『神道集』の神々

第二十六 御神楽事

そもそも刧初の人間は、身に光明を帯び、天に登ることも自在で、快楽は思いのままであった。 寿命は一千歳で、身長は一千尺(或いは二千尺)であった。 その後、物を食すようになり、身の光明も次第に衰えた。 天下は暗闇になった為、日月が現れた。 田主(クシャトリア)もこれから始まり、終に天子を定めて主上とした。 鳳輦や輿などもこれに随って始まった。 民主王から浄飯王まで八万四千二百十人の人王が現れた。

日本国では、地神二代までは年月も定まらなかった。 地神三代の天津彦根尊の御時、年月や居所が定まった。 三十一万八千五百四十三年である。 彦火火出見尊は六十三万七千八百九十二年である。 その次の鵜羽葺不合尊は八十三万六千四十二年である。 神武天皇元年辛酉年から今の文和三年甲午年まで二千四十七年である。
崇神天皇の御時、日本の諸国に一宮を建て、殊に神祇を崇めた。 神道・行幸・神輿・神駕の事などはこの御時に始まった。 この儀式は八十余代、年序は一千四百四十余年になる。 これは人代の儀式である。
聊かでも絵馬を奉納し、僅かでも幣帛を供え、散供を撒けば、神は深く喜ばれる。 ましてや、金銀を以て御輿を飾り、珠玉を以て鳳輦を飾れば、神はどれだけ喜ばれるだろうか。 現世における栄楽、後生善処の願望が叶うことは疑い無い。

そもそも神楽とは、「千石破ちはやぶる」の古から始まった。 日本記によると、「茅葉屋」には多くの意味が有る。 一は「茅葉屋経」、二は「千石破」、三は「山破」、四は「茅葉屋振」、五は「千鉾振」と様々に書く。
第一の「茅葉屋経」とは、天照太神が天下った時、素盞烏尊が悪神で国中に障碍を成した。 天照太神は天岩戸を閉じて出て来なかった。 故に面足尊と太玉尊が相談し、天芳山(天香具山)の金を入手し、忌部尊が一尺三寸の鏡を鋳た。 その鏡には痾が有ったので捨てた。 日前明神というのはこの鏡である。 「日の前」と書くのは、天照太神の前という事である。 後にまた鋳た鏡には痾が無かったので、これを用いた。 常葉の木の根を抜いて、これを天岩戸の前に立て、赤・白・青の三幣を立てた。 中の枝には鏡を懸け、下の枝には赤幣を立て、上の枝には青幣を立てた。 上に青幣を立てる事は、天を表す。 その次に白幣を立てる事は、月神を表す。 その次に赤幣を立てる事は、日光が天下を照らす事を表す。 この鏡は、今の内侍所である。 常葉の木は、今の榊であり、即ち「神の木」と書く。
天岩戸の前で庭火を焚き、八百万の神々が集まり神楽を行い、天照太神は天岩戸を細めに開いてこれを見た。 すると、天照太神の御姿が鏡に写って耀いた。 その時に八百万の神々はこれを見て、「あな面白し」という言葉は、これから始まった。 天照太神は天岩戸から出なかったが、手力雄神が天岩戸を押し開き、天照太神を押し出した。 その時、世守神が七五三(注連縄)を天岩戸の前に引き、今後は入れないようにした。 今の世に十一月に七五三を引く事は、この時に始まった。
垂仁天皇の時、天照太神を伊勢国度会郡に始めて祀った。 社殿を茅の葉で葺き、その後に年月を経たので、「茅葉屋経」と云う。 崇神天皇の時、諸国に神を祀り、その社殿をみな茅の葉で葺いた。
第二の「岩破」とは「千石破」と同一で、天岩戸を押し破ると云う事である。
第三の「山破」とは、天手力雄神の事である。 春日宮の御前に東向に祀られた小社がこれである。
第四の「茅葉振」とは、天岩戸の前で八百万の神々が庭火を焚き、神楽を行った事である。 その時に色々な茅の葉を手に捧げ、鈴を副えて舞った。 これを「多種振」と云う。 また、茅の葉で蓑を作り、それを着て舞った。 これを今の世に「茅葉蓑」と云う。
第五の「千鉾振」とは、天岩戸が開かれた時、素盞烏尊に対して八百万の神々が千の鉾を立てて振った事である。 古撰集の歌には、
 我舞は天の逆鉾立ておきて 祈る祈りも叶はざりけり
とある。 神楽の由来の概略はこのようなものである。

問、賀茂・伊勢の本地は大日・観音と云う。 もしそうなら、社頭で仏法の名を忌む事は、何を以て知り得るのか。
答、斎院・斎宮では殊に三宝の名を忌み、その名を云わず、僧を「髪長」、経を「染紙」と云う。 仏法将来後、我が朝は僅かに七百余年である。 社頭の儀式礼法は古例を作り替える事を悪事とするので、賀茂明神の斎院や伊勢太神宮の斎宮の儀式は昔通りにするのである。
また、ある伝えによると、第六天魔王との約束が有ると云い、天照太神は仏法を用いず、日本国では皆仏法を用いない。 表向きはそうしているが、実は大権の垂迹なので、どうして(仏法に)背くだろうか。 聖武天皇の東大寺大仏は度々冶鋳したが完成せず、勅使を以て天照太神・八幡大菩薩を請し奉って成就したと申し伝える。
また、賀茂大明神の御託宣に「我は仏法に背かず、囲垣を以て卒塔婆とする」と云う。 誠に忝いことである。
慈覚大師は如法経の守護神として三十神を勧請された。 これには日本国中の神々が入り、賀茂・伊勢もその中に入っている。

問、神道が仏法を貴ぶ事は、何を以て証拠とするのか。
答、高座天王・法宿菩薩は伝教大師・修山大師と契約された。 正八幡・宇佐宮は法蓮和尚・行教和尚を尊び給うた。 弘法大師は高野丹生明神、慈覚大師は赤山大明神・摩多羅神、役行者は象王権現・熊野証誠殿、徳一大師は筑波権現、万巻上人は筥根権現、賢安大徳は走湯権現、法全沙門は三嶋大明神、能除大師は羽黒権現、勝道上人は日光権現、慈興上人は立山権現、法相守護は春日四所大明神、一乗守護は日吉山王権現等、これらは皆神道が仏法を喜び、神明が三宝を敬う明証である。

問、諸社・諸神の御祭営に神楽を用いるが、その事は何の効が有るのか。
答、和光同塵は与物結縁の為である。 多くの人が参詣し、参集する輩は限りない。 一度社壇の瑞垣に望めば、八相成道の末まで見捨てないと誓うのが、和光同塵の習いである。

昔、小松天皇(光孝天皇)には四十一人の御子が有り、多くは源氏の姓を賜った。 その中で第三の御子は姿形も御心も有り難い事と聞く。 (陽成天皇の)拾遺・侍従で、御狩を好んでいた。 賀茂の里で鷹狩りをしていた時、俄かに霧が深くなり、東西も見えなくなった。 そこに一人の見知らぬ翁が来て、物語を聞かせた。 世の常の翁とは見えないので、何者かと問うと、「この辺に侍る翁である。春は祭が有るが、冬は厳しく徒然なるので、祭を賜りたい」と告げた。 賀茂明神であると判ったので、「私自身の力で叶えるのは難しい。帝に申すべきです」と返事をした。 翁は「祭を賜わるなら、力の及ぶ限りの事を計らいます」と告げて姿を消した。
三年後の仁和四年八月二十六日、二十一歳の時に俄かに春宮(皇太子)に立たれ、同日に即位された。 亭子院宇多天皇である。 その翌年、寛平元年十一月二十一日に賀茂臨時祭が始まった。 勅使は藤原時平である。 この時に始めて藤原敏行が天津遊の歌を詠んだ。
 ちはやぶる賀茂の祭の姫小松 万つ代までも色はかはらじ
この歌は『古今和歌集』第二十巻に有る。

そもそも放生会は、嵯峨天皇の御宇の弘仁十年八月十五日に男山で始まった。 四十一年後、貞観元年の春にこれを渡し奉った。 清和天皇の御宇である。
また、天慶五年四月二十七日に石清水臨時祭が始まった。 この時に紀貫之が東遊の歌を詠んだ。
 松しをひ又も苔むす石清水 水行くすゑはいつこ祭らん
八幡大菩薩は歓喜してこれを納受された。

問、神明が詠歌を納受されるのは、どう心得るべきか。
答、和歌は我朝の風習で、神社・仏陀・人間・鬼霊は皆これを用いる。 神は歌を詠み、人も歌を詠んで奉る。

問、この義は何により知られるのか。
答、神代にこの風習は始まった。 素盞烏尊が出雲国に入って、稲田姫を八重垣の内に住まわせた時、八色の雲が立ったので、尊は御歌を詠まれた。
 八雲立つ出雲八重垣妻こめて 八重垣造る其の八重垣を

また、豊玉姫と彦火々出見尊は陰陽(夫婦)であった。 豊玉姫は彦火々出見尊にまみえた時、歌を詠んで陽神に奉った。
 赤玉の光はありと人はいふ 君が恋しきみことなりけり
彦火々出見尊はこれを見て御返歌された。
 沖つ鳥鴨ふく嶋に我が率寝し 雲はわかすに世の中をしも
この豊玉姫は摩那斯龍王の娘である。 『法華経』の同聴衆の中の第七番目の龍王である。 「天津孫には海童の姫」と『古今和歌集』に在るのは、即ち此の事である。

神明が歌を詠まれる例は多い。 『伊勢物語』によると、奈良の帝(平城天皇)の御代に住吉に御幸された時、
 我見ても久しくなりぬ住吉の 岸の姫松いくよ経ぬらん
と歌を詠まれると、明神が顕れて御返事の歌を詠まれた。
 むつましと君はしらじな瑞垣の 久しき代より思ひそめてき

賀茂明神は
 又雲分けて登る計りつ
住吉明神は
 片曾木の行あひのま遠し
宇佐八幡は
 世の中のうさには神もなき物を
春日明神は
 今ぞ栄へん北の藤波
熊野権現は
 我思う人に忍はん暁月よ
白山権現は
 十廻りは栄へん松の花や
と詠まれた。

