狩けるほどに、例よりも鹿多くて、皆思ひの外に射止めにけり。扨此鹿どもを取らんとすれば、我持仏堂に千体の地蔵を、据え奉りける五寸の尊像を矢を射立て、鹿と見つるは地蔵にぞおはしける。其時、俊方浅ましく悲しく覚へて、地蔵に取つき奉りて泣き喚きけれども、更にかなひし。やがて手づから髻切て、我家を堂につくりて、永く殺生を留り侍りにき。去程に称徳天皇の御時、「社に祝ひ奉れ」といふ託宣侍て、やがて堂を社に為して、大智明神とぞ申侍る。〈中略〉今の大悪人の殺生止めん為に、鹿の姿現じて射られ、後に尊像をあらはして罪悪の我らをして、堅固の信心をもよをさしめ給へる事、返す返す貴くぞ侍る」
(引用文は一部を漢字に改めた)とある。

『大山寺縁起』巻上[LINK]に、
「我が朝に地蔵菩薩の化導を顕し給ふその起りを尋ぬれば、昔伊弉諾・伊弉冊の御代に天地始まりき。昔日、兜率天の第三院、巽の角より化して、一の磐石落ちたり。彼石三に割れて、一は熊野山に留り、二は金峯山と顕し、三は此の大山と成にけり。此故に此山をは角磐山と名けて、日本第三の名嶇とは申也。都率天の聖衆金剛手・金剛光二菩薩天降りて、密勝仙人・仏覚仙人と示して三千七百歳行ひ澄し給ひける。禅頂に五の池出きにけり。其中の池の底より多宝の塔婆湧き出て、釈迦・多宝の二仏、光明赫奕として、荘厳殊勝也けるが、夢の如くして、彼塔婆池の中に隠れ給ぬ。仙人、則池の底へ入て、宝塔を拝見するに、塔婆の中に八葉の蓮台現す。台の上にमं(maṃ)字あり、即変して文珠師利と顕れ、次にस(sa)字有り、化して観世音と成給。又、金色のअ(a)字あり、現して地蔵菩薩の姿を顕し給し時、文珠は西に退き、観音、東に去り、地蔵尊は中に座す給す、是を号して三所権現と申也」
「其後宝浄世界の智積菩薩来て、仙人に示し給けるに、此地は大日毘廬遮那の王城、真如法性の浄土也。〈中略〉八人の神仙集まり、神前妙池の南山に道場を構へ給り。仏覚・密勝・一角仙人・良覚・智覚・道与仙人・智勝・斎従等、是を八人の神仙と申也。既に供養の儀式あり、天台山慈心和尚を講師に定め、応化山白足和尚を読師とせられ、仏覚・智勝は、花香燈明供具を供へ、珎西智覚は梵唄伽陀、斎従菩薩問者して、供養事をえつゝ、新経壱部、本経一部、金箱に入、玉の篋に納て、阿字出現の中池底に奉納、〈中略〉彼の御経奉納の後、中池の底より金色の光明常に出、光に乗して白赤二尊の大毘廬遮那顕現し給ふ、即又金色裸質の不動明王とそ見給ける。此三尊の姿を一道場に移し奉り、根本最初の本尊とす、中覚院是也」
(引用文は一部を漢字に改めた、以下同)とある。 三所権現とは大智明権現(地蔵)・霊像権現(観音)・利寿権現(文殊)である。

同書[LINK]には金蓮上人による開山を
「出雲国玉作り(島根県松江市玉湯町玉造)と云所に猟師あり、名をは依道と云。美保の浦過けるに海の底より金色の狼出来る、あやしみ追程に此山の洞に入にける。山の形水の流れ、故有所にこそと、あやしく思けれとも、かゝる毛色したるけだ物世に有難く思て、只一矢に射殺さんとしけるに、地蔵菩薩、矢前に現して見へ給へは、信心忽に発て、弓を外し矢を捨て、殺生の思を断ちにけり。彼狼何時しか形を変して老尼と成て語り申けれは、「我は是登攬尼也、汝を導き、此山に入んか為に、化して獣となりき。我巳に三生の行人として、此山を守る山神なれり、汝又宿縁我に有り、願は此洞に行て、諸共に地蔵権現の利益に預り給へ」と、様々語ひ申けれは、道心速に発りて、髪を剃り衣を染て、同心に行ひすましつゝ、金連聖人とて練行年積りにけり。〈中略〉目出度聖人なれは、速に浄土の往生を遂給ふばかりけれとも、我此洞に余執有とて、参詣の人に詑しつゝ、此山建立の願也。執心爰に有とて、常住護法の社壇の上、磐石を砕き、住所と定めて、法験神と名付へしと示し給ふ」
と伝える。

