『神道集』の神々

第十九 越後国矢射子大明神事

越後国の一宮は矢射子大明神である。 この大明神は美大菩薩で、本地は阿弥陀如来である。
二宮は両田大菩薩、また土生田大明神とも称す。 本地は阿弥陀如来である。
三宮は八海大明神である。 本地は薬師如来である。
矢射子大明神は和銅二年に顕れた。

北陸道には道前・道後の二社が有り、兄弟である。
道前は気比大菩薩、越前国に鎮座している。 本地は大日如来である。
道後は気多大菩薩、能登国に鎮座している。 本地は地蔵菩薩である。

矢射子大明神

弥彦神社[新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦]
祭神は天香山命。
式内社(越後国蒲原郡 伊夜比古神社〈名神大〉)。 越後国一宮。 旧・国幣中社。
史料上の初見は『続日本後紀』巻第二の天長十年[833]七月戊子[3日]条[LINK]の「越後国蒲原郡伊夜比古神、名神に預る。彼の郡旱疫有る毎に雨を致し病を救うを以てなり」。

『弥彦神社古縁起』[LINK]には、
「仁王四十三代の御門元明天王の御宇和銅二季[709]己酉年秋八月上旬の頃、当社明神西天弥彦の国より忝も此の日本扶桑朝秋津嶋の末越後の州米水浦(現・新潟県長岡市寺泊野積)奥に七日間浮かんで、光明浪を照らし、異香空を薫す。其時海人之れを恠て、時々之れを拝し奉り、奇異不思議共多かりき。其後太子之浦と云ふ所に御着岸有て、然るべき霊地を御尋ね御座すと云ひ、未だ其の地を卜さず。程歴へて後、御夢想の御告により、御迎に参る。其末は今の坂上と申す河内の一類是れ也。[中略]然るに和銅二年に来臨在て、初て桜井郷と云ふ所(桜井神社[新潟県西蒲原郡弥彦村麓]付近)に御座。其後養老三年[719]御造営」
「本地之事、託して曰く、「我が本地四十八年在て顕すべし」と。夢想の告有て後、遥かに四十余年春秋を送る。孝謙天皇御宇天平勝宝年中[749-756]金智大師来臨の時、垂迹本地阿弥陀如来を顕し奉る也」
とある。

『伊夜日子宮旧伝』[LINK]には、
「天香児山命〈熊野神邑住賜時の御名を熊野高倉下命、後に越後国米水浦住賜時の御名手繰彦命、尾張連元祖、越後国一ノ宮〉 御母は神皇産聖命乃御娘、天上にて御誕生あり。御伯父命瓊々杵命日向に天降賜ふ時、供奉神三十三の長臣と成玉ふて天降奉仕、久敷座て御伯父崩御かみあがり賜ひて、日向の可愛山陵に葬りたてまつる。是より紀伊国熊野に住賜ふ。韴霊ふつのみたま剣を賜て神武天皇に献り、皇帥を助け奉り天下治り。同天皇四年[B.C.657]越州を賜て、熊野の神邑を出賜ひ、神船にて越の米水の浦に着岸。一の岩窟に住賜ふ後、伊夜日子山に移り、佐久良井郷に住賜て、孝安天皇元年[B.C.392]神身を隠玉ふ」
とある。 また、
「天璽十種の神宝・韴霊剣の神威徳を伊夜彦山に鎮祭、皇孫の命の宝祚の隆栄玉ふ。天下安国と治り、文武の永き守護と称言上賜ひしより、此山を神剣峰と称号し、神武天皇の勅命以来、此御山を伊夜日子の神官守護仕り今に伝り〈十宝山とも神宝山とも申す〉、又国上峰有、伊夜日子の神此峰に天祖二柱の神を祭りて国家の守護とす」
とある。
垂迹本地
弥彦大明神阿弥陀如来

美大菩薩

不詳。
吉田東伍は『越後の国土と弥彦の神社』[LINK]で「諸社根元記[LINK]宣現大明神とある宣も美の誤にて、美現ならむ。神道集に美大菩薩矢射子大明神とあるも美犬にての誤描ながら、共に弥彦の音読に外あらず」と述べている。

両田大菩薩(土生田大明神)