良峯衆樹は延喜十三年頃に石清水八幡に参詣した。 御前の橘が半ば枯れていたので、その下に立ち寄り、
 ちはやふる御前の前の橘も 諸木と共に老いにけるかな
と詠んだ。 大菩薩は哀れと思われ、橘は緑に返り、天気(天子の御気色)も目出度くなった。

和泉式部は藤原保昌に忘れられた事を歎いた頃、貴船明神に七日間参籠して、
 物思へは沢の蛍も我が身より あくがれいづる玉かとぞみる
と詠んだ。 夢の中で明神が
 奥山にたぎりて落る滝つ瀬の 玉ちる計り物な思ひそ
と御返歌を詠まれると、(和泉式部の願いは)忽ち成就して(藤原保昌は)元の心と成った。

左京大輔顕輔卿が心に深く祈念することが有って日吉社へ参詣した時、加賀の守護だった時に白山に参詣した事を思い出し、
 年経とこしの白山忘れずば かしらの雪も哀れとも見よ
と詠むと、神は哀れと思われ、顕輔卿が祈念した事を叶えた。

慈鎮和尚は「山王三聖四社は三如来四菩薩であり、和光同塵の約束は八相成道の行末まで救う事である」という思いで歌を詠んだ、
 我馮む七の社の玉襷 かけても六の道にかへすな
また同じ頃、和尚は二宮地霊権現に詠み奉った。
 和らくを影は麓に曇りなき 本の光りは峯に住めとも

待賢門院の御内で物の紛失が有った時、疑われた女房が七日間の暇を取り、北野天神に参籠して起請し、
 思きやなきなたつ身は憂かりきと 荒人神となりし昔は
と歌を奉った。 神の利生により、敷嶋という雑仕が盗んだ物を自ら持ち、鳥羽院の御前に名乗り出た。

信尊法眼は仁治二年頃に八幡大菩薩に参詣した。 念仏について三心の意義を不審に思って祈請すると、(八幡大菩薩が)示現した御歌には、
 極楽へ行んと思ふ心にて 南無阿弥陀仏と云ふそ三心
と有り、三心の意義を思い定められた。

高倉御息所が熊野に参詣された時、藤代という処で月水が始まった事を歎かれ、
 本よりも五重の雲の厚ければ 月の障となるぞ悲しき
と詠んで寝ると、(熊野権現が)枕の上に老僧の姿を顕して、
 天下り塵に交る我なれば 月の障はなにか苦しき
と御返歌が有り、月水が止まって事無く参詣出来た。

『和歌抄』によると、白河院・待賢門院の御両所が、市阿波という巫女を召した。 巫女の占いはどのような物かと、銀の壺に乳を入れ、これを物に入れて蓋をし、巫女の前に差し出した。 しばらくして、
 しろかねの壺を並べて水汲めば 蓋して難く見るべくもなし
という歌を出したので、巫女の占いは勇ましき事であると思し召し、多くの銀を賜った。

諏方大明神の贄として鹿・鳥を供える事について、良観上人は不審に思って参籠された。 その夜の示現には、
 野辺に住む獣我に縁無くば 憂かりし闇になほ迷はしむ
と有ったので、その後は不審が無くなった。 この人は越後国の出湯の長老である。

浄蔵貴所は賀茂明神の本地を不審に思い、祈念したが叶わなかった処、御託宣の歌が有った。
 補陀落の跡をは塵に交つゝ 同じ奈落の苦にぞ落ける
これにより、賀茂明神の本地は観音と知れたのである。

神明が我が国に遊ばれ給うに、悉く和歌を以て喜び給う事は、以上の通りである。

天津彦根尊

通説では、地神三代は天津彦彦火瓊瓊杵尊である。

ちはやぶる

『太平記』巻二十五の「伊勢より宝剣を進る事 附黄梁夢の事」[LINK]には、
「素盞烏尊は、出雲の大社に御坐す。此尊草木を枯し、禽獣の命を失ひ、諸々荒くおはせし間、出雲の国へ流し奉る。[中略]爰に素盞烏尊、吾国を取らんとして軍を起こして、小蝿なす一千の悪神を率して、大和宇多野に、一千の剣を堀立てゝ、城郭として楯籠り給ふ。天照大神是をよしなき事に思召て、八百万神達を引具して、葛城の天岩戸に閉籠らせ給ければ、六合くに内皆常闇に成て、日月の光も見えざりけり。此時に島根見尊是を歎て、香久山の鹿を捕て、肩の骨を抜き、合歓の木を焼て、此事如何有るべきと占はせ給ふに、鏡を鋳て岩戸の前にかけ、歌をうたはゞ、御出有るべしと占に出たり。[中略]さて島根見尊、一千の神達を語ひて、大和国天香久山に庭燎を焼き、一面の鏡を鋳させ給ふ。此鏡は思ふ様にもなしとて捨てられぬ。今の紀州日前宮の神体也。次に鋳給し鏡よかるべしとて、榊の枝に著て、一千の神達を引、調子を調て、神歌を歌ひ給ければ、天照大神是にめで給て、岩根手力雄尊に、岩戸を少し開かせて、御顔を差出せさせ給へば、世界忽に明に成て、鏡に移りける御形永く消えざりけり。此鏡を名附て、八咫鏡とも、又は内侍所とも申也。天照大神岩戸を出させ給て、八百万神達を遣し、宇多野城に堀立たる千の剣を、皆蹴破て捨給ふ。是よりして千剣破ちはやぶるとは申しつゞくるなり」
とある。

中世の和歌注釈では、「ちはやぶる」がなぜ神の枕詞なのか、その意味するところは何かをめぐって、様々な解釈が行われた。

『古今和歌集序聞書』(三流抄)[LINK]には、
「ちはやぶると云に五の義有。三は天照太神に付義、一は諸神に付、一切の物に付義なり。今二の義は顕に読まず。天照太神に付三の義読也。一には天照大神一千の剣の刃を蹴破り給ひたりし故に千歯破神と書り。二には天香久山の処にて御子達の着給へるちはやの袖に岩戸を開き給て天照太神の出給御光神達の千早に触るゝを、千葉や触る神と書て、ちはやぶる神と云。三には素盞烏尊出雲に住て後、天照大神を打たてまつらむとて悪神を語ひて、天照大神宇多の神部に茅葉の宮を作てまします所へよせたりければ千の葉の宮を蹴破りて出給ひければ、茅葉破る神と云也。是を以て大神宮今に至るまで茅葉屋を以て葺くなり」
(引用文は一部を漢字に改めた)とある。

毘沙門堂本『古今集注』(第一巻・仮名序注)[LINK]には、
「ちはやぶると云に四義あり。一には天照大神宇多野に堀り立たりし千の剣をは一足に蹴破りたりし故に千歯破ちはやぶる神と云也。二には天照大神の閉ち給し天の岩戸に千の岩屋有り。其の岩屋戸を破て出給し故に、千磐破と云也。三には天照太神、岩戸を出給ふを見て、天の香久山の神達、千早の袖を振り双て、踊り舞ふを千早振る神と云也。四には三輪の明神は其名ばかり有て、社無かりし間、里人始て社を作りたりしに、烏鳥集まりて此の社を食い破りけり。其社は茅葉を以て作りたりし故に茅葉破ると云へり」
(引用文は一部を漢字に改めた)とある。
(伊藤聡『中世天照大神信仰の研究』、第4部 天照大神と中世文芸—中世神道と和歌注釈との出会い、第3章 「ちはやぶる」をめぐって—歌語の神秘化、法蔵館、2011)

面足尊・太玉尊

天石窟における神事は天児根命・太玉命が中心となって行ったとされ、管見の限り面足尊の名は見られない。
例えば、『日本書紀』巻第一(神代上)の第七段[LINK]には、
「思兼神、深く謀り遠く慮りて、遂に常世の長鳴鳥を聚めて、互に長鳴せしむ。亦手力雄神を以て、磐戸の側に立てゝ、中臣連の遠祖天児根命、忌部の遠祖太玉命、天香山の五百箇真坂樹をねこじにこじて、上枝には、八坂瓊の五百箇御統を懸け、中枝には、八咫鏡〈一に云はく、真経津鏡といふ〉を懸け、下枝には、青和幣・白和幣を懸て、相与に到其祈祷のみいのりまうす」
とある。

第七段一書(三)[LINK]には、
「諸の神、中臣連の遠祖興登産霊が児天児屋命を遣して祈ましむ。是に、天児屋命、天香山の真坂木を掘にして、上枝には、鏡作の遠祖天抜戸が児石凝戸辺が作れる八咫鏡を懸け、中枝には、玉作の遠祖伊弉諾尊の児天明玉の作れる八坂瓊の曲玉を懸け、下枝には、粟国の忌部の遠祖天日鷲の作れる木綿を懸でて、乃ち忌部首の遠祖太玉命をして執取たしめて、広く厚く称辞をへて祈み啓さしむ」
とある。

斎部広成『古語拾遺』[LINK]には、
「天香山の五百箇真賢木を掘にして、上枝に玉を懸け、中枝には鏡を懸け、下枝には青和幣・白和幣を懸け、太玉命をして捧持て称讃ほめたてまつらしむ。亦、天児屋命をして相副て祈祷いのりまつらしむ
とある。

忌部尊

太玉命(忌部首の遠祖)または天日鷲神(阿波国の忌部の遠祖)を「忌部神」と称する。
ただし、通説では八咫鏡を鋳た神は天抜戸命(天糠戸命)または石凝戸辺命(石凝姥命)である。

日前明神

参照: 「神道由来之事」紀伊国日前社

内侍所

参照: 「神道由来之事」内侍所

世守神

『日本書紀』巻第一(神代上)の第七段[LINK]には、
「(天照大神は)乃ち御手を以て、細に磐戸を開けて窺す。時に手力雄神、則ち天照大神の手を奉承りて引き奉出る。是に、中臣神・忌部神、則ち端出之縄しりくめなわ(注連縄)をひきわたす。乃ち請して曰さく。復な還幸かへりいりましそ」
とある。 「世守神」とは、この中臣神(天児屋命)と忌部神(太玉命)を指すか。