『伯耆民談記』巻之六[LINK]に、
「角磐山大山寺と号す。称徳天皇の勅願にして智積の開基なり。本尊は地蔵大智明権現にて、天台神道両部の山。本寺は武都の東叡山なり。〈中略〉山号を角磐山と称することは、天神七代伊弉諾伊弉冊尊の御宇、天より一つの磐石、此山の巽の隅に落下る。其石三つに砕けて、一つは当山に止り、二つは吉野、葛城の山に飛ふ、此故を以て角磐山と号するとかや」
「当山十二神、智明大権現 本地地蔵、霊像権現 本地観世音、利寿権現 本地文殊、山王権現 本地釈迦、熊野権現 本地阿弥陀、白山権現 本地十一面観音、金剛童子 本地薬師、護法天童 本地普賢、山ノ神 本地不動、法眼神 本地不動、下山明神 本地観音、龍王 本地無仏号」
とある。

明治八年[1875]に大山寺は廃寺となり、伯耆国二宮である大神山神社[鳥取県米子市尾高]の奥宮に転じた。 地蔵菩薩は中門院の大日堂に移され、同三十五年[1902]に現在の角磐山大山寺として再興された。

「熊野」の称

『熊野山略記』巻第二[LINK]に、
「人王第一神日本磐余彦天皇御宇三十一年辛卯[B.C.630]、天皇天磐船に乗り秋津嶋を巡り、紀州の南郊に於て大熊の奇瑞を拝す。神明の霊夢を感じて神蔵の宝剣を得たり。熊野の称号、此の時に始れり」
とある。

千代包

「熊野権現御垂跡縁起」では熊野権現を感得した者を「石多河の南河内の住人、熊野部千与定と云う犬飼」としている。

『熊野山略記』巻第二[LINK]には、以下の系図を記す。

熊野系図3

上記の系図では千与定の四男を千与兼(千代包)とする。 同書には「中天竺摩訶陀国慈悲大賢王の公卿、正三位千与定、其の子息は石田河上に南岡の住人として、熊野部千与包、本地大日の垂迹也。今の神官禰宜と成り給ふ」とある。

『諸神本懐集』[LINK]では熊野権現を感得した猟師の名を「阿刀ノ千世」とする。
「紀伊国岩田河の畔に一人の猟師あり。その名を阿刀の千世と云ふ。山に入りて狩しけるに一つの熊を射たりけり。血を尋ね跡をとめて行くほどに、一つの楠の木の下に至れり。その時具したりける犬、梢を見上げてしきりに吠へければ、千世木の上を見るに彼の木の枝に三つの月輪あり」(引用文は一部を漢字に改めた)

八咫烏・金烏

『日本書紀』巻第三の神武天皇即位前三年[B.C.663]六月条[LINK]によると、神武天皇と兵士たちは高倉下が献上した神剣により回復したが、熊野の山中は険しくて道も無く、どちらに進むべきか判らなかった。 その夜の夢に天照大神が現れ「朕今頭八咫烏を遣す、以て郷導くにのみちびきとし給へ」と教えた。 果たして頭八咫烏が空から翔び降ったので、天皇は「此の烏の来ること、自づからに祥き夢に叶へり。大きなるかな、さかりなるかな。我が皇祖天照大神、以て基業あまつひつぎのわざを助け成さむと欲せるか」と仰った。 この時、大伴氏の遠祖日臣命は大来目を率い、烏の向かう方を仰ぎ見て追った。
また、神武天皇二年[B.C.659]二月朔日条[LINK]によると、神武天皇が東征の功を賞した時、頭八咫烏も賞の例に入り、その苗裔は葛野主殿県主となった。

中国神話で太陽に棲む「金烏」は八咫烏とは本来別物であるが、後代には同一視されるようになり、熊野の神使としての八咫烏も三本足の姿で描かれるようになった。

曽那恵

『紀伊続風土記』巻之八十五(牟婁郡第十七)[LINK]の本宮村の条に、
「七越峯 川の向四村荘高山村堺の峯なり。山上に備宿といふあり。修験者の行処にて玉置山よりの二の宿なり。備宿は役行者一千日修行の地といひ伝たり」
とある。

