『神道集』の神々

第四十六 富士浅間大菩薩事

人皇二十二代雄略天皇の御代、駿河国富士郡に子供のいない老夫婦が住んでいた。
「死後、極楽往生できるよう、仏祭りをしてくれる御魂子が欲しいものだ」と嘆いていると、後ろの竹林から五・六歳くらいの幼女が現れた。
翁の名は筒竹の翁、媼の名は加竹の媼といった。 老夫婦はその子を赫野姫と名付けて大切に育てた。 姫は国司に寵愛され、夫婦の語らいをする深い仲となった。
老夫婦の没後、姫は国司に「私は富士山の仙女です。老夫婦とは前世で宿縁があったので姫となりました。その果報が尽き、あなたとの宿縁も尽きたので仙宮へ帰ります」と云った。
国司が悲しむと、姫は「私は富士山の山頂にいます。恋しくなったら来て下さい。また、この箱の蓋を開けてご覧ください」と返魂香の箱を与えて姿を消した。
国司がその箱を開けて見ると、煙の中に姫の姿が見えた。 ますます姫が恋しくなった国司は富士山に登った。 山頂の池から煙が立ちのぼり、その中に姫の姿が見えた。 国司は箱を懐に入れて池に身を投げた。

赫野姫と国司は富士浅間大菩薩として顕れた。 男体と女体がある。 その後、富士浅間大菩薩は衆生利益のために山頂から下りて麓の村に鎮座した。
恋に迷っている人は大菩薩に祈れば必ず願が叶えられる。 ある女が男に捨てられ、富士浅間大菩薩に参詣して
 人しれぬ思ひはつねに富士の根の たえぬ煙はわが身なりけり
と詠んだところ、すぐに男が戻って来たという。

富士浅間大菩薩

富士山本宮浅間大社[静岡県富士宮市宮町]
祭神は木花之佐久夜毘売命で、天津日高日子番能邇邇芸命・大山津見神を配祀。 一説に赫夜姫あるいは千眼大天女(天照大神の幸魂)とする。
式内社(駿河国富士郡 浅間神社〈名神大〉)。 駿河国一宮。 旧・官幣大社。
『駿河国内神名帳』[LINK]には「正一位上 一所 浅間大明神 坐富士郡」とある。

史料上の初見は『日本文徳天皇実録』巻第五の仁寿三年[853]七月甲午[5日]条[LINK]
駿河国の浅間神を以て名神に預る。

古くは、『常陸国風土記』筑波郡の条に富士山と筑波山の神に関する説話が見られる。

仙覚『万葉集註釈』巻三[LINK]には
駿河の国には富士山・葦高山とて高き山二つあり。 富士の山は頂に八葉の嶺あり、浅間大菩薩と申神まします、本地胎蔵界大日也。 葦高山は五の嶺あり、葦高大明神と申御神まします、本地金剛界の大日也。
とある(引用文は一部を漢字に改めた)。

『曾我物語(真名本)』巻第七[LINK]の赫屋姫説話は『神道集』とほぼ同内容であるが、その本地垂迹について、
富士浅間の大菩薩は本地千手観音にて在せば、六観音の中には地獄の道をツカサドり給ふ仏なれば、我らまでも結縁の衆生なれば、などか一百三十六の地獄の苦患をば救ひ給はざらん。 これらを思ふに、昔の赫屋姫も国司も富士浅間の大菩薩の応跡示現の初めなり。 今の世までも男躰女躰の社にて御在すは則ちこれなり。
と記す。

