『神道集』の神々

第三十 仏前二王神明鳥居獅子駒犬之事

そもそも、仏陀の御前には二王、諸神の御前には鳥居を立てる。 また、社壇には獅子・駒犬が居る。 囲垣の頭を卒塔婆に造り、梵字を書かない。 これらの由来は何か。
権現は仏菩薩の垂跡の中では出家と同じである。 「得道来不動法性、自八正道垂権迹、皆得解脱衆生、故号八幡大菩薩」と云う。 また、『涅槃経』には「我滅度後、於末法中、現大明神、広度衆生」と説く。 大明神は仏菩薩の垂跡の中では在家と同じである。 出家の威儀は仏に近いので権現と名づけ、在家の威儀は遠いので明神と名づける。

仏陀・権現の御前に二王を立てる事であるが、ある釈に、金剛力士は定恵の二法である故に諸仏の前に立てると云う。 『西域記』によると、執金剛力士は仏の滅度を見て悲慟し、「如来は大涅槃に入った。これからは帰依する者も覆護する者も無い。(煩悩の)毒箭は深く入り、(愁いの)火は盛んになっている」と云った。 同記の巻三によると、天竺の烏仗那国の瞢掲釐城と云う処に阿波邏羅龍泉が有り、此の池の龍は地利を損傷していた。 釈迦如来には大慈大悲があり、此の国の人が難に遭う事を愍み、龍を教化する為、執金剛神は金剛杵を用いて山崖を砕いた。 龍王は恐れて仏に帰依し、仏法を聞いて心に常に信じ、如来に制されて、農を損じる事は無かった。 既に金剛力士を以て悪龍を降伏し、国土の地利を成就し、其の後は国土も豊饒となった。 権現は仏菩薩の垂跡の中では仏の威儀に近いので、御前に二王を立てるのである。

鳥居を立てる事であるが、『西域記』巻十二によると、天竺の都貨羅国の人の多くは三宝を信じ、少数の人が諸神に仕えている。 伽藍は十余所で、僧衆は百人余有り、管鉄門のみ有る。 その南の諸小国では多くの鳥居を立てている。 この文によると、天竺の習慣では、大国では寺の前に門を立て、小国では寺の前に鳥居を立てる。 皆仏菩薩の化身である。 本地は皆徳度なので、大国に順じる。 垂跡は功徳が小さいので、小国に随って鳥居を立てるのである。

獅子・駒犬を神の御前に立てる事であるが、『西域記』によると、天竺の給孤独国の東南に卒塔婆が有る。 これには如来の遺身舎利が有る。 石柱は三十余尺で、上に獅子の像を彫刻し、傍らに寂滅の事を記している。 また、如来の右脇には獅子が伏せている。 同記の巻九によると、提婆達多は未生怨王と親友となり、護財という酔象を放って如来を害しようとした。 如来は指の端から五匹の獅子を出したので、酔象はおとなしくなり、如来の前に伏した。 如来は三界の独尊である。 提婆は五天竺の独悪人である。 従って、提婆の害を、獅子と現れて除くのである。 他の仏菩薩も同様である。 悪逆を防ぐ為、大国の習慣では仏の御前に必ず獅子・駒犬が居る。 此の法に順じて、神の御前には必ず獅子・駒犬が居るのである。
問、仏の御前に獅子・駒犬が居るが、その心は如何なものか。
答、獅子・駒犬は障碍を成して外道を防ぐ為である。 寺毎に守護を立てるのは、仏法守護の故で、獅子・駒犬が居る事で苦を免れる。

囲垣に卒塔婆を造る事であるが、『西域記』巻一によると、昔如来が初めて仏果を証し、菩提樹より起って鹿園に詣でた時、二人の長者が敬礼の儀式を請うた。 如来は袈裟を四角く畳んで下に敷き、鉢を伏せ、その上に錫杖を立てた。 以上の次第で卒塔婆を作る。 此れには梵字は無い。
問、神社に卒塔婆を立てるのは何故か。
答、神が衆生を悩乱する悪魔を降伏し、仏道に引き入れる為である。 卒塔婆には三世の諸仏が在る故に、外道は恐怖する。 同記の巻八によると、菩提樹の東に卒塔婆が有る。 ここは魔王が菩薩を悩ました処である。 または、魔王が菩薩を恐れた処とも云う。 これらの文を以て明証とし、衆生利益の為、悪魔降伏の為、囲垣の首に卒塔婆を作るのである。

