『神道集』の神々

第三十一 酒肉等備神前事

問、酒肉等を神社に供え、神宮参詣の人々も社内で酒肉を食する。 此れは神の御供と聞く。 しかし、太神宮には斎宮の女御が在り、其の外の所々の神社にも、斎宮院等の妻子を定め置く。 神詣の人々は女犯を深く忌む。 酒肉を供えるのは、酒肉を許す如きである。 酒肉を許しながら、女犯を許さない理由は何か。 諸経論の中では、殺生は十戒の中で第一重の禁忌である。 不邪淫は第三の戒である。 衆生の為に忌むならば、第一重の殺生を忌み、第三は許すべきだろう。 然るに、どうして殺生の肉食を免じて、女犯を忌むのか。
答、酒肉の内、肉食は上記の通りである。 酒は『弘決』巻六に「祭礼依而此用、常呑書、而呑尚世乱違」と云う。

問、酒を用いるのは何の理由か。
答、『未曾有経』には「飲酒時歓喜、故煩悩不起、故悩害不行、物不害故、三業清浄、々々々々道、即無漏善」「貧窮小人、或節内由、或酒所聚会、酒飲歓喜心故、飢人教、各々起舞、未酒呑時、都此事無、飲酒依、即歓喜心到、歓喜時亦悪念起、皆是善心、々々因縁依、善報受」と云う。

問、この文の如く飲酒に依って功徳を得るのなら、禁じるのは何の理由が有るのか。
答、一は権者が衆生を利益する為である。 二は、飲酒を許すと云っても、酔狂する事は許さない。 酒を好んで飲み酔狂する人の為に禁じるのである。 『止観』巻一には「鴦崛摩羅、殺慈悲深、祇陀末利、唯戒唯酒、和須蜜多、婬而禁律、提婆達多、邪見即正、若諾悪中、一向此悪、道証事得者、此如人、亦永凡夫作」と云う。 『釈』巻四には「調達如、闍王如、鴦崛如、伽離如、当知、皆実悪人非」と云う。 (これらは)権者である。 実者の所行はこれらを以て知るべきである。

次に伊勢太神宮の斎宮であるが、高野の伝によると、日本は大日如来の所変である。 伊勢太神宮は大日如来の変作である。 (天皇の)先祖であり、大日如来の化身である。 斎宮の女御を用いる事は、胎金和合の軌、陰陽和合の軌、अ{a}वं{vaṃ}和合の軌である。 一物として諸法を生ぜず、二法として万像を生じる。 故に二法和合して、此の国を利益する。 衆生を利益する為に、斎宮の女御を用いるのである。

問、凡夫の為に女犯と肉食を相対すると、どれ程の浅深が有って、肉食を許し、女犯を許さないのか。
答、『曜経』には「女犯三害有、若女人見、心欲想発、人皆善滅、若女人触、身中罪善法滅、若懃心交合身犯、重罪人皆善法止」と云う。 肉食にはこのような罪は無い。 故に、肉食を免じて、女犯を禁じるのである。

斎宮

参照: 「御神楽事」斎宮

十戒

参照: 「神道由来之事」『梵網経』の十重戒

『弘決』

湛然『止観輔行伝弘決』巻第六之二[LINK]には、
「礼云、酒者因祭祀用之、非謂常飲、非祭而飲尚違世礼(礼に云く、酒は祭祀に因て之を用ふ。常に飲むと謂ふには非ず。祭に非ずして飲むは尚世の礼に違す)」
と説く。

『未曾有経』

曇景訳『未曾有因縁経』巻下[LINK]には、
「人飲酒時、心則歓喜、歓喜心故、不起煩悩、無煩悩故、不行悩害、不害物故、三業清浄、清浄之道、即無漏業」 「窮貧小人、奴客婢使、蛮夷之人、或因節日、或於酒店聚会飲酒、歓喜心故、不須人教、各各起舞、未得酒時、都事是無、是故当知、人因飲酒、即到歓喜、心歓喜時、不起悪念、則是善心、善心因縁、応受善報」
と説く。

「人が飲酒するとき、心がすなわち歓喜します。歓喜した心になるから煩悩が起きません。煩悩がないから悩みや危害がありません。物に危害はないから三業が清浄になります。清浄の道はすなわち無漏の業です」 「貧しい人々や召使、奴隷、野蛮な人々でも休日に飲酒することで心が歓楽して踊りだす。心が歓楽すると悪しき念は起きずに善心となって善き果報を受ける」
(堀池正行「『長部註』における飲酒観の分析『未曾有因縁経』との比較研究」、東洋学研究、57、pp.141(356) - 165(332)、2020)

『止観』

智顗『摩訶止観』巻第二下[LINK]には、
「鴦掘摩羅弥殺弥慈、祇陀末利唯酒唯戒、和須蜜多婬而梵行、提婆達多邪見即正、若諸悪中一向是悪、不得修道者、如此諸人永作凡夫(鴦掘摩羅はいよいよ殺していよいよ慈あり。祇陀末利は唯酒・唯戒なり。和須蜜多は婬にして而も梵行なり。提婆達多は邪見にして即ち正なり、若し諸悪の中、一向是れ悪にして道を修することを得ずんば、此の如きの諸人永く凡夫と作らむ)」
と説く。

「鴦掘摩羅経(宋の求那跋陀羅訳、四巻)には、「(ある貧しい婆羅門の女が、己の罪のつぐないに千人を殺せと命ぜられて)盛んに人を殺しながらも、ますます慈しみの心をもった」という話がある。(未曾有経には)祇陀(釈尊が寄進を受けて説教した祇陀林のかつての所有者、舎衛国波斯匿王の太子)・末利(波斯匿王の夫人)のことについて「ひどい酒飲みであったが、ひたすらに戒を守った」という話がある。(華厳経には)和須蜜多のことについて「婬らでありながらも、欲情を断ち切る修行をかさねた」という話がある。(法華経には)提婆達多のことについて「邪見にありながらも、将来において仏となるという予言を得た」という話がある。一般に諸悪の中においては一向に悪であって、道を修することができなければ、そのような人は永く凡夫にとどまるであろう」
(『大乗仏典 中国・日本篇 第6巻』、村中祐生訳「摩訶止観(抄)」[LINK]、中央公論社、1988)

『釈』

湛然『法華玄義釈籤』巻第四上[LINK]には、
「有示不廻心者、如調達伽離、或示廻心、如闍王鴦掘。[中略]当知皆非実悪人也(不廻心を示す者有り、調達・伽離の如し。或は廻心を示す、闍王・鴦掘の如し。[中略]当に知るべし、皆実の悪人に非ざる也)」
と説く。

『曜経』

『出曜経』には当該記述は見られないが、道世『法苑珠林』巻第二十一(姦偽部第二)[LINK]には、
「薩婆多論(薩婆多毘尼毘婆沙)[LINK]云、[中略]女人亦有三害、若見女人而発欲想、滅人善法、若触女人身犯中罪、滅人善法、若共交会身犯重罪、滅人善法(薩婆多論に云く。[中略]女人も亦三害有り、若し女人を見て欲想を発せば、人の善法を滅す。若し女人に触れば身の中罪を犯し、人の善法を滅す。若し共に交会すれば身の重罪を犯し、人の善法を滅す)」
と説く。