『富士大縁起』[LINK]には
人王第六代孝安天王の治世四十四年〈壬申の年〉[B.C.349]、天曇り大地振動すること、七日七夜也。 上一人より、下万民に至り、天下の夭恠・国土の毀廃かと驚懼す。 [中略] 巫覡に詫し、吉凶を卜占す。 霊神顕すべき瑞相也云々。 而して晰啓天昭、忽然として山現る。 諸人奇異の思ひを生し、孝安天王に奉奏す。 帝王勅使を以て之を見せしむ。 霧雲腰にメグツテ扇を伏せる如し。 麓地を見ず。 故に浮見出山と名く。 爾より以降、米穀積聚するが如なれば、穀聚山と名づく。 其の後、五の大磐石降り山高く成る。 因て般若山と名く。
抑延暦の比、東階道(東海道)駿河国、乗馬の里に、夫婦の老人有り。 翁は箕の業を作し、仍て人是を作竹翁と云ふ。 又常に鷹を愛す。 嬢は常に犬を飼ふ。 夫婦相共に子の無きを憂ふ。 或時、竹中より一寸六分計の化女を得る。 夫婦不思議の思ひを成し、錦に褁み養育し愛すること限り無し。 漸く成長するに随て、容顔美麗、言音和雅、柔和忍辱、弁舌分明、一笑百媚、膚は阿雪の如く、髪は青柳糸の如く、紅瞬赤脣、手足に至り、天下無双の美人也。 異香常に薫り、身より光明を放ち、夜中も明なること只白日の如し。 仍て赫夜姫と名づく。 夫婦の寵愛限り為し。 漸く十六歳に至る。
其の比、桓武天王、諸国に勅使を遣し、美女を撰びたまひ后に備へんと欲したまふ。 東国田村丸下向の時、乗馬の里、作竹翁の家に寄宿す。 終夜火光有り。
勅使、翁に問ふ、「何んぞ故に終夜火光絶へず」。 翁謹て白す、「火光に非ず。翁の一子養女の光明也」と答ふ。 丸、奇異の思ひを成し、請て相見へ、対面するに容顔無比の美女也。 丸言く、「我が君、美女を選ぶ為、諸国に勅使有り。汝、其の人に当る、后に備ふるべし」と。 則ち上洛して此の由を奏す。
赫夜姫、父母に語て言く、「夫れ一生は仮の宿、只幻の中で夢を見る如し、雷光の露に宿るに似たり。勅使再び来らば、天下王土にあらざる無し。綸言争や黙んや。名聞は生々の鎖也。只だ憂き世を捨て、般若山の岩屋に入るべしと思ふ。如何」と言ふ。 夫婦の云く、「君寸時見奉らず、猶心憂て、況や彼の山は、人倫通ざる怖き山也。彼の山に捨て置き奉るは、夫婦の心堪へ難し。夫婦命限り有り、叶ふべからず」と答ふ。 姫重て言く、「縦ひ巌に入るとも、常に来て見奉るべし」。
既に日時を点し、般若山に登り為す。 此の事、遠近隣邑に風聞し、惜み奉ること限り無し。 漸く日時に望み、上下万民群集し、盛市の如し。 [中略] 徐に深々たる山河辺に至り、諸人聾を挙げ落涙す。 今に「憂涙」と書き、憂涙河と云ふ。 未だ人倫通ざる山中に分け入り給ふ。 諸人、姫君の名残を惜み、山の怖きを忘る。 今の中宮是れ也。 其の上より女人登らざる也。 然して、姫立ち帰り、諸人に対し言く、「是れ迄は志を残さず悉く帰り給ふべし」と言ふ。
翁、一首を詠む。
 世を憂しと思ひ出にし世捨て人と 何に床しとや立帰るらん
赫夜姫、返歌
 世を憂しと思ひ出にし心より 厭はぬ人を立ち返りて見る
と御返歌有り。
深山に踏み入り給ふ。 姫は元より化身の御事、山巓に至る。 今釈迦嶽南の角に大岩有り、其の中に入る。 其より以来、人此の山に登る。 抑此の事天下に隠れ無し。 般若山の御神躰、衆生利益の為、女躰と現し、怖き山中を踏み始め、人の歩を運ばしむ。 二仏(釈迦と弥勒)の中間に生れ、浅智の衆生を助け給ふ浅間大菩薩と申す也。
其の後、桓武天王、美女の容貌を聞きたまひ、駿州に行幸成たまひて、彼の芳躅を覔め見んとしたまふ為、老翁般若山に伴登し奉る。 帝王、半腹に至て、休息たまひ、冠を脱ぎ置たまふ。 今に石に成て、冠り石と云ふ。 王、山頂に至りたまふ。 赫夜姫、帝に見へ奉る。 天王、歓喜契諾、相共に巌に入りたまふ。 諸臣、皆悉く隨喜の涙を流し下向す。
作竹翁は愛鷹権現と顕れ、嬢は犬飼明神と現る。 赫夜姫は浅間大菩薩是れ也。
又延暦廿四年[805]、浅間大菩薩、巫女に詫し云ひたまふ、「我、内に不生の源を秘め、大日の覚位を極む。外には和光利物を現し、浅間と垂迹す。難化の群類を救ひ、昼夜止まず。遠くは令して仏因を結ばしめ、近くは所願を満たしむ」と云々。 神詫憑み有り、誰か歩を運ばざるか。
平城天王の御宇、大同元年〈丙戌の年〉[806]、金銀を鏤め、社頭建立し、浅間を勧請し奉る。 今の大宮是れ也。
とある。