物部神社[新潟県柏崎市西山町二田]
祭神は二田天物部命。 一説に宇摩志麻治命の異名とする。
式内社(越後国三嶋郡 物部神社)。 旧・県社。

『二田宮伝記』[LINK]によると、越の御島郡二田の里に鎮座する物部神社は、太古に天照国照日子火明命が天降った時に御供して奉仕した二田天之物部命を祀る。 火明命は大倭国に座し、御子の天香語山命に天之物部命を副えて北辺の国に遣わされた。 天香語山命は天之磐船で石地(新潟県柏崎市西山町石地)の浜に上陸した。 そこで二神は別れ、天香語山命は弥日子の高峯(弥彦山)に住まわれた。 天之物部命は国中巡見後に石地の辺に還り、多岐佐加の二田を献じられ、そこに居を定めた。 故にその里を二田と号し、天之物部命を称して二田天之物部命と云った。 命はこの地で薨去され、二田の里の土生田の高陵に葬られた。 近里の人々がその霊を石地に斎祭したのが二田物部神社の始まりである。 崇神天皇元年[B.C.97]に二田天之物部命の神託があり、十二世孫の稚桜命が神社を石地から南大崎の浦に遷座した。 同三十三年[B.C.65]に武室住連と五十君連(共に宇摩志麻治命の子孫)が稚桜命と協力して大崎の神殿を改め造った。
社伝の一本には「祭神天物部命、本名可美真手命。此神御父者櫛玉饒速日命、御母者大和国見島御炊屋姫命也〈長髄彦之女也〉」とあり、天物部命を天香語山命の弟とする。 大崎鎮座までは上記と同様だが、その後の遷座を「推古天皇之十一年[603]、大崎社より遷して亀岡山の半腹に斎き奉りき」「聖武天皇神亀二年[725]、神託に由て亀岡山之半腹を土生田之岡に遷し奉りき」「嵯峨天皇弘仁八年[817]、神託に由て土生田岡の社を亀岡山の頂に遷し奉る」「後冷泉天皇之永承六年[1051]、土生田の社殿興造の事始まり、同天喜元年[1053]、九月に至りて竣れり」「鳥羽天皇之天仁元年[1108]、神託に由て土生田山の神社を亀岡山之麓に移し奉る、是今の社也」と記す。
垂迹本地
両田大菩薩阿弥陀如来

八海大明神

八海山は越後魚沼地方を代表する霊山で、江戸時代には不動岳の万年堂に八海大明神を祀っていた。
丸山元純『越後名寄』巻二の八海山の条[LINK]には「頂に権現の万年堂有り〈石にて小に作りたる社を俗に万年堂と云〉」、小田島允武『越後野志』巻六の八海山の条[LINK]には「峯に八海大明神の祠堂あり。石にて作れる小堂なり。万年堂と名づく。毎年八月朔日、諸人登て香花を奉る」とある。

八海山の各登拝口には里宮や元里宮が鎮座する。
『神道集』が成立した頃の越後国三宮や本地仏(薬師)を奉安していた寺院は不明であるが、城内郷には室町期の薬師如来を本尊とする八海山長福寺[新潟県南魚沼市上薬師堂]が在り、中世には八海山信仰と八海山登拝の中心だった可能性がある。
(『山岳宗教史研究叢書9 富士・御嶽と中部霊山』、鈴木昭英「八海山信仰と八海講」、名著出版、1978)

『八海山案内』に引用する八海神社元里宮[新潟県南魚沼市長森暮坪]由緒[LINK]には、
「抑八海神社元里宮御鎮の由縁は人皇十六代応神天皇の御宇大和国豊明の都に御座ます栗田藤麿清原政次の苗裔清国大人願望に依り日向国高千穂櫛触嶽に参籠の砌り一夕神憑りありて宣り給はく「予等は是、元気水徳神国狭槌廼尊、次に天津日子火瓊々杵尊神、次に伊茂の神々吾田鹿葦津比咩の三神なり。是より越後の霊峰八海の山頂に移り鎮り永く天の下を鎮護せむ。汝奉じ行きて祭祀せよ」と宣給ふに依りて帰国後に八苗の氏子(北村、上村、行方、遁所、貝瀬、関、山本、山崎)を誘引し応神天皇三年壬辰[272]七月十六日に城内の郷に下向[中略]其後数日にして山頂に三柱の大御神を奉安し帰りて現今の暮坪の地に遥拝所を設け八苗の氏子と共に適宜に居を定めらる」「然るに醍醐天皇、延喜年中諸国神社御改めの御沙汰に依り八苗の氏子と共に力を合せ社殿を建立し延喜十三年癸酉[794]の二月九日を卜し春季祭日と定め郷中鎮守の社として奉仕す」
とある。