春日宮の御前の小社

手力雄神社[奈良県奈良市春日野町(春日大社境内)]
祭神は天手力雄神。
春日大社の末社。
本社内院(本殿の近傍)に鎮座し、御廊内に手力雄・飛来天神社遥拝所が設けられている。

『春日大明神垂跡小社記』[LINK]には、
「御宝殿。辰巳、太力雄大明神。其北裏、飛来天神。其北并、八龍神王」
とある(現在の手力雄神社・飛来天神社・八雷神社)。

賀茂大明神

賀茂別雷神社(上賀茂神社)と賀茂御祖神社(下鴨神社)の両社を賀茂大明神と総称する。

賀茂別雷神社[京都府京都市北区上賀茂本山]
祭神は賀茂別雷神。 一説に瓊瓊杵尊とする。
式内社(山城国愛宕郡 賀茂別雷神社〈亦若雷 名神大 月次相嘗新嘗〉)。 山城国一宮。 二十二社(上七社)。 旧・官幣大社。
史料上の初見は『続日本紀』巻第一の文武天皇二年[698]三月辛巳[21日]条[LINK]の「山背国賀茂の祭の日、衆を会め騎射するを禁ず」。

賀茂御祖神社[京都府京都市左京区下鴨泉川町]
東殿の祭神は玉依媛命。
西殿の祭神は賀茂建角身命。 一説に大山咋神あるいは大己貴神とする。
あるいは、東殿の祭神は媛蹈鞴五十鈴媛命、西殿の祭神は神武天皇とする。
式内社(山城国愛宕郡 賀茂御祖神社二座〈並名神大 月次相嘗新嘗〉)。 山城国一宮。 二十二社(上七社)。 旧・官幣大社。

『山城国風土記』逸文〔卜部兼方『釈日本紀』巻九(述義五)に引用〕[LINK]には、
「賀茂の社、賀茂と称すは、日向の曾の峯(高千穂峯)に天降りましし神、賀茂建角身命、神倭石余比古(神武天皇)の御前に立ちまして、大倭の葛木山の峯に宿りまし、彼より漸に遷りて、山代の国の岡田の賀茂(岡田鴨神社[京都府木津川市加茂町北]付近)に至り給ひ、山代河(木津川)のまにま下りまし、葛野河(桂川)と賀茂河(鴨川)と会ふ所に至りまし、賀茂河を見はるかして言り給ひしく、「狭く小かれども石川の澄川なり」と宣り給ひき。仍りて名づけて石川の瀨見の小川といひき。その川より上りまして久我の国の北の山基(久我神社[京都府京都市北区紫竹下竹殿町]付近)に定りましき。その時より名づけて賀茂といへり。賀茂建角身命、丹波の国の神野(宮川神社[京都府亀岡市宮前町宮川])の神伊賀古夜日売を娶ひて生みませる子、名を玉依日子といひ、次を玉依日売といひき。玉依日売、石川の瀬見の小川に川遊せし時、丹塗の矢、川上より流れ下りき。乃ち取りて床の辺に挿し置き、遂に孕みて男子を生みき、人と成る時に至りて、外祖父建角身命、八尋屋を造り、八つの戸扉を堅め、八腹の酒を釀みて神集へに集へて七日七夜楽遊うたげし給ひき。然して子に語らひて言り給ひしく、「汝が父と思はむ人にこの酒を飮ましめよ」と宣り給ひしに、すなはち酒杯をささげて天に向ひて祭を為し、屋の薨を分け穿ちて天に昇りましき。乃ち外祖父の名に因りて賀茂別雷神と号す。所謂丹塗の矢は、乙訓郡の社(角宮神社[京都府長岡京市井ノ内]、あるいは向日神社[京都府向日市向日町北山]に合祀)に坐せる火雷神なり。賀茂建角身命と丹波の神伊賀古夜日売と玉依日売と、三柱の髪は蓼倉の里の三井社(現在は賀茂御祖神社の摂社)に坐せり」
とある。

『秦氏本系帳』〔惟宗公方『本朝月令』に引用〕[LINK]には、
「初め秦氏の女子、葛野河に出で、衣裳を澣ぎ濯ふ時、一矢有り、上より流れ下る。女子之を取りて還り來り、戸上に刺し置く。是に於いて女子夫無くして姙む。既にして男子を生むや、父母之を惟みて責め問ふ。爰に女子答へて「知らず」と曰ふ。再三詰め問ひ、日月を経ると雖も、遂に「知らず」と云ふ。父母以謂へらく、「然りと雖も夫無くして子を生むの理無し、我家に往来する近親眷族、隣里の郷党の中に、其の夫在るべし」。茲に因りて、大饗を弁備し諸人を招集し、彼の児をして盃を執らしむ。祖父母命じて云ふ、「父と思はむ人に之を献ぐべし」。時に此の児、衆人を指さず、仰ぎ観行きて戸上の矢を指し、即便、雷公と為り、屋棟を折り破り、天に昇りて去る。故、鴨の上の社を別雷神と号ひ、鴨の下の社を御祖神と号ふなり。戸上の矢は松尾大明神是れなり」
とある。

『賀茂之本地』[LINK]には、
「此神天上にしては、阿遅鉏高日子根神と申。地に降らせ給ては、別雷神と顕はれ、国土を護り、風雨を順へ、五穀を栄やして万民を助けおはします。御本地を尋ぬれは、釈迦牟尼世尊の応化なり。弘誓の海深うして、遍く衆生を済度し給へり。千早振る神代のむかし日向の国に天下らせ給て、年久しうぞ住み給ひける。それより大和の国葛城の峰に飛び移りおはします。元よりこの山には。賀茂建角身命と申御神住み給ひしが、この山を譲りて、建角身神は山城の国に到りて、愛宕の郡、岡田村に住み給ひける」とある。 別雷神の誕生の話は『山城国風土記』逸文とほぼ同様で、「その後、星霜久しく隔たりて後、糺の森の辺りに田中ありけるが、その田一夜の程に変じて、槻の木とぞ成にける。希代不思議の事なれは、辺りの人々集まりて見るところに、別雷神・御祖神(玉依比売)、この木の下に天降らせ給て、いろいろの神変を現し、奇瑞を示し給へり。其比は人皇三十代の帝欽明天王の御宇[539-571]なり。[中略]近辺の人々都へ上り、御神託の旨を奏聞しければ、帝叡感ましまして、則ち勅使を立てゝ、速やかに御社を造りて、神を斎ひ奉り、幣帛を備へて崇め敬ひ奉り給ふ」
(引用文は一部を漢字に改めた)とある。

『年中行事抄』の賀茂祭事の条[LINK]には、
「右官史記に云く、文武天皇六年[677]二月、山背国をして賀茂神宮を営ましむ」
とある。 『本朝月令』[LINK]の同記事に「神武天皇六十年[B.C.601]二月丙丁」とあるが、これは誤記と思われる。

吉田兼倶『延喜式神名帳頭註』[LINK]には、
「御祖社 一社は、大己貴の子大山咋神。一社、玉依日女也」
とある。 ただし、同じ吉田兼倶の『二十二社註式』の賀茂の条[LINK]には、
「鴨〈下社と号す〉御祖神〈玉依日咩、別雷の御母。大己貴神、別雷の御父〉」
と異説を記す。

『大日本国一宮記』[LINK]には、
「鴨大明神〈下社と号す。大山咋神の父、故に御祖と号す。又糺宮と曰ふ。大己貴命也〉山城愛宕郡。賀茂大明神〈上社と号す。大山咋神也。別雷と号す。母は玉依姫、武角身命の女〉」
とある。

『諸社根元記』の賀茂の条[LINK]には、
「下社、御祖社、別雷神ノ御父也、大山咋神〈松尾日吉等同体也〉、本地釈迦」 「上社別雷神、本地無所見」
とある。

『類聚既験抄』の賀茂大明神御事の条[LINK]には、
「上宮〈別雷皇大神ト称ス。御本地観音〉」
とある。

『古事談』巻五(神社仏寺)[LINK]には、
「範兼卿は賀茂社に奉仕する人なり。参詣の度毎に心経を書き参らせけり。而して此の事によりて三熱苦を免れるるの由、示現の後、金泥にて書かれけり。[中略]本地は何にて御坐すぞと申す時、等身正観音の蓮花持たしめ給ひたるに変ぜしめ御して、即ち火炎に焼けしめ御して、くろぐろと成らしめ御す」
とある。

跡部良顕『垂加翁神説』[LINK]には、
「下鴨は神武天皇、上鴨は瓊々杵尊、河合の社は玉依姫にてまします」
とある。

近世の下鴨神社の『賀茂御祖皇大神宮 御由緒書』には、
「下賀茂/御祖皇大神宮 二座 西神殿 陽神 天皇の御大祖にておはしまし候、東神殿 陰神 皇后の御社にておはしまし候」
とある。 また、『賀茂皇大神宮略記』には、
「鴨御祖皇大神宮と崇奉るは、神日本磐余彦尊、媛蹈鞴五十鈴媛命に御坐て、人皇の御始祖なるを以て、厚く御崇敬ましまし、御祖皇大神宮と称し奉る」
とあり、西本宮祭神は神武天皇、東本宮は媛蹈鞴五十鈴媛命であることが明示された。
(橋本政宣・宇野日出生 編『賀茂信仰の歴史と文化』、嵯峨井建「賀茂社祭神とその歴史的変遷」、思文閣出版、2020)