『富士山略縁起』には
爰に富士山の事実を考るに、カタジケナクも此山は我日の本の中樁にして神仏冥合の御嶽なり。 其始天照太神治天アメシロシメス御時、大己貴の尊地を宰玉ふに、四方の国々いまた堅らさる所有しかは、久延彦の命を語て神杵を以て築定給ふ。 又天地の諸神諸海龍に命して神樁を以て国を繋定んとて五の樁を打しめ玉へり。 西は安芸の厳島、東は陸奥の金華山、北は近江の竹生島、南は相模の江の島、其中樁は富士の御岳也。 後の三の樁は地輪の底に打隠し給ひて人の心に惑疑多らん時顕れ出へしと也。 又其五の樁に住せ給ふ太神は天照太神の正魂なり。 四の島にては富主姫の尊と申は時に富士の御岳にては千眼大天女アサマオフアマオトメと名奉らんとの給へり。
時人皇六代に当り孝安天皇治世ヨヲシロシメス九十二年〈庚申〉[B.C.301]の正月人の心の僻を天より尤べき時や至りけん。 変異の事稍多りければ、上一人を始奉り下方民に至るまで安らす思ひけるに、果して此月駿河の国四方に刺て大海となる。 其夜の中に海より大山顕れ出て海又埋りぬ。 一日天より雲降て世の中常闇のことくなりしかば、人々恐れ慎て只神明の力を仰ける。 稍ありて天晴雲収りぬれば、国民安堵の思ひをなし、新に露れ出し大山を見るに不思議なる哉。 いつか磐土降り積り山の嶺を続添て、其形は坂瓊のごとく、又精の米を累ることし。 其頂に霊なる天乙女ましまして、十五人の童子并諸天龍神前後左右に相従ふを見奉る。
扨此山を富士山と名る事いわれなきにあらず。 此山の大神浅間大菩薩と申は即天照太神の幸魂にして、本御名は千眼大天女と申す。 天の頂に住給ふ福徳大弁財天女にておはします。 三世諸仏の福徳を主り、一切衆生の富貴を守り給ふによりて。天地の富を士るの義を以て富士山とは名たり。
とある。

『富士本宮浅間社記』[LINK]には
駿河国富士本宮浅間は、木華開耶姫命を祭る所也。〈瓊々杵尊の神后、大山祇神の女也〉 大宮郷、同国二十二社、此の神社は最も其の首魁の者也。 人王十一代垂仁帝甲午[B.C.27]八月始て之を祭る。
夫れ富士は三国無双の霊山にして、神代に猶之有り。 嶺上に常火有り、余煙綿々と絶へず。 人皇七代孝霊帝御宇に至り、嶺上忽奄と焼出、猛炎天を焦し、赫然煓焔、電火雲に𧻓り、地雷震動、闐闐間断無し。 州俗四方に散り、乃て国内荒廃し、歳有り。
十一代垂仁帝御宇に至り、深く万民の憂窮を哀愍し、三年八月、此の神を山足の地に祭り、以て之を鎮む。 此の姫命は、水徳の神を以ての故、火災消滅して後生安静也。
十二代景行天皇御宇、東夷多く辺境を侵し悉く叛き、屢人民を略す。 日本武尊〈景行第二皇子〉命を奉り、兵を挙げ之を討つ。 初め駿河国に至る。 衆俗佯従し、以て尊に遊猟を奏す。 尊、野に入る。 賊、之を殺さんと欲し、火を放ち野を焼く。 尊、即ち富士大神を拝し、燧を鑚り火を取り、迎て火を放ち、剣を揮て空を払ふ。 猛風逆に起き、還て賊徒を焚く。 已りて州俗愕然、遂に服す。 以て難を免ることを得る。 是に於て、賊徒をして余烈を察示せしめんが為、更に霊威を降し之を祭る。 今の山宮神社(山宮浅間神社[富士宮市山宮])是れ也。
五十一代平城帝大同元年[806]、坂上田村麻呂〈従三位左京大夫刈田丸の男、正三位大納言右大将田村麻呂、身長一丈八尺、胸厚一尺弐寸、質略寛大、勇に万夫敵す〉、勅を奉り東夷を征し、此の大神に誠を寄す。 既に東国を定め、帰陣の後に至り、始て之を経営し、以て荘大なる神社と為す。
六十代醍醐帝延喜三年[903]中、新宮浅間(静岡浅間神社[静岡市葵区宮ヶ崎町])を駿河国府に建つ。 是れより大宮浅間と号し、本宮と称す。
 類聚国史神階部に曰く、五十二代嵯峨天皇弘仁元年[810]、駿河国富士郡浅間神社に正一位を授く。
大宮の社地、古往福地明神の社地を以て浅間神社を遷す。 福地明神は、延喜式神名帳に載る所の富知神社[富士宮市朝日町]、大山祇命也。 此の時に当るか、浅間社を以て三神合殿と為す。

