『神道集』の神々

第三十五 白山権現事

白山権現は北陸加賀白山の雪山に垂迹された。 時期については二つの説がある。 一つの説は、第四十四代元正天皇の霊亀二年である。 もう一つの説は、第四十九代光仁天皇の宝亀二年、泰澄大師が顕されたというものである。

白山権現の大御前の本地は十一面観音である。
小男地の本地は阿弥陀如来である。
別山大行事の本地は請観音である。

五人の王子がいるが、太郎は剣御前、本地は大聖不動明王である。
次郎王子の本地は虚空蔵菩薩である。
三郎王子の本地は地蔵菩薩である。
四郎王子は毘沙門天王で、毘沙門天王の本地は文殊菩薩である。
五郎王子の本地は弥勒菩薩である。

当社権現の五万八千采女は皆鶏鳥である。
信濃の浅間も同じく此の御神である。

白山権現

白山比咩神社[石川県白山市三宮町]
祭神は白山比咩大神(菊理媛命)・伊弉諾尊・伊弉冊尊で、三宮媛神を配祀。
式内社(加賀国石川郡 白山比咩神社)。 加賀国一宮。 旧・国幣中社。
史料上の初見は『日本文徳天皇実録』巻第五の仁寿三年[853]十月己卯[22日]条[LINK]の「加賀国白山比咩神に従三位を加う」。
『加賀国内神名帳』[LINK]には石川郡に「正一位、白山比咩明神」とある。
御前峰の白山奥宮に対し、「白山本宮」「下白山」と呼ばれた。

『白山之記』[LINK]に、
「白山本宮〈本地は十一面観音〉は霊亀元年[715]に陮他に現じ給ふ。殊に勅命ありて、四十五宇の神殿仏閣を造立せらる。若干の神講田を免じ奉られ、鎮護国家の壇場と定め置かる。嘉祥元年戊辰[848]なり」
とある。 また、白山七社本地垂迹事の条[LINK]に、
「本宮〈御位は正一位なり〉 本地は十一面観音なり。垂迹は女神なり。御髻と御装束は唐女の如し」
とある。
配神の三宮媛神については、同条[LINK]に、
「三宮〈白山の第三の姫宮なり〉 本地は千手観音なり。垂迹は女神なり。御装束等は本宮の如し」
とある。

『大日本国一宮記』[LINK]に、
「白山比咩神社〈下社は伊弉冊尊。上社は菊理媛。白山権現と号す〉加賀石川郡」
とある。

『石川県石川郡誌』[LINK]に、
「本社の創立せられ及び神戸を置かれしは、崇神天皇の七年[B.C.91]十一月に在るものにして、当社神職の古伝も亦同じ」
「元正天皇霊亀二年[716]六月十七日社地を手取川の上に遷す。こは今の安久濤の森、古宮と称する地にして、その広さ二反九畝十一歩、今尚欅、榎等の老樹鬱茂し、こゝに白山比咩神社鎮座の石標を建つ。古宮以前の社地は今詳ならず。或は八幡領内の船岡山なりしならんと云ふ。船岡山は後城地となりし為社地としての遺跡今見るに由なし。養老二年[718]社殿を造営し、仁明天皇の嘉祥元年勅して四十五宇の神殿仏閣を造立せしめ給ふ」 「近衛天皇久安三年[1147]四月二十八日社僧初めて延暦寺の管轄に属す。是より後白山寺の号古文書に見はる」
とある。
その後、
「後土御門天皇文明十二年[1480]十月十六日戌刻、本宮正殿、塔、講堂、大拝殿、常行堂等地を払って焼失せるを以て、神体を摂社三ノ宮に遷座し奉りしが、その地遂に本宮となるに至れり。是よりして三ノ宮は相殿となる。三ノ宮の祭神は詳ならずといへども、古来白山第三の姫神なりといへり」
とあり、本宮の鎮座地は三宮に定められた。

大御前

白山奥宮[石川県白山市白峰]
祭神は白山比咩大神。 通説では菊理媛命であるが、一説に伊弉冊尊とする。
御前峰の山頂に鎮座する。

『泰澄和尚伝記』[LINK]によると、霊亀二年[716]に泰澄が越知山で修行中、夢に天衣瓔珞を以て身を飾れる貴女が出現し「我が霊感時至れり、早く来るべし」と告げた。 養老元年[717]に白山の麓の伊野原(福井県勝山市猪野)に赴くと、貴女が再び出現し「此の地は大徳が悲母〈伊野氏の女〉の産穢の地にして、結界に非ず、此の東の林泉は吾が遊止の地なり、早く来るべし」と告げた。 林泉(白山神社[同市平泉寺町平泉寺]の御手洗池)で祈念すると、貴女が三度出現し「吾は伊弉諾尊(伊弉冊尊か)なり、今は妙理大菩薩と号す」「吾が本地真身は天嶺に在り、往いて礼すべし」と告げた。
泰澄が白山の御前峰に登り、緑碧池(翠ヶ池)の側で一心不乱に加持すると、池の中から九頭龍王が出現した。 「是れ方便の示現なり、本地の真身に非ず」と言うと、十一面観自在尊の慈悲の玉躰が忽ち現れた。