『大鏡』巻上の五十九代(宇多天皇)の条[LINK]には、
「この帝未だ位に即かせ給はざりける時十一月廿余日の程に、賀茂の御社の辺に鷹遣ひ遊びありきけるに、賀茂の明神託宣し給ひける様、「此の辺に侍る翁どもなり。春は祭多く侍り。冬の甚じく徒然なるに、祭賜はん」と申し給へば、其の時に賀茂の明神の仰せらるゝと覚えさせ給ひて、「己は力及び候はず。公に申させ給ふべき事にこそ候ふなれ」と申させ給へば、「力及ばせ給ぬべきなればこそ申せ、甚く軽々なる振舞なせさせ給ひそ、然申す様あり、近く成り侍り」とて、掻消つ様に失せ給ひぬ。如何なる事にかと心得ず思し召す程に、斯く位に即かせ給へりければ、臨時の祭せさせ給へるぞかし。賀茂の明神の託宣して「祭せさせ給へ」と申させ給ふ日、酉の日にて侍りければ、軈て霜月の終の酉の日臨時の祭は侍るぞかし。東遊の歌は、敏行の朝臣(藤原敏之)の詠みけるぞかし。「千早振賀茂の社の姫小松 万世経とも色は変らじ」。之れは古今[LINK]に入りて侍り。人皆知らせ給へる事なれども、いみじく詠み給へるぬしかな。今に絶えず広ごらせ給へる御末、帝と申すとも、いと斯くやは御座します。位に即かせ給ひて二年[889]と云ふに始れり。使右近の中将時平朝臣(藤原時平)こそはし給ひけれ」
とある。

同書・巻下[LINK]にも
「式部卿の宮の侍従と申しゝぞ、寛平の天皇(宇多天皇)、常に狩を好ませ御座しまして、霜月の二十余日の程にや鷹狩に式部卿の宮より出で御座しましゝ御供に走り参りて侍り。賀茂の堤のそこそこなる所に、侍従殿鷹使はせ給て、甚じう興に入らせ給へる程に、俄に霧立ち、世間も掻闇がりて侍りしに、東西も覚えず。暮の往ぬるにやと覚えて、藪の中に倒れ伏して、戦き惑ひ候ふ程に、時中許りや侍りけん。後にぞ承れば、賀茂の明神の現れ御座しまして、侍従殿に物申させ御座しましける程なりけり。[中略]扨後六年許りありて、賀茂の臨時の祭始まりけん。位に即かせ御座しましゝ年ぞと覚え侍る[後略]」
と類話を載せる。

『新古今和歌集』巻第十九(神祇歌)[LINK]には、
「我れ頼む人いたづらになしはてば 又雲わけてのぼるばかりぞ」(賀茂の御歌となむ)
を載せる。
「熱田大明神事」では、この歌を熱田神宮末社の賀茂大明神の詠んだ歌とする。
垂迹本地
賀茂大明神聖観音(または釈迦如来)

伊勢太神宮

参照: 「神道由来之事」内宮

斎院

『神道大辞典』の斎院の項[LINK]には、
「山城国賀茂神社に奉仕する皇女の称。斎王ともいふ」 「天皇即位の初め、伊勢斎宮に倣つて、未婚の内親王(若しなければ諸女王)の内より簡んで卜定し給ふのである。嵯峨天皇の御願によつて創置されたので、弘仁元年[810]、同天皇の第八皇女、有智子内親王を卜定し給ひしを以て初めとする。爾来、歴世絶ゆることなかつたが、後鳥羽天皇の皇女、礼子内親王以後廃絶した」 「斎院の居所には常に賢木を樹て、注連を張り、不浄及び仏事を禁じ、忌詞を定むる等、これ又伊勢斎宮と同様である」
とある。

斎宮

『神道大辞典』の斎宮の項[LINK]には、
「イツキノミヤと訓し、また古語御杖代と云ふ。皇大神に近侍して神宮祭祀に奉仕し給ふ皇女、若しくは女王を申上ぐるので、通じて斎王と申し、内親王の場合には特に斎内親王と称す。斎宮とはその御所よりの称号である。其の起源極めて古く、崇神天皇の御代皇女豊鍬入姫命をして、皇大神を倭の笠縫邑に祀らしめ給うたのに始まる。爾来時に中絶した事もあるが、天武天皇以来歴世概ねこれを立てられ、後醍醐天皇の御時、戦乱の為に廃絶するまで、すべて七十四人の斎王を立てさせられた」 「斎王は天皇御即位の始めに当り、皇女の未だ嫁せられない方を卜定してこれに充てられる」 「斎王の御所は伊勢国多気郡に在つた。斎王はこの御所に坐して厳重なる潔斎生活を続けさせられ、神宮の三節祭(九月神嘗、六月十二月月次)に親しく参向して太玉串を捧持拝礼を行はせ給ふ」 「斎宮は斎戒の厳重なる事比なく、其の諸門には常に木綿を着けた賢木を立て、寮官より仕女に至るまで毎月下旬に行はれる御卜に合はぬものは出入を禁じ、日常の言語に忌詞を用ひて不浄を避くるが如き、厳しき制度が設けられていた」
とある。

『通海参詣記』巻上[LINK]には、
「さても斎宮は、皇太神宮の后宮に准給て、夜々御通ひ有に、斎宮の御衾の下へ、朝毎に蛇のイロコ(鱗)落侍べりなんと申人有。本説覚束なく侍り」
とあり、天照大神を蛇体の男神、斎王をその后とする俗説が有った事がわかる。

三宝の名

参照: 「神道由来之事」三宝の名

第六天魔王

参照: 「神道由来之事」第六天魔王

東大寺

東大寺[奈良県奈良市雑司町]
本尊は盧舎那仏(東大寺大仏)。
華厳宗大本山。

『太神宮諸雑事記』第一[LINK]によると、天平十四年[742]十一月三日に右大臣橘朝臣諸兄卿が伊勢太神宮に参詣して、聖武天皇の御願寺(後の東大寺)を建立する由を宣旨により祈られた。 勅使が帰参した十一月十五日の夜中、天皇の御前に玉女が現れて金色の光を放ち、「本朝は神国也。神明を欽仰し奉るべき也。而して日輪は大日如来也。本地は毘盧舎那仏也。衆生は之を悟りて当に仏法に帰依すべき也」と宣った。

神吽『八幡宇佐宮御託宣集』験巻六(小倉山社部上)[LINK]によると、天平十九年[747]、聖武天皇が勅使を宇佐に派遣して大仏建立成就を祈願すると、「神吾、天神地祇を率しいざなひて、成し奉つて事立て有らず。銅の湯を水となし、我が身を草木土に交へて、障へる事無く成さん」と神託が有った。
同書・威巻七(小倉山社部下)[LINK]によると、天平勝宝元年[749]十一月十九日に内裏で七歳の童子に「神吾京に向かはん」と託宣。 十二月戊寅[18日]に八幡神は入京し、平城宮南の梨原宮に新殿を造って神宮(手向山八幡宮の前身)とした。

慈覚大師

参照: 「高座天王事」慈覚

如法経の守護神

『叡岳要記』巻下の「慈覚大師如法経事」[LINK]によると、慈覚大師は天長六年[829]に首楞巌院の杉穴に草庵を結んだ。 それから三ヶ年、昼夜三時に天台法華懺法を読誦し、坐禅錬行四種三昧を修した。 同八年の秋、草を以て筆とし石を以て墨とし、禅定智水を以て一字三礼しながら『妙法蓮華経』を書写した。 同年九月十五日、杉穴の中の草庵に当山座主の義真阿闍梨を屈請し、十種供養を遂行した。 三ヶ年の行法が結願すると、天皇はこれを随喜し、首楞巌院に臨幸された。 大師は日本国内の有勢有徳の神明三十ヶ所を守護神と為した。

日宣『番神縁起論』[LINK]には、
「第七、如法経守護の三十番神は、叡山慈覚大師、人皇五十三代淳和天皇の御宇天長八年[831]春より同十年に至るまで、楞巌の杉の洞に於て如法経を修行する事三年の間也。この如法経を行ずと云は、法華経を法の如くに書写し奉る事也。深山の物閑か成る所に閉籠り、法衣も絹は蚕の糸にて不浄なりとて、新しき布麻の法衣を著し、墨筆も狸狐の毛にて不浄なりとて、石の墨に草の筆を用ひ、不浄の息を止め覆面を垂て、道場を清浄に荘厳し香華燈明を捧げ奉て、昼夜十二時六根清浄にして、法華経書写の修行也。故に如法経守護の勧請し玉ふと云々。如法経守護三十番神 初一日 伊勢、二日 石清水三日 賀茂、四日 松尾、五日 平野、六日 稲荷、七日 春日、八日 大比叡、九日 小比叡、十日 聖真子、十一日 客人、十二日 八王子、十三日 大原、十四日 大神、十五日 石上、十六日 大倭、十七日 広瀬、十八日 龍田、十九日 住吉、廿日 鹿嶋、廿一日 赤山、廿二日 建部、廿三日 三上、廿四日 兵主、廿五日 苗鹿、廿六日 吉備、廿七日 熱田、廿八日 諏訪、廿九日 広田、丗日 気比
とある。

高座天王

参照: 「高座天王事」地主権現(高座天王)

法宿菩薩

参照: 「高座天王事」大宮法宿権現

伝教大師

参照: 「高座天王事」伝教大師

修山大師

修禅大師の誤記と思われる。
虎関師錬・恵空『元亨釈書和解』巻第二の義真伝[LINK]には、
「釈義真は相模国の人なり。伝教大師に従ひ入唐して通事の沙弥となれり。されば、貞元二十一年[805]十二月七日、台州の国清寺に於て戒を受けて大僧となる。又、伝教大師と同じくともに順暁阿闍梨の灌頂壇に入れり。弘仁十四年[823]四月十四日になれば、根本中堂に於て始て大乗菩薩戒の羯磨の儀式をとりおこなはる其の時、義真が和上(戒師)となりて、其の戒を受くる者凡そ十四人なりける」
「さて天長元年[824]には勅詔をくだしたまひて延暦寺座主に任ず。さればにや、この座主の職は義真を始とする事なり」
「同き十年[833]七月四日に入寂せらる。寿五十三歳にてぞありし」
とある。

正八幡

参照: 「正八幡宮事」正八幡宮

管見の限り、正八幡には法蓮・行教に関する逸話等は見られない。

宇佐宮(宇佐八幡)