大斎原から熊野川を挟んだ対岸の七越峰から川に突き出した丘陵を備崎と云う。 中世の大峯奥駈道には行処として「百二十宿」が設けられたが、備崎にはその一つ「備宿」が置かれた。
近年の発掘調査により、熊野川から備宿に到る尾根筋には大規模な納経所(備崎経塚)が設けられていた事が判明した。 また、大斎原に面する北裾には熊野権現を礼拝する磐座や窟が存在する。

藤代

現在の和歌山県海南市藤白に相当する。 五体王子(後述)の一である藤白若王子権現社(藤白神社)が鎮座し、熊野の神域の入口となる「熊野一ノ鳥居」が有った。

『紀伊続風土記』巻之十九(名草郡第十四)[LINK]に、
「当社(藤白若王子権現社)勧請の由来詳ならす、相伝へて熊野一ノ鳥居と称す、意ふに熊野の盛なりし時此地に大鳥居を建て熊野一ノ鳥居とし遂に熊野神を遷し祭りしならん、大鳥居天文十八年[1549]に損失すと寛文記に見えたり〈鳥居の跡今の鳥居付近なり、社伝にいふ、当社は景行天皇五年[75]の鎮座にして、斉明天皇牟婁郡の温泉に浴し給ひし時[658]神祠創建したまひ、聖武天皇弱浦行幸の時[724]皇后の命を以て行基僧正此地より熊野の神を遙拝す、孝謙天皇玉津島行幸の時[765]熊野の広浜供奉請に依りて宣旨を奉して三山を此地に遷し祭り末代后妃夫人熊野遙拝の便とす、此等の由緒に因りて熊野一ノ鳥居と称す。古境内の入口に楼門あり。勅願の銘に日本第一大霊験根本熊野三山権現とありといふ〉」
とある。

八十四所の王子宮

摂津国の窪津(大阪府大阪市中央区天満橋付近)から熊野三山に至る参詣道(紀伊路・中辺路)に勧請された多数の護法神で、一般的には「九十九王子」と称する。

『両峯問答秘鈔』巻下[LINK]に、
「九十九所の王子は、大師先徳参詣の時、守護を為し随ひ来る神也」
とある。

以下の王子宮は九十九王子中でも別格の五体王子として重視された。

九品の地

光宗『渓嵐拾葉集』巻第六(山王御事)[LINK]に、
「今の熊野権現は日域の浄土也。故に一度参詣の輩は決定往生の者とは定むる也。故に彼の参詣の道に三輩九品の浄土を表相する故に、証誠殿の神拝は上品上生の往生と習ふ也。仍て心王の弥陀を拝見し奉る也」
とある。

『熊野山略記』巻三[LINK]に、
「熊野の霊地は、九品の浄刹を表す。所謂本宮には九品の鳥居有り」
とある。

中世の熊野詣とは「浄土入り」であった。
『源平盛衰記』第四十巻の「維盛入道熊野詣」[LINK]に、
「三位中将入道(平維盛)は、日数経れば岩田川に着き給ひて、一の瀬のこり(垢離)をかき給ふ。我都に留め置し妻子の事、露思ひ忘るゝ隙なければ、さこそ罪深かるらめども、一度この河を渡る者、無始の罪業悉く滅すなれば、今は愛執煩悩の垢をすゝぎぬらむと、〈中略〉其日は滝尻に着き給ひ、王子の御前に通夜し給ひ、後世をぞ祈り申されかる。〈中略〉明ぬれば峻しき岩間を攀ぢ登り、下品下生の鳥居の銘、御覧するこそ嬉しかれ。「十方仏土の中には西方を以て望みとす、九品蓮台の間には下品と雖も足んぬべし」と注し置たる諷誦の文、憑もしくこそおぼしけれ。高原の峯吹く嵐に身を任せ、三超の巌を越すには、発心門に着き給ふ。忉利の雲も遠からず。上品上生の鳥居額拝み給ては、流転生死の家を出て、即悟無生の室に入るとぞ思召す」
とある。
参詣者は岩田川(富田川)を徒渉し、滝尻王子で所定の儀礼を実修した後、険しい岩間を攀登して地蔵堂に辿り着く。 ここは浄土の入口で「下品下生」の鳥居が有る。 浄土へ足を踏み入れた参詣者は、「下品中生」から「上品中生」の鳥居(場所は不詳)をくぐり、発心門の大鳥居(=「上品上生」の鳥居)に辿り着いた。
(山本ひろ子『変成譜 —中世神仏習合の世界—』、第1章 中世熊野詣の宗教世界—浄土としての熊野へ、春秋社、1993)

