『神道集』の神々

第二十一 能登国石動権現事

石動権現には男体・女体がある。
男体の本地は虚空蔵菩薩である。
女体の本地は如意輪観音である。

また七社の王子があり、本地は皆七仏薬師である。
第一社の本地は善逝薬師如来である。
第二社の本地は善吉祥薬師如来である。
第三社の本地は称吉祥薬師如来である。
第四社の本地は称名珠妙薬師如来である。
第五社の本地は消除病患薬師如来である。
第六社の本地は消滅苦悩薬師如来である。
第七社の本地は薬師瑠璃光如来である。

石動権現(男体)

伊須流岐比古神社[石川県鹿島郡中能登町石動山]
祭神は伊弉諾尊で、相殿に伊弉冉尊(客人)・大物主命(火宮)・天目一箇神(梅宮)・市杵島姫命(剣宮)を配祀。
式内社(能登国能登郡 伊須流支比古神社)。 能登国二宮。 旧・郷社。

『石動山古縁起』[LINK]によると、南閻浮提には万物の種子を生じる護命があり、それは朝字・動字・竹字の三石である。 朝字石は阿逸多王宮、動字石は金剛証大宝満宮、竹字石は岩金島宮に在る。
福祐自在を預る天目一箇尊の座す峰であるので、金剛証宝満峰石動山と名づける。
崇神天皇の御代、天照大神の神勅により諸国に神社が創建された。 石動山に十三番目の神社が創建され、方道仙優婆塞が派遣された。 同天皇六年[B.C.92]、石凝姥の初子を召して真経津鏡を、天目一箇尊の初子を召して神代の剣を鋳移させた。 三番目に鋳移した宝剣が当山に在る。 同年三月十三日に宝満宮の立柱式、四月晦日に上棟式が行われ、六月十三日に鎮座した。
方道仙人は天竺摩訶陀国の仙人で、七百歳を経て来朝し、開化天皇の御宇に越中州鈴御崎に住した。 垂仁天皇の第一皇子・誉津別王は三十歳になっても言葉を発しなかった。 方道仙人が勅を受けて宝満宮の御宝前で仙法を修すると、誉津別王は空を飛ぶ鵠をご覧になって「何や」と初めて言葉を発した。
方道仙人は登空するまで三十代八百八年の間、神威を以て当山を護持した。
霊亀二年[716]に役優婆塞が宝満宮において求聞持頭巾法を修した。
同年、越中から四郡を分け、方道仙人の登空の故に「能登」と称した。
宝満大権現の神託により、智徳上人優婆塞は元正天皇から太朝大師の号を蒙り、養老元年[718]三月三日に石動山に登って求聞持頭巾法を修した。 天平勝宝八年[756]六月七日、太朝大師は大礼堂を造新した。
天平宝字元年[758]三月十一日、勅使の左大臣藤原家通公が下着し、大宮坊に宿した。 住持は優婆塞陀智伝で、太朝大師の第一の弟子である。 三月十三日、勅使は宝満宮の御宝前で献拝して御殿の扉を開き、「天地開闢の時、明星が大いに興り、虚空蔵の身を現し、六大無碍の大深誓を示した。[中略]当山は求聞持頭巾法を護持する峰である。住侶は優婆塞の姿を為し、必ず三蔵婆羅門の翻訳された教えに順うべきで、別行に順えば動字真昭の霊地は滅亡する。優婆塞和美の姿を堅固に為せば浄地となるだろう。天照太神は天目一箇尊に九四を鎮定させ、伊弉諾・伊弉冊二神陰陽の和偈の所である。今日今時より、皇基を護り、四海太平に万性扶楽甘露味の実定を洒ぐべきである」と勅宣した。
同七年、孝謙上皇の重祚のため、優婆塞が二位宮と三宮を造新し、中禅動字閣に於て求聞持頭巾法を修し、入峰して採燈護摩を行った。 天平神護元年[766]、孝謙上皇が重祚即位され、太朝大師は正一位大僧正を賜った。 太朝大師が金剛証宝満宮の御宝前で上拝すると、宝満宮は大師に「無上福智大明星 値遇不断優婆塞 天地開闢為不失 諸神摩頂先業滅 不失人身生々世 我苦与楽授吉祥」の六句の偈を授けた。
大宝満宮には九神九曜星王が相殿に祀られ、正殿の虚空蔵灌頂仏の宝冠には五仏が座す。 二位宮には十六神、三宮にも十六神が相殿に祀られる。

林羅山『石動山新縁起』[LINK]によると、太古に石動山に星が墜ちて三つの石と為り、天に有る三光を象った。 あるいは、天漢(天の川)より石が流れ下ったので石動山と云う。 『延喜式』所載の能登国能登郡の伊須流岐比古神社が是れである。
伊須流岐山は泰澄法師が開いた山で、白山の霊神と同一体である。 ある日、沙門行基が泰澄を来訪して晤語し、後生の浄域を相約して辞し去った。 泰澄は白山の神仏を石動山に勧請した。 金剛証宝満宮が是れである。