参照: 「宇佐八幡宮事」宇佐八幡宮

『平家物語』巻八の宇佐行幸の条[LINK]によると、筑紫に逃れた平家一門が宇佐宮に行幸し、七日参籠した暁、大臣殿(平宗盛)の夢には、
「世の中のうさには神もなき物を 何祈るらむ心づくしに」
と神告が有った。

法蓮和尚

『続日本紀』巻第三の大宝三年[703]九月癸丑[25日]条[LINK]には、
「僧法蓮に豊前国の野四十町を施す。医術を褒めたる也」
とある。 また、同書・巻第八の養老五年[721]六月戊寅[3日]条[LINK]にも
「詔に曰く、沙門法連は、心、禅枝に住み、行、法梁に居り。尤も医術に精しくして、民の苦しみを済ひ治む。善き哉、若のごとき人、何ぞ褒賞せざらんや。其の僧の三等以上の親に宇佐君の姓を賜う」
とあり、医術に精通した僧として世に知られていた事がわかる。

『八幡宇佐宮御託宣集』霊巻五(菱形池辺部)[LINK]によると、彦山権現は衆生を利す為に教到四年甲寅[534]に天竺摩訶陀国から宝珠を持って日本に渡り、彦山の般若石屋(玉屋窟)にこれを納めた。 百六十余年後、流浪の行者法蓮聖人がその宝珠の徳を聞き、石屋に十二年間参籠した。 その効験により、倶利伽羅龍王が宝珠を咥えて出現した。 法蓮は歓喜し、左の袖を伸ばして宝珠を受け取った。 彦山から退出すると、白髪の翁が来て慇懃に宝珠を求めた。 法蓮は宝珠を渡さなかったが、翁が去り行くと、袖に入れていた宝珠は消えていた。 法蓮が怒って火界の呪を唱えると、般若の智火が山を焼き、翁を留めた。 翁は「日本静かならず。我鎮守と成つて、我が朝を護らん。吾をば八幡と号す。此の玉に於ては、只我に与え給へ。我慈尊の出世に結縁せしめんが為に、弥勒寺を建立して、神宮寺と為んと擬る。法連を彼の寺の別当と成し奉つて、当に此の玉の恩を報ゆべし」と云った。 彦山権現と法蓮はこれを承諾し、宝珠を八幡に奉り、同心の契を成した。
同書・験巻六(小倉山社部上)[LINK]によると、神亀二年[725]に宇佐神宮の東の日足の林に弥勒禅院が建立された。 御願主は八幡大菩薩で、法蓮和尚がその初代別当となった。 これは八幡大菩薩が如意宝珠を得た時の約束に依るものである。

行教和尚

「神道由来之事」行教和尚

弘法大師

日本真言宗の開祖。
『元亨釈書和解』巻第一の空海伝[LINK]には、
「釈空海は、世の姓は佐伯氏にて、讃岐国多度郡の人にておはせり。父を田公といひ、母は阿刀氏なり。ある夜の夢に梵僧とおぼしき人まみへて懐に入と覚へしより、やがて懐胎の心地ありける。かくて十二箇月があひだ胎内にやどりて、宝亀五年[774]に産の紐を解く」
「年月つもりて十二歳にもなれば、外氏の舅に朝散大夫阿刀大足といへる人、儒学の達者なりし故に、これに就て世俗の文翰を習ひさせて、それより後十八歳にして大学寮に入りて、儒書の巻々をくはしく読覚へられしかども、もとより志は只仏経にのみぞありける。爰にたまさかに石淵の沙門勤操に逢て、虚空蔵求聞持の法を受らる。[中略]二十歳におよべば、勤操にしたがひて髪を剃り、十戒を受けて三論をくはしく研究らる。[中略]延暦十四年[795]には東大寺の戒壇にのぼりて具足戒をうけられしが、その後又名を空海と改められける」
「同年の二十三年[804]夏五月にいたり、遣唐使金紫光禄大夫藤賀能にしたがひて、西の海に押出されしが、やうやく秋八月と云に其船は衡州の界に着たり。[中略](翌年に)青龍寺の東塔院の内供奉慧果阿闍梨のもとにぞまひられける。されば此阿闍梨は不空大広智三蔵の高弟にておはせり。然るに慧果一たび空海を見らるゝより、喜の気色をあらはして曰く、「我すでに先よりはやく、汝の此に来らん事を知て、兼て相待こと久しかりき」[中略]夏六月には大悲胎蔵大曼荼羅道場に入て、投華の法を行ふとき、其華すなはち中台なる大日覚王の身上にとゞまる。[中略]秋七月には金剛界大曼荼羅の室に入て、同き八月に伝法阿闍梨位の灌頂をさづけらる」
「大唐の元和元年[806]秋八月に帰朝せられたり。すなはち此方大同改元丙戌の年なり。やがて勅詔として唐国より伝来りし秘密の法要をあまねく流布すべき由の綸言を下さる」
「弘仁七年[816]なりし時、紀伊国にゆきて勝地を見たてられしに、高野山に上りて、此処こそ霊地なりとて金剛峯寺を創らる。同十四年[823]正月の勅詔には東寺をあらたに空海にたまはりて、灌頂院を建てらる。空海これを承りて、唐の青龍寺になぞらへて、毎歳二季には灌頂の事を執おこなはれけり。[中略]承和元年[834]には空海奏聞して、唐土の内道場に准へて真言院を宮中に置んと乞れければ、すなはち勅許をかふむり、勘解由の庁屋を曼荼羅道場と定めて、毎年正月の後七日には息災延年の修法、今の世に至るまで絶せず」
「これより前、弘仁十一年[820]には、帝宸翰にてあそばせる伝燈大法師位の記をたまふ。又天長のはじめには僧都となれり。されば承和二年[835]にあたりて、空海は金剛峯寺に居られしが、三月二十一日にもなれば、結跏趺坐して毘盧の印を結び、心静かに入定せられけり。それより七日先にはあまたの弟子と共に弥勒の宝号を念ぜられしが、此日に至て息たへ眼あはせ、終に最後と見へけり。肉身に三昧を得て、慈氏の下生をまつとなり。年六十二なり」
「延喜二十一年[921]冬十月には弘法大師の諡を賜はりけり」
とある。

高野丹生明神

丹生都比売神社[和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野]
第一殿の祭神は丹生都比売大神。 通説では稚日女尊と同神とする。
第二殿の祭神は高野御子大神(高野明神)。
第三殿の祭神は大食津比売大神(気比明神)。 一説に蟻通明神とする。
第四殿の祭神は市杵島比売大神(厳島明神)。
式内社(紀伊国伊都郡 丹生都比女神社〈名神大 月次新嘗〉)。 紀伊国一宮。 旧・官幣大社。
史料上の初見は『日本三代実録』巻第二の貞観元年[859]正月二十七日甲申条[LINK]の「京畿七道の諸神の階を進め、及び新に叙するもの、惣て二百六十七社なりき。[中略]従五位下勲八等丹生都比売神・伊太祁曽神・大屋都比売神・神都摩都比売神・鳴神に並に従四位下(を授け奉る)」。
『紀伊国神名帳』[LINK]には伊都郡に「正一位 丹生高野御子神」「正一位勲八等 丹生津比咩大神」とある。

『播磨国風土記』逸文〔卜部兼方『釈日本紀』巻第十一(述義七)に引用〕[LINK]には、
「息長帯日女命、新羅国を平けむと欲して下りましし時、衆神に祷り給ひき。その時、国堅めましし大神の子爾保都比売命、国造石坂比売命に著きて教り給ひしく、「好く我が前を治め奉らば、我こゝに善き験を出して、比々良木の八尋桙根底附かぬ国、少女の眉引きの国、玉匣かゞやく国、苫枕宝ある白衾新羅国を、丹浪以て平伏け賜はむ」と、かく教り賜ひて、こゝに、赤土を出し賜ひき。其の土を天の逆桙に塗り、神の舟の艫舶に建て、又、御舟の裳と御軍の著たる衣とを染め、又、海水を撹き濁して渡り賜ふ時、底潜る魚、及高飛ぶ鳥等も往来はず、前に遮へざりき。かくして新羅を平伏け訖へて、還り上らして、乃ち其の神を紀伊国の管川の藤代の峯に鎮め奉り給ひき」
とある。 「紀伊国の管川の藤代の峯」は和歌山県伊都郡高野町上筒香の小粒山に比定される。

『丹生大明神告門のりと[LINK]には、
「高天原に神積り坐す天石倉押放ち天石門を忍し開き給ひ、天の八重雲を伊豆の道別きに道別き給ひて、豊葦原の美豆穂の国に美豆毛みづけ給ふとして国郡は佐波に在れども、紀伊国伊都郡奄田村の石口に天降りまして、大御名を申さば恐し、申さずば恐き、伊佐奈支・伊佐奈美の命の御子天の御蔭日の御蔭丹生都比売の大御神と大御名を顕はし給ひて」
とある。 「奄田村の石口」は丹生酒殿神社[和歌山県伊都郡かつらぎ町三谷]付近に比定される。
その後、丹生川上水分の峯、十市郡の丹生、巨勢の丹生、宇知郡布布木の丹生、伊勢津美、巨佐布、小都知の峯、天野原、長谷原、神野麻国、安梨諦夏瀬の丹生、日高郡江川の丹生、那賀郡赤穂山の布気、名手村の丹生屋、伊都郡佐夜久の宮を経て、天野原に鎮座した。

空海『御遺告』[LINK]には、
「彼山裏の路辺に女神あり、名けて丹生津姫命と曰ふ。其社の廻に十町許の沢あり、若し人到り着けば即ち時に傷害す。方に吾が上登の日巫税(巫祝)に託して曰はく、「妾は神道に在りて威福を望むこと久し、方に今菩薩此山に到りたまへり。妾が幸なり。弟子昔現人の時食国皇命、家地を給ふに万許町を以てす。南は南海を限り、北は日本河を限り、東は大日本国を限り、西は応神山の谷を限るなり。冀くは永世に献じて仰情を表す」」
とある。