  左太元尊命
 中は木華開耶姫命
  右大山祇命

社の上に階有り、社の下に池有り。 姫神にして水徳の神を以ての故也。 是を神秘と為す。
とある。

『三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集』巻三の神中吉日の条[LINK]には
乙己は二所三嶋若宮八幡造立の日也。 同く富士権現芸旦国より此国に来り垂迹したまふ日也。
とあり、『神道集』のような竹取説話や《浅間の本地》(後述)等とは別種の本地譚が存在したと思われる。

垂迹本地
富士浅間大菩薩千手観音(または大日如来)

赫野姫

植松章八「東泉院とかぐや姫」[LINK]には
かぐや姫を富士山祭神とする縁起は、鎌倉末をそれほど遡らない頃の成立とみてよいようである。
その初例は、十四世紀前葉、鎌倉末期以前成立とされる全海書写残欠本富士縁起(かぐや姫説話の後半部分が残存)である。 かぐや姫は「女(天女)」と呼称されるが、「大日覚王(大日如来)」「浅間大明神」であると述べると共に、かつて「末代聖人」の「夢想青衣の天女 手に宝珠を持て、白雲に乗て来て…是浅間大明神也…般若山の精大日如来…御座すなりと」と告げて曰くと記すのである。
村山浅間神社[静岡県富士宮市村山]の祭神が近世中期まで「赫夜姫」であったことは、『村山浅間七社相殿』[LINK](「旧大鏡坊富士氏文書」『村山浅間神社調査報告書』所収)により、早くから知られている。 文書は年紀を欠いている(1757年頃とする説もある)が、1697年の記事を含むから、それ以降であることは確実である。 村山浅間神社の祭神は、近世中期まで「赫夜姫」と確認されるのである。
東泉院では、それに係る二点の発見がある。 第一は東泉院本『浅間宮略縁起』「冨士浅間」である。 竹節から生まれた「一女」が成長して「賀久夜姫カクヤヒメ」となって富士山の「岩穴」に入り、「我は浅間大明神と号す」とある。 本縁起は1728年の年紀をもつから、近世中期の「富士浅間」はかぐや姫を祭神としているものとみられる。
第二は1767年に幕府に提出した『御由緒書』である。 滝川神社(姫の養父を祀り、姫の誕生の処)、今宮浅間神社(姫の養母を祀る)及び六所浅間神社は、かぐや姫が鎮座していると述べる。 ここでも、近世中期の祭神はかぐや姫が確実といえる。
以上により、村山および東泉院(下方五社)では、近世中期まで祭神はかぐや姫であり、それが幕末までに「木花開耶姫命」にかわるようである。
とある。
(植松章八「東泉院とかぐや姫」、六所家総合調査だより、2号、pp.4-7、2008)