長谷川忠崇『飛州志』巻第四(神祠部)の岩井戸権現宮(木葉神社[岐阜県高山市上宝町岩井戸])の条[LINK]に引用された石動権現の縁起には、
「(人皇四十四代元正帝)御宇養老元年丁巳四月、越智の泰澄勅を奉して当山に住す、同四十六孝謙帝の御宇天平勝宝八年甲午、勅願によつて講堂を造立し玉ひ、其余一山の寺院悉く成る、因て石動山天平勝宝寺と称せられ、吾日域の鬼門を守護すべき旨、泰澄を鎮護国家の大法師として加賀能登越中越後佐渡信濃飛騨七州を寄せらる、所謂祭神五社、第一本社大宮大権現は伊弉諾尊、本地虚空蔵菩薩、第二客人大権現は伊弉冊尊、本地十一面観世音菩薩、第三火宮蔵王大権現は大物主神、本地聖観世音菩薩、第四梅宮鎮定大権現は天目一箇命、本地勝軍地蔵菩薩、第五剣宮降魔大権現は市木島姫命、本地倶利迦羅不動明王也」
とある。

『白山禅頂御本地垂迹之由来私伝』[LINK]には、
「(白山の)第二は越南地伊弉諾の尊、本地阿弥陀如来月天子、即香集世界の主、正法明如来と号す。石動山にては垂跡金色太子とあらはれ玉ふ、弥陀如来と虚空蔵分身示現の躰、大己貴・石動山霊所各所の儀に不有」
とある。

神仏分離により石動山天平寺は廃され、伊須流岐比古神社となった。 明治七年[1874]に本社(大宮・客人)が大御前から遷されて本殿となり、摂社の火宮・梅宮・剣宮も廃されて本殿に合祀された。

石動権現(女体)

石動山では白山権現(本地は十一面観音)を客人権現として大御前に祀っていたが、『神道集』では白山との関係は言及されず、女体の本地は如意輪観音となっている。
『鹿島町史 石動山資料編』[LINK]では「白山の主神に先行して、白山の中宮(本地如意輪観音)が客人権現として石動山に迎えられていた段階があったことが語られているのかもしれない」と述べている。

中世末期には白山権現と石動権現の関係を説く所伝が見られるようになった。
例えば、実悟『拾塵記』[LINK]には、
「白山権現と云はいざなみの尊也。大唐にしては、ヽヽ国の王たり。日本へ移り、仏法守護のため石動権現と夫婦として、石動へうつり給て、後に白山へうつり給う時、此釼村の上院の水をまいらせしに、あつぱれ清き(さはかな)と、被仰しより、此所を清沢(現・鶴来清沢町)と云也」
とある。

『神道集』では石動権現を男体・女体の二所とするが、後代はこれに摂社の火宮・梅宮・剣宮を加えて石動五社権現とする。

森田平次『能登史徴』巻四(鹿島郡)[LINK]には、
「火御前 大御前の次に二嶺あり。左の峯を火御前或は火宮と称し、嶺上に一社ありて火宮権現と呼べり。石動山伝説に、火宮蔵王大権現 火物主尊(大物主尊)。神祭十一月一日とあり。社号帳には、軻遇突智神とす。此は火てふ言に依ていひ出たるなるべし。[中略]越中砺波郡芹谷千光寺記に、「第二世智徳上人、能州石動山致中興、即彼山へ当山地主火宮権現を被勧請」とあり。されば火御前の神は、彼地より智徳上人の勧請せしなるべし」
「梅宮 火御前の右の一峰にて火御前と並べり。此峰をば梅宮と称し、嶺上に一社ありて梅宮権現と称す。石動山伝説に、梅宮鎮定大権現 天目一箇尊。神祭三月廿四日とあり。[中略]後の社号帳には、大若子神・小若子神・酒解神・酒解子神の四座とす。按ずるに、此は山城国葛野郡梅宮四社の祭神に依て、神官の推当たるものなるべし」
「剣御前 火御前の下なる一峰なり。剣御前或は剣宮と呼べり。嶺上に一社ありて剣宮権現と称す。石動山伝説に、剣宮降魔大権現 市木島姫尊。祭礼十一月三日とあり。按ずるに、市木島姫尊は筑前国宗像三神の一柱にて、石動山に此神を祀れるゆゑよし詳ならず。降魔大権現とも称し、又本地倶利迦羅不動明王なるよし石動山伝説に載せたれば、此神霊は男神なる事いちじるし。[中略]又大御前に白山の神を祀れば、此の剣宮は白山の御子神なる、金剱宮の神霊をば勧請せしなるべし」
とある。

由谷裕哉は『地方修験の宗教民俗学的研究』[LINK]で「五社のうち、例えば、梅宮の本地・将(勝)軍地蔵は羽咋市の気多神社の、またおそらく火宮の本地・聖観音も気多神社若宮の、さらに剣宮の本地・倶利迦羅不動は石動山と峰つづきの倶利伽羅山長楽寺の、それぞれ本地を石動山に勧請したのではないかと推測される」と述べている。
垂迹本地
石動五社権現大宮権現(男体)虚空蔵菩薩
客人権現(女体)十一面観音
火宮聖観音
梅宮勝軍地蔵
剣宮倶利迦羅不動明王

七社の王子

不詳。
義浄訳『薬師瑠璃光七仏本願功徳経』巻上[LINK]に説く七仏薬師の名称は、善名称吉祥王如来・宝月智厳光音自在王如来・金色宝光妙行成就王如来・無憂最勝吉祥王如来・法海雲雷音如来・法海勝慧遊戯神通如来・薬師瑠璃光如来であり、『神道集』における七仏薬師(薬師瑠璃光如来以外)の名称は、管見の限り他では見られない。