『加賀白山伝記之事』によると、霊亀二年に泰澄が舟岡山の岩窟で修行中、夢に貴女が白馬に乗って出現し「我は白山の真霊なり。昔葦原国始て成りしより以来此の舟岡山に住みなれ、西河の深淵に遊ひ、時節因縁を待て、汝が出世の結界荘厳の道場を建立せん事を相待こと既に久し」と告げた。 泰澄が安久濤の淵で祈念すると、再び貴女が出現し「霊感時至れり、早く修行すべし」と告げた。 養老元年四月に貴女が三度出現し「我はこれ昔は伊弉冊尊となり。天照大神の王母なり。今は白山妙理権現と名づけたり」「我が本地の真身は雲嶺の絶頂にあり。安久濤の流れを越へ源をたづね登り拝すべし」と告げた。
泰澄が同年六月に白山の絶頂に登り、転法輪の岩室に入って緑の池に向い観念すると、池の中から九頭龍王が出現した。 「それは方便の示現なり。本地の真身にあらず」と深く祈念すると、十一面観世音の大慈大悲の玉体が速やかに現れた。

『白山之記』[LINK]には「山頂を禅定と名づく。有徳の大明神住す。即ち正一位白山妙理大菩薩と号す。その本地は十一面観自在菩薩なり。一間一面の宝殿を建立して、五尺の金銅の像を安置す」とある。

『大永神書』[LINK]には「白山 女 本地十一面 伊弉冊尊〈日天子 釈梵輪王后形〉」とある。

小男地

境外摂社・大汝神社
祭神は大己貴命。 一説に伊弉諾尊とする。
大汝峰の山頂に鎮座する。

『泰澄和尚伝記』[LINK]によると、泰澄が別山の次に右の孤峰(大汝峰)に登ると、奇眼の老翁が現れて、「我れは是れ妙理大菩薩の神勢静謐敬沃輔弼なり、名を太己貴と曰う。蓋し西刹主(阿弥陀如来)也」と云うと姿を消した。

『白山之記』[LINK]に、
「北に並て高峯峙つ。其の頂に大明神住し、高祖太男知と号す。阿弥陀如来の垂迹なり。一間一面の宝殿を建立して、五尺の金銅の像を安置す」
とある。

『大永神書』[LINK]に、
「太己貴 男 本地阿弥陀 伊弉諾尊〈月天子 衣冠正鉄輪王形〉」
とある。

別山大行事

境外摂社・別山神社
祭神は大山祇命。 一説に天忍穂耳尊とする。
別山の山頂に鎮座する。

『泰澄和尚伝記』[LINK]によると、泰澄が御前崎の次に左澗の孤峰(別山)に登ると、金箭と銀弓を持った宰官人が現れて、「我れは是れ妙理大菩薩の神務輔佐の行事貫主なり、名は小白山別山大行事と曰う」と云った。 泰澄はこの人が聖観音の現身であると知った。

『白山之記』[LINK]に、
「南に十数里去りて高山あり。其の山頂に大明神住し、別山大行事と号す。是れ大山の地神なり。聖観音の垂迹なり。一間一面の宝殿あり。五尺の金銅の像を安置す」 「(御前峰を)権現に譲り奉り、南山に渡り給ふなり」
とある。

『大永神書』[LINK]に、
「別山 本地聖観音 天児根彦天忍穂耳尊〈天帝尺太子の輔佐神也 明星天子〉〈天照大神の御子也〉〈帯剱策俗躰衣冠正〉」
とある。
垂迹本地
白山三所権現大御前(妙理大菩薩)十一面観音
別山大行事聖観音
大汝阿弥陀如来

太郎王子(剣御前)

金剱宮または佐良早松神社に比定される。

金剱宮[石川県白山市鶴来日詰町]
祭神は天津彦火瓊瓊杵尊。 一説に天照大神の分身応現とする。
旧・県社(白山比咩神社の元・境外摂社)。
剱ヶ峰の神霊を祀り、白山本宮・三宮・岩本宮(岩本神社)と共に本宮四社に数えられる。

『白山之記』[LINK]に、
「金剱宮〈白山の第一の王子なり〉 本地は倶利伽羅明王なり。垂迹は男神なり。御冠に上衣を着す。銀弓と金箭を帯し、金作の御太刀はかせ給ふ」
とある。

『大永神書』[LINK]に、
「金剱宮 本地不動 天津彦々火瓊々杵尊〈七神大将軍也 天忍穂耳の太子〉」
とある。

『源平盛衰記』巻第二十九の「砥並山合戦の事」[LINK]に、
「金剱宮と申すは、白山七社の内、妙理権現の第一の王子に坐す。本地は倶梨伽羅不動明王なり。国土を守り魔民を降せんが為とて、弘仁十四年[823]に此の砌に跡を垂る」
とある。