二王

『望月仏教大辞典』の二王尊の項[LINK]には、
「二個の天王尊の意。又仁王に作り、二天王、或は二天とも称す。即ち寺門の左右両辺に安置せらるゝ金剛力士の像を云ふ」 「金剛力士に関しては、安然の胎蔵金剛菩提心義略問答抄第二末項[LINK]に「密迹力士経に云はく、力士あり金剛密迹と名づくと。注梵網経に云はく、昔千二の王子あり、時に千の王子は発心成仏し、其の二王子は誓つて仏法を護ると。今諸寺門の金剛力士の二像是れなり」と云へり。是れ大宝積経第九密迹金剛力士会[LINK]に、往昔転輪聖王勇郡に千の太子及び法意法念の二王子あり、千の太子は次第に成仏して賢劫千仏となり、又法意は金剛力士となりて常に仏に親近せんことを誓ひ、法念は梵天王となりて転法輪を請せんことを誓へりと云ふの説に基き、彼の法意法念の二王子を以て今の二王像となすの意なり。但し法意を金剛力士と称することは既に経中に説く所なるも、法念は梵天王となると云へば、之を金剛力士と名づけ、密迹金剛と対立せしめんとするは妥当ならざるが如し」 「又塩尻第三十一[LINK]に「或曰、吾子先に寺院の二王を両金剛といふべきよしいへり。但し経軌の説、二像の事なし如何と。答ふ、出家論を見るに、右弼金剛左輔密迹といへる者此両金剛にして、二神の像を左右に並ぶ。右弼金剛は倶舎疏に所謂那羅延是れなり、人種神と訳。此神、天の力士にして一切の悪鬼を駆。天刑星の像此神を頂に安ず」と云へり。是れ二王は左を左輔金剛又は左輔密迹、右を右弼金剛と名づくとし、其の中、左輔は密迹金剛力士にして、右弼は那羅延なりとなすの説なり」 「此の力士が金剛杵を執り、仏の左右に侍衛せることは、大宝積経密迹金剛力士会等に説く所なれば、仏の守護神として遂に之を門側に配する風を生じたるものなるべく、又之を開口閉口の二尊とするは、左右配置の必要より起りしものにして、別体の二神には非ずとなすべきが如し」
とある。

獅子・駒犬

『神道大辞典』の狛犬・高麗犬・胡麻犬の項[LINK]には、
「神社社殿の内外に守護と装飾との意味を兼ねて置かれる一対の獣形。獅子狛犬。獅子形とも云ひ、寺院に置かれることもある」「もともと狛犬の原形は上代漢韓の方面から舶載せられたものと思はれ、初めは宮殿の調度の一として用ひられ、その後神社・寺院にも移し用ひられたものであろう。即ち之を獅子の変形とし、韓土から来た故高麗犬と云ひ、狛は貊(貃)国(三韓の属)の貊が訛つて用いられたものとするのを通説とする」
とある。

得道来不動法性……故号八幡大菩薩

参考:「宇佐八幡事」勝尾寺

『涅槃経』

この語句は『悲華経』に仮託する事が多い。
参照: 「神道由来之事」『悲花経』

『西域記』

『大唐西域記』を指す。 玄奘が西天取経の旅で見聞した内容を、弟子の弁機が筆録した書物である。

巻第六の拘尸那掲羅クシナガラ国の条[LINK]には、
「普賢寂滅の側に窣堵婆有り。是れ執金剛の地に躃し処なり。大悲世尊は機に随つて利見し、化功は已に畢つて寂滅楽に入る。双樹の間に於いて北首して臥せり。執金剛神・密迹力士は仏の滅度を見て悲慟して唱言せり。「如来は我を捨てゝ大涅槃に入れり。帰依無く覆護無し。毒箭深く入つて愁火熾盛なり」と。金剛杵を捨て悶絶して地に躃る」
とある。