『八海山御伝記』には、
「夫れ八海山は天地開闢元気水徳神国狭槌尊の霊魂留ると雖も、此に空海上人湯殿山開闢の節、当国海辺を通り、東より紫雲靉靆、是より奥に霊山有り、夫れより登山あり。此に霊松の木あり、大聖松神社と名づけ、三日三夜の護摩修行有り。大聖歓喜天を勧請あり。山頂に不動明王を祭る。其の後大師行者普寛に告て曰、「八海山奥院屏風か磐に霊魂留り、汝開闢し衆生の献燈是え上る」と告にけり。夫れより行者登山有り、屏風奥院に大頭羅神王勧請あり」
とある。
(『八海山開闢伝紀』によると、普寛は寛政六年[1794]六月十八日に屏風本社を創建した)
垂迹本地
八海大明神薬師如来

気比大菩薩

気比神宮[福井県敦賀市曙町]
本殿の祭神は伊奢沙別命・仲哀天皇・神功皇后。 一説に伊奢沙別命を保食神の異名とする。
東殿宮の祭神は日本武尊、総社宮の祭神は応神天皇、平殿宮の祭神は玉姫命、西殿宮の祭神は武内宿禰。
式内社(越前国敦賀郡 気比神社七座〈並名神大〉)。 越前国一宮。 旧・官幣大社。
史料上の初見は『日本書紀』巻第九の神功皇后摂政十三年[213]二月甲子[8日]条[LINK]の「武内宿禰に命せて、太子に従ひて角鹿の笥飯大神を拝みまつらしむ」。
また、同書・巻第三十の持統天皇六年[692]九月戊午[26日]条[LINK]に「詔して曰く、白蛾を角鹿郡の浦上之浜に獲たり。故れ封を笥飯神に増すこと二十戸、前に通はす」とある。
『越前国神名帳』には敦賀郡に「正一位勲一等気比大明神」とある。

『古事記』中巻[LINK]には、
「建内宿禰命、其の太子を率てまつりて、禊せむとして、淡海また若狭国を経し時に、高志前の角鹿に、仮宮を造りてませまつりき。かれ其地にます伊奢沙和気大神之命、夜の夢に見えて、「吾が名を御子の御名に易へまく欲し」と云りたまひき。爾言祷ぎて、「恐し、命の隨に易へ奉らむ」と白しき。亦其の神詔りたまはく、「明日の旦、浜に幸すし。易名のゐやじり献らむ」とのりたまひき。故其旦、浜に幸行せる時に、鼻毀れたる入鹿魚、既に一浦に依れり。是に御子、神に白さしめたまはく、「我に御食の魚給へり」と云さしめたまひき。故亦其の御名を称へて、御食津大神と号す。故今に気比大神となも謂す」
とある。

『日本書紀』巻第十[LINK]には、
「一に云ふ、初め天皇太子と為りて、越国に行して、角鹿の笥飯大神を拝祭みたてまつりたまふ。時に大神と太子と、名を相易へたまふ。故、大神を号けて、去来紗別神と曰し、太子をば誉田別尊と名づくといふ。然らば大神の本の名を誉田別神、太子の元の名をば去来紗別尊と謂すべし」
とある。

光宗『渓嵐拾葉集』巻第三十七(弁財天縁起 末)[LINK]には、
「気比とは、金剛界大日如来也。故に男子を以て社官と為す也」 「本地の事、仲哀天皇示現大日如来也」
とある。