富士山の山頂

江戸時代まで、富士山の山頂には浅間大菩薩の本地仏・大日如来を安置する大日堂(表大日)が在った。

信西『本朝世紀』の久安五年[1149]四月十六日条[LINK]には
駿河国に一の上人有り。 富士上人と号し、名を末代と称す。 富士山に登攀すること数百度に及ぶ。 山頂に仏閣を搆へ、これを大日寺と号す。
とある。 富士山頂の大日堂はこの大日寺の跡と伝えられており、末代上人の流れを汲む村山修験の富士山興法寺(村山浅間神社・村山大日堂・大棟梁権現社)が管轄していた。

明治初年の神仏分離により大日堂は廃され、富士山本宮浅間大社の奥宮となった。

【参考】『浅間大菩薩縁起』

称名寺旧蔵『浅間大菩薩縁起』によれば、富士山の最初の登頂者は金時上人である。
頂上に八峯あり。 [中略] 未申の峯は冠の獄なり。 前に石室あり。 金時上人、種々の仏具等を安ず。
方角から見ると、「冠の獄」は現在の富士山頂外輪にある三島ヶ岳(旧称文殊ヶ岳)にあたる。

金時上人の後、覧薩・日代・有鑑(末代)が富士山に登頂した。
金時上人の次に覧薩上人あり。 金時上人の跡を逐て、天元六年〈癸未〉[983]六月二十八日を以て峯に登る。 金時上人跡以法の時、鎮西に擲らる。 帷郷コレサト、覧薩彼の邑に於て、終に死去す。 金時上人と覧薩上人の間年記幾年と云ことを知らずと云々。
次に日代上人あり。 天喜五年〈丁酉〉[1057]六月十八日を以て峯に登る。 時に大いに燃炬を揚ぐ。 然りといへども、事無くして下向おはんぬと云々。 仍って、向後証拠キャウコウショウコのために、竹筒の中に、金泥小字法花経を籠め奉る。 その上に檜板を置て、花瓶・火舎・閼伽具・鈴・杵等の仏具を安ず。
次に僧有鑑あり。 当国所生の人なり。 垂髪の当初ソノカミより、成人の比に至るまで、伊豆国走湯山に常住し、出家已後、永く名刹の学堂を捨てて、ひとえに無上の仏道に趣く。 常に有験の霊地を尋ねて、鎮に菩提の妙果を求む。 種々の難行苦行、種々功徳善根、勝計すべからず。
長承元年〈壬子〉[1132]四月十九日、上人末代、峯に登り、日代上人仏経奉納の巌窟において、閼伽の器・鈴・独鈷・一尺剣一柄・金二両を置き奉る。 同年六月十九日、また剣一柄・金一両を置き奉る。 同年六月云々。 同二年[1133]四月五日、峯に登りて如法経一部十巻を埋み奉る。 また面四寸の鏡に地主不動明王三尊を鋳顕し奉るを、彼の窟に安じ奉る。 銘に曰く、「走湯山の住僧末代上人、生年二十九、浅間大菩薩の示現を蒙りて、当峯に攀ること四ヶ度」と。
まだ噴煙の消えやらぬ時代の富士山においては、大日如来の忿怒身である不動明王の方が富士山の「地主」にふさわしいと考えられていた可能性はある。

また、「末代」の名は三人の童子から授かったと伝える。
次の年、四月十九日を以て峯に登るの間、化童子の見え奉り、夢の如くして覚む。 すでに頂上に登りての後、両度此の童子を見奉る。 下て後、峯の下五十里を過ぎて、往生寺あり。 夜も宿の夢に三人の童子を見る。 一人は女形にして白馬に乗る。 二人は並びて馬に乗る。 童子の曰く、「吾はこれ、三宮なり」。 今一人曰く、「吾は悪童子なり」。 今一人の曰く、「吾は剣御子なり」。 此の童子ら異口同音に唱えて曰く、「汝をば、末代上人と名づけん」となり。 先生の行業に依って、此の名を着く。 夢覚めての後に、次第に三反これを唱ふ。 ここに、結ぶところの菴室に世間の具を置く。 滝本と名づく。 籠ること数日して、路を掃きて麓宮にいたると云々。
(西岡芳文「新出『浅間大菩薩縁起』にみる初期富士修験の様相」、史学、73巻、1号、pp.1-14、2004)