『今昔物語』巻十一(本朝 付仏法)の「弘法大師始めて高野山を建つる語 第二十五」[LINK]には、
「今は昔、弘法大師、真言教、諸の所に弘め置き給ひて、年漸く老いに臨み給ふ程に、あまたの弟子に皆、所々の寺々を譲り給ひて後、「我唐にして擲げし所の三鈷落ちたらむ所を尋ねむ」と思ひて、弘仁七年[816]と云ふ年の六月に、王城を出で尋ぬるに、大和国、宇智の郡に至りて一人の猟人に会ひぬ。其の形、面赤くして長八尺許りなり。青き色の小袖を著せり。骨高く筋太し。弓箭を以て身に帯せり。大小二つの黒き犬を具せり。即ち此の人大師を見て過ぎ通るに云はく、「何ぞの聖人の行き給ふぞ」と。大師の宣く、「我唐にして三鈷を擲て、禅定の霊穴に落ちよと誓ひき。今其の所を求め行く也」と。猟人の云はく、「我はこれ南山の犬飼なり。我れその所を知れり。速に教奉るべし」と云ひて、犬を放ちて走らしむる間、犬失せぬ。大師、そこより紀伊国の境、大河(紀の川)の辺に宿しぬ。此に一人の山人に会ふぬ。大師、此の事を問ひ給ふに「此より南に平原の沢有り。これ其の所なり」。明くる朝に山人、大師に相具して行く間、密かに語りて云はく、「我此の山の王なり。速かに此の領地を奉るべし」と。山の中に百町許り入りぬ。山の中は直しく鉢を臥せたる如くにて、廻りに峯八つ立ちて登れり。檜の云はむ方なく大きなる、竹の様にて生ひ竝みたり。其の中に一の檜の中に大きなる竹胯あり。此の三鈷打ち立てられたり。これを見るに喜び悲しぶ事限りなし。これ禅定の霊崛なりと知りぬ。「此の山人は誰人ぞ」と問ひ給へば、「丹生の明神となむ申す。今の天野の宮(丹生都比売神社)これなり。犬飼をば高野の明神となむ申す」と云ひて失せぬ」 「坂の下に丹生・高野の二の明神は、鳥居を竝べて在す。誓ひの如く此の山を守る」
とある。

吉田兼倶『延喜式神名帳頭註』[LINK]には、
「丹生都比女 先師の説に云、高野山天野明神是れ也。天照太神の妹稚日女神也。高野明神当宮太子也。一説に云、丹生都姫天照太神也。和州丹生の裔に坐す故に、丹生都姫と名づく也」
とある。

『紀伊続風土記』巻之四十八(伊都郡第七)[LINK]には、
「丹生四所明神社 一宮 丹生津比咩大神、二宮 丹生高野御子神、三宮 笥飯神、四宮 厳島神」 「(山王堂に)四社明神の本地仏胎蔵界大日如来・金剛界大日如来・千手観音・弁財天女を安置す」
「一宮丹生津比咩大神、延喜式曰、丹生都比女神社 名神大月次新嘗。本国神名帳曰、正一位勲八等丹生津比大神とある是なり。丹生津比咩は、伊弉諾・伊弉冊二尊の御児、天照大御神の御妹にして、稚日女尊と申し、神世より本国和歌浦玉津島に鎮まり坐せり。神功皇后新羅を征伐し給ひし時、此神赤土を以て功勲を顕はし給ひし故、皇后凱旋の後、伊都郡丹生の川上菅川藤代峰に鎮め奉れり〈管川、今筒香と書す。藤代峯、上人水呑峯、又石堂峯、或いは子粒嶽ともいふ。古老伝へて藤代峯といひしといふ〉」 「当社、初筒川藤代峰に鎮まり坐しに、夫より処々に遷り給ひ、最後此天野の地に遷り給ひ、永く此地に鎮り坐せり」
「二宮高野明神、本国神名帳に正一位丹生高野御子神といふ是なり。祀る神詳ならす。高野山の地主神なるを以て高野明神と称ふ。神世より高野山上に鎮まり坐して天野祝の斎き祀れる処なり。書紀に神功皇后の巻に天野祝と志野祀合葬の事あり是なり。応神天皇の御代に至りて、丹生明神今の社地に鎮まり坐せる時、此御神をもこゝに遷し奉り、此地にて丹生の神と一所に祀る」 「寺家の説に、高野明神は丹生津比咩第一の其子といひ、或は丹生津比咩と夫婦の神といふ」
「三宮・四宮祀る神数説あり。正応六年太政官牒に、当社四社明神之中三大神蟻通神とあり。然れとも、蟻通神如何なる神なる事を知らす」 「社家の説に曰、三宮四宮は行勝上人総神主と共に同し霊夢を受け、尼将軍に請ひて承元二年[1208]創建する所にして、三宮は気比明神なり、四宮は厳島明神なりといへり」
とある。

赤山大明神

参照: 「赤山大明神事」赤山大明神

摩多羅神

引声念仏の守護神で、比叡山延暦寺など天台宗寺院の常行三昧堂の後戸に祀られる事が多い。

光宗『渓嵐拾葉集』巻第三十九(吒枳尼秘決)[LINK]には、
「常行堂摩多羅神事 示して云く、覚大師(円仁)大唐より引声念仏を御相伝ありて帰朝の時、船中に於て虚空に声有り、告て云く、我をは摩多羅神と名づく、即ち障礙神也。我を崇敬せざる者、素懐の往生を遂げるべからずと。云く、仍て常行堂に勧請せらるる也云々。口云く、摩多羅神は、即ち摩訶迦羅天(大黒天)是れ也。亦是れ吒枳尼なり。彼の天の本誓に云く、経に云く、臨終せんと欲する時、我、彼の所へ行きて肝屍を食す。故に臨終正念を得る。若し我肝を食さずば、正念を得ず、往生を遂げずと云り。此の事随分秘事也」 「又一義に云く、摩多羅神とは摩訶迦羅天也。所謂経に能延六月秘事也。天、一切衆生の精気を奪う。摩訶迦羅天これを降伏し、奪精鬼の難を除く。仍て臨終正念を得る。六月成就法、これを思ふべし」
とある。

天野信景『塩尻』巻之三十五[LINK]には、
「比睿山摩多羅神像 叡山及び其末寺摩多羅神を崇めまつれり。此神密部諸経儀軌に云、阿弥陀仏の教令輪身にして、常行三昧の時守護神たり。故に台徒尊びあへり。中頃台教大にみだれて其一家の学に迷へり。此時禅子の手段にならふて別に公案を巧書し、学侶に著語せしめ印可せり。此時亦密法により、玄旨帰命壇の灌頂といへる事を造り、摩多羅神を本尊として相授受せり。台徒これより玄旨の壇場を一家の極秘とし、故に摩多羅神を殊に尊崇する事となりし」
とある。

役行者

参照: 「熊野権現事」役行者

象王権現

参照: 「吉野象王権現事」象王権現

熊野証誠殿

参照: 「熊野権現事」証誠殿

徳一大師

『元亨釈書和解』巻第四の徳一伝[LINK]には、
「釈徳一は修円に逢て法相宗を学せる人なり。然るに我宗旨の見立を弘めんがために法華の新疏を作りて、伝教大師を難破せり。されは法相宗の徒は此義を嘉と称美する事なり。さる間、徳一は常州筑波山寺(後の筑波山知足院中禅寺)を開闢せるに、門葉の輩すこぶる繁昌せり。然りと雖も世上の沙弥の美々敷く奢れるを心に嫉み思ひ、やがて我身を顧みて、常に麁食を食物とし、弊れたる衣類をのみ著て、心静かに自ら怡めり。その後、ついに慧日寺[福島県耶麻郡磐梯町磐梯本寺上]において終焉をとれり。かくてその殻を納めけるに全身すべて損ぜらるなり」
とある。

筑波権現

筑波山神社[茨城県つくば市筑波]
男体山本殿(西峰)の祭神は筑波男大神。
女体山本殿(東峰)の祭神は筑波女大神。
筑波男大神・筑波女大神は通説では伊弉諾尊・伊弉冉尊と同神とするが、一説に日本武尊・弟橘比売あるいは埴山彦神・埴山姫神とする。
式内社(常陸国筑波郡 筑波山神社二座〈一座名神大 一座小〉)。 旧・県社。
史料上の初見は『日本紀略』前篇十四(弘仁十四年[823]正月丁丑[21日]条)[LINK]の「常陸国従五位下筑波神を官社と為す。霊験頻著なるを以て也」。

『常陸国風土記』の筑波郡の条[LINK]には、
「昔、祖の神の尊、諸神の処に巡り行でまししに、駿河の国福慈の岳(富士山)に到り給ひて、卒に日の暮に遇ひ、寓宿やどりを請ひ欲ぎ給ひき。此の時、福慈の神、答へて申しけらく、「新粟わせの新嘗して、家内諱忌(物忌)せり。今日の間は、ねがはくは許しあへじ」と申しき。こゝに、祖の神の尊恨み泣きて罵告り給ひしく、「汝が親を何ぞは宿さまく欲りせぬ。汝が居める山は、生涯の極、冬も夏も雪霜ふり、冷寒重襲り、人民も登らず、御食を奠る者なけむ」と宣り給ひき。更に筑波の岳に登りて、亦容止やどりを請ひ給ひき。此の時、筑波の神答へて申しけらく、「今夜は新粟嘗すれども、敢へて尊旨に違ひ奉らじ」と申しき。爰に飮食を設け、敬拝み祗承つかへ奉りき。こゝに祖の神の尊、歓然よろこび謌ひたまひしく、「しきかも 我がみこ たかきかも神宮 天地の竝斉むた 日月の共同むた 人民たみくさ集ひ賀ぎ 飲食富豊に 代のことごと 日に日に弥栄えむ 千秋万歳に 遊楽たのしみ窮らじ」と宣り給ひき。是を以ちて、福慈の岳は常に雪ふりて、登臨のぼることを得ず。其の筑波の岳は、往き集ひ歌ひ舞ひ飲み喫ひすること、今に至るまで絶えざるなり」
とある。