『諸社根元記』の金剱宮の条[LINK]に、
「天照大神の分身応現也〈光明寺と号す〉、崇神天皇の御宇に天降り垂跡し給ふ也、天皇三年[B.C.95]三月に社を立つ」 「本地不動〈俗体、天照大神現、白山妙理権現の第一皇子也、妙理権現は伊弉冊尊〉」
とある。

『石川県石川郡誌』[LINK]に、
「当社は崇神天皇の御宇の創始なりといひ、所謂白山七社の一にして比咩神社と殆ど其の創立年代を一にするが如し」
とある。
佐良早松神社[石川県白山市佐良]
祭神は鸕鷀草葺不合尊。 一説に天忍穂耳尊とする。
旧・村社(白山比咩神社の元・境外摂社)。
中宮(笥笠中宮神社)・別宮(白山別宮神社)と共に中宮三社に数えられる。

『白山之記』[LINK]に、
「又一の宝社あり。佐羅大明神と名づく。本地は不動明王なり。天元五年壬午[982]始て宝殿を造る」
とある。 また、白山七社本地垂迹事の条[LINK]に、
「佐羅宮 本地は不動明王なり。垂迹は金剱宮の如し」
とある。

『大永神書』[LINK]に、
「佐羅宮 本地不動 彦瀲武鸕鷀草葺不合尊〈彦火々出見尊の太子也 母は豊玉娘〉〈垂迹は金剱宮の如し〉」
とある。

『石川県石川郡誌』[LINK]に、
「当社創立は円融天皇の天元五年五月なりといふ。白山比咩神社境外摂社中の一社なり」 「白山七社とは中宮、別宮、佐羅、岩本、金剣、下白山、三ノ宮にて、佐羅は即ち本社なり。佐羅大明神とも称へ、長保元年[999]に至り仏閣を建立す」
とある。

次郎王子

加宝神社[石川県白山市尾添]
祭神は太玉命。
旧・村社(白山比咩神社の元・境外末社)。

『白山之記』[LINK]に、
「次に宝社有り。加宝と名づく。虚空蔵菩薩の垂迹なり」
とある。

『石川県能美郡誌』[LINK]に、
「元と白山に属せしものにして、加宝宮又は加宝神宮といへるを、維新の後今の名に改めたるなり、本社に有する所の木像虚空蔵菩薩、同地蔵菩薩、金銅十一面観世音は蓋し往時のものなるべし」
とある。

三郎王子

檜新宮[石川県白山市尾添]
祭神は大山祇命・大己貴命。
白山比咩神社奥宮の元・境外末社。

『白山之記』[LINK]に、
「次に又一つの霊験ある宝社あり、檜の新宮と号す。垂迹は禅師権現にして、本地はこれ地蔵菩薩なり。建立の人は乃美郡軽海郷の松谷澄に住む如是房と言う人なり。崇め奉る後二百歳に及べり。錬行の輩、此の所に来集して精進し、この宝社に勤行す。夏衆の勤行、注し尽くことかたし」
とある。

『石川県石川郡誌』[LINK]に、
「奥宮境外末社檜新宮は、能美郡白山嶺字檜ヶ宿に在り。大山祇神、大己貴神を祀る」 「尾添村より山道三里の所に在りしも、今亦社殿を存せず」
とある。

長らく廃絶していたが、昭和五十九年[1984]に小祠が再建された。

四郎王子

藁履の御峯の小社(現存しない)に比定される。

『白山之記』[LINK]に、
「一つの岳有り。藁履の御峯と名づく。上道に藁履を進る。小社ありて、多門天(多聞天)を安んず」
とある。

五郎王子

不詳。
由谷裕哉は『地方修験の宗教民俗学的研究』[LINK]で「五郎王子・弥勒は、『白山記』[LINK]の新しい室堂の計九宇のうち、所蔵仏が記されていない堂宇に祀られていたのかもしれない」と述べている。
垂迹本地
五人王子太郎王子(剣御前)不動明王
次郎王子虚空蔵菩薩
三郎王子地蔵菩薩
四郎王子文殊菩薩
五郎王子弥勒菩薩

五万八千采女

不詳。

信濃の浅間

参照:「諏方縁起事」浅間大明神

泰澄大師

白山修験道の開祖。
『泰澄和尚伝記』[LINK]によると、白鳳二十二年[682]六月十一日、越前国麻生津の三神安角の次男として誕生。 大化元年[695]、十一面観音の夢告を受けて出家、法澄と名乗って越知山で修行を積んだ。 大宝二年[702]、伴安麻呂が勅使として越前に派遣され、鎮護国家の法師に任ぜられた。 養老元年[717]に白山を開き、同三年まで一千日の修行を行った。 同六年[722]、弟子の浄定行者と共に内裏に召され、元正天皇の病気平癒の祈祷を行った。 その効験あって禅師の位を授けられ、諱を神融禅師と号した。 天平八年[736]に玄昉から『十一面経』を授けられ、翌九年に都で流行した疱瘡を十一面法により鎮めた。 その功により大和尚の位を賜り、諱を泰澄と号した。 天平宝字二年[758]に越知山に戻り、神護景雲元年[767]三月十八日に入定。