巻第三の烏仗那ウッディヤーナ国の条[LINK]には、
瞢掲釐マンガラ城の東北二百五六十里を行て大山に入り阿波邏羅アパラーラ龍泉に至る。即ち蘇婆伐窣堵シュバヴァストウ河の源なり。西南に派流して、春夏も合凍し、昏夕は雪を飛ばす。雪霏は五彩にして、光流は四を照らす。此の龍は迦葉波仏の時に生れて人趣に在り。名づけて殑祇ガンギと曰ふ。深く咒術を閑ひ、悪龍を禁禦して暴雨せざらしむ。国人は之れに頼つて余糧を蓄ふ。居人・衆庶は恩を威じ徳に懐き、家ことに斗穀を税して以て饋遺す。既に歳時を積んで、或は逋課するもの有り。殑祇は怒を含み、願はくは毒龍となり、風雨を暴行して苗稼を損傷せんと。命終る後に、此の池の龍と為つて、泉に白水を流して地利を損傷す。釈迦如来大悲御世は此の国人の独斯の難に遭ふを愍む。降神して此に至つて暴龍を化せんと欲す。執金剛神は杵にて山崖を撃つ。龍王震懼し乃ち出て帰依す。仏の説法を聞いて心浄く信悟せり。如来は遂に制して農稼を損すること勿らしむ」
とある。

巻第十二のグワル国の条[LINK]には、
「活国は覩貨邏トカラの故地也。〈中略〉三宝を信ずるもの多く、諸神に事ふるものは少し。伽藍は十余所、僧徒は数百人ありて、大小の二乗は功を兼ねて綜て習ふ。其の王は突厥也。鉄門已南の諸小国を管し、遷徒し鳥居して其の邑を常にせず」
とある。 しかし「遷徒鳥居」は「鳥の如く諸方に移り住み」(水谷真成訳『中国古典文学大系22 大唐西域記』、平凡社、1971)の意味であって、これを神社の鳥居と解釈するのは誤読である。

巻第六の劫比羅伐窣堵カピラヴァストゥ国の条[LINK]には、
「城南五十余里を行て故城に至れば窣堵婆有り。是れ賢劫中人寿六万歳の時に迦羅迦村駄仏の本生の城也。城南遠からずして窣堵婆有り。正覚を成じて父を見し処なり。城の東南の窣堵婆に彼の如来の遺身舎利有り。前に石柱を建て、高さ三十余尺あり。上に獅子の像を刻して、傍に寂滅の事を記せり。無憂王の建つるところ也。迦羅迦村駄仏城の東北三十余里を行けば故大城に至る。中に窣堵婆有り。是れ賢劫中人寿四万歳の時に迦諾迦牟尼仏の本生の城也。東北遠からずして窣堵婆有り。正覚を成じて父を度せし処なり。次北にの窣堵婆ありて彼の如来の遺身舎利有り。前に石柱を建て、高さ二十余尺あり。上に獅子の像を刻して、傍に寂滅の事を記せり。無憂王の建つるところ也」
とある。

巻第九の摩掲陀マガダ国下の条[LINK]には、
「宮城の北門外に窣堵婆有り。是れ提婆達多が未生怨王(阿闍世王)と共に親友と為り、乃ち護財といふ酔象を放つて如来を害せんと欲す。如来は指端より五師子を出せり。酔象は此に於いて而前に馴伏せしところなり」
とある。

巻第一の縛喝バルク国の条[LINK]には、
「大城の西北五十余里にして提謂トラプサ城に至る。城の北四十里に波利バリカ城有り。城の中には各一の窣堵婆有りて高さ三丈に余れり。昔如来初めて仏果を証し、菩提樹より起つて方に鹿園に詣らんとす。時に二の長者あり、彼の威光に遭ひ、其の行路の資に随せて遂ち麨蜜を献ず。世尊は為に人天の福を説く。最初に五戒・十善を聞くことを得たり。既に法誨を聞いて供養する所のものを請ふ。如来は遂ち其の髪と爪とを授けたり。二の長者は将ちて本国に還りて礼敬するの儀式を請ふ。如来は僧伽胝(袈裟)を以て方に畳んで下に布き、次に欝多羅僧(上衣)、次に僧却崎(肌衣)、また鉢を覆ひて錫杖を竪てたり。是の如く次第して窣堵婆を為れと。二人は命を承け各その城に還り、儀を聖旨に擬し式て修めて崇く建てたり。斯れ則ち釈迦法中の最初の窣堵婆也」
とある。

巻第八の摩掲陀国上の条[LINK]には、
「菩提樹の東の大路に左右に、各一つの窣堵婆有り。是れ魔王が菩薩を嬈さんとせし処也。菩薩将に仏果を証せんとす。魔王は輪王(転輪聖王)を受けんことを勧め、策説すれども行はれず。殷憂して返る」
とある。