『三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集』巻三の神上吉日の条[LINK]には、
「壬申は二柱の神、高天原より天の逆鉾を差下し、自凝島を得造り、筑波山に落下し、男体女体と顕れ、鹿嶋香取大明神と現れ給ふ日也」
とある。

秋里籬島『木曽路名所図会』巻之五[LINK]には、
「男躰本社 筑波山頂陽峰に鎮座す。延喜式筑波山神社二座。祭神 伊弉諾尊」 「女躰本社 陰峰に鎮座す。祭神 伊弉冊尊」 「大御堂 筑波の山下にあり。本尊千手観世音。千手の窟より出現の本尊なり」とある。
また、その由緒[LINK]
「人皇五十代桓武帝の御時、法相の名師徳溢(徳一)大士此山に来り、これ霊山也とて、山上に二柱の御神を勧請し、其外御子四柱の尊を鎮座しめ、千手の窟にハ千手千眼の尊像顕給ふ。此等の奇特天聴に達し、詔を下し給ひ、神田三千町を喜捨したまひ、神殿・仏閣・僧房に至るまで、甍をならべて造営し給ふ。故に大士自ら千手観音を彫刻して、男体・女体の本地仏とし給ふ。其後弘仁年中、弘法大師こゝに登山し給ひ、剣が峰にて真言の密法を修し給ふ。それより以来、真言秘密の道場として、兜率の内院に比し、補陀洛山と賞し給ふ」「抑此筑波山は、漢土の五台山の西南劈開けて、こゝに飛来したるといふ。故に山中に異草珍木多し。名を中禅寺といふ」
と伝える。

徳川義直『神祇宝典』巻五[LINK]には、
「卜部の説に云、筑波山の神二社、一社は日本武尊、一社は弟橘比売也〈俗に陰陽二柱尊と曰ふ〉。三代実録を按ずるに、筑波男神・筑波売神の名有り」 「弟橘姫は、日本武尊の妃也」
とある。

伴信友『神名帳考証』巻四[LINK]には、
「陽峯埴山彦神、陰峯埴山姫神」
とある。

万巻上人

参照: 「二所権現事」万巻上人

筥根権現

参照: 「二所権現事」箱根権現

賢安大徳

参照: 「二所権現事」賢安大徳

走湯権現

参照: 「二所権現事」伊豆権現

法全沙門

伝本によっては法金沙門と表記される。

『曾我物語(真名本)』巻第七には、
「人王五十三代淳和天王の御時、天長六年[829]己酉の年、七月八日の夜半ばかりに、信濃国水内郡中条郷(長野県長野市の中条地区)竹葉村の上人法泉沙門と云人に託宣して、我はこれ伊豆国の鎮守三嶋大明神これなり。本地は薬師なり。后妃は十一面の観音なり。王子はまた本地地蔵尊これなり。今は伊豆国賀茂郡河津の里(静岡県賀茂郡河津町)に立てり」
とある。

『平家打聞』巻第五もほぼ同内容だが、上人の名を「法衆」とする。 法全沙門とは、この法泉(もくしは法衆)を指すと思われる

三嶋大明神

参照: 「三嶋大明神事」三嶋大明神(伊豆国)

能除大師

参照: 「出羽国羽黒権現事」能除大師

羽黒権現

参照: 「出羽国羽黒権現事」羽黒権現

勝道上人

参照: 「日光権現事」勝道上人

日光権現

参照: 「日光権現事」日光権現(男体)

慈興上人

参照: 「越中国立山権現事」教興上人

立山権現

参照: 「越中国立山権現事」立山権現

春日四所大明神(春日明神)

参照: 「春日大明神事」春日大明神

藤原氏の氏寺である興福寺[奈良県奈良市登大路町]は法相宗の大本山であり、同氏の氏神である春日大社[奈良県奈良市春日野町]は「法相擁護の神」として崇敬された。

北畠親房『神皇正統記』巻三[LINK]には、
「法相は興福寺にあり。唐の玄奘三蔵、天竺より伝へて国に弘めらる。日本の定恵和尚〈大織冠の子也〉、彼国にわたり、玄奘の弟子たりしかど、帰朝の後、世を早くす。今の法相は玄昉と云ふ人入唐して、泗州の智周大師〈玄奘二世の弟子〉にあひて、是を伝へて流布しけるぞ。春日の神も殊更此宗を擁護し給ふなるべし」
とある。

『新古今和歌集』巻第十九(神祇歌)[LINK]には、
「補陀落のみなみの岸に堂立てて いまぞ栄えむ北の藤なみ」(此の歌は、興福寺の南円堂作りはじめ侍りける時、春日のえのもとの明神よみ給ひけるとなむ)
を載せる。

日吉山王権現

参照: 「高座天王事」山王権現

「一乗」とは法華一乗思想に基づく天台宗を意味する。 比叡山延暦寺[滋賀県大津市坂本本町]は天台宗の総本山であり、その山麓に鎮座する日吉大社[滋賀県大津市坂本5丁目]は天台宗の守護神として崇敬された。

男山(石清水)

参照: 「神道由来之事」男山

『神道集』原文では「そもそも放生会とは~清和天王の御宇なり」は「形も御心持も有り難き御事なりと聞く」の後に挿入されているが、前後の意味が通らないので、梗概では仮に石清水臨時祭の条の前に移した。
通説では、放生会は神亀元年[724]に宇佐で始まり、石清水八幡宮では貞観五年[863]に初めて行われた。 弘仁十年[819]は石清水八幡宮が勧請される前であり、この年に男山で放生会が始まったという説は管見の限り他に見ない。

『大鏡』巻下[LINK]には、
「八幡の臨時の祭、朱雀院の御時よりぞかし。[中略]扨位に即かせ給ひて、将門が乱出で来て、其の御願にてとぞ承りし。其の東遊の歌、貫之の主(紀貫之)ぞかし。「松も生ひ又も苔蒸す石清水 行く末遠く仕へ奉らん」」
とある。
同書・巻上の六十一代(朱雀天皇)の条[LINK]にも同様の話を載せるが、歌を「松も生ひ又も影映す石清水 行く末遠く仕へ奉らん」とする。

同書・巻下の昔物語[LINK]には、
「此の宰相(良峯衆樹)ぞかし、五十まで然せる事なく、ほとほと朝廷に棄てられたる様にて在すがりけるが、八幡に参り給ひたるに、雨甚じう降る。石清水の坂登り煩ひつゝ、参り給へるに、御前の橘の木の少し枯れて侍りけるに立寄りて、「千早振神の御前の橘も 諸木と共に老いにけるかな」と詠み給へば、神聞き憐れびさせ給ひて、橘も栄え、宰相も思ひ懸けず頭(蔵人頭)に成り給ふ」
とある。

素盞烏尊

『日本書紀』巻第一(神代上)の第八段[LINK]には、
「(素戔嗚尊は)行きつつみあはしせし処を覓ぐ。遂に出雲の清地すがに到ります。乃ち言ひて曰はく、「吾が心清清し」とのたまふ。彼処に宮を建つ〈或に云はく、時に武素戔嗚尊、歌よみして曰はく、八雲立つ出雲八重垣妻ごめに 八重垣作るその八重垣ゑ〉」
とある。

『古今和歌集』の仮名序[LINK]には、
「あらがねの土にしては、素盞嗚尊よりぞ起こりける。ちはやぶる神世には、歌の文字も定まらず、すなほにして、事の心分き難かりけらし。人の世となりて、素盞嗚尊よりぞ三十文字あまり一文字は詠みける」
とあり、
「素戔嗚尊は天照大神のこのかみなり。女と住み給はんとて、出雲国に宮造りしたまふ時に、その所に八色の雲のたつを見て詠み給へるなり。八雲立つ出雲八重垣つまごめに 八重垣つくるその八重垣を」
と注す。

豊玉姫と彦火々出見尊

『日本書紀』巻第二(神代下)の第十段一書(三)[LINK]によると、豊玉姫は御子を生まれた後、八尋の大鰐の姿を視られた事を恥じて海に去った。 この時、彦火々出見尊は「沖つ鳥鴨著く嶋に我が率寝し 妹は忘らじ世のことごとも」と詠んだ。 豊玉姫は御子の養育のために妹の玉依姫を遣わし、「赤玉の光はありと人は言へど 君が装し貴くありけり」と返歌を託した。

『古今和歌集』の真名序[LINK]には、
「其後雖天神之孫、海童之女、莫不以和歌通情者(其の後天神の孫、海童の女と雖も、和歌を以て情を通ぜずといふことなし)」
とある。 「天神之孫」は彦火々出見尊、「海童之女」は豊玉姫である。

摩那斯龍王

鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』序品第一[LINK]には同聞衆として
「八龍王あり、難陀龍王・跋難陀龍王・娑伽羅龍王・和修吉龍王・徳叉迦龍王・阿那婆達多龍王・摩那斯龍王・優鉢羅龍王等なり。各、若干の百千万の眷属と倶なり」
とある。 智顗『妙法蓮華経文句』巻二下[LINK]では
「摩那斯は此には大身と云ひ、或は大意、大力等なり。修羅の海を排して喜見城を淹すに、此の龍、縈らして以て海水を遏む。本は無辺身の法門に住し、迹に大体と為る」
と釈している。

摩那斯はマナシヴィン(Manasvin)の音写で、『望月仏教大辞典』の八大龍王の項[LINK]には、
「七に摩那斯は又摩那蘇婆帝に作り、大意、高意、或は大力、大身と訳す。法華経玄賛第二本[LINK]に「摩那斯とは此に慈心と云ふ。華厳経に云はく、将に雨を降さんとする時、先づ雲をして七日衆事の了るを待たしめ、然る後始めて雨らす、故に慈心と名づく」と云ひ、又華厳経探玄記第二[LINK]に「摩那蘇婆帝龍王は亦摩那斯と名づく。此に慈心と云ひ、亦高意と名づく。正しく摩那と云ふは意と云ひ、斯は高と云ふ。謂はく威徳ありて意余龍よりも高ければなり。一切蝦蟇形の龍と為す」と云へり」
とある。

『神祇譜伝図記』[LINK]では「海神〈大綿津見神と謂ふ。亦は小童命と号す〉」に「摩那斯龍王」と傍注し、豊玉姫命・玉依姫命の父とする。

住吉明神

参照: 「信濃鎮守諏方大明神秋山祭事」住吉大明神

『伊勢物語』第百十七段[LINK]について、藤原清輔『奥義抄』や『和歌知顕集』などでは「帝」を平城天皇と解釈する。 『神道集』の「奈良の帝」もこの解釈に基づくものである。

一方、為顕流では「帝」を文徳天皇のこととし、在原業平がそれに供奉したとする。 そして「我みても」詠は業平の歌、「むつましと」詠はそれに対する返歌と解釈した上で、さらに独特な秘書伝来譚を作り上げている。
例えば、『古今和歌集序聞書』(三流抄)[LINK]によると、天安元年[857]正月二十八日、文徳天皇の住吉御幸に随行した在原業平は、住吉明神と和歌を贈答し、その時「玉伝」「阿古根浦」の二巻を伝授された。 後に業平は息子の滋春に「阿古根浦」のみ伝え、「玉伝」は天照大神に奉った。
また、『玉伝深秘巻』に記す「阿古根浦」の口伝によると、「我みても」詠は業平が住吉の化現なることを含意し、「むつましと」詠も住吉・業平が一体であることを意味している。
(伊藤聡『神道の中世 —伊勢神宮・吉田神道・中世日本紀—』、第7章 秘儀としての注釈、中央公論新社、2020)

『新古今和歌集』巻第十九(神祇歌)[LINK]には、
「夜や寒き衣や薄きかたそぎの 行きあひの間より霜やおくらむ」(住吉の御歌となむ)
を載せる。

熊野権現

参照: 「熊野権現事」熊野権現

「我思う人に忍はん暁月よ」の歌の出典は不詳。

白山権現

参照: 「白山権現事」白山権現

「十廻りは栄へん松の花や」の歌の出典は不詳。

『新古今和歌集』巻第十九(神祇歌)[LINK]には、左京大輔顕輔の
「年ふともこしの白山忘れずば かしらの雪をあはれとも見よ」(加賀守にて侍りける時白山に詣でたりけるを思ひ出でて日吉の客人の宮にてよみ侍りける)
を載せる。

貴船明神

貴船神社[京都府京都市左京区鞍馬貴船町]
本宮の祭神は高龗神。
奥宮の祭神も高龗神であるが、一説に闇龗神とする。
式内社(山城国愛宕郡 貴布禰神社〈名神大 月次新嘗〉)。 二十二社(下八社)。 旧・官幣中社。
史料上の初見は『日本紀略』前篇十四(弘仁九年[818]五月辛卯[8日]条)[LINK]の「山城国愛宕郡貴布禰神を大社と為す」。

『黄船社秘書』には、
「日の本山代の国貴布禰大明神は伊弉諾尊のなしたまへる御神にて、天上より此所へ降臨たまひて、国家安穏の御神霊にて、其御名は高龗と申たてまつれり、降臨たまふの年号日月あひしれず。[中略]此御神のつれくたりたまふ神を仏国童子と申せり、後丑市(牛一)明神といわひ申て舌氏の祖神也」
とある。 また、同書の別の一節には「高龗昔丑の年の丑の月の丑の日に此所え降臨玉也」とある。
奥宮については
「日の本山代の国貴布禰大明神は、葦原瑞穂国の御地主の神にして、神代の其むかし黄なる色の船にのりたまひ、天の御嶋の崎より海より海河より河にうつりて其源を探り原ねたまひて、此所ゑ到着して静まりたまふ御神にして、何れの代何れの年より到在といふ事をしらず、すなわち日の本葦原瑞穂の国は此御神の地にして国土安穏守護の御神霊なり、一に闇龗と御名つけ尊崇たてまつれり」
とある。
両宮の本地仏については
「黄船の御神社奥の御前の御神躰は陰の御神にて其御名は闇龗と申崇敬たてまつるなり、則ち水徳の御神にましまして日の本の御地主なり、一つに船玉命とも申たてまつるなり、御本地は地蔵大菩薩也」
「黄船の御神社端の御社の御神躰は陽の御神にて其御名は即ち高龗と申て天上より降臨たまふ御神霊也、弘仁九年五月奥の御前の御屋敷より今の所へ御遷宮也、故に端の御宮と申たてまつるなり、御本地は不動明王也」
とある。

『後拾遺和歌集』巻二十(神祇雑六)[LINK]には、和泉式部の
「物思へばさはの蛍もわが身より あくがれ出づる玉かとぞ見る」(男に忘られて侍ける頃、貴布禰にまゐりて、御手洗川に蛍の飛び侍けるを見て詠める)
及び、その返歌
「奥山にたぎりて落つる滝津瀬の 玉ちるばかりのものな思ひそ」(此の歌は貴布禰の明神の御返しなり、男の声にて和泉式部が耳に聞えけるとなんいひつたへたる)
を載せる。

慈鎮和尚

久寿二年[1155]四月十五日に関白・藤原忠通の子として誕生。 永万元年[1165]に青蓮院に入寺。 仁安二年[1167]に出家して、道快と号した。 養和元年[1181]に慈円と改名。 建久三年[1192]に延暦寺座主に就任。 承久二年[1220]頃に史論『愚管抄』を著した。 嘉禄元年[1225]九月二十五日に入寂。 嘉禎三年[1237]に四条天皇より慈鎮の諡を賜った。

歌人としては『新古今和歌集』に多くの歌が採られており、巻第十九(神祇歌)[LINK]には前大僧正慈円の
「和らぐる影ぞふもとに曇りけり もとの光は峯にすめども」(日吉社にたてまつりける歌の中二宮を)
「我がたのむ七の社の木綿襷 かけても六の道にかへすな」(述懐の心を)
を載せる。

北野天神

参照: 「北野天神事」北野天神

橘成季『古今著聞集』巻第五(和歌)[LINK]によると、鳥羽法皇の女房に小大進という歌人がいた。 待賢門院の御方の御衣が紛失した時、その疑いがかけられ、北野天満宮に参籠した。 「思ひ出づやなき名たつ身は憂かりきと 現人神になりし昔を」と詠み、紅の薄様に書いて御宝殿に貼ると、法皇の夢に高貴な束帯姿の老翁が現れ、「我は北野右近の馬場の神にて侍り。めでたき事の侍る。御使賜はりて見せ候はん」とお告げが有った。 法皇は目を覚まされ、北面の武士に北野天満宮を見てくるよう命じられた。 武士は馳せ参じて、神の御前に紅の薄様に書かれた歌を見つけた。 それを取って帰参する途中、鳥羽離宮の南殿の前に、(犯人である)法師と敷島という雑仕が紛失した御衣を被って獅子舞をして参上した。 これは天神が歌を称賛された事による。 「力をも入れずして」と『古今和歌集』の序に書かれたのは、この類の事であろう。

信尊法眼

親尊の誤記と思われる。
『八幡愚童訓(乙本)』巻上の「名号事」によると、親尊法印は仁治二年[1241]に天王寺で善恵房(浄土宗西山派の祖、善恵房証空)の説法を聴聞し、「念仏の三心(至誠心・深心・回向発願心)は行者の起こすには非ず」と云われた。 親尊は日頃から三心は行者が起こすと心得ていたので、「此事いかゞすべき」と歎き、石清水八幡宮に参詣して祈請した。 八幡大菩薩は法印を高垣の近くに召し寄せて御示現され、「極楽へゆかんと思ふ心にて 南無阿弥陀仏と云ぞ三心」と告げ給われた。

『八幡宮寺巡拝記』巻下の第四十六条「親尊法印御説法を聴聞して開悟の事」[LINK]は同内容で、証空の説法の趣旨を「往生するに三心とは、行者が起こすには非ず。仏の具足まします三心を、行者の思やり通はす也。何と通うぞと云に、仏の具足しまします至誠心の様を、心を鎮めて思ば、彼具足し給へる至誠心と行者これを思やる心とは一つにして相かはる事なし。故に仏の具し給ゑる至誠心を思へば、行者の心の中に通ふ也」と詳述する。 また、八幡大菩薩の詠歌の後に「心は行者の起と剳(判)給へり。もとより祈念の本意は至誠心より事起これり。然に行者極楽へ生と思ふて念仏する。則三心也」と説く。

藤代

参照: 「熊野権現事」藤代

この逸話は和泉式部の話(場所は伏拝)とする事が多い。
『風雅和歌集』巻第十九(神祇歌)[LINK]には、
「もとよりも塵にましわる神なれば 月のさわりも何かくるしき」(是は和泉式部熊野へまうてたりけるにさはりにて奉幣かなはさりけるに「晴やらぬ身のうき雲のたなひきて 月のさわりとなるそかなしき」とよみてねたりける夜の夢につけさせ給けるとなん)
を載せる。

諏方大明神

参照: 「諏方縁起事」諏方大明神

良観上人

不詳。 伝本によっては「越後国の出湯の花宝寺(華報寺[新潟県阿賀野市出湯])の長老」とする。
「諏方縁起事」では、長楽寺の寛提僧正の逸話とする。

市阿波

『八幡愚童訓(乙本)』巻下の「氏人事」によると、後白河院が御幸された時、巫女の一が法皇の御前で様々の事を申した。 院は「そら託宣不敵なり」と憎まれ、御手を握って「此を何とも申しあてたらば、実事の神託とあふぐべし。若し違ならばわれをかろしめ申なり」と仰られた。 傍らの巫女たちが「大菩薩は如何せさせ給ふぞ」と申すと、一は少しも騒がずに「しろがねの壺を並べて水汲めば 水はくまれで富ぞくまるゝ」と答えた。 院が「誠の神託なり」と云って御手を開くと、銀の水入れが有った。

浄蔵貴所

参照: 「北野天神事」浄蔵貴所