金剛界の地

『神道集』には「此をは熊野権現と申す事も愚かの事かや、金剛界の地なり」とあるが、熊野は金剛界ではなく胎蔵界に配される事が多い。

『金峰山秘密伝』巻上の「熊野権現本地垂跡習事」[LINK]に、
「今大峰の南辺熊野権現は即垂跡此れ胎蔵界の諸尊大悲利生の曼陀也」
とある。

『渓嵐拾葉集』巻第六(山王御事)[LINK]に、
「先づ大峯とは真言両部の峯也。故に熊野は胎蔵の権現也。金峯山は金剛の権現也」
とある。

『両峯問答秘鈔』巻上[LINK]に、
「熊野より深仙に至るは胎蔵界、深仙より金峯に至るは金剛界也」
とある。

綏靖天皇

この逸話の出典は不明。 内容的にも前後との繋がりが皆無で、何故この逸話が唐突に挿入されたのか理解に苦しむ。

伊勢太神宮

参照: 「神道由来之事」内宮

惣当明神・鋳師明神

「惣当明神」の意味は不明。

筑土鈴寛は「三所権現が狩師千代包に三枚の鏡になって現れ、熊野本地の善財王が五剣を投うったところ、第一の剣が紀伊へ現れるという話、熊野社がいずれも鋳物に関係する話を伝えているのは注意すべきである」と指摘し、「そこで「熊野権現事」の条の「内侍所鋳師大明神預り」は「内侍所守護神」である熊野を指すものなのであろうと思う。即ち熊野鋳師大明神だと思うのである」と述べている。
また、『平家物語』剣巻について「白河院が熊野参詣をなさった時、花を供えて籠っていた山伏を熊野の別当に定められた。それが別当の初め教真であるが子孫重代別当たるべしというところから、源為義の娘たつたはらを教真に合せた。そして子孫代々別当職を継いだのである(剣の巻[LINK])。別当が山伏出であることは恐らく事実を伝えるものであろう。鋳物師明神の神人であるのだ」と述べている。
(筑土鈴寛『中世藝文の研究』、「諏訪本地・甲賀三郎」[LINK]、有精堂出版、1966)

内侍所・温明殿

参照: 「神道由来之事」内侍所

【参考】熊野権現御垂跡縁起

冒頭で言及されている縁起とは、『長寛勘文』に引用された「熊野権現御垂跡縁起」[LINK]を指すと思われる。
同縁起に、
「往昔甲寅年、唐の天台山の王子信(晋)の旧跡也。日本国鎮西日子の山峯(彦山)に雨降給ふ。其体八角なる水精の石、高さ三尺六寸なるにて天下り給ふ。次に五ヶ年を経て戊午年、伊予の国の石鉄の峯(石鎚山)に渡り給ふ。次六年を経て甲子年、淡路国の遊鶴羽の峯(諭鶴羽山)に渡り給ふ。次六箇年を過ぎ庚午の年三月廿三日、紀伊国無漏郡(牟婁郡)切部山の西の海の北の岸の玉那木の淵の上の松木の本に渡らせ給ふ。次五十七年を過ぎ、庚午の年三月廿三日、熊野新宮の南の神蔵峯(神倉山)に降り給ふ。次六十一年庚午年、新宮の東の阿須加の社(阿須賀神社)の北、石淵の谷に勧請し静め奉る。始め結・玉・家津御子と申す、二宇の社也。次十三年を過て壬午年、本宮大河原一位木、三本の末三枚に月形にて天降り給ふ。八箇年を経庚寅の年、石多河の南河内の住人熊野部千与定と云ふ犬飼、猪長一丈五尺なるを射、跡を追ひ尋ねて石多河を上り行く。犬猪の跡を聞て行に大湯原(大斎原)に行て、件猪の一位の木の本に死伏せり。宍を取て食ひ、件木下に一宿を経て、木の末の月を目付て問ひ申さく、「何なれば月虚空を離て木の末には御坐します」と申すに、月犬飼に答へ仰せられて云ふ、「我をば熊野三所権現とぞ申す、一社を証誠大菩薩と申す、今二枚の月をば両所権現となむ申す」と仰せ給ふ」
とある。