吉田兼倶『延喜式神名帳頭註』[LINK]には、
「気比 風土記に云、気比神宮は宇佐と同体なり。八幡は応神天皇の垂跡、気比明神は仲哀天皇の鎮座なり」
とある。

『気比宮社記』[LINK]によると、越前州一宮正北陸道大社一位勲一等気比太神宮は、足仲彦天皇(仲哀天皇)・気長足媛尊(神功皇后)・地神保食太神が鎮座する。 豊葦原中州大地主の保食神は一名を倉稲魂命と称し、神代よりの霊社である。
保食神は五穀・百穀の播殖を始め、養蚕の道を開いた。 これにより国土は豊穣となり、民は飢寒の憂いが無くなった。 天照皇太神は天上でこの事を知り、月読尊に「汝、葦原中国に降り、保食神の作業をよ。且つ、彼の神の有する所の品の物種を尽く吾が高天原に奉れ」と勅した。 月読尊が保食太神の許に到ると、保食太神は拝迎して欣悦し、国に嚮って稲・麦・黍・粟・稗・大豆・小豆を出し、山に嚮って毛のにこもの・毛のあらものを出し、海に嚮って鰭のひろもの・鰭のさものを出し、口より出した品物を多数のつくえに並べて饗した。 月読尊はこれを見て「穢しきかな、鄙しきかな、何ぞ口より吐れる物を以て、敢へて我に養ふべけむ」と忿激し、直ぐに天上に昇って其の状を上奏した。 天照皇太神はまた天熊人神を往かせたが、保食太神は已に神退られていた。 天熊人神が保食太神の事業を看ると、稲を以て田種とし、麦・黍・粟・稗・豆を以て畠種とし、牛馬を農業の助けに使い、桑を植えて養蚕を始め、蚕から糸を採って絍織を為していた。 天熊人神はその品々を持って天に登り、天照皇太神に奉進した。 天照皇太神はこれを御覧になって大いに喜ばれ、耕織の術を拡充された。 天下の公民は保食太神の恩沢を永く蒙ったので、此の州に宮柱を立てて笥飯太神と崇め、その地を笥飯浦と号した。
仲哀天皇二年[193]二月六日、天皇は此の州に行幸し、行宮を建てて笥飯宮と謂った。 天皇親しく笥飯太神に奉幣して拝祭し、神功皇后に「朕此の国を望見するに、海陸相通じ当に異賊を防ぐ地なり。朕八洲を巡見して後、宮室を此の地に作し永居せんと欲すなり。且つ新羅久しく帰化せず。[中略]朕先づ南国を巡狩すべし。汝皇后此の地に留り、笥飯神を祀り、三韓を退治せんことを祈りて、宜しく北国海路の消息を聞すべし」と勅した。 天皇は三月十五日に此の津を出発し、紀伊国に到って徳勒津宮に居した。 四月に穴門国に行幸し、遠く皇后に「笥飯浦より発し、宜しく穴門に到るべし」と勅した。 皇后躬ら笥飯太神に奉幣すると、海神を祭るよう夢告が有った。 皇后は群臣に艤装を命じ、六月に此の湊を出発した。 神の教えに随って船の舳艫に海神を祭り、皇后親しく琴を弾かれ、御妹の玉媛命を神主とし、神楽を奏された。 此の時に皇后は海中に涸珠と満珠を得て、大いに歓ばれた。 皇后は七月五日に穴門豊浦に到り、干満の二珠を天皇に奉った。
同八年[199]三月朔日、天皇は筑紫橿日宮に坐し、神功皇后・武内宿禰・安曇連に「越州角鹿に往き、宜しく笥飯太神を祭るべし」と詔した。 皇后は玉媛命・武内宿禰・安曇連を伴って此の地に往き、躬ら斎戒して笥飯神を拝祀した。 この時、玉媛命に笥飯太神が憑り「天皇寇賊の叛を患ふ莫れ、必ず刃に血ぬらずして自ずから帰順すべし」と神託した。 六月卯日に皇后は此の津を出発して筑紫橿日宮に還り、神の教えを天皇に上奏した。
吉貴二年(推古天皇三年)[595]八月四日、都奴賀(角鹿)の加比留山(鹿蒜山)に瑞雲が靉いて光り耀いた。 その夕刻、角鹿小海直の小児に「朕は是れ穴門豊浦宮に坐し天下をしろしめす足仲彦天皇也。恒に皇基を護り国家を衛り、笥飯浦に垂跡す。宜しく以て朕を笥飯神宮に祭るべし」と神託が有った。 その後、奇雲が幸臨山(天筒山)に靉いて光り耀いた。
文武天皇の御宇に至り、勅命により笥飯神宮を造営した。 上記の神託に依り仲哀天皇・神功皇后を笥飯宮に相殿とし、大宝二年[702]に同殿に勧請した。 中央は仲哀天皇、西方は神功皇后、東隅は保食太神で、これを本宮三座と謂う。 また、東殿宮に日本武尊、総社宮に応神天皇、西殿宮に武内宿禰、平殿宮に玉妃命を祀り、気比太神宮と称した。
垂迹本地
気比大菩薩大日如来