【参考】『源蔵人物語』

『神道集』などとは内容を全く異にする、浅間大菩薩の縁起を語る本地物語《浅間の本地》がある。 その伝本の一つである『源蔵人物語』[LINK]の内容は以下の通りである。
下野国の五万長者には美しい娘がいた。 都でその噂を聞いた源蔵人は下野の国司となり、五万長者に娘への求婚の文を遣わした。 長者は喜んで承諾したが、その妻は娘が既に懐妊している事に気付いた。 長者は高い峯の上で綿にイナセシという魚を包んで火を付け、国司の所に行って娘が死んだと偽った。 判官太夫なる者が娘に通っていた事が判り、長者は二人を放逐した。 長者の娘は武蔵国河越で産気づき、判官太夫が水を求めに行った間に姫君を生んだ。 そこに下野の国司を辞した源蔵人が通りかかった。 長者の娘は姫君に形見の鏡を残し、源蔵人に連れられて駿河国に向かった。 判官太夫は姫君を連れて西に向かい、足柄の四万長者の所に留まった。
姫君が十三歳になった時、判官太夫は出家を願った。 姫君も同道を懇願し、二人は長者の許しを得て旅立った。 駿河国の清見関で邪見長者の館に泊まった時、姫君に目を付けた長者は秘かに判官太夫の首を斬った。 胸騒ぎのした姫君はその首を見つけ、邪見長者の館を逃げ出した。 駿河の国司となっていた源蔵人がこれを見つけて館に招いた。 姫君は北の方(五万長者の娘)に形見の鏡を見せて、二人が母子であることが判った。 北の方と姫君は髪を落として判官太夫の遺骨を供養し、富士の奥に千日間参詣した。 国司と十三人の侍も出家し、国司は「我は神とならば、大やけの神と也、国の神となつて、寿命を守らん」と誓った。
北の方は浅間大菩薩、国司は惣社大明神(神部神社[静岡県静岡市葵区宮ヶ崎町])、十三歳の姫君は浅間の岳、十一歳の姫君(国司の娘)は岩かどの御前(未詳)、七歳の姫君(同)は大宮の玉(未詳)、十三人の侍は宮々の申口(未詳)と現れた。 姫君を十三歳まで育てた四万長者は三保の御所大明神(御穂神社[静岡市清水区三保])と現れた。 下野国の五万長者と女房たち五人は富士の五所(下方五社:富知六所浅間神社[静岡県富士市浅間本町]・瀧川神社[富士市原田]・今宮浅間神社[富士市今宮]・新福地浅間神社[富士市入山瀬]・日吉浅間神社[富士市今泉])、乳母は米の宮(米之宮浅間神社[富士市本市場])と現れた。

この物語には、『慈元抄』巻上の有馬王子説話[LINK]、『雲玉抄』の岩代王子説話[LINK]、『天文鈔本新古今倭謌集』の鷲宮神社縁起[LINK]、『下野風土記』の室八島縁起[LINK]など、多くの類話が有る。 また、「上野国児持山之事」とも共通点が見られる。

【参考】木花開耶姫命

現在は富士山の祭神を木花開耶姫命とするのが通説であるが、これは慶長三年[1598]五月十五日の東口本宮冨士浅間神社[静岡県裾野市須山柳沢]の社伝旧記
相伝云当社者人皇十二代景行天皇御宇日本武尊討仮夷暫時屯于此依奇瑞所祭木花開耶姫命也
が現時点で最古とされる。

同十九年[1614]に東福寺の集雲守藤が浅間新宮で作った漢詩(『集雲和尚遺稿』[LINK]所収)には
又此の神は、木花開耶姫、天津彦々火瓊々杵尊の妻也。 浅間神、開耶姫の御子三人有り、火闌降命、彦火々出見尊、火明命。
と付記されている。

林羅山は『丙辰紀行』[LINK]
三嶋と富士とは父子の神なりと、世久しくいひ伝へたりと沙汰ありければ、さては富士の大神をば木花開耶姫と定申さば、日本紀のこゝろにもかな協ひ申すべきなり。 竹取物語とやらんにいへるかくや姫は、後の代の事にてや侍らん。
『神社考詳節』[LINK]
今按ずるに三嶋・浅間の二神を父子とす、是れ世の称する所也。 日本紀に拠るに三嶋を大山祇神とす。 浅間は蓋し木花開耶姫と為るか、姫は大山祇の女也。
と述べた。