気多大菩薩

気多大社[石川県羽咋市寺家町]
祭神は大己貴命。 一説に天活玉命とする。
式内社(能登国羽咋郡 気多神社〈名神大〉)。 能登国一宮。 旧・国幣大社。
文献上の初見は『万葉集』巻第十七、大伴家持が天平二十年[748年]に詠んだ「志雄路から ただ越え来れば 羽咋の海 朝凪したり 船楫もがも」の詞書(気太神宮に赴き参り海辺を行く時に作る歌一首)。
史料上の初見は『続日本紀』巻第二十九の神護景雲二年[768]十月甲子[24日]条[LINK]の「石上神に封五十戸、能登国気多神に廿戸、田二町を充つ」。

『気多神社古縁起』[LINK]によると、大日本国北陸道能州一宮気多大神宮は日域第三の社壇で、常住不滅の御神である。
忝くも素戔嗚尊の御子の大己貴尊であり、始めは出雲国に居住していた。
孝元天皇御宇[B.C.214-B.C.158]、北国越中の北島の魔王が鳥と化して、国土の人民多くを害した。 また、渡海の船も害され、通行を止めるに至った。 其の時節、鹿嶋路の湖水(現・石川県羽咋市の邑知潟)の大蛇が出現して、人を害すること数え切れなかった。 この時、大己貴命が三百余神の末社・眷属を率いて能登国に来臨し、化鳥と大蛇を殺した後に南陽浦に垂迹した。 天下国家君民の守護神である。
崇神天皇の御宇[B.C.97-B.C.30]に社殿が建立され、勅使が下向した。
仲哀天皇の御宇[192-200]、新羅・百済・高麗の凶賊が数万艘の船に乗り、日本に攻めて来た。 天皇は軍兵を集め、神功皇后が軍の大将となり、日本国中の大小の神祇に祈誓を捧げた。 気多大神宮は九万八千の軍神を率いて戦った。 海上で干珠・満珠を投じると、忽ちに山を変じて海と成し、海を変じて山と成し、虚空に飛行し、神力自在に攻め戦った。 天地の雷神が十方に震動し、海嶋の龍王が諸処で憤怒し、三韓の軍は即時に滅亡した。 当社の威気が多いことに因み、神功皇后が詔して気多不思議智満大菩薩として祀った。
元正天皇の御宇[715-724]、泰澄大師が伊勢両宮で御神体を拝する事を誓願し、川越の堂に一夜籠ると、「恋しくば尋ても見よ能登る 一の宮の奥の社へ」と夢想の御詠歌が有った。 これに従って泰澄が当社に参詣すると、御神体は山伏の姿で現れて、泰澄と言葉を通わした。 泰澄は神社仏閣を修造して亀鶴蓬莱華蔵寺と号し、三十六人の宗徒を置き、神前で開帳の儀式を行った。 弟子の最仏行者に寺を付与すると、泰澄は当社を去って新宮(新宮赤蔵神社[石川県羽咋郡志雄町新宮])と石動山に往った。 故に泰澄を崇め、当社の中興開基とする。
当社大明神は勝軍地蔵薩埵の垂跡にして、天長地久・国泰民安の守護神である。 奥宮の両社は、素盞烏尊と稲田媛命である。 本社は勝軍地蔵・大己貴尊である。 左右は白山妙理権現(白山神社)・久々利姫・本地十一面観音と若宮大権現(若宮神社)・本地聖観音である。 次に楊田権現(楊田神社)は不動八大童子、大講堂(現・太玉神社)の本尊は阿弥陀如来である。 これを五社と謂う。
当社の御神は、天竺では金毘羅神と現し、釈尊の仏法を守護し、魔軍の邪気を払い除く。 故に霊山の会上に在り、祇園寺(祇園精舎)では地主権現として祀る。

『気多社祭儀録』[LINK]には、
「南陽浦八十隅気多大明神大己貴命本地勝軍地蔵菩薩也。一説曰天活玉命本地阿弥陀如来也」
とある。
垂迹本地
気多大菩薩地蔵菩薩(勝